A-05 弾丸
風の塊がぶつかってくるビルの屋上で、俺は身体を這わせ、双眼鏡をのぞきこんでいた。
「見つけた……」
俺はつぶやく。
双眼鏡を介した先にはホテルがあり、窓から見える一室に――あいつはいた。
写真なんて見なくてもわかる。前に会ったときと変わりなく、細身に黒のスーツをまとい黒のネクタイを締めている。
あいつは俺の元同僚、そして殺しのターゲットだ。
殺しには美学が必要だ。少なくとも俺はそう思ってる。
一発で安らかな死を贈りたいものだ。
ライフルは使わない。リボルバー、S&WのM49を愛用している。ただしやはり拳銃だけあって、ライフルに比べると射程距離が長くない。ターゲットに近づかなくてはならない。
ホテルの中、監視カメラの場所に気をつけて歩いていると、殺し屋ではなく強盗にでもなった気分だ。
ホテルの内部もあいつのことも、調査は終わっている。
あいつはこの海沿いのホテルに一ヶ月前から泊まっている。ほとんど部屋から出ることはない。食事も何もかもルームサービスで済ます。最初に五ヶ月分の宿泊費を払ったそうだ。
俺の存在におびえてるのか、それとも腑抜けてしまったのか。
同じ場所に長期間留まることが危険を呼ぶことを知らないわけではないだろうに。窓に近づくのは危険だということは、知っているだろうに。
俺よりずっと優秀だった殺し屋が、わからないはずないだろうに。
*****
あいつは組織の中でも一目置かれていた。リボルバーひとつで美学をふりかざす俺よりも、使い勝手がいい殺し屋だった。
ライフル、短銃、ナイフ、縄、毒……ありとあらゆる殺しの方法を、ありとあらゆる場所で、そつなくこなしていた。成功率は百パーセント――まあ一度でも失敗したら殺されるから、組織の人間は俺ふくめ誰もが百パーセントだが――その手際の良さもあって、あいつは組織から重宝されていた。
あいつと初めて話らしい話をしたのは、俺が死にかけた時だった。
ターゲットは抹殺して任務完了したものの、反撃に遭い、俺も傷を負って逃げていた。
こういうことは、組織では自業自得だと言う。全ての任務の責任は、任務を請け負った者が負う。傷を負うのは力がないせいであり、誰も助ける義理はない。
そんな慣習がありながら、ゴミの中で出血多量により死にかけていた俺を、あいつは闇医者まで連れて行ってくれた。ろくに話もしてこなかった、接点のない俺を。
あいつは、俺が初めて心から感謝した男だ。
それから共に呑みに行くようになり、互いの任務を手伝い合うこともたまにあった。
人形のような眼を持つあいつは、殺人マシーンとからかわれていた。
しかしそれは真実ではない。
この稼業を始めてから肉や魚を食ったことがないと、呑みに行ったときに聞いた。道理でひょろっとした身体をしているものだと納得した。
あいつは敬虔なクリスチャンでもあった。殺し屋が信心深いというのは、意外とよくあることだ。
結局は、あいつは普通の男だった。見た目と手際から機械のようにやゆされるが、人間の心と身体を持った男だった。
あいつはあるとき言った。
『……この仕事を辞めようと思う』
俺は口に運ぼうとしていたグラスを落としそうになった。暗い飲み屋の周囲に気を配る。
『本気で言ってンのか?』
他の客に聞こえないよう、ごくごく小さな声で問う。
組織から脱けることは禁止されている。組織の掟は絶対。掟を破れば……そこには死しかない。
あいつはぎこちなくうなずく。そのうなずきの重さを知っているものだから、俺は沈黙した。
そのままなぜ辞めるのか語り始めた。要約すると単純。女ができたってことだった。その女と一緒になり、表の世界で暮らしたいそうだ。
『……この仕事を辞めなくても、うまくやっている奴はいるぜ?』
妻にはただのサラリーマンだと思わせておき、実は……という生活を送っている奴を知っている。何も辞めることはない。
だがあいつは首を小さく振る。
『辞めたいんだ』
俺はその後、何も言えなかった。がんばれ、とも、やめておけ、とも。
タバコに火を点けた。仕事中は吸わないと決めているが、それ以外の時は一日三箱は吸うヘビースモーカーだ。俺はガラスの灰皿に灰を落とした。
あいつの覚悟も辛さもわかっている。組織の厳しさもわかっている。うまくいけばいい、程度に思っていた。
だが――組織は甘くなかった。
その一週間後だっただろうか、一人の女の死体が川に浮かんだ。制裁の意味をこめたその殺し方は、殺し屋の俺から見ても不快になるたぐいのものだった。
どうあがいたところで俺たちは組織の手の中にあるしかない。
それをあいつは受け入れなかった。組織の数人を殺し、組織を脱け、逃亡した。
