B-08  空に包まれて

「じゃあ、ルウ。いい子で待っているんだぞ」
 そう言ってウィルは頭を撫でてくれる。いきなり触られても私が身構えないのは、彼の手だけだ。少しごつごつしている慣れ親しんだこの手だけが、私の世界へ自然に入り込める唯一のものなのだ。
「土産は?」
「美味しいもの」
 わかったと答える声は笑っていて、両頬を軽く叩いてくる。私とのやり取りに、声と感触だけで全てを伝えようとする彼は優しい人だと思う。行ってくると言いながら私の髪をくしゃくしゃにするのも、人が言うには手を振る代わりなのだそうだ。
 私は、目が見えない。そのせいなのかは知らないが、赤ん坊のころに捨てられてしまった。その状況に幸か不幸か出会ってしまったウィルは、しばらく悩んだ後、私を引き取ることにしたそうだ。
 とは言っても、彼の仕事は飛空艇乗り。飛空艇は、長距離の移動に欠かせない交通手段だ。仕事は多くて、家を長い間空けることもある。そんな人間が赤ん坊を引き取るなんて、という声もあったけど、一度関わったカワイソウな人間を人任せにしたり見捨てたりできないのが彼らしい。いつか碌でもない女に引っかかると、彼の友人たちは言う。
 もしかしたら、孤児院に行ったり優しい夫婦に引き取られたりなどしたほうが、寂しい思いをしなかったかもしれない。それでも、私は彼と家族でいられることを幸せに思う。年齢も素性もよく知らないけれど、本当に不器用で一生懸命な彼が、私は大好きだから。


「しっかり掴まってな」
 ウィルの休日は、人に預けていた私を引き取りにくることから始まる。仕事場とは違って小型の飛行バイクを器用に操り、市場で買い物をして家に帰る。私はたいてい家に引きこもりがちだから、とにかく外の世界へ触れさせたいらしい。
 この時間は、とてもほっとする。大きなウィルの背中にしがみついて、ふわふわとするバイクで風を感じるのは気持ちがいい。
「今日はいい風ね」
「そうだな。今日は暖かいし」
 太陽は見えないけれど、私は上へ顔を向けた。上下左右の概念を持つのには苦労したけれど、これもウィルが丁寧に教えてくれた。私の物分りが良ければ、もう少し苦労はかけなかったのだけれど。
 木を避けるたびに、横へ揺れる。そのちょっとしたぐらつきが楽しい。
「ルウは本当にバイクが好きだな」
「うん、揺れるのが楽しいの」
「飛空艇も揺れるぞ。木を避けたりはしないけど、下手に風につかまるとすごいんだ。空はいいよ、地上も海もいいけどさ」
 ウィルは嬉しそうに仕事の話をする。そんな彼から語られる飛空艇の様子を聞くのも、私の楽しみである。空という場所で働くことに生きがいを感じている彼の話を聞くと、私も胸が高まるのだ。もう少し私が大きくなったら、飛空艇に乗せてもらう約束をしている。
「やあ、お帰り。今日は少しいつもより遅かったな」
「仕事が長引いたんだ」
 馴染みの店のおじさんとの長話が始まった。あまり出歩くと何かにぶつかってしまうから、私はウィルの手を握って離れようとはしない。それを見て、新婚さんとからかわれるのにも慣れてしまった。
 お店は、いろんな匂いで溢れている。少し鼻に意識を集中すると、パンの匂い、野菜の匂い、花の匂いなど様々な香りが拾える。他のお店からも若干流れ込んでくるから、時々個性的な匂いが混ざって頭が痛くなる。
「ルウちゃん、いらっしゃい。背、伸びたわね」
 おばさんも奥からやってきて、私を店の外に連れ出した。声が大きくていつもびっくりしてしまうけれど、私のことを可愛がってくれる人だ。抱きしめられるとふっくらした体に埋もれてしまって、実は苦しい。
「これはおまけだよ、いつもいい子にしているからね」
 私の手をとりながら、おばさんはその中にお菓子を落とす。そして、私の指ごと握り締める。重ねてくれる手が温かくて、なんとなくお母さんという感じがするのだ。
「あの二人は男のくせに長話だね、日が暮れちまう。ああ、夕日が綺麗だね、ルウちゃん」
「え?」
 突然そんな話を振られて、反応できなかった。夕日も綺麗も、知らないものだから。
 おばさんは、当たり前のように言った。夕日って何で綺麗なのか。皆はきっとわかるのだろうけれど、私にはわからない。それは、実を言うととても寂しいことなのだ。どうしようもない私と他人の溝。
「おばさん、夕日ってどんなのかな」
 おばさんが沈黙した。静寂、それは私の世界の大半を奪われる。風が若干頬を撫でるから、私は生きている実感を持つ。
「ええっとね、太陽がね落ちて山とか地平線に隠れて、暗くなって夜になること」
 それが想像できないよ。だって、太陽ってどう動くの? 山ってどんなの? 地平線って? わからない、わからない。どうして自分がこんなに不安になるのかも。
「あとね、普段は青い空が赤くなって、太陽も赤いんだよ。それが綺麗なの」
 青いって、赤いってどんな状態なの? 何が綺麗なの?
