A-08  両手を握りしめて叫んでいた

 電車はさほど混みあうでもなく、ゴトゴトと枕木を鳴らしながら走っていた。トンネルを抜けたところで窓を開ければ、吹き込む風に森の匂いが混じった。
「あのお花、なんていうの?」
 通路を挟んだ隣の席から舌足らずな声が聞こえてきた。さっきまで退屈そうにしていた女の子が、父親の膝にはい上がって窓の外を指さしている。
 思わずわたしも、少女の見つけた景色をのぞき込んでいた。流れる緑の合間に淡いピンクの花がぽつりぽつりと咲いている。
 ああ、あれはなんという花だったろうか。
 まだわたしが幼かったころ、父がよく山や川に連れて行ってくれた。目立たぬ草花や昆虫の名前までよく知っていて、あれこれと嬉しそうに教えてくれた父のことだ。きっと、あの花の名も教えてくれていたのだろうが。
 口ごもる父親の向かいから、あれは百日紅(サルスベリ)よ、と少女の母親がいった。花を背景に優しい笑顔。その手が添えられたお腹はわずかに膨らんでいて、新しい命を宿しているのだと知れた。
 小さな女の子は妙に真面目な顔でピンと背筋を伸ばし、サルスベリ、サルスベリと、口の中で花の名を繰りかえした。青い空に溶けこむようなあの小さな花を、その髪の毛も足の指も総動員して、体全身で記憶しようとしているかのように。ただ純粋に、花へと心を向けるその姿は、まるで少女が花そのものになっていくような、そんな錯覚を覚えるほどであった。
 少女はその花の名を忘れまい。
 朗らかに笑いあう家族の声を聞きながら、わたしはひとり目を伏せた。
 
 わたしが小さな荷物を片手に実家の門をくぐったとき、玄関まで出てきた母と姉は、思いがけず笑顔だった。
「のり子、仕事が忙しいのにごめんね。お父さんに会ってきてやって」
 母の遠慮がちなその言葉に、わたしは素直に従った。
 その部屋には障子越しにも明るい日射しが差し込んでいて、光はまるで海の底にあるように、線香の煙にゆらゆらと反射していた。
 わたしは息苦しさを覚えながらもひざまずき、父の顔を見た。何年ぶりだったろうか。そこには想像していたような悲壮さはなく。色とりどりの花に囲まれて静かに目をつむる父は、ただひたすらに穏やかであった。
 わたしは、ただいま、といったきり唇をかんだ。それ以上、かけるべき言葉がみつからなかった。
 空気はゆっくりと沈み込んでくるようであった。それが肩の上に、人の手のようにして重くのしかかってくる。
 首筋にふと気配を感じた。振り向けば父がそこにいるような気がした。だけどもわたしは、苦く唇を歪めて、振り払うようにして首を振った。
 父はいないのだ。もう、どこにも。
 いつも陽気に笑っていた父。わたしが真面目な顔をしてなにかを考えているようなときには決まって、おまえはバカだなあ、ほんとうにバカだなあといいながら、イタズラな笑みを見せたものだった。父がどういうつもりだったかは知らないが、あまりに繰りかえしてバカだといわれたものだから、なるほどわたしはバカなのかと、すっかり信じこんだくらいで。だけども家を出て世間に触れてみれば、父がいうほど自分はバカではないのだと気がついた。
 あれは五年前。就職をして四年が過ぎた頃だ。ハツカネズミのように働き、疲労と充足感の中で帰郷したわたしは、どんな話の流れであったのかは忘れたが、つまらぬ議論に熱中し、合理性がどうとか費用対効果がどうとかいいながら、鼻息荒く、父をいい負かしたものだった。
「だからおまえはバカだというんだ」
 その日ばかりは笑みもなく、深いため息とともに父はいった。
 社会でもまれながら、それなりに育っていた自尊心が、父の言葉を無学故だと非難した。小さな田舎から出ようともせず、花や木ばかりを相手に暮らしてきた父に、一体なにが分かるというのだろうか。
 急に父が小さく見えて、いつしか自分が父を抜いてしまっていたのだと気がついた。抜こうと思っていたわけではない。追いかけていたわけでも、張り合っていたわけでもない。ただ気がつけばそうなっていた。しかも、わたしばかりがそれに気がついていて、そうとも知らぬ父は、いつものように、またわたしをバカだというのだ。
 その時からだ。わたしは父の前に立って、気づかれぬようそっと父を見下ろすたびに、いいようもしれぬ寂しさを感じるようになっていた。そして、そう感じてしまう自分に冷え切った後ろめたさを覚えるのだ。
 それが悲しくて。
 だからわたしは、父を避けるようになった。
 