それから――
久しぶりに俺はボスの部屋に呼ばれた。
天井にファンの回る、蒸し暑い部屋だった。タバコに火を点ける。
ボスは写真を一枚出した。受け取ったそれに写っていたのは、あいつ。写真の中から人形のような眼をまっすぐに向けている。
『今回のターゲットよ。蜂の巣にしてちょうだい』
赤い唇をゆがませて、ボスは命令した。
写真を、ピン、とはじく。
『蜂の巣かい。俺の美学に反する』
ふふ、とボスは笑う。豊満な胸を挟むように軽く腕を組み、悠然と告げる。
『あんたの好きなようになさい。ただし――苦しませて殺すこと』
組織は裏切り者を許さない。今まで脱けようとした奴、裏切った奴は、必ず殺してきた。それまでの例を考えると、これはごく当たり前の命令だった。だが、俺は思わず言っていた。
『苦しませる必要はねえだろう』
ボスは、心外、と言わんばかりに眉を上げる。
『ただ殺すだけではおしおきの意味がないわ。見せしめの意味もね』
手の中にあるタバコを口にくわえる。じんわりとその先が赤くなった。
『引き受けるの? 引き受けないの?』
煙を静かに吐く。
……引き受けたのは、あわれな道を歩むあいつと、組織での俺の地位を天秤にかけたからじゃない。そもそも俺の組織内での地位なんて、地の底だ。
この組織で殺し屋をやる以外、俺に生きる道はなかったからだ。組織の命令に拒絶は許されない。引き受けない、なんて選択肢は存在しない。
俺はこの組織を脱けることは考えたことがない。この組織に生まれ、そしてこの組織で死ぬだろう。他に生きる道は知らない。あいつのように、表の世界に夢を見ることもない。
あいつがこの組織で生きていけないような人間的な人間であることは、知っている。本来あいつは表の世界で生きるべき人間だった。
しかし組織を脱けて生きられる人間はいない。この組織に入った段階で、もはや光への抜け道は存在しない。
『……俺が説得して……もしあいつが組織に戻ると言ったなら……今までのことをチャラにして、ここに戻らせてやってくれねえか?』
苦しまぎれの俺の言葉に、ボスは黒いマニキュアを塗った爪を口許にやって嗤った。
もともと組織は、あいつが組織を脱けたから殺そうとしている。組織の連中を殺したことや他のことは考慮していない。なら、元通り組織に戻れば……。
『戻ると言うなら、いいわ。許してあげる。役に立つ子だったもの』
それは確かな約束であったが、まるでそうなることを信じていないような軽い言い草だ。『本当に戻ると言うならば、ね』ボスはそう付け足して、嘲笑した。
『でも説得に耳を貸さなければ、苦しませて殺す。わかったわね?』
あいつの抹殺をわざわざ俺に命令する意味を考える。もしかしたら俺とあいつがたまに呑みに行っていたことを、知られていたのかもしれない。それどころか事件直前の相談を聞いていたことさえも……。
つまり見せしめというのは、俺への見せしめなのだろう。そして俺のことをためしているわけだ。
『因果な商売だな』
『そういう世界なのよ、ここは』
そこには紫煙がゆらめいていた。
*****
「!」
あいつの部屋に向かっていた俺は、思わず隠れた。
部屋のドアが開き、現れたのだ、あいつが。あいつは俺のいる方向とは逆方向に歩いていく。
俺は舌打ちをした。
ホテルの部屋の中なら防音設備が整っている。そこで殺せば銃声がある程度消され、逃亡する時間があると踏んでいた。部屋に入るための方法はいくつも用意していた。
しかしこの廊下では無理だ。銃声はホテル中に響く。ホテルの警備を考えると、殺せたとしても逃げられない。
殺しても捕まるつもりは毛頭無い。ヤクザの鉄砲玉ではないのだ。
殺して、捕まらずに逃げる。殺さずに済んだとしても、いつだってそれに気を配るのがプロの仕事だ。
俺はあいつを尾行することにした。今まで全く部屋を出ることのなかったあいつがどこへ行くのか、興味もあった。
あいつはゆっくりとホテルを出て、海へ向かった。海全体に広がるように雲が影を作っている。波音が響く中、砂浜には入らず、あいつは道を歩く。右手にある生い繁る林に向かっているようだった。
左手に見える海は、海水浴の季節から外れているため、人がいない。遠くに波止場があって、そこにも釣り人はいない。そして道には車もない。ドライブするにはいい景色が見られると思うが、道が細すぎるのだろう。
人がいないということは紛れるのが難しいということ。後をつけるのが至難で、あいつからかなり離れることになった。
カモメが波止場近くで鳴いている。
あいつの背はまるで一般人のようだった。殺気も緊張感も読み取れない。
殺し屋を辞めたついでに、能力も失ってしまったというのか――
