A-01 ヤコブの梯子(千畝伝拾遺)

 もう何十年も前のこと、私たち一家が東欧の古都に住んでいた頃の思い出である。
 リトアニアのカウナスは、外交官だった父の任地であった。欧州情勢の緊迫を受け、新設された領事館。そこへ語学能力を買われ、家族をともない着任した初代の領事が私の父であった。
 旧市街をのぞむ閑静な高台の一角に領事館はあり、その二階が私たち家族の住居になっていた。父と母、母の妹の節子叔母、長男である五歳の私、そして生まれたばかりの弟という家族構成であった。
 記憶の中の幼い日々は、母や叔母に本を読んでもらったり、あるいは近所の子供たちと遊んだりしているうちに暮れていった。そしてだいたい週末には、父の運転するビュイックで、一家遠出するのを楽しみにしていた。
 のちに分かったところでは、このドライブとて物見遊山ではなく、父の公務としての情報収集活動の一環であった。折しも第二次世界大戦前夜、暗雲は、すでに国土のそこかしこに影を落としていたはずである。
 それが幼い私の目にもはっきり分かる形であらわれたのは、ある日領事館の門前に、男たちの一団が詰め掛けたときであった。私は二階の窓から、母の腕に抱かれてそれを見ていた。彼らの服装は一様にくたびれていて、顔つきは暗く重い。それをカーテンの隙間から見下ろす母までも、苦しげに眉をひそめていた。父が彼らの代表を中に招じ入れ、しばらく何かの交渉に応じたあと、ようやく一団は、何度もこちらを振りかえりながら引き上げて行った。
 次の日、また次の日と何事もなく過ぎた。父の態度も、常とかわらず穏やかで揺るぎがない。だがその父のいない食卓では、母と叔母が、思いつめたような顔で、耳慣れぬ硬い言葉を交わしていた。深刻な調子は、内容を質すことさえためらわれる。ただ繰り返された「ホンショウ」と「クンレイ」という二つの単語だけが、幼い私の耳に残った。

 そして三日目の夕刻、私は母から下階の父の様子を見てくるよう言いつかった。夕食をどうするか聞いてこいというのである。一階の執務室にも父の姿はなく、現地人の事務員が、つい先ほどふと席を立ったと教えてくれた。
 車はそのまま車庫にあるので、いずれ近所を散歩だろうと目星をつけて、私は外へ探しに出かけた。夕刻どきとは言っても、太陽はようやく中天からすべりはじめたばかりである。緯度の高いこの国で、夏の陽は白夜と呼んでもいいほどに長かった。
 周辺をしばらく歩くうち、私は自分の遊び友達に出くわした。アンネローゼとカーラの姉妹二人づれ。青いお揃いのワンピース。家は工場を経営する実業家だとかで、たしかに二人ともいつも綺麗な身なりをしていた。
 そのうち私の相手といえば、やはり同い年のカーラの方であった。よくママゴトをして遊んだが、頬にそばかすの浮いた内気で温順な少女だったと記憶している。
 いっぽう二つ年上のアンネローゼは、おしゃまで気分屋だった。ある日にっこりして焼き菓子を握らせてくれたかと思うと、次の日は何の理由もなく腕をつねりあげられたりする。自分の思いついた遊びに強引に私たちを巻き込むかと思えば、こちらからいくら誘ってもまるで取り合ってくれなかったりと、どうにも理解が難しい。いま思えば、近所に同じ年恰好の遊び友達のなかったのが彼女の不幸であって、われわれ二人とともにあってリーダーとして振舞うか、あるいは幼き日々ときっぱり訣別するか、まだ態度を決しかねている節があった。
「ヒロキのパパなら、さっきあっちに歩いて行ったわよ」
 カーラが教えてくれた方向へ私は歩き出した。アンネローゼは腕組みしながら何故か終始黙っていた。

