A-11  青空飛行

 学校から帰ってきて、いつものように窓を開ける。二階にある私の部屋は西日のせいで夕方にはかなりの暑さになるが、このごろの私は暑い日はもちろん、涼しい日にも必ず窓を開けて空を眺めることにしていた。
 黄昏にはまだ遠い空には雲一つない。気付けば、真夏の鮮やかすぎる群青よりもずいぶんと穏やかなベビーブルー。青空にはあまりいい思い出がないが、きれいなものはやはりきれいだ。未だ熱気の籠もる部屋に流れ込む初秋の匂いを感じながら、私は身を乗り出して天を仰ぐ。
 見上げた空に、誰かがいた。
 正確に表現するならば、誰かの足が視界に入った、だ。
 履き潰されたスニーカーの下にはもちろん地面などない。その足下から恐る恐る視線を上げていくと制服を着た少年だと分かった。しかも、うちの高校の。
 男子高校生が私の家の空を飛んでいる。
 実際それ以外の解釈はできなかったが、無理矢理にそう結論づけると私の脳はようやく活動を再開し始めた。眼前の少年の顔は見覚えがあるなんてレベルではない。目を白黒させている私をちょっとだけ困った風に眺めている、それは同級生の”あらやん”こと新屋リョウだった。
「……何で?」
 すっかり動揺してしまった私は、とりあえず思ったままの言葉を口に出してみた。一方の新屋は、普段通り爽やかに笑うと「ちわっす」と右手を挙げてみせる。
「あ、えっと、ちわっす」
 思わずオウム返しに言ってしまったものの、どうにも非常識だ。この局面でごく普通に体育会系の挨拶をするなんて非常識にもほどがある。そればかりか彼はすっかり硬直していた私のいる窓にふわりと近づいてくると、しっかりとこちらを見据える。そして、はにかみながら言ったのだ。
「やっと気付いてもらえたな。……俺さ、土崎さんが好きなんだ」


「あらやん、ちょっといい?」
 放課後、新屋は教室の机に腰掛けていつものように同級生たちとだべっていた。何食わぬ顔で声を掛けると二つ返事で輪の中心から抜け出して来る。新屋がいなくなったのをきっかけにしたのか、彼の友人たちは三々五々、教室を後にしていった。
 都合良く二人きりになったところで新屋は首をかしげる。
「何かな?」
 あまりにまっとうすぎる返答に、私は昨日のことが全て自分の見た夢じゃないかと思い直すところだった。しかし、その新屋の微笑みが昨日と同じだったことで記憶違いではないのだと確信する。普段通りを装っている彼も、どこか浮き足立ったような雰囲気は消し切れていない。
「何って、昨日のこと」
 新屋はみるみるうちに赤面すると顎を引き、恥ずかしそうに頭を掻いた。つい先日まで野球部のエースだった彼の髪は、まだ短いままだ。
「ああ。……そんで、その、返事は?」
 言いながら、彼はやや上目使いで身を乗り出す。
 かつてないほど間近に新屋の顔があって、私はその距離に思わず息を飲んだ。そして今さらながら、彼とはじっくりと話したことがなかったと気付く。
 この夏、新屋は県内随一の右腕として大会前から周囲の注目を集めており、下馬評でも投手力で抜きんでているうちの高校が甲子園に一番近いと言われ続けてきた。
 案の定というべきか、”明るく話好きな新屋リョウ”だった彼は、大会が始まるやいなや”野球部の快進撃の原動力”、そして我が校が誇る”県下では知らぬ者がないスタープレイヤー、新屋投手”へとその姿を変えていった。そうした中で、新屋の名前だけは野球応援でさんざん叫んだのに、呼べば呼ぶほど彼は遠い存在になっていった。まるで観客席からフェンスをはさんで”新屋投手”を見ている、そんな感覚は彼が野球をしていない現在までも続いていた。
 それでも私は、人並み以上には新屋に詳しいつもりだった。放課後遅くに度々見かけていたから、彼が日々誰よりも長く練習をしていたことも、それにも関わらず進学のための勉強も頑張っていることも知っている。それに、マウンド上では誰よりも大きく見えていたのに、身長は私とそう変わらないなんてことも。しかし、新屋の心の中はどうだろう。
 どうして私なのか。そして新屋はなぜ空を飛んでいたのか。疑問を投げかけたら、彼はいい球を投げ返してくれるだろうか。
 沈黙の中、おあずけを食った犬のように前傾姿勢で待ち続ける新屋を押しとどめ、私は深呼吸を一つすると尋ねる。
「あのね。……聞きたいことがたくさんあるんだけど、いいかな」
「ものすごく好きです」
「そこじゃなくて。……それもなんだけど」
 彼はマウンドを下りても直球勝負の人であるらしい。何だか出鼻をくじかれたような気になって再び黙り込んだ私に、新屋はやがて神妙な顔でぼそりと呟く。