 父の骸が鉄の扉の向こうに消えたとき、母は肩を震わせ泣いていた。姉は夫の手を固く握り、唇を噛んでうつむいていた。
 悲しむ家族の姿を見て、ああ父は愛されていたんだと、どこか他人事のように思った。
 母も姉も、父を愛していた。では、わたしはどうだったのか。父を裁いてしまったわたしは、本当に、父を愛していたといえるのだろうか。
 そんな疑問を抱くこと自体が、そもそもどこかずれているのだと思った。すぐに忘れてしまおうとしたけども、それはノドの奥に刺さった小骨のように、いつまでもチクチクと痛んだ。
 立ちつくすわたしを気づかうように、母がそっとわたしの腕に手をそえてくれた。目が合えば、涙に腫れた目で気丈に微笑んでくれる。わたしは冷静だった。支えが必要なのは母のほうだと思えた。それでも、その手をほどくことも握り返すこともできず、わたしはただ、母の手の温もりを感じていた。
 
 人の気配のない家の中で、わたしは畳の上に、大の字になって寝そべっていた。
 愛する母と姉に看取られて、父は幸せだったのか。そんなことを考えていた。白い病室でふせる父を見つめる母と姉。それを見つめ返す父。そんな映像が浮かんでは消えた。だけどもその絵にわたしの姿はなく、どんなに都合よく想像してみても、そこにわたしの入り込む隙間はないように思えた。
 わたしは父を愛していたのだろうか。
 痛み続けていたその疑問を、そっと唇にのせてみた。静けさが足音を忍ばせる古い田舎の六畳間に、それは驚くほど大きく響いたようだった。わたしは慌てて起きあがると、膝を抱えて座り、じっと息を殺した。
 カナカナとセミが鳴き、風が吹いてチリンと風鈴が鳴った。
 見上げれば、窓の向こうに小さく切り取られた空が見えた。青い空。緑の山。その向こうから次々と湧いてくる白い雲。あの雲の上に、雷様がいると信じていたころがあった。夏の日にお腹を出して寝ていると、雷様がヘソをとりにくるのだという。父のそんな言葉に心から怯えた小さな自分。あのころのわたしなら、どんな迷いもためらいもなく、父を愛しているといえたはずであった。
 父は幸せに死んでいったのだと思う。だけれど、もしかすると、臨終の病室にわたしの姿がないことを悲しく思いながらではなかったろうか。そんな不安とも後悔ともしれぬ思いが、幾度となく胸を去来した。露骨に避け続けたわたしを、父はその最期のときに、どんなふうに思い起こしたのだろうか。
 生ぬるい風がわたしの胸を通り抜けていく気がした。わたしは穴だらけだった。なにも考えたくなくて、血が流れ落ちるように、胸の穴からなにもかもが流れ落ちればいいと思った。
「タクシーが来たわよ」
 母が敷居の向こうに立っていた。姉夫婦は朝のうちに福岡へと帰っていた。わたしも東京へと帰らなければならない。
「そばにいれなくてごめんね」
「お仕事忙しいんでしょう。気にしなくていいのよ」
 そういった母はいつものように微笑んではいたが、疲労の陰がその目元にはっきりと浮かび上がっていた。母を一人にすることに一抹の不安を覚えながら、父にもう一度線香を添えた。
 煙の向こうに小さな骨壺があった。そこに、父がいるとはとても思えなかったが。
「初七日にまたくるから。元気でね」
 母にそう約束し、わたしはタクシーに乗った。
 
