A-06  天空の王 地上の剣

 空から降りてくる翼竜の群。背に跨る一人の男が地上を覗き込む。途端、彼の豊かな黄金色の髪は広がり、きらめいた。天上より降り注ぐ太陽光のために彼の表情は伺えない。
 それでも、思う。
 操られ緩やかに近づいてくる翼竜と、風に舞う彼の髪。
 それらはとても美しい、と。
 二十年前にも覚えた感動そのままに、アイーシャは思った。


 天空の王が地上に降り立つのはほぼ皆無に等しい。今回、王の来臨が叶ったのは、一年程前に即位してからずっと、地上の王との接見が行われていないからだった。
 慣例であれば、即位時に地上の王は天空に上がり、新王との接見を行う。有史以来の関係である、天空と地上の同盟を守っていくことを確認し合う。
 しかし、地上の王は数年前より、病のために床に伏せっていた。地上の王の代理として第一王子が天空に上がり代役を果たしはしたが、天空の新王は地上の王に会うことを望んだ。
 そして今回、天空の王、シャウスフェルトは視察も兼ねて地上に降り立った。
 光り輝く黄金の髪と透き通った碧い眼は、黒や茶色といった沈んだ色しか持たない地上の民、特に天空の者を見る機会のなかった若者の感嘆の吐息を誘った。
 中でも王であるシャウスフェルトの輝きようは筆舌に尽くしがたく、誰もが彼の傍を心の中で望むほどだった。地上側も彼を案内する役目が必要と、志望者の中から一人を案内役に指名していた。
 けれども、シャウスフェルト自身がその者を拒んだ。いや、はっきりと拒絶したわけではない。地上に降り立った途端、彼はある者に目を留め、名を呼んだのだ。
「アイーシャ姫。久しぶりですね。ますます女に磨きがかかったようで何よりです。では早速、父王の元への案内をお願いしましょうか」
 一番驚いたのはアイーシャ自身だっただろう。地上の王の第一王女である彼女は、傍に寄ることを一瞬ためらい、しかし、彼の視線が真っ直ぐに自分だけを捕らえていることに気づいて、勇ましく足を進めた。
 こちらです、と、先頭を切って彼女は歩き、王の元へと案内した。部屋の外で念のために待っていれば、接見を済ませ出てきたシャウスフェルトが、アイーシャに視察の案内を頼む。彼女は、彼の要望に溜息をついて応じた。先ほどと同じように彼のすぐ前を歩きながら、口を開く。
「一旦お休みにならなくていいのですか? ご用意したお部屋をご覧いただいてもおりません」
「ご心配の程痛み入ります、姫。けれども大丈夫です。体は陽が落ちてから休ませます。それよりも、天が明るいうちにできるだけ色々なところを見ておきたいのです」
「熱心でございますね、陛下。ただ、焦っているようにも私には見受けられます。生き急がれると、寿命を縮めますよ」
「おや。嫌味でしょうか、それは」
「ちょっとした報復です。……女に磨きがかかったなど、私にとっては世辞にもなりません」
 言って、アイーシャは腰にある剣を掌で軽く叩いた。かしゃん、と音がする。背後でシャウスフェルトが笑いを堪えているのが、アイーシャにはよくわかった。
 その後、シャウスフェルトは予定の通りに地上を見て回った。アイーシャも同伴はしたが、主立った案内はその役を任されていた者が行った。シャウスフェルトもアイーシャが距離を置いて自分についてきていることに関しては、特別に何も言いはしなかった。


 周囲の者は、シャウスフェルトとアイーシャの一挙一動を興味深く見守っていた。シャウスフェルトがアイーシャの名を呼んだ時には、あからさまに息を飲む者までいた。二人が近寄った時には、何か起こるのではないかと心臓を高鳴らせて様子を見つめる者も少なくなかった。
 しかし、二人を取りまく奇妙な空気は、時が過ぎるごとに払拭されていった。シャウスフェルトが視察を始めてからというもの、二人は天空の王と地上の王女という立場以上の繋がりを見せなくなったからだ。
 二十年前の関係は、最早完全に過去のものなのだ――そう誰もが思ってしまうほどに。


