B-07  空に咲く花

『空恋草   文学部一年 川村華

 あるところに、花が咲いていました。小さくて地味なその花は、空に恋をしていました。
(もっとあの人の近くに行きたい、そして私に気づいてほしい)
 そう考えた花は、空に向かって精一杯その茎を伸ばしました。
(もっともっと、あの人のそばへ──)
 そんな思いを抱いて、花は背伸びを続けました。けれど、どんなに近づいても、空は花に気づいてもくれません。
 やがて、花は力尽きました。長く伸びすぎた自らの茎の重さを支えることができず、花は地に倒れ伏しました。
 地面にその身を横たえた花は、悲しく空を見上げました。地に咲く花と空とでは、しょせん住む世界が違うのだと、自分に言いきかせながら──』


 そこまで読んで、そのあまりの内容に叫びだしそうになった。ここが電車の中じゃなかったら、絶対に悲鳴を上げていたと思う。
 私の手の中にあるのは、レポート用紙の束。児童文学の講義で夏休みの課題として出された、自作童話。昨夜一晩かけて書いた、その草稿だった。誰よ、こんな恥ずかしい物書いたのは……って、私だけど。これを書いたときの私は、暑さで頭が沸いていたに違いない。
 夜中に書いた手紙は朝読み返せと言うけれど、同じことはレポートにもあてはまるんだなと、今さらながらに思い知る。こんな物を提出しようとしてたなんて、信じられない。こんなの、とても人には見せられない。
 この“花”が私自身の象徴だということは、誰でも容易に想像できるはず。そして、その恋慕の対象である“空”が同級生の河野天《こうのたかし》を指しているということも、見る人が見れば分かってしまうに決まってる。河野本人も受講している講義の課題でこれを書くだなんて、正気の沙汰じゃない。昨夜の私が目の前にいたら、殴ってでも目を覚まさせてやるのに。
 また一から書き直すのかと思うと、ため息がこぼれる。文才なんて欠片もない私が、どうして童話なんてものを書かなきゃならないのか。……理由は簡単、児童文学になんて興味もないくせに、立花助教授目当てに講義を取ってしまったからだ。人はそれを自業自得と言う。
 いくら立花助教授が男前だからって、講義を履修する必要なんてなかったんだ。時々こっそり講義室に潜り込んで、そのご尊顔を拝するだけにしておけば良かったのに。バカバカ、ほんとバカ。
 そうやって自分を責めながら、でも、と思い直す。選択科目でこの講義を取ったからこそ、初日にたまたま隣に座った他学部生の河野とも知り合えたわけで。そう考えたら、それはそれで良かったんじゃないの?
 いやいや。慌てて首を振り、そんな考えを頭の中から追い払う。河野と出会ってからの自分の言動を思い返してみたら、そんな暢気なことはとても言えない。「立花先生って、美形だよね」だの、「眼鏡がインテリっぽくて素敵」だの、河野の前で散々繰り返してきたんだから。
 そんな私が、いつの間にか河野のことを好きになっていただなんて。そんなこと、河野には絶対に言えない。言えるわけがない。
 もしも私がこの思いを告げたら、河野は多分困った顔をするだろう。ただの女友達から急に告白されたって、迷惑でしかないに決まってる。そして、お互い気まずくなって、友達でいることすら難しくなってしまう……。
 だったら、今のまま友達でいる方がいい。今日のように気軽に呼び出せる、ちょっと気の合う女友達。そのくらいのポジションが、私にとっても気楽だし、何より居心地がいいんだから。
 そうは言っても、この先河野に彼女ができたら、さすがにこんな風に会うことなんてできなくなってしまうだろう。今のような関係を、一体いつまで続けられるのかな……。
 不意に寒気を覚えて、剥き出しの二の腕を両手で擦る。乗客の姿も疎らな空いた電車内は、必要以上に冷房が効いていた。
 河野からの呼び出しの電話を受けてから急いで選んだフレアースカートと同系色のサマーニットは、薄手で涼しいのはいいけれど、この冷気の中で着るにはちょっと寒すぎる。あまり気合いを入れすぎてドン引きされたら困るから、いつもより少しだけフェミニンな雰囲気になるようにと考えたコーディネートだったけど、ちょっと失敗だったかも。
 クールビズなどどこ吹く風と、冷気を吐き出し続ける空調の吹き出し口を見上げ、軽く睨みつける。地球にも、女の子のお洒落心にも優しくない。