「土崎さん、俺のこと怖がったりはしないんだね。昨日見ての通りだけど、飛んでただろ?」
 今度はお叱りを待つ子供のように怯えた瞳でうつむく。ことあるごとにイメージを変えてきた彼の姿は怖いどころか、昨日からは”明るく話好きな新屋リョウ”だったころに重なりつつある。空に浮いている以外は全く自然に、照れくさそうに私に話しかけてくれた彼も含めて。
「怖くないよ。あらやんはあらやんだし。いろいろびっくりはしたけどね」
「それ聞いてすげえ安心した」
 嫌われたらどうしようかと思ってさと、ほっとしたように笑む彼の表情はとても優しい。
「土崎さん、今すぐあの人のもとへ飛んでいきたいって思ったこと、ない? ……どういう原理かはさっぱりわかんねえけど、俺はそう思うとほんとに飛べんだ。親父もじいちゃんもそうだったらしいから、家系なんだな」
 そんな遺伝子なんて聞いたこともないが、当事者の彼が言うのならその通りなのだろう。宙に舞う新屋を実際目撃したこともあるが、私には普通なら疑問に思うだろうその辺りの事実もすんなり受け入れられてしまう。
 それに、私にとっての問題はすでに別の点に移りつつあったのだ。
「でも、どうして私なの?」
 そう。いったい何がきっかけで、いつから私のことを。何よりも気になるのは、そこだった。
 私はこの夏、新屋が試合に向かう姿からさまざまなものをもらったが、自分が彼のために何かできたのかと訊かれれば自信がない。私と目が合って、仕切り直すようにわざとらしく咳払いをすると新屋は続ける。
「俺、しばらく空を見上げられなかったんだ。最後の打球の行方を確かめられなかった、あれからずっと青空が怖くてさ」
 淡々と言うが、私の方は思い返すだけで目の奥に熱が込み上げる。
 あの日、あと一球で甲子園行きの切符を手に入れられたはずの新屋は、サヨナラホームランに涙を呑んだ。
 観客席にいた私は打たれた瞬間の新屋の表情を知らない。彼の瞳は開いていたのか閉じていたのか、それすら分からない。
 彼は投球を終えたままの姿勢でマウンド上に立ちつくし、浅葱色の空に吸い込まれていくボールなど見向きもしなかった。そして逆転のランナーが生還するのを見届けるとその場に崩れ落ち、地面に額を擦りつけて号泣し始めたのだ。結局、自分一人では立つこともできなくなっていた新屋はチームメイトたちに支えられるようにしてグラウンドを去ったが、私の目に映るその背中はそれでも堂々として広く、忘れがたい記憶として焼き付いている。
 じわりじわりと、私の視界はかすみ、歪んでいく。新屋もさぞ辛そうな顔をしているだろうと盗み見ると、滲む景色の中には意外にも笑顔があった。ああ、笑えるようになったんだと胸をなで下ろすと同時に、自分の涙目が恥ずかしくなる。
「そっから復活できたの、土崎さんのおかげなんだよね」
 泣き笑いの妙な表情を持て余した私が大きなまばたきを繰り返していると、新屋はにこにこしたまま口を開いた。
「最近は、あの時飛べてたらホームラン捕れてたかなって冗談も考えられるようになったけど、球場で泣きまくってたときはほんと辛かった。それがさ、チームの誰よりも早く、なぜか土崎さんが声掛けてくれたような気がしたんだ。”私は知ってるよ”って、かすかにだけど。……そしたら無理して突っ張ってた体から力が抜けて、ますます泣けてきてさ。でも、すごく楽になった」
 思いがけない話に涙はすうっと引いて、新屋の顔がしっかりと捉えられるようになる。私を真っ正面から見つめる新屋。本題に切り込み、彼のまとっていた柔らかな雰囲気はいつの間にか熱っぽくひたむきなものに変わっていた。
「それから土崎さんが気になって気になって、学校帰りに思い切って家に行ってみたんだ。そしたら窓から顔出してんのを見つけたわけ」
「うん」
「自分じゃ気付いてないでしょ。夏の青空独り占めって感じで、ほんと気持ちよさそうな顔してんだ。……俺、それがすごく好きになって」
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
 唐突に誉められて、思わず礼を返す。新屋が照れもせず頷くので、こちらはますます恥ずかしい。
「そんなの毎日見せられたら、同じ空を覗いてみたいなって気になるだろ? で、ちょっとずつだけど上を向けるようになったんだ。さらに欲が出てきて、今度は土崎さんの部屋の窓から空を見てみたいって考えたら、体が浮いてた。せっかくだからあの辺りの空うろついてみたけど、気付いてくれるまで結構長かったな。……うん。以上、まとまってないけどこれで告白終わり」