 そのカーラの指した方向には、たまたま私の秘密の遊び場があった。レンガ塀に囲まれた広い庭を抱える廃屋で、塀の破れ目から敷地へ出入りできた。白い漆喰にスレート葺きの瀟洒な家屋は、かつてはユダヤ系の富裕な商人の住まいだった。わが家が来るのと前後して、居住者はアメリカへ亡命していったのだと後に聞かされた。
 持ち主に捨てられた家は、雑草と小虫の天下で、草むらにイタチやキツネのような小動物の影を見ることもあった。噴水の池にアメンボが泳ぎ、別の一角で、セメントと混ぜ合わされる予定で放置されている白砂の山が、砂場のかわりになった。
 そのとき通りすがりざまに、何気なく塀の破れ目を覗いて、私は思わず声を上げた。
 藤棚の下のベンチにすわっている身なりのよいハンサムな東洋人。それが誰あろう、私の父なのであった。
「お父さん」
 勤勉な父が何故こんなところでぼんやり空など眺めているのか。
「やあ、弘樹くん」
 それでも父に笑いかけられると、疑問はすぐに掻き消え、「自分の庭」に賓客を迎えた晴れがましさが、幼い私の胸にみなぎった。さっそく泥団子や草笛といった作品を、隠し場所から取り出して披露するのを、父は根気よく聞いてくれる。そういうときの父の顔つきは、切れ長な目の造作と相俟って、どこか仏像の拈華微笑を思わせた。
 見せるだけのものを見せ終わってから、ようやく私は尋ねた。
「お父さん、ここで何をしてるの」
 父は再び空を見上げて、
「お父さんはね、ヤコブの梯子を探しています」
「それはお空にあるの」
「そう、お空にあります」
 父を真似て見上げた空では、全天に六割ほどの雲が、複雑に青い晴間と入り混じっていたが、そこに格別な何かがあるとは見えなかった。
 お互い黙ったまま、並んで空を仰いでいると、じきに私の喉から欠伸が出た。父は私の背にそっと手を当て、
「弘樹くん、先に家へお帰り」
「お父さんは帰らないの」
「もう少しここにいます。母さんにそう伝えてください」

 自然科学の書によるならば、「ヤコブの梯子」とは、雲間から梁のような陽光が幾条か地へと差す現象をいう。ときに1940年8月、皮肉にも不惑という年回りの父であった。
 あれから五十年、父の遺品となった黒い革表紙の聖書を紐解いてみると、いくつか気づかされることがある。
 まず奥付が、南満州聖書普及連盟による大正十二年の発行。父は二十代の時分、ハルピンで東方正教会の洗礼を受けていたから、そのとき残りの人生の座右に置くべく購ったのだとすれば筋が通る。
 だが傍線や書き込みの類は意外に少ない。冒頭から項を繰っていくと、最初に見える線が、『創世記第二十八章』。
「時にヤコブ夢見て、梯の地に立ち居て、その頂の天に至れるを見、また神の使者の其にのぼりくだりするを見たり。エホバその上に立ちて言給はく、我は汝の祖父アブラハムの神イサクの神エホバなり、汝が臥すところの地は、我これを汝と汝の子孫に与へん。汝の子孫は地の塵沙のごとくなりて西東北南にひろがるべし、また天下の諸の族、汝と汝の子孫によりて福を得ん」
 そして次の箇所が、『出エジプト記第十四章』。
「時にエホバ、モーセにいひ給ひけるは、汝なんぞ我に呼ばはるや、イスラエルの子孫に言ひて進みゆかしめよ。汝杖をあげ手を海の上に伸べて之を分ち、イスラエルの子孫をして海の中の乾ける所を往かしめよ」
 この項の欄外に、ただ一箇所、父の手になる書き込みがある。
「イニシヘノ猶太ノ神ノ何ト雄弁ナリシヤ!」