 駅を一歩出ると、強烈な熱気に包まれた。電車内とのあまりの温度差に、一瞬眩暈がする。
 携帯に届いたメールによると、目的地である河野のアパートまでは、ここから徒歩で七、八分。この日差しにそれだけの時間晒されて、果たして無事でいられるだろうか。
 不安に駆られながらも、ひとまず歩きだす。こんなところでぼんやり突っ立っていても仕方がない。
 なるべく日陰を選んで歩こうとは思うものの、真上から容赦なく照りつける太陽は、逃げ場をほとんど与えてはくれない。アスファルトから立ちのぼる熱気と、蝉の声の大合唱とが相まって、フライパンの上で焼かれているような気分になってくる。
 家を出るときに念入りに塗ってきた日焼け止めも、噴き出す汗で流れてほとんど意味をなさないだろう。この分だと、河野の部屋に着く頃には、いい焼き色に仕上がっているに違いない。……家に帰ったら、すぐにスキンケアしなくちゃ。
 ようやく目指す建物が見えてきた時には、暑さのあまり頭がぼんやりし始めていた。ドアホンを鳴らす前に、汗を拭いて化粧崩れのチェックをしようと思いながら、アパートの階段を上る。金属製の階段の熱がサンダル越しに伝わってくる。
 河野の部屋の前にやっとのことで辿り着いた途端、ドアが内側から大きく開かれた。休み前より少し日焼けして逞しくなった河野が、顔を覗かせる。
「よう、久しぶり」
「え、何で? 私、まだチャイム鳴らしてない」
「上がってくる足音が聞こえたからな。時間的に見て、多分華だろうなと思ってさ」
 そういえば、階段を上る時結構大きな音がしていたっけ。できる限り音をたてないように歩いたつもりだったけど、耳聡く聞きつけられていたとは。
 結局メイク直しできなかったなと思いながら、抱えていた白い箱を河野に差し出す。
「これ、お土産」
 押しつけられた箱を見て、河野は眉をひそめた。
「……もしかして、ケーキ? 俺、甘い物苦手なんだけど」
「知ってる」
「何、そのイヤガラセ」
 本当に嫌そうに顔をしかめる河野に、慌てて首を振る。
「いや、ここのケーキはそんなに甘くないから。甘さ控えめ、自然素材の味を活かしたヘルシー志向のケーキで、ダイエッターにも超オススメなの。騙されたと思って、ぜひ食べてみて!」
 一息にそう捲し立てた後、我に返る。人の家の玄関先で何ムキになってるんだろ。これじゃ、まるで訪問販売じゃない。河野も、私の勢いに少し呆れているみたい。
「と、とにかく。甘い物苦手な河野でも、大丈夫だと思うから。どうしても食べられなかったら、誰か他の人にあげて」
 急にそれまでの語勢を失った私に、河野が苦笑を漏らす。
「分かったよ。じゃ、一緒に食おうか。とにかく上がれよ」
 三和土でサンダルを脱いでいる間に、河野が開いたままのドアの下に小さなダンベルを挟み込んだ。
「玄関、開けておくの?」
「その方が風が通って涼しいんだ。それに、開けてる方が華も安心だろ」
「安心って、何が?」
 オウム返しに繰り返す私に、河野はふっと口元を緩ませる。
「分からなきゃいい」
 河野がそれ以上説明しようとしないので、仕方なく部屋に上がる。河野って、時々こういう意味の分からないこと言うんだよね……。
