B-05  空の色

 降り立った場所は日の光で暖められていて心地よかった。ニエバは壁を見上げた。
 古い木造の建物。どことなく埃っぽくはあったが、そうひどく汚れてはおらず、ここが護る者のいない教会だとは思えなかった。様々な色のついた硝子窓ごしに入る昼の光が天井の高い室内を彩っている。赤、黄、青……様々な色が天使を描いている。集まった光が床に落ちて、まるで宝石箱をひっくり返したような陽だまりだった。
 ニエバはそれを見て鼻で笑うと、腰まである金色の髪に日光を反射させながら、今度は周辺を見回した。
 ニエバの薄青色の目に映るのは規則正しく並べられた長椅子の群れ。一方には小さな説教台が置かれていた。以前はここで牧師による説教が行われたのだろう。
 裸足で床を踏みしめると木の感触が心地よかった。白い長衣のポケットの中で重さを持っている小さな黒い革張りの表紙の本と金色の懐中時計を取り出して、ニエバは一ページ目をめくった。一行だけ、真っ黒なインクではっきりと文字が書かれている。日付と時間と名前と場所。それを改めて読もうとした瞬間、不意に重い鍵を開ける音の後、室内の光量が軋む扉の音と共に増した。
 ニエバはそちらを振り返った。逆光になった扉の向こうからは息を呑む気配が伝わってきた。
「……ねえあなた」
 そんな筈はない。
 まだ慣れない視界に目を細め、ニエバは手で影を作った。辛うじて判別できたシルエットは線の細い少女だった。
 まさかこの人間が。
「天使?」

「ごめんなさい、背中の辺りが光って羽みたいに見えたの。それに私、天使って金髪だと思ってたから。お迎えが来たのかと思っちゃった」
 そう言って、栗色の長い髪を細い二つのおさげにした、十六だというには幾分小柄なエレン・カエルムはごほん、と咳をしてから長椅子の一つに座って笑った。聖堂の扉は空気を入れ替えるそうで開け放たれている。長椅子を並べて作られた中央の通路を挟んで腰掛け、ニエバは「ふうん」とあまり興味がなさそうな様子で、しかしエレンをちらと見ながら、相手が話すのに任せた。
「ほら、あの色硝子の窓。天使が金髪でしょ」
 エレンが指差した硝子窓は、時間経過と共に高くなってきた日で、先ほどよりも明るく光っていた。確かに、そこに造られた光を背にした天使は金髪だった。
「もう十年くらい、牧師様がこの教会にはいないの。うちの村は本当に小さいから。でも」
 一度そこで言葉を切って、エレンはニエバのほうを向き、そばかすのある顔で薄らと微笑んだ。
「私、ここが好きだから。一人だとなかなか追いつかないけど――掃除とか、してるの」
 これで合点がいった。護る者がいない教会は、エレンが手入れをしているのだ。ニエバは黙って頷いた。
「ねえあなた、うちの……マーロの村の子じゃないわよね。小さい村だから分かるわ。どこから来たの? 名前は? 年は?」
「ニエバ。遠いところから来た。年は……わからない」
 ポケットに時計を戻し、小さな革表紙の本を握り締め、ニエバはエレンのそばかすを見た。一瞬だけ目が合ったが、すぐに逸らした。
「ニエバ……不思議な響きね。年はきっと私よりは下ね」
 エレンは年齢を身長から計算しているらしかった。確かに、事実としてエレンのほうが頭一つ分ほどニエバより高い。
「それで、どうしてここに来たの?」
「仕事」
 洗いざらした白い綿のブラウスに、少し色が落ちた赤いロングスカート。伸ばした髪を編んではいたが、まだ編まれるには長さが足りていない余った髪が、耳の上でくるりと外側に跳ねている。
「まぁ。まだ小さいのに立派なのねぇ」
「……小さいって言うな!」
 エレンの言葉を遮って、ついにニエバは語気荒く顔を上げた。勢いで波うつ金髪が撥ね、顔がやや紅潮する。
 そこではじめて二人の視線が合った。真直ぐ、確かに。
 エレンの目は髪よりもやや暗い色で、透き通っていた。しっかりとニエバの薄青色の瞳を捉えている。
 くくく、とひどくおかしそうにエレンは笑って、「ごめんなさい」と謝った。
