A-03  君の名は

 ちょうど向かい合わせにすわった少女が、大きな目でじっと俺の手もとを見つめていた。火星人特有の、白髪と赤眼。人形のような子供だと思う。表情にとぼしく、なにもしゃべらない。
 生後まもなく火星で棄てられ、親の顔も知らないまま地球の孤児院で育てられた子供だ。しかも今回の事件のせいで相当消耗しているだろうから、口をきくどころか、笑うことだってむずかしいのだろう。
「俺は、原口ヨウ。君のいた孤児院で起きたことを調べている者だ」
 すでに少女も知っているとは思うが、簡単に自己紹介だけすると、俺は早速、手もとの調査資料をめくった。すると少女の眼球がそれにあわせてぐるりと動いたので、さっきから見つめていたのは俺の手ではなく、この資料だったのだと気づく。
「君の名前は、ソラでまちがいないね」
 資料を読みながら確認すると、意外なことに少女が言葉を発した。
「ちがう、それ。RじゃなくLだ、あたしは」
「その位置から調査書を読んだのか。目がいいな」
 まさかしゃべるとは思わなかったので動揺をかくしきれず、俺はそんな自分に苦笑しながら、胸もとからペンを取りだした。そして氏名欄のRを塗りつぶして、上の余白にLと書きこむ。
「ありがとう、原口さん」
 少女は礼を言い、これまた意外なことに微笑した。なんだ。笑えるじゃないか。
「あたしの名前は『太陽』という意味なんだって。マリー=ローズがつけてくれたの。昔いた職員さんの」
「そうか、マリー=ローズがね」
 ソル、ソレイユ、ソーラー……俺の頭の中で、さまざまな太陽の単語が明滅したが、それはひとときのことで、施設職員のやさしくも残酷な嘘がまた俺の気分を暗くした。この少女と同じころに孤児院がひきとった子供の新規登録名が『ドレー』『ミーファ』ときては、『ソラ』という名はとても『太陽』だとは思えなかったのだ。
「さて、ソラ、君の知っているかぎりでいいから、孤児院で起きたことを教えてくれ」
 孤児院でどんなことが起きていたのかは、元職員たちから聞いた話でだいたいわかっていたのだが、ともかく、生き残った子供たちから話を聞くのは重要だった。

 その孤児院は『月と火星の一年戦争』後、地球に数多く設立された施設のひとつで、二十年ほどの実績があった。
 当初は戦災で孤児となった火星人の子供を収容していたのだが、火星の鉱山と天然ガスで大当たりした火星人資本家たちの援助もあって、次第に規模も拡大し、同じ敷地内に職業訓練学校も併設して、ここ七・八年は問題があって家庭にいられなくなったような地球人の子供も広く受け入れている。才能ある子供には多額の奨学金を出して、名の知れた大学にやり、そうして学んだ子供が長じて実際にすぐれた業績を残しているので、世間の評判もそうわるいものではなかった。
 この事件が発覚するまでは。

 そもそも孤児院での児童虐待疑惑をずっと追っていたのは、ベティ=アンだ。
 ベティ=アン……頼もしい同僚であり、しばらくは俺の妻でもあった女。
 孤児院に来た火星人の子供に、強化肺術のとき、高酸素剤を日常的に多用しているような様子があったのを、執刀医が不審に思い、知り合いを通じてベティ=アンのところに相談を持ちこんだのがはじまりだ。
 その子供は火星で浮浪者たちと通りで暮らしていたのを発見され、保護されたときにはすでに低酸素症をわずらっていた。日銭を稼ぐために、浮浪者たちと定期的に居住シェルタードームの外に出て、不完全な予防衣を着用して屋外作業にあたっていたせいだ。子供は地球に送られ、しばらく当該の孤児院で生活したが、病状は改善せず、ために手術を施行することになったものの、術後、急速に容態が悪化して亡くなった。十四歳だった。
 高酸素剤の大量投与による副作用ではないかと執刀医は疑ったが、第三者機関による検死の結果は、重度の肺炎。
『おかしいじゃない。ここは地球なのよ、火星じゃなく。どうしてあれほどの高酸素剤が必要なの。しかもあんなに高価な薬剤が、民間の孤児院に、なぜあれほど日常的に豊富にあるのよ』
 ベティ=アンは納得しなかった。
 孤児院創設の事情から、入ってくる子供は火星人が少なくないこと。そのため地球環境になじむのに時間のかかる子供もあり、大気物質の比率や濃度、気圧を火星環境に近くした調整室で、高酸素剤をもちいて数ヶ月過ごす例があること。大学卒業後、製薬会社の研究室に進んだ元孤児たちのツテがあって、薬剤が安価で購入できること。そのような、さまざまな回答が出されたが、ベティ=アンはやはり納得せず、かえって地道に調査をつづけるのだった。