 車の揺れに身を預けながら、今なら泣けるかもしれないと、不意にそんなことを思った。独りになったせいだろうか。父の死の匂う古い家を離れたせいだろうか。ほっと息をついたかと思うと、その拍子にわけもわからずに想いが込み上げてきて、鼻の奥がツンと熱くなったのだ。
 だけどもわたしは、なにに泣くのだろうか。
 死んでいった父に? とりのこされた母に? 姉に? それともわたしに?
 涙がひいていくのを感じた。そのまま泣こうと思えば泣けたかもしれない。だけども、泣こうとしなければ泣けないわたしに、泣く資格などないのだと思った。
「お客さん、東京でしょ?」
 タクシーの運転手がバックミラー越しにいった。
 話しかけられると思っていなかったわたしは、その声にビクリとして顔をあげた。生まれはここよ。父の葬式があったの。色々な言葉が頭をめぐったけども、言葉を交わすのがわずらわしくて、わたしは短く、そう、とだけ答えた。
「やっぱりねえ。いや、なんかあか抜けてるっていうか、ここらの人とはちがいますよ。雰囲気が」
 運転手は陽気にいった。その語尾がハハハと笑い声に変わる。
「学校の先生ですか? お仕事ですよ。そっち系のお仕事でしょ?」
 かまわないで欲しかった。父の骨を拾ってきたばかりなの。そういってやれば、少しは口を閉ざしてくれるだろうか。
「違いますか。でも、先生に見えるっていわれません? なんだかそんな雰囲気がするなあ。しかしいい天気ですね。暑すぎるくらいで。こんな日には海にでも行ってザブンと浸かりたいもんです。もうクラゲが出てますかね? そんなの気にしちゃいられませんよ」
 運転手はまたハハハと豪快に笑った。呼吸をするように笑う人だった。その悪気のない明るい声に毒気を抜かれて、気がつけばわたしも、小さく微笑んでいた。
「見てくださいよ。なんともいいもんじゃないですか。空の青といいかんじだなあ。ありゃ、なんて花なんですかねえ。よく目にする花なんですけどもねえ、さっぱりそういうのはダメでして」
「あの、枝の先に咲いてる小さな花でしょ? 百日紅よ」
「サルスベリ、サルスベリねえ。なるほど。いやあ、ずっときれいな花だなあって思っててね、名前を知りたかったんですよ。聞けばいいんでしょうけどね。なんだか恥ずかしいですし機会がなくって。しかしあれですね。女ん人が花の名前を知ってるってのは、いいもんですね。素敵っていうのか、なんだかほっとしますよ。いやあ、聞いてよかったなあ」
 そういって、やはりハハハと笑う。
 わたしは妙な気恥ずかしさに、身をもじもじとさせた。
「東京の女ん人は、みんなお客さんみたいなんですかねえ。いいもんだなあ。でもねえ、東京に住む気はしませんよ。甥っ子がいるんで何度かいったことがあるんですけどねえ。こっちには友だちもいますしねえ。あっちじゃだれもかれもが殺気立っていて、友だちも作れる気がしませんや」
「そうね。慣れたけど、わたしもこっちの生まれだから」
「お客さんが? いやあ、そんな風には見えなかったなあ。いつまでこっちにいらしたんですか?」
「高校を卒業するまで。大学も就職も向こう。もう十年以上になるわ」
「はあぁ、そりゃあたいしたもんだ」
 なにがたいしたものなのか、運転手は大げさにうなずいた。    
 