 一段落すると、新屋は口元を結んで押し黙る。話すことは全て吐き出したからあとは私の返事を待つだけ、そんな態勢に切り替わっているようだ。
 私は、新屋に何と答えられるのだろう。
 最後の試合からもう一月以上も経つ。
 昨日、彼は”やっと気付いてくれた”と言った。それなのに私は、勝手にフェンスを張り巡らせて空と思い出ばかりを眺め、すぐ側まで歩み寄ってくれた新屋リョウを見ようとしなかった。
 すでに、彼に向けて飛ばす返事は決まっている。ただ、どう打ち明けたらいいのかが分からない。
 彼はきっと、私がこれから何を話すのか見当もついていないだろう。新屋がちゃんと理解できるように、私はゆっくりと間を取ることに注意を傾けながら話し出す。
「私の”飛んでいきたかった”話、してもいい?」
「ん?」
 自分のせりふを引用されて、彼は首をひねりながらもやはり笑顔、落ち着いた様子で私を待っていた。そのおかげか、私も今度は笑って新屋を見返すことができた。
「決勝戦、打たれたあらやんがうずくまってるの見て、気付いたらマウンドの方に叫んでたよ。声嗄れちゃってて、届くわけないって分かってたのに。やっぱ全然だめで、それでもどうにかして今すぐに声を掛けてあげたいって思ったんだ。あらやんみたいな力があればきっと飛んで行けたくらいに必死に、そればっか考えてたの」
 その日私は、彼の背中が大きく見える理由に気付いた。人目も憚らず泣き続ける新屋の姿を目の当たりにし、彼の慟哭が聞こえるような気がして一緒に泣いた。
 しかし、彼の背に向けて伸ばした手は、当然ながらフェンスに遮られて止まった。名を叫んだが、連日の応援ですっかり潰れてしまった喉からは、しわがれた弱々しい声しか出なかった。そんな状況でなおも心に溢れ出してくる言霊の行き先は、新屋以外にはなかった。
『ほんの一かけらに過ぎないかもしれないけど、私はあらやんがどれほど懸命だったか見てた。頑張ってたよね。私は知ってるよ。……涙が底をついたらでいいから、顔を上げてね』
 だから、フェンスに額を押しつけて新屋の背中を見つめながら、ずっと心の中で繰り返していた。
「怖がらないで聞いててね。……私、空は飛べないけど、言葉を”飛ばす”力があるの。あらやん家みたいに、うちも代々そういう力を継いでる。だからあらやんがあの日聞いたの、あれは気のせいじゃなくて本当に私の声だったんだ」
 力を意識して使ったのは新屋のラストゲームが初めてで、以来、上手く飛んだかだけを気にしながら、毎日のように窓を開けては彼のことを考えていた。しかし、彼にはちゃんと伝わっていたのだ。
『私のいちばんの人にだけ、届くんだよ』
 最後の一言は口には出さず、新屋に向けて飛ばす。
 彼は肩でも叩かれたかのようにはっとすると、何か言いたげに口を動かした。驚かれるのは承知の上。先に自らの力を晒した彼の不安を考えれば怖いことなどない。
「ということで、どうぞよろしくお願いします」
 そう締めて新屋を覗き込むと、一転、まさに喜色満面といった顔が私を待っていた。
「今、確かに飛んできた!」
 はしゃいだ声を上げてガッツポーズを取る新屋の姿は、試合に勝つたびに何度となく見ていたのと全く同じだった。遠くから眺めていたその様子が、今はなんて近くにあるのだろう。幸せを表すありったけの言の葉をかき集めて飛ばしたって、私の気持ちには追いつかない。
 そこでしばらく溜めが入ったと思うと、緩む新屋の口元からはぎょっとするような台詞がこぼれ出す。
「……やべ、俺、浮かびそう」
「だめ、待って!」
 誰が見ているか分からない教室で何を言い出すのか。
 押さえようととっさに伸ばした私の腕は、狙い澄ましたかのごとく新屋の手で受け止められていた。今日は遮るものなど何もなく、直に彼に触れる。その手はボールの握りだこのせいかやけにごつごつしていて、身長に見合わないほど大きく、そして温かかった。
 謀ったでしょと目を吊り上げる振りをした私に、新屋はそ知らぬ顔でさあねえとおどける。
「大丈夫、飛ぶ必要なくなったから。土崎さんの隣で手を握ってる間は、地面に立ってられる」
 ふと窓の外に目をやると、彼はそう言って、重ねた手に力を入れる。
 空を見上げるとき、これからは新屋がいてくれる。
 きっと、私のこの力ももう使うことはないのだろう。届けたい思いがあるときは、自分の声で直接伝えることができるのだから。

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