そんなことを思って、あいつの後を追い林に入る道へ進んだが、あいつの姿は見えなかった。
確かに今、道を曲がったはず。どこに――
「待っていた」
声の方に振り向くと、あいつは木の陰で銃を俺に向けていた。黒ネクタイが海からの風ではためく。
銃口の向く先に注意を払いながら、俺は口を開いた。
「……今でも組織に戻るなら、ボスは全て許すって言ってるぜ」
久しぶりのあいつとの会話であったが、緊迫感がいつになくはらんでいた。呑みに行ったときの軽口の応酬を、懐かしむように脳裏でかすかに思い出した。
あいつは表情を変えず、首を横に振る。
そうするだろうな、とはわかっていた。もう組織に戻ることはない。いや、戻るはずがないことを。
しかし俺は懇願してしまった。
「……死んでほしくねえんだ」
俺がここで死んだところで、次の殺し屋が来るだけだ。あいつに逃げる道はない。死ぬしかない。
あいつはふっと氷で固まっていたような表情をゆるめた。そのまま銃を下ろす。
少しは考え直してくれたか、と俺が一歩近寄ろうとしたとき、再び銃は俺の身体の中心を狙った。
表情がゆるめられたのは一瞬のことだった。また機械のような意思の読み取れない顔になったあいつは、まさしく死に神のように、そのまま引き金を引く。
軽い銃声にカモメが乱れ飛ぶ。
俺は地面を転がり、草にまみれながら避けた。弾丸は間一髪逸れたようだった。
転がったまま、俺はふところにあった銃を取り出し、一瞬で銃口をあいつに向ける。頭でも足でもない、狙う場所は一つ――心臓。それが俺のいつもの仕事。いつも俺の狙う場所だ。
俺は撃った。重い銃声は響き渡る。
あいつは身体をのけぞらせる。しかしそのまま倒れなかった。胸ではなく左の肩を押さえているあいつを見て、俺は衝撃を受けた。
はずし……た。動揺してしまったというのか、手元が狂ってしまったというのか、この俺が。あいつを前にして。
呆然としながら、なんとか内心を表には出さなかった。あいつは肩に傷を負いながら、躊躇なく再び撃ってくる。
俺は身体を転がし、林立する木の陰に入った。そのまま草むらを腹ばいで静かに進み、あいつの横にある木に隠れる。あいつは周囲に目をやり、銃を持ちながら俺を探している。
もう道はないんだな。
覚悟を決めて息を止めた俺は、木の陰から今度こそ心臓を狙う。あいつがかすかな銃の音に気づいても遅い。反撃する時間をやらず、俺は引き金をしぼる。――銃声、血。
あいつはドミノが倒れるようにあっけなく、倒れる。
俺はそれでも銃を向け続ける。死んだふりをしている可能性もあった。ゆっくりと近寄る。もちろん銃を向けたまま、見下ろす。
あいつは死んでいた。
瞳孔の開いた目。黒いスーツの下の白いシャツは、赤い血が広がり始めている。
脈を取る。
死んでいた。
俺はその死体を見下ろしてしばらくして、トレンチコートの下に銃をしまう。
見慣れた光景だった。今まで何度も見てきたターゲットの死。それと同じにすぎないことなのだ、と俺は自分に言い聞かせた。
周囲を見回す。見える場所には人はいない。それでも早くここから逃げた方が無難だ。
いつもの仕事のとおり、証拠を残していないか探し、俺は林の入り口をうろつく。
ふとあいつの死体を見て、奇妙さに気づいた。
あいつの撃った二発の銃声……どこか軽すぎる音だった。撃たれたと思った直後は、そんなことを考える暇もなかったが。
俺はあいつの手に残っているベレッタを手袋をした手で取る。弾倉に銃弾はつまっている。しかしそれらは実弾ではなかった。全て薬莢に綿をつめただけのものだった。
この銃の弾丸は全て空砲だということになる。
「空だったのか」
誰に聞かせるでもないつぶやきがこぼれる。実弾が空の銃をあいつの手の中に戻した。
あいつの首から、小さな十字架のネックレスが黒いネクタイの上に飛び出している。その銀の十字架を見ながら、改めてあいつがクリスチャンだったことを悟った。
クリスチャンは自殺できないんだったな。
苦しませて殺す、というボスの命令を思い出した。こいつは十分苦しんで、死んだ。
思わずコートの中からタバコを取りだしかけ、それをすぐにしまう。仕事中は禁煙するということを忘れるところだった。今は逃亡するのが先だ。まだ仕事中だ。
だが今、一本でいいから吸いたい気分になる。
今日俺は、二発の銃弾を放った。二つの弾丸はあいつの身体へ埋め込まれ、その二つ分、弾倉から消えた。銃に残っているのは三つの実弾と、二つの空の薬莢。
いつもは一発でしとめる。しかし今日は二発撃った。
普段より二倍の隙間を抱きながら、俺は深く帽子をかぶり、歩き出した。