 以下、『近代のユダヤ・ヘブライ難民 モシェ・ローゼンブルム 1985』より抄訳、引用。
「この八月の三週間、杉原がユダヤ系ポーランド難民のために不眠不休で発行しつづけたヴィザの対象は、少なく見積もって六千人にのぼる。
 この善意の領事にとって、作業は身体的以上に精神的な苦役であった。なぜならそれは、東京・外務省の再三の戒告を無視しての独断によるものであったからである。この時点で杉原は、自分の官僚としての身分を棒に振ることを覚悟せねばならず、事実、日本外務省は戦後になって、このときの不服従を理由に彼を解雇している。
(中略)
 この六千人は、杉原の功がなければ、ほぼ確実にヒトラーの手で、ジェノサイドの祭壇に捧げられていた命である。しかし、そう言い切れるのは後世の目であって、はやくもこの時期に、事態の本質を見抜き得たものは、実際ほとんどいない。
 ユダヤ人差別そのものは、西洋社会の宿痾である。厳密に言えば、それはいつでもどこでもあった。フランスにもイギリスにもスペインにもロシアにも合衆国にも。
 ナチ・ドイツはすでにニュールンベルグ法を制定し、極端なユダヤ排斥を推し進めていたものの、「絶滅収容所」の象徴たるガス室のごときものは、まだ計画表にすらのぼっていなかった。どれほど厳しい為政者も研究者もジャーナリストも、この人類史上未曾有の悪の深淵を、この時点ではまだ予見しなかったのである。
(中略)
 客観的にみて、およそ同時代の日本の一官僚にとって、自分の地位保全と、異国の難民の上に及ぶであろう危機とのバランスの問題は、決して自明ではなかった。あるいはそもそも、彼以外の官吏ならば、問題の存在にすら気がつかなかったというべきか。そのなかで、杉原千畝ただひとりだけが、正確な知識に加え、天啓とも呼ぶべき特別な洞察を宿していた」
(引用終わり)

 五歳の私が、ベンチに父をのこし、塀の破れ目をくぐったところで、誰かにいきなり手首を掴まれた。先ほどのアンネローゼが、妹をともなってそこに立っている。彼女は塀のむこうへ視線を遣りながら、
「あんたのお父さんよね」
 青い瞳が冷たい色合いである。
「そうだよ」
 反射的にもがく私の耳元へ身を屈めて、彼女は命じた。
「あたしのことを紹介しなさい」
 この落ち着きのない娘がまた何を思いついたのか、とにかくベンチの前へと引き立てられ、私は余儀なくして、父に向かい彼女の名を告げた。
 そこからが見ものであった。彼女は片足を一歩前に出すと、スカートの裾を両手でつまみ、
「ご紹介にあずかりましたアンネローゼ・レーナ・クラリッサ・ラニティスですわ、ごきげんよう、大使閣下」
 私からすれば、はじめて聞く高い声音もさりながら、そんな長い名前とはついぞ知らなかった。
 つまり、このときの彼女は、社交とか、その延長上にある外交とかいった事柄の意味が、ちょうど分かりかける年頃だったらしい。
 いっぽう宮廷淑女の挨拶を受けた外交官、正確には代理領事であるところの父は、しばし目を丸くしていたが、やがて立ち上がり、会釈とともにゆっくり礼をした。
「立派なご挨拶、感心しましたよ、アンネローゼ」
 次に妹に目を移し、
「そちらのさらにお若いお嬢さんは」
 カーラははにかんでうつむきながらも、どうにか名乗った。
「いつも弘樹と遊んでくれてありがとう」
 そのあとアンネローゼが、手振りを交え、何かを父に滔々と語りだした。私にその意味は取れなかったが、どうも昨今の世界情勢にかかわる世間話だったようで、実際この娘は、年齢以上に利発な少女ではあった。
 父の細い目は、ふたたび拈華微笑をかたちづくっていたが、やがて一段落したところで、
「三人とも、もうお帰りなさい、夕飯の支度ができているでしょう」