 今から思うと、俺も端で傍観していないで、適当なところでとめてやればよかったと思う。だが、彼女との間にできた小さな娘を交通事故で亡くして離婚してからというもの、どうも彼女とうまく話すことができなくて、見過ごしてしまっていたのだ。
 ベティ=アンが不慮の交通事故で亡くなったとき、俺はようやく自分がうしなったものの大きさを知ったのだが、それはあまりに遅すぎた。
 高酸素剤の摂取過多による副作用とみられる重度の肺炎で、当該の孤児院に収容された子供の半数が死亡するという事件が起きたのも、ちょうどそのころだ。
 それで、せめて彼女が助け出したいと切望していた数人の孤児くらいはなんとかしようと思って、俺はこの調査役を引き受けた次第なのである。
「原口さん、お話はもういいかしら」
 三日間、通しでつづけた事情聴取の末、目の前の少女からそう切り出されて、俺はしばし無言だった自分の様子に気づいた。
「ああ、ありがとう、ソラ。それじゃ最後に、孤児院での薬物投与の状況について確認したいんだが」
「あたし、それ、一週間前もだれかに話したけど」
 少女はさも不服そうに口をとがらせる。こういうところは火星人も地球人も孤児もない、単なる少女だ、と俺は思う。
「わるいけれど、これが俺の仕事でね」
 オトナってなんてつまらない生き物だろう、と表情だけで雄弁に語って、ソラという少女は肩をすくめた。
「いいわ。あたしの知っているかぎりでは、クスリは本人たちが望んでもらっていたわ。別に職員さんに強制されたわけでもなく」
「本当に? それが副作用のある高酸素剤だという説明もなく、ただ渡されるままに服用していたのでは?」
 まさか、とソラは破顔した。
「クスリを飲みつづけていると、いつか火星に帰ったとき、ドームの外で暮らせるようになるかもしれないのでしょ、肺が強化されるから。地球の孤児院でお世話になっていてなんだけれど、こんな地下都市、息がつまるもの。だからみんなクスリを飲んで、いつか火星に帰るつもりだったの」
 その言葉を聞いて、俺は思わず苦笑した。地球の大都市は、なるほど、今ではほとんどが地下都市だ。『月と火星の一年戦争』の結果、月面の居住シェルタードームは壊滅し、地球の都市の多くは地下にもぐった。ただ火星人だけが、火星地表の居住シェルタードームで暮らしつづけているのだ。
 地球は息がつまる、というソラの主張も、だから俺は感覚的にわからないでもなかった。
「実を言うと、あたしもクスリをもらったわ。だけど何回か服用したら気持ちがわるくなって、結局、あきらめちゃった」
 そうか、と俺は相づちをうった。結果的にはその服薬中断行為が、少女を生きながらえさせたわけだ。
「あたしの話、これでいいかしら、原口さん?」
 火星人特有の赤眼が、じっと俺を映していた。地球に来てソラという名前をつけられた、今回の事件の生き残りの少女。
 俺は礼を言って席を立ち、この三日間かよった調査室を出ようとして、思い立って、ふり返った。
「ソラ。君の名は、やはりLでなくRの方がいいと思う」
 俺を見つめていた少女の眼球が、ぐるりと動く。
 なぜ、という問いかけだと、今の俺にはわかる。ベティ=アンと俺の娘も、無事に成長していたらこういう少女になっていたかもしれないと、この三日間で思ったからだ。
「俺の国の言葉では、ソラというのは空のことだ。天空……この大地の上にかぎりなく広がっているもののことだ」
「太陽ではなく?」
「そう、太陽ではなく。俺が子供のころ、『月と火星の一年戦争』の前だが、地球の都市もほとんどが地表にあったんだ。俺は昼間は青い空を見て、夜には宇宙を見た。空は日中、蒼く閉じて俺たちを守り、夜にひらいて俺たちを宇宙に導いてくれるものだった」
「空が……そんな」
 この瞬間、つぶやいたソラの表情が一変した。
 幸福な、恍惚の表情。それはもう、親に捨てられた孤児の顔でも、新しい高酸素剤の人体実験材料の顔でも、火星人の顔でもなく、一個の、完結した人間の顔だった。新しく生まれたばかりの人類の顔だった。
「ありがとう、原口さん」
 数瞬ののち、生まれ変わった少女が満面の笑顔でそう言った。
 そしてその途端、亡くした小さな娘が俺やベティ=アンを許してくれたような、そんな不思議な気分になって、俺は胸が張り裂けそうな思いというものを、本当に何年かぶりで味わったのだった。

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