「仕事をしてるなら小さいも大きいもないわね。失礼だったわ。どんな仕事をしてるの?」
「……人間を案内する」
 ニエバは手に持った本を抱え込んだ。ついさっきまで合わせていた視線は外し、教会の床に映し出された光に落としていた。
「ここに誰かを案内してきたの? それともこれから?」
「……これから」
 開け放たれたままの扉から柔らかな風が吹き込んできた。二人の髪が揺れる。
「忙しいのに引き止めちゃったわね」
 申し訳なさそうに、エレンは頬に手を当てて首をかしげた。
「……いや。案内の時刻は夕方だ、構わない」
「そう? 村は少し行った所にあるけど、見たでしょう? この辺で見るものなんてこの教会くらいしかないの。よかったら見て行って」
 ああ、と頷いたニエバにエレンは嬉しそうに笑った。
「羨ましいわ、しっかり自分の仕事を持ってるなんて。私、あんまり体が丈夫じゃないからお手伝い程度がせいぜいなの。同じ年の子たちはみんなもう働いたり、頭のいい子は上の学校に行って勉強したりしてるけど」
 と、笑いながらも俯き加減に目を閉じた。
 ニエバは窓の外で風に揺れる木へ視線を向けた。黄色がかかった柔らかな緑だった。
「エレンが……ここを綺麗に保つのも仕事だろう? ここは牧師とやらもいないのに気が淀んでいない」
 ニエバは少し考えた後にそう言った。正確に言えば、それしか分からなかったし思いつかなかった。しかしその言葉にエレンは目を開け、
「ありがとう。もちろん、私以外にもここに来てお掃除をする人はいるけど、そう言ってもらえると嬉しい」
「そっか、これ、私の仕事かあ」とエレンは嬉しそうににっこり笑った。
 その笑顔のまま息を吸い込んだ拍子に、エレンは急に咳き込んだ。身をかがめてごほごほと、呼吸もままならないようで、苦しさが伝わるような咳き込み方だった。
 突然のことに慌ててニエバは本を放り出して立ち上がり、エレンの背中を撫でた。暫くの後、エレンは顔を上げて、まるで暴れようとする何かを押さえつけるように、胸に手を当てた。呼吸が荒い。
「ごめんなさい、ありがと……。まだ今日は空気の入れ替えをちゃんとしてないからかな。いつものことだから気にしないで」
「……そうなのか。なら今から今日の仕事をすればいい。――その……手伝うから」
「でも、仕事があるんで、しょ?」
 呼吸を整えて立ち上がろうとするエレンの肩を抑えてまた座らせながら、ニエバはエレンの顔から視線を逸らした。
「夕方だ。まだ時間があるし――ここを離れたくない」
「夜に出発? それとも待ち合わせ? ニエバって仕事熱心なのね、まだ昼すぎよ。この村は見るところも特にないのに」
「だから手伝う」
 憮然と言い放ったニエバに一瞬、不思議な顔をし、それから花が綻ぶようにエレンは笑った。こほ、と小さな咳と共に。

 まだ少し息の荒いエレンはそのまま座らせて――そう納得させるのにまたニエバは苦労した――聖堂の窓を全て開けた。
 木の床を素足で歩くぺたぺたという音と共に、風が吹き込みはじめる。歩くたびにニエバの豊かな髪がふわりふわりと上下して、光を反射した。白い長衣の裾が揺れる。エレンは口元を緩めながら、椅子にもたれてそれを眺めた。
「ニエバ。あなた、靴は?」
 ふとエレンが顔を上げる。ニエバは動きを止めて、視線を宙に泳がせた。
「……靴は嫌いだ。必要があれば履く」
 その答えにエレンは堪えきれない、とでもいった様に吹き出した。
「ッ、何が――」
「何がそんなにおかしいんだ?」
 ニエバの声に被さるように、不意に聖堂の入り口から声がした。振り返ると、エレンと同じか、少し年上ほどの年齢の少年が白っぽい布のようなものを持って立っていた。少し伸び気味の赤毛が所々はねて、それが活発な印象を与える。
「レスト。どうしたの?」
 エレンが立ち上がる。ほぼ同時にレストもエレンに近づく。
「風が出てきたからって、おばさんから預かってきた」
 ほらよ、とレストが差し出したのはエレンの上着だった。エレンはそれを受け取り、「ありがと」と礼を返した。そういえば、今日はとても天気がよかったから上着を持って出なかった。