 二十年前。
 年若く、王子の立場だったシャウスフェルトは、その頃地上で生活をしていた。
 天空と地上は表裏一体の間柄にある。天空の国は天候を操ることにより地上を支配・管理し、地上の国は管理された天候の下で作物を育て、天空の国に反目する者たちから天空を守るために戦う。
 シャウスフェルトが地上に降り立つ直前まで、地上は他国と交戦状態にあった。天空に歯向かい、天空を支配しようとする者たちは後を絶たなかったが、二十数年前の戦いは特に熾烈を極めるものだった。
 ために、第三王子で、王位継承権の回ってくる可能性の低かったシャウスフェルトは、天空と地上の関係をより密接にするため、地上に降ろされた。
 そして二人は出会う。光り輝く天空の王子と、剣を履く雄々しい地上の王女は。
 アイーシャは、先の戦いで多大な功績を残し、国の象徴に祭り上げられ、戦姫と呼ばれた。多くの民に慕われ、絶大な人気を誇る存在だった。
 そのような姫と、姿を見せただけで地上の民の心をつかんだ天空の王子が恋に落ちた。
 誰もが二人の関係を微笑ましく思い、二人の結婚を望んだ。誰もが美しい時は永遠にあるものと信じて疑わなかった。
 その関係が崩れたのは、シャウスフェルトが地上に降りてより三年後。
 天空にいたシャウスフェルトの兄二人が、立て続けに死去したのだ。事故死と病死だった。シャウスフェルトは天空に呼び戻されることになり、その時は当然、アイーシャも一緒に天空に上がるのだと父王ですら覚悟した。
 が、二人は別れた。シャウスフェルトは離別を惜しむこともなく天空へと帰った。
 なぜ、と近しい者に訊かれたアイーシャは言ったという。
「剣を手にすることすら出来ない腑抜けた男は疲れるだけだ。絵を描き、音楽を奏で、机上の空論を述べる。これでどうやって空腹を満たすというのか」


 二十年の時を経て、二人の話は密かな語り種となった。物語を聞き、口にしてきた者たちにとって、今回のシャウスフェルトの来臨は、伝説を目の当たりにするかのような期待があった。
 しかし、二人が以前の蜜月の時を彷彿とさせる空気を纏ったのは、再会してよりほんの一時でしかなかった。以来、言葉を交わすことはまるでなく、胸をときめかせながら見守っていた者たちは諦めの境地に到るしかなかった。
 それほどに二人は、極自然にそこにいたのだ。