 掃き出し窓が大きく開け放たれたその部屋は、河野の言うとおり、風の通り道になっていて涼しかった。真夏の炎天下を歩いて火照った体を冷ますには丁度いい。
「河野んち、涼しくていいね」
「裏が空き地になってるから、玄関を明けると風が吹き抜けるんだ。おかげで、夏でもクーラーいらずだよ」
 適当に座るよう言い置いて、河野は台所に入っていった。
 ベッド脇の小さなテーブルの傍に腰を下ろすと、早速部屋の中を見回す。自分の部屋と比べると、随分雰囲気が違う。家具や小物の色合いも落ち着いているし、何よりすっきりと片づいている。散らかり放題の私の部屋とは、雲泥の差だ。
 コーヒーサーバーと食器を手に戻ってきた河野が、申し訳なさそうに私の前にマグカップを置いた。
「悪い、うちコーヒーしかないんだ。華、確か紅茶派だったよな? 大丈夫か?」
「あ、大丈夫。コーヒーも普通に飲むよ。心配ご無用、お気遣いなく!」
 河野を安心させるために明るく答えると、苦笑混じりの言葉が返ってきた。
「……変な奴」
「ごめんねえ、変な奴で!」
「いや。おかげで見てて飽きない」
 飽きないって……別に見せ物じゃないんだけど。なんだかなあと思いながら、箱を開けてパウンドケーキを小皿に取り分ける。ラム酒にじっくり漬け込んだドライフルーツを使った、私の一番のオススメのケーキ。ラム酒と微かなシナモンの香りが、食欲をそそる。
 河野が恐る恐るといった様子でケーキにフォークを入れた。一口大にしたケーキが河野の口に運ばれるのを、固唾を呑んで見守る。河野の口に合うといいんだけど。
「……これ、結構いけるな。華の言ったとおり、そう甘くもないし」
 河野の反応に、ほっと息をつき、私もフォークに手を伸ばす。良かった、気に入ってもらえて。自分の好きな食べ物を、河野も美味しいと感じてくれたら嬉しい。河野の満足そうな顔を見ながら食べるケーキは、一人で食べる時よりずっと美味しく思えた。
 私が食べ終わるのを見計らって、食器を重ねて立ち上がろうとする河野を、慌てて引き留める。
「自分の使ったお皿ぐらい、自分で運ぶよ」
「いいから、華は座ってろって」
 でも、と食い下がろうとして、まじまじとこちらを見つめる河野の視線に気付く。
「な、何?」
 そう言えば、ここに来る前にメイク直しをしそびれたんだった。汗で崩れて物凄く変な顔になってたりして。河野が食器を取りに行った隙に、鏡でチェックしておけば良かった……。などと思っていると、河野が私の口元に手を伸ばし、何かを摘み上げた。
「ケーキの欠片が付いてた」
 そう言うなり手の中のケーキ屑を自分の口に放りこみ、河野はさっさと台所に引っ込んでしまった。
 ──ナチュラルに、何てことを……ッ。
 狼狽えながらマグカップを手に取り、コーヒーを一口飲んで気持ちを落ち着かせる。あんなの、別に大したことじゃない。小さい子がこぼした食べ物を大人が取ってあげるようなもので、河野には他意なんてないに決まってる。だから、動揺する必要なんてない。ない、のに。
 一度高まった胸の鼓動は、なかなか治まってはくれない。私の恋心は、こんな風に空回りしてばかりだ。口に含んだコーヒーが、心なしかさらに苦みを増したような気がした。