「それからこれ、やる。そこに咲いてた」
 レストは革のベストの胸ポケットに刺していた花をするりと抜き取り、エレンが抱えた服の上に放った。
「え? あ、ありがと! まだ咲いてるのね、この花」
 黄色がかかった白い、小さな花だった。本来は夏の終わりに咲く花で、今の時期は殆ど見かけることはなかった。エレンの顔が綻ぶ。
 不意にエレンは顔を上げて辺りを見回した。
「ニエバ、どこ? レストを紹介するわ。――ニエバ?」
 返事はなかった。聖堂を見渡す限り、エレンとレストの視界には誰も入らなかった。
「誰だって?」
「あのね、私たちより年下なんだけど、人を案内するお仕事で来たんだって、ニエバっていう男の子なの。仕事は夕方からだから、ここの掃除を手伝ってくれるって」
 エレンは上着を長椅子の上に置き、床に屈み込んで、椅子の下から辺りを見渡した。もしかしたら椅子の隙間に隠れているかもしれない。「ニエバ?」
「馬鹿。冷えるだろ。また咳が出るぞ」
 レストは慌てたようにエレンを立たせ、スカートの埃を払った。
「でも」ここを離れたくないって言ったし、折角なのに、とまだ辺りを見回すエレンに、レストは自分の頭をぐしゃっとかき回した。
「俺達より年下って……子どもだろ? ここらは見るもんもないし、飽きたんじゃないのか? 外にいるかもしれない。見かけたらここに戻るように言ってやるから、大人しくしてろよ」
 これから馬の世話に行く、というレストをそれ以上は引き止めておけず、エレンはニエバの「天使みたい」な特徴をレストに説明した。レストは何度も「早めに帰れよ」と念を押し、教会を去っていった。
「もう……」ため息をついてエレンがもう一度辺りを見ると、ニエバの黒い革表紙の本がぽつりと長椅子の上に置き去りにされているのが目に入った。
「大切なものでしょうに……」
 ニエバはずっとこの本を持っていた。少なくとも見えないところには置かなかった。それになぜか落ち着かなさを感じ、エレンはそっと本を手に取った。まだ真新しい。しかし既に開き癖がついてしまっているのか、自然に一枚目が開いた。
 そこに端正な文字で書かれていたのはたった一行。今日の日付と少し先の時間、それから今いるこの場所とエレン・カエルム。自分の名前だった。
「エレン」
 不意にかけられた声に、エレンは怯えたように肩を震わせた。声の方、説教台が置かれた方を見ると、そこには何事もなかったようにニエバが立っていた。
「あ……ニエバ。どこに行ってたの? 今、友達がきたから紹介しようと思ったのに、いないんだもの」
「ああ、すまない」
「あのね、ニエバ」
「――それを見たのか」
 鋭くなったニエバの目つきにエレンは一瞬びくりとし、ぎこちなく視線を落として、言い訳できないほどにしっかりと開いている黒い表紙の本を閉じた。
「ご、ごめんなさい。あの」
「王国暦七九八年十月一日午後四時三十六分。エレン・カエルム。女性。ケルクパルテ国東南地方、マーロ村の教会堂」
 全く淀みなく、ニエバはその本に書かれていた一行を暗唱した。眉を顰め、エレンから視線を逸らし、床に映った飾り窓の色へと移す。
「エレン。俺は天使じゃない」
 数時間前、出会ったときよりも傾いた日の光の中で、ニエバの空色の瞳が曇った。
「死神だよ。君を連れに来た。――信じるか?」
 全て間違ってはいなかった。人を案内する仕事。案内するのは夕方、この場所。だからなるべくここを離れたくない。
「俺は嘘はついていないが」
「嘘? 信じる? 私、死ぬの?」
 エレンはすとんと長椅子に腰を下ろした。視線が定まらない。少し喉が痛んだような気がしたが、渇いていただけかもしれなかった。
「本当なら、神様って……いるのね」
 震える声でそう言い、エレンはぼんやりと辺りを見回した。景色はただその目に映るだけで、見えてはいない。ニエバは説教台から降り、エレンと同じ高さに立った。
「エレンが信じてる神様とは違うかもしれない。本当は神ではないかもしれない。俺達はいわば使いだ――でも」