「……時が移っても、地上は相変わらずに美しい」
 当初のものに加え、急遽加わった予定も全て滞りなく終え、四日にわたるシャウスフェルトの地上滞在は終ろうとしていた。
 再会した直後以来、アイーシャはシャウスフェルトから傍にと望まれることはなかった。それでも遠く離れることなくアイーシャは控えていた。彼を、守るように。
 今、二人はシャウスフェルトが逗留所としていた部屋の露台にいた。シャウスフェルトの周りを固めていたアイーシャ以外の者たちは、帰還の準備に追われている最中だ。
 今回の来訪でようやくにして初めて、彼は穏やかな時の流れに身を置いていた。
「……いや、違うのでしょう。時が移るからこそ、地上はより美しくなるのでしょうね。地上は、本当に美しい」
 前方に広がる大地に目を向け、先ほどからシャウスフェルトは呟く。
 独り言なのか、自分に語りかけているのか。背後から彼を見るアイーシャは、言葉を口にする彼の真意を測りかねて黙っていた。ただ、彼と同じように彼女も大地を見た。眼下に広がるのは広大な森。見渡す限りの緑。
 風が露台を吹き抜ける。穏やかな風だ。シャウスフェルトの輝く髪を緩やかに棚引かせるから、アイーシャの視線は自然とそちらに動く。
 彼は光を纏っている。
 そのような感触は、二十年前、初めてあった時にもアイーシャは抱いていた。彼女だけではなく、彼に会った者なら誰でも感動と共に思うことだ。
 金色の髪、白い肌、碧い眼。天空の民は空の色を身に宿す。対し、地上の民は濃色の髪、くすんだ肌、黒い眼を身に宿す。土の色だ。
 ゆえに、地上の民は天空に憧れる。自分たちにはない色、自分たちにはない風、自分たちにはない光。それらを天空は持っている。何と美しいことかと、羨望の眼差しで地上の民は空を見上げる。美しい世界を守るためなら自分の命は惜しくないと、身を差し出す――差し出すことが出来る。
「何をおっしゃいますか、天空の王よ。美しいのは天空でありましょう。天空には光がある。透き通った風がある。整った配色、心地良い旋律がある」
 アイーシャ自身、また地上の多くの民も天空に上がったことはない。しかし、そう伝えられている。天空の国は美しいところ、楽園である、と。
 アイーシャの言葉にシャウスフェルトは振り返った。柔らかな微笑みに憂いの感情が滲んで見えたのは彼女の錯覚だろうか。
「ええ。けれども、天空にはそれしかないのです、姫。地上では、光と共に闇がある。風の中には温かい命の息吹がある。地上は常に土の臭いに満たされ、せわしい躍動感で埋め尽くされている。むせかえるほどの色と音。言い尽くすことの出来ない人の感情。数多のものが混沌と渦巻いている」
 シャウスフェルトは地上へと再び顔を向けた。目の先では何を捕らえているのか。彼がふと右手を前に伸ばした。肩の高さ。地上をつかむかのように。
 その優雅な動きに導かれ、アイーシャもまた、手すりの傍へと足を進め、視界を緑で覆い尽くす。見慣れているはずの風景が、いつもと違った色を放っているような気がアイーシャには確かにした。
「アイーシャ姫。あなたもご存じの通り、地上の者たちは皆、必死で生きています。世界に自分たちの存在を叫びながら全力で生きている。熱い魂を解き放ちながら生きている。それがとても、私には美しく感じてしかたがないのです」
 シャウスフェルトより先に、天空の者が地上に住まったことがないわけではなかった。けれども、誰もが大なり小なり、目まぐるしく移り変わる地上の諸々に息苦しさを感じ、天空に帰ることを望んだ。
 しかし彼は違った。地上の民が天空に憧れるように彼は地上に恋をした。地上の全てを愛で包んだ。
 だからアイーシャは彼に惹かれた。地に降りてなお光り輝く彼に心を捧げることが出来た。だから、彼が天空に帰らねばならなくなった時、アイーシャは別れを決意した。
 ――彼の兄二人の死に、疑惑の種を蒔いてはならなかったから――。
 天空の民全てが地上に好意を持っているわけでない。血を流し戦う地上の民を野蛮と蔑む者は決して少なくない。
 突然の王子二人の死後に、地上に降りていた三番目の王子が地上の女を連れて帰れば、天空の民はどう考えるだろうか。戦姫と呼ばれる女にどのような目を向けるだろうか。王子二人の死は、地上の女が仕組んだことと思いはしないだろうか。王座を狙ったシャウスフェルトとの共謀と受け取られたりはしないだろうか――。
 シャウスフェルト自身にも考えるところはあったのだろう。アイーシャが理由を言わず別れを口にすれば、しばらくの間の後、彼はただ頷いた。背を向け、一度も振り返らず去っていった。
 悲しくなかったといえば嘘になろう。涙を流さなかったといえば嘘になろう。自分たちがもっと子どもだったなら、感情のままに行動が出来る子どもであったならばよかっただろうにと、未練がましく繰り返し考えたりもした。