 帰り道のアンネローゼは鼻唄を口ずさんでいた。唄の合間に、「一度着替えて来るのだった」やら、「国の美しい詩を教えてあげるのだった」やら、ひとり浮かれて口走っていたが、ふと立ち止まり、しごくまっとうな疑問を口にした。
「ところで大使は、あそこで何をしていらっしゃるの」
 私も立ち止まって頭を整理しながら、
「何とかの梯子が要るんだって」
「なんとかって何よ」
「えーと、ヤコブ」
「ああ、ヤコブね」
 こともなげに復唱したあと、アンネローゼは艶やかな金髪のポニーテイルをひと振り、即座に断定した。
「ヤコブ・ヒルシュなら、うちの庭師よ」
 そして私たち二人についてくるよう合図すると、いきなり下りの坂道を走り出した。
 こういうときの彼女は、行動の目的をすべてひとり胸に秘めていて、聞いても決して教えてくれない。ただ息を切らしてついていくよりないのである。
 目指す先は、どうやら彼女自身の屋敷であった。アンネローゼは勝手口をくぐると、敷地の片隅の物置小屋へと私とカーラを導きいれた。
「ほら、あったわ」
 暗がりに差し込む光条の中を無数の塵が舞う。彼女の指差す先には、古びた一丁の木製の梯子があった。八段で長さは2メートルあまり。格段上等とも見えなかったが、アンネローゼは両手を腰に当て、
「柿の木でできてる特別製だって威張ってたもの。間違いないわ。さあ、ぐずぐずしてちゃダメ」
 こうして彼女の号令一下、三人がかりでそれを担ぎ出す仕儀となった。最初はもうひとつ行動に確信が持てなかった私であったが、年長の少女の勢いに加えて、そこにたしかに「JACOB」と刻まれていたのが決め手になった。
 アンネローゼが先頭、カーラが真ん中、最後が私。緊急結成の少年少女行動隊は、梯子を御輿のように頭上に構え、息を切らせながら、一路もと来た坂道を上っていった。
 道の途中で、手押し車を押す若い郵便配達夫と行き会った。彼は我々に道を譲りながら、ひょうきん者らしく口笛を鳴らしたが、ただリーダーの少女から、「小人養い難し」という冷たい一瞥を浴びただけだった。
 廃屋へ運ばれたヤコブの梯子は、私が心配していたレンガ塀の関門も無事に通過し、いま駐リトアニア日本領事の座るベンチの前に、垂直に立てられた。
 片側を支えるアンネローゼが、ひとりだけレースのハンカチで額の汗を拭きながら、
「大使閣下、お探しのもの、お持ちしましたわ」
 晴れやかな笑顔で、所有者の名の刻印を示した。
 あれから五十年が過ぎた今でも、このとき父が少しも笑わなかったのを、私ははっきり覚えている。かわりに座ったまま、両手を膝に、日本式に深々と頭を垂れた。
「ありがとう、三人とも。よく探してきてくれましたね」
 父は立ち上がると、スーツの上着を脱ぎ、ワイシャツを袖をまくりあげた。剥き出しの両腕で、私たちの支えている梯子を身近に引き寄せた。
「危ないから離れていてください」。
 その手が、梯子の下端を地に埋め込もうとするように力を帯びる。そして手で庇をつくり、太陽を一度ふり仰ぐ。
 続く動作は五歳の子供にも予想がついた。
 父は静かに梯へ革靴の足を掛けた。まず一歩、腕の力で体重を引き上げながら二歩、三歩。揺るぎない足取りは、本当にこの地から、空の彼方へ向けて出立するようだった。そう錯覚もしよう。どだい大人は寄る辺なく地に立てただけの梯子を上ったりしない。それは危険なうえ無意味だからである。だがそのときかぎり、廃墟の庭で、ヤコブの梯子は天を指しつづけた。私たちはただ息を止めて見上げていた。
 手の拠りどころが失われて、なお父はのぼり詰めた。そしてためらいもなく、ついに最上段を足下に踏まえたとき、白夜の日輪はその背に隠れた。均衡のために両腕をゆるやかにひろげた父の姿は、逆光のなか、数瞬、黒い彫像のように動かなかった。
 梯子を降りてきて、ようやく父は笑顔を見せた。
「用は済みました。これから一緒におうちまで返しに行きましょう」
 梯子の中ほどを横抱きにした父だったが、
「何が見えまして?」
 というアンネローゼの問いに答え、再びそれを地に据えた。ただし今度は、十分角度をつけ、頑丈なレンガの塀に立てかけての正しい用法である。そこへ父は、幼い私たちをひとりずつ抱きかかえてのぼった。まずカーラ、次にアンネローゼ。二人ともはじめは後ずさったが、じき、屈んで促す父の首へ、くすぐったげに腕をまわした。
 最後が私であった。父の腕は力強く、頭からは整髪料の匂いがした。抱えられて一歩ずつ上へ行くにつれ、涼しい風が、遮るものなく吹き渡るのが感じられた。
 塀の上からは視界がひらけ、眼下に古都の市街が広がる。うねるネムナス河の面が西日を散らし、はるかな寺院の鐘楼のまわりを、飛沫のような鳩の群れが飛びめぐっていた。
 私はそのとき、いちおう自分の頭上の空にも注意を向けた。しかし彼方で地平線と出会うまで、やはりそこに特別なものは何もなかった。

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