 そこで言葉を切って、ニエバはエレンのすぐ横で小さな拳を握り締めた。
「人間はみんないつか死ぬんだ。早いか遅いか、どんな風に死ぬか。違いなんてそれだけしかない」
 ぐるぐると混乱したように動いていたエレンの視線が一度落ちて、ニエバに向けられた。
 ニエバも真直ぐエレンの目を見た。明るい茶色の瞳は潤んで、琥珀のようだった。
「本来俺達は姿を見せるべきじゃない。ましてや接触するなんてあり得ない。でも」
 すん、と微かにエレンが鼻を鳴らした。
「なぜか、死ぬことが決まっている人間にだけ俺達の姿は見えるんだ。他の、まだ死なない人間には見えない」
 だから先ほどレストが来た時には隠れたのだ、とニエバは言った。
 開け放たれた窓、鳥の声と遠くから子ども達が遊ぶ声が聞こえてくる。ふと、あとどのくらい自分の時間はあるのだろうか、とエレンは気になった。
「はじめは下見のつもりだったんだ。あの時間、ここに来たのは」
「私が偶然、来ちゃったのね。そういうこともあるのね」
「この本は完全じゃない。例え死ぬことが決まっていたとしても、人間の運命は最後まで分からない――そういうことだ」
 ニエバはようやく拳を解いて、ゆるゆると息を吐いた。
「例えば?」
「――他の死神に聞いた話なら。死に場所が変わることがある。死ぬはずだった人間が生き残って、死ぬはずでなかった人間が死んだこともある」
「……他にも死神さんっているの?」
「天使は一人じゃないだろう」
 ああそっか、とエレンの肩から力が抜けた。二人の緊張が見る間に緩んでいく。と同時にエレンの呼吸が少しだけ早くなった。
「ニエバはそういう経験、ないの?」
「……正直に言うなら」ニエバは眉を顰めた。
「その本は一行しか書かれてないだろう。だから全部、エレンが初めてだ。案内の仕事も」
 そっぽを向いたニエバを、エレンは呼吸を乱しているのか笑っているのか、どちらともつかない様子で見た。「なぁんだ」
「上着を着ろ。少しは違うだろう」そうして上着を羽織ったが、エレンの呼吸はまた荒くなった。手の中で花だけが冷たい。
「エレンという時間が終わっても、案内が終わるまでは傍にいる」ニエバは言った。
「……天使様みたい」エレンの呟きに困惑の表情を浮かべ、結局ニエバは黙り込んだ。
 会話が途切れ、辺りにはエレンの精一杯の呼吸の音だけが風の音や鳥の声に混じって響いた。
「……エレン?」
 それを乱したのはニエバではなくレストだった。すぐに異常に気づいたのか、扉をくぐりエレンに駆け寄る。
「大丈夫か? 馬鹿……!」
 顔色の変わり始めたエレンを覗き込んで尋ねる。しかしエレンは首を横に振った。
「家へ」戻ろう、と言いかけたレストに、エレンは頑なに「説教台の前へ連れてって」と切れ切れに言った。
 傾き、赤い火が点き始める寸前の日が、昼とは違う角度で硝子の色を床に映していた。
「このわがまま娘」レストに抱えられ、エレンは説教台の前に移動した。そこは様々な色の混じり合った、しかし昼の宝石箱のような色ではなく、もっと複雑だった。万人が見る空のように。
「時間だ」
 その刻々と変わる色の中に、エレンは、そしてレストもニエバを見た。
「お前……ニエバ、か?」
 驚愕と共に発せられたレストの問いにニエバは頷いた。
「エレンの運命は俺が案内する。――命は、俺が運ぶ。任せて貰えるか」
「拒否権なんかあるのか?」
 透明な涙さえも染めて、空がまた傾いた。
「もうエレンの運命は以前とは変わり始めている。今はエレンの命はここで終わる」ニエバの空色の瞳がきらりと光った。
「姿形が変わっても、また会うだろう。それでは駄目か」
「だから拒否権なんかないんだろ? 天使様」
 レストの泣き笑いに苦笑いを返して、ニエバはエレンから離れた命を両手で包んだ。

 午後四時四十二分。
 エレンが握っていた白い花が、硝子窓から差し込む空の残光に淡く輝いた。

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