 けれどもアイーシャは後悔だけはしなかった。
 そうしなければシャウスフェルトを守れなかったとわかっていたから。地上を守れなかったとわかっていたから。後悔は一切、しなかった。
「そういえばこのたびは、陛下の三番目の御子がお生まれになったとか。おめでたいことです。御子は、さぞ可愛らしいのでしょうね」
 アイーシャが先日聞き知った情報を口にすれば、シャウスフェルトは上げていた手をそっと下ろす。沈黙の後に、先ほどよりは幾分低く、彼は声を出す。
「……立場上なした子のはずでした。けれども、子は大変に愛おしい。どれも私の宝です」
「当然です。妻を娶り跡継ぎを生む。陛下に課せられた使命です。立派に努められていらっしゃる」
「子らがもう少し年を重ねたら、彼らにもここに来て欲しいとと私は考えています」
「それは素晴らしい。いつでも歓迎いたしますよ。陛下の御子であれば、私も会うのが楽しみです。見目麗しい御子でしょうな」
「姫」
 再び、沈黙。風が吹く。髪が揺れる。
 自分たちを取りまく微音に紛らわすかのように、彼の声はアイーシャの耳に届く。
「私は日々、私の妻、子、そして民の幸せを願っています。けれども姫。中でも私は、あなたの幸せを……誰かと共に歩む穏やかな幸せを、願っているのです。ですから、姫。幸せになって下さい。どうか、幸せに――」
 心地良い響きを持つ彼の声音は、アイーシャの心の奥に沈殿していく。重さや息苦しさを感じるのは錯覚だ。すぐにそう悟り、アイーシャは口元をほころばせる。今の自分は、もう娘の頃の自分ではないと、心に思う。
 アイーシャは笑い飛ばすかのように言葉を発した。
「陛下は何か勘違いをされておられますな。私は今も幸せです。世界が平和で、民が健やかで、天空が輝いている。……これ以上の幸せがありましょうか。これ以上の望みがありましょうか」
 シャウスフェルトの眼差しが動く。アイーシャを捕らえる。二十年前の記憶と違わない優しい目であることが、彼女は何よりも嬉しい。
「……ええ。過日、姫と私は語り合いました」
「覚えていらっしゃいますな」
「私の理想、姫の理想、重なり合った、二つの理想……」
「天空と地上、二つの理想の国。その理想があり、万が一の場合でも私には剣という手段があり……私はすでにそれらと共に歩んでいます。だから、私は幸せなのですよ、いつまでも」
 語り合った時のことは、今でも鮮明に思い出せる。時が過ぎ、齢を重ね、自らを取りまくものの様相が変わっても。
 変わらないものがある。それが道標になる。
 シャウスフェルトの顔に笑みが浮かび上がる。とても温かで、包み込まれるかのような微笑みは、アイーシャに安心を与えてくれるものだ。
「姫。私も行きます。一緒に行かせて下さい。私も共に、歩かせて下さい」
 こくり、とアイーシャは頷いた。彼の碧い双眸を強く見返して。
「天空と共に、民を守るために」
「地上と共に、国を守るために」
「私は地より天を守り」
「私は天より地上を見守りましょう」
 二人は顔を見合わせたまま破顔した。アイーシャが腕を伸ばしシャウスフェルトに指し示すのは遠い場所。空の青と木の緑の境界線。
「ほら、陛下。ご覧なさい。天と地は、空で繋がっているのです。今でも、そして、これからも」
 かつて、遠くの地平線を指さしてシャウスフェルトはアイーシャに言った。
 ――姫。ここからは天と地の両方を見ることが出来ます。見下ろさずとも、見上げずとも、天と地の両方が眼の中にある。遠く離れた国であっても、二つは空で繋がっているのですね。空で、ずっとずっと、繋がっていられるのですね――。
 二十年前。別れの予兆が二人を襲った頃に、シャウスフェルトはそう言ったのだ。
「これからも、繋がっているのですね」
「ええ、これからも」
「これからも、ずっと」
「ええ、ずっと」
「私が王の座を退いても」
「私がただの女になっても」
「ずっと」
「ずっと」
 自然と二人の視線が絡まった。そうして、ほんのわずかな時が流れ。
 部屋の中からシャウスフェルトを呼ぶ声がした。近寄ってくる幾人もの足音。天空への帰還準備が整ったとの伝達にシャウスフェルトは爪先の向きを変える。真っ直ぐに歩いて行く。一度も振り返ることなく、特別な離別の言葉を口にすることもなく。
 アイーシャはそれをただ礼と共に見送る。彼の呼びかけを期待することはまるでなく。二十年前と同じように、彼の背を、見送る。


 外に出て見上げれば、そこにあるのはきらめき漂う光の残滓。
 未踏の天空の国は高く、遠く、手を伸ばしても届くことはない。
 それでも、自分たちは繋がっている。空で、心で、二人は繋がっているのだ。
 いつまでも、いつまでも。

inserted by FC2 system