 洗い物を終えて戻ってきた河野に、今日呼ばれた理由を尋ねてみる。
「メールで言ってた、見せたい物って何?」
「なんだ、覚えてたのか」
「人を呼び付けておいて、何その言い種」
 いや、と口の中で小さく呟いた河野が窓の傍の棚に歩み寄り、筒状の物を手に取った。
「見せたかったのは、これだよ」
 手渡された筒をしげしげと見る。包装紙で巻いたラップの芯のような物の両端に、黒いビニールテープが巻きつけられている。軽く振ってみると、からからと乾いた音がした。
「……何、これ」
「万華鏡」
 ラップの芯に毛が生えたようなその代物は、私の目にはとても万華鏡には見えない。
「万華鏡って、千代紙が周りに貼ってあったりするんじゃないの?」
「悪かったな。そこまで手が回らなかったんだよ」
 気恥ずかしそうに河野がぼそりと呟いた。
「え……もしかして、河野が作ったの? っていうか、そもそも万華鏡って自分で作れる物なの?」
「作れるよ。キットも売ってたりするし、ネットには作り方の載ってるサイトもある」
 手作り感漂う万華鏡に目を戻す。どう見ても万華鏡っぽくはないけれど、河野がちまちまとこれを作ったのかと思うと、微笑ましい気分になる。
 早速覗き穴に目を押し当てる。その途端、目の前に広がる世界に言葉を失った。
 万華鏡の中では、空色のプラスティック片と様々な色のビーズが、艶やかな模様を描き出していた。空色を背景に、自由に群れ咲く花々。静かに筒を回すと、花は色鮮やかに咲き踊る。まるで、空に咲く花々。
 ふと、書きかけのレポートを思い出す。あれに出てくる花が夢見たのは、きっとこんな世界だったのだろうと思えた。空と花が共にある世界。空に優しく包まれて、思いのままに咲き乱れることの叶う別天地。
「……どう思う?」
 河野の声に、俄に現実に引き戻される。妄想の世界に入り込みかけていた私は、動かしようのない事実を思い出す。空に、花など咲かない。花は地に咲くもの。
「華? どうかしたか?」
 気遣うような河野の声音に、慌てて応えを返す。
「あ、ううん。何でもない。……うん、すごく綺麗。ただ、ちょっと詰め込みすぎじゃないかな」
「そうなんだよ。いろんな花を見たくて、欲張りすぎた」
 危うく万華鏡を取り落としそうになった。いや、違うから。河野が言ってるのはビーズの花のことで、断じて私のことではないから。変な勘違いしたらダメ。後で空しくなるだけなんだから。
「おい、落とすなよ?」
「ご、ごめん。ちょっと手が滑って」
 暑さのせいではない変な汗を背中に感じながら、わざとらしいくらいに朗らかに言葉を繋ぐ。
「でも、河野にこういう趣味があったなんて、知らなかったなあ」
「え、いや、別に趣味ってわけじゃ……」
 途端に河野の歯切れが悪くなる。何だかとても怪しい。
「趣味でもないのに色々調べて、時間を費やしてまで作ったの? 何で?」
「それは……ある人の影響、というか」
「あ。さては女?」
 河野は黙りこんでしまった。否定しないということは、図星だったってこと?
 ……やっぱり私はバカだ。それも、度し難いバカ。わざわざ余計なことを言って、自分で自分に痛恨の一撃を与えてる。そして、さらに自分に追い打ちを掛けるような言葉を口にしてしまう。
「だ、だったら、この万華鏡をきっかけにしたら? もっと親しくなれるかもよ」
「……まあ、言われなくてもそのつもりだけど」
 ぶっきらぼうな口調で河野が応える。……ダメだ、泣きそう。河野の好きな人の話なんて聞きたくなかったのに。でも、それを言わせたのは私の方だ。河野に文句なんて言えない。
 これ以上何か言うと泣きだしてしまいそうなので、河野にくるりと背を向けて、万華鏡を覗いている振りをする。本当は涙をこらえるのに必死で、何も見えやしないけど。
 しばらく沈黙が続いた後、河野がため息混じりに切り出した。
「……あのな。万華鏡って昔は錦眼鏡とか百色眼鏡って呼ばれてたって知ってるか」
 私の返事を待たずに、河野はさらに畳み掛ける。
「眼鏡を掛けることも考えたけど、生憎俺は目が良いし、いきなり伊達眼鏡ってのもわざとらしいだろ。だからせめて、何か眼鏡に繋がる物をと思って、万華鏡にしてみた」
 こんな時にまで、河野は意味の分からないことを言う。どうして急に眼鏡の話になるの。ほんと訳分かんない。
「何で……そんなに眼鏡にこだわるの」
 一瞬言い淀んだ後、河野がきっぱりと言い切った。
「……その子が、眼鏡掛けた男が好きみたいだから」
 驚きのあまり、こぼれかけていた涙も止まる。河野の身近にいる眼鏡好きな女の子って一人だけ心当たりがあるんだけど。……いや、まさか。まさかだよね。河野と同じ学部の人だったら、私も知らないわけだし。その中に、眼鏡好きがいないとも限らないし。
 そんな私の惑いをよそに、河野は尚も続ける。
「まあ半分はノリで作り始めたんだけど、やってみると結構面白くてさ。それに、くるくると表情が変わるところや、いつまで見てても飽きないところが、その子と似てるなと思えてきた。だから、完成した時真っ先にその子に見せたいと思ったんだ」
 思いがけない河野の言葉に、胸がざわめく。……それで、私を呼んでくれたの? 河野も、私と同じ気持ちだったの?
 身動ぎもできずにいる私の肩に、河野の手が置かれた。心臓がどくんと音を立てる。
「……華のことだよ。ちゃんと分かってる?」
 うまく言葉が見つからなくて、それでもどうにか気持ちを伝えたくて、肩に置かれた河野の右手に自分の手をそっと重ねた。触れ合った指先から、熱とともに河野の思いが伝わってくるような気がした。


 手の中で回りながら表情を変えていく万華鏡のように、私たちの関係も、今、大きく形を変えようとしている。

inserted by FC2 system