 プラットホームに他の乗客の姿はなく、わたしの影だけがポツリと長く伸びていた。わたしが乗り込むのと同時に、電車はゆっくりと駅を離れた。
 ふと、来るときに居合わせたあの家族のことを思いだし、同じ電車に乗ってはいないかと車内を見回してみた。だけども、ポツポツと散らばる黒い頭の中に、見知った顔はどこにもなかった。一人でボックス席に座り、窓の外を見つめた。やがて山の斜面に百日紅が見えて来るが、だれもが無関心だった。
 なぜだか強く孤独を感じた。 
 いつか別れがくることは、わたしにだって分かっていた。だけどもそれは、今ではなかった。父の死に、ちょうどよい時などないとしても、それはきっと、今ではなかったのだ。
 そんな身勝手な考えをもてあそびながら、やっぱり自分はバカなのだろうと思った。
 窓の外を見つめた。流れる空と百日紅。次第に父が遠くなっていった。
 遠くなる?
 わたしは、思い浮かんだそのイメージに愕然とした。
 気がつけば、わたしは次の駅で電車を飛び降りていた。タクシーを拾い、再び実家へと向かう。どうしてそんなことをするのか、自分でもまるで分からぬままに、なぜだか気ばかりが急いていた。明日の仕事が脳裏をかすめた。もう間に合わないかもしれない。
 こんなことをしてバカ?
 そう、バカ。
 だけども理屈ではなかった。大事な半身をどこかに忘れたきたような喪失感に、胸が張り裂けそうになっていた。
 にわかに空が暗くなり、巨大なフラッシュが夏の空を焼いた。雲の上で雷様が怒っているのだ。
 雷様を嫌っていたわたしは、空に向けて石を投げつけたことがあった。おもいっきり。何度放っても、その石は遥か手前で落ちてしまったけれど。そんなわたしを見ながら、父はバカだと笑った。
「雷様をやっつけるんだもん」
 頬を膨らませたわたし。
「雲の上には天使様もいるんだから気をつけなきゃね」
 そういって父はわたしを抱き上げてくれた。
「天使様?」
「神さまのお遣いだよ。死んで天国にいった人もそうなのかな?」 
 エレベーターが落ちる瞬間の浮遊感のように、不意にきゅっと胸を絞るような悲しみがこみ上げてきた。見上げれば空が泣き出しそうだ。
「停めて」
 こらえきれずに、わたしは坂の途中でタクシーを降りた。たちまちポタポタと落ちてきた雨が全身にはじける。怪訝な顔をした運転手は、背中をむけたわたしに、どこか遠慮がちに車を発進させた。
 雷雲の遥か向こうでは、夕焼けに赤く染まる雲が流れていた。雨が降っているのかいないのか。たちまちどしゃぶりになった夕立は、どこか現実味を失っていた。
 わたしは家へと続く坂道を歩いていた。気がつけば雨に混じって、涙が頬を伝っていた。
 雷が怖かった子どものころ。不意に響いた遠雷に、立ちすくんで泣いたことがあった。火がついたように泣き続けるわたしの手を、気がつけば父の大きな手が包んでくれていた。
 わたしは雨に叩きつけられながら、空に向かって泣いた。
「あの茶色の花をみてごらん。変なお花だろ? でもほら、こっちからみると花火みたいだ。あれはシシウドっていうんだよ。そしてほら、あっちのは、小さな枝にお花がたくさんついてるだろう? あれは百日紅。ピンクだけじゃなくてね、白いのや紫の花も咲くんだ……」
 父の言葉が思い浮かび、どこからともなく、暖かくて、柔らかくて、いい匂いがした。思えば父は、わたしにはとうてい数え切れないほどのたくさんの種を、黙々とまいてくれていた。凍えていたときには温めてくれた。渇いていたときには潤おしてくれた。いじけていたときも素直に、弱音を吐いたときにも強くなれるように、乱暴は嫌って、花でも鳥でも空でも川でも、わたしたち周りにあるものは何でも美しいのだって、そう教えてくれた。わたしは、ようやくそれがわかりかけてきた。空っぽだった心に、なにかが流れ込んでくるのを感じた。
 ありがとうをいいたかった。
 父の言葉が、記憶が、ほつれた毛糸のように、あとからあとからと湧き出てきた。だけどもどんなにそれを編み込んでも、父の姿にはほど遠い。
 父はどこにいるのだろうか。
 わたしは泣きながら、雨だか涙だか鼻水だか、わからないくらいにくしゃくしゃになって歩いた。歩きながら、どしゃぶりの雨にはり倒されそうになって、それでもわたしは口を大きく開けて、投げつけるようにして叫んでいた。わたしの泣く声を聞いたなら、父はまたひょっこりと現れてくれるのだ。すべては悪い夢で、きっとどこに隠れていた父が飛びだしてきて、「わあっ!」とおどかしてくれるのだ。
「お父さん――。
 お父さん――」
 呼ぶ声は、大地を打つ雨音にむなしくかき消された。何度呼んでも父は現れなかった。父が静かに笑う、あの遺影が憎かった。父はまだ知らないのだ。わたしの中で父の種が芽吹いたということを。わたしが、こんなにも父を愛しているということを。
「お父さん――。
 お父さん――」
 わたしは泣きながら叫んでいた。 
 父はいない。
 父はいない。
 その想いに打ちのめされそうになりながらも、立ち止まり、大きく息をすった。
 父の面影は未だ見えなかったけれども。
 山にも、川にも、花にも、虫にも、雨にも、そのすべてに、届かぬ石を投げつけるように。
 空に。
 空に。
 空へと。
 ただひたすら全身を叫び声にして。
 わたしは両手を強く握りしめ、絞りだすようにして叫んでいた。
「お父さん――。
 お父さん――。
 お父さん――」

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