B-04  空にいちばん近い場所

『ねえ、行こう』
 彼はいつも、そうやって私を誘った。
 私の手を取って、いつも同じ場所――屋上へと。
 彼は、そこをこう呼んでいた。

『空にいちばん近い場所だよ』

 そうやって私たちは、いつも空を見上げていた。
 風に翻る白い洗濯物たちの波の隙間をぬって、寝転がってはコンクリートの床のひんやりした冷たさを背中に感じながら。
 一日の大半を屋上で過ごした。
 朝の空、昼の空、夕方の空、夜の空、晴れの日の空、曇りの日の空、雨の日の空、雪の日の空、春の空、夏の空、秋の空、冬の空……来る日も来る日も、屋上で、あるときは庭で、またあるときはガラス越しに、さまざまに変わる空を見上げて過ごした。
 私たちの、それが唯だ一つの楽しみだったから。
『手を伸ばせば触れられそうなのに……届かないね』
『うん、届かないね』
 近くて遠い空は、私たちの憧れだった。

『君も空においで。僕が先に行って待ってるから』

 そして彼は鳥になった。
『もし鳥になれたら、いつも空と一緒に生きていけるのにな……』
 いつしか彼は、そんなことを呟くようになっていた。
 憧れてやまない空へと手を伸ばし続けることに飽いてきていたのだろうか。
 彼の気持ちは、私には分からない。
 でも、彼は間違いなく鳥になったのだ。
 私の目の前で。

『これからも、いつもここで見ていてね。僕が迎えにきてあげるから、それまで待ってて』

 屋上を囲う高いフェンスの上まで上って、彼はにっこりと微笑み、私を見下ろした。
 私はフェンスの網目に両手をかけながら身体を支え、ただ首を精一杯のけぞらせ、垂直に上へと向けるしか出来なかった。
 上へ上へと上っていき……そうやって次第に空へと近付いていく彼の姿を、この両目に焼き付けておくことが私の役目だと思ったから。
 彼を信じていた。
 無条件に、私は彼だけを信じていた。
 だから、止めようなんて思えなかった。
 私にとって、彼のすることに何の意味も無いことなんてなかったから。
 彼のすることは、必ず素敵なことであるはずだから。
 彼は、きっと鳥になる。鳥になれる。
 そうしていつか、空をその手に抱きしめることができるだろう。
 私に微笑みを残し、そのまま彼は空を仰いだ。
 そして両手を離すとフェンスの上で立ち上がった。
 同時に彼の身体が前に傾く。

 ふわり、と空が彼の身体を包み込んだ――ように、私には見えた。

 そのとき、確かに彼は鳥になったのだ。

『人間は死んだら焼かれて灰になっちゃうんだ。…僕、そんなのイヤだな』

 彼は重い病気を患っていた。
 死ぬまで治らない病気だったのだと、看護婦さんが呟いていた。
 かわいそうにね、かわいそうにね、もう辛いのに我慢ができなくなっちゃったのね。
 ――かわいそう?
 彼は自分の病気を知っていた。
 だから自分で死に方を選ぼうとしたのだ。
 焼かれて灰になる前に、鳥になって空に抱かれる幸せを感じたかったに違いない。
 だから彼は『かわいそう』なんかじゃない。
 だって彼は嬉しそうだった。
 すごく嬉しそうに空を見上げてたんだもの。
 その口許は、笑っていた。
 広げた彼の両手に翼が見えた。

 ――ああ……あなたがいつか私を空へ連れていってくれるのね……!

 だから私は待っている。
 あれからずっと、同じように空を見上げて。
 あなたが迎えに来てくれるのを待ちわびている。

『約束だよ。君は、僕が迎えに来るまで、ずっとここに居なきゃだめだからね』

 そしてこれからも、同じように私は空を見上げ続けていくだろう。
 弱りゆく身体が、いつしか屋上への階段を上ることが出来なくなったとしても。扉を開くことすら出来なくなったとしても。歩くことも、動くことさえ出来なくなったとしても。
 それでも私は空を見上げ続けるだろう。

 待ち続けて何年も経ってしまった現在も、なお。
 私は彼の言葉だけを信じて、まだ一人、ここで生き続けている。

「…約束、だものね」

 この空にいちばん近い場所で。ずっと、ずっと――。

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