「ウィル、もうこんな時間だけど、帰りは大丈夫なのか?」
「本当だ。じゃあ、僕らはこれで」
 ウィルがお店の扉を開けたと同時に、私は飛び上がってその手を取った。一瞬ぴくっと動いたけど、彼はすぐにしっかり握り返した。
「帰ろう、ウィル。お腹空いちゃった」
「そうだな」
「じゃあね、おばさん。ありがとう」
 おばさんは自信のない声を出した。意地悪なことを訊いたと後悔した。
 ウィルの背中に捕まりながら考えていた。夕日はどうして綺麗なのか。
 沈むということは下に行くのかな、でも下に行ったら地面が暑くなるんじゃ? 山とか地面が隠してくれるから平気なのかな、木陰だって涼しいのだから。陰になるから夜になる? 光が消えて夜になるなら、皆、私みたいに見えないのかな。
「ルウ、少し苦しいよ」
 考えすぎて、ウィルの背中を強く抱えすぎたらしい。この人の背中を私の腕は包みきれないほど大きいけど。
「お腹空いた? ちょっと遅くなったからね」
「ううん、違うの」
 一瞬のため息に、彼の心配する気持ちが感じられた。私はもう一度否定して、しがみつきなおした。吹き抜ける風の中では、とても温かかった。見えないけれど彼はそこにいる、それがとても安心する。
 そういえば、ウィルは私に『目で見えるもの』についての話なんて滅多にしない。その反動で、こんなにも気になっているのだろうか。おばさんに言われるまで、夕日が綺麗なんて言われたことがない。空は上にある大きなもの、手が届かないほど遠くのもの。それだけしかわからない。
 ウィルは空が好きだという。でも、今までどんなものか本当にわかって私は頷いて話を聞いていた? 違う、私はウィルが空を好きだということに話を合わせただけじゃない。本当は何もわかってない!
 目が見えたら、夕日がなぜ綺麗なのか解るのだろうか。目が見えていたら、空がどんなものか解るの?
 家に着いた私の足取りは重かった。ウィルに抱えあげられて家に入り、テーブルについて夕食をとった。片付けながら、私は恐る恐る、初めての質問をした。
「ねえ、ウィル。空ってどんなものかな」
 答えようとする彼に、私は間髪なく続けた。強い口調で。
「目が見える子に説明するように、私に説明して」
 ウィルは何も言わない。私は何度も急かして急かして、彼の袖を引っ張った。喉が乾いたような声で彼は言った。
「とっても大きくてどこまでも広がっている。普段は薄い青」
「厚いの反対って意味の薄い? 空って触れるの?」
「いや、薄いっていう感覚なんだよ。厚さじゃない」
 私は理解できず、低い声で続きを促した。ウィルが困った様子なのが、見えなくても解る。
「太陽が動くことによって、青から赤、黒になる。そして、また赤になって青になるんだ」
 それは全部、色のことなのは知っている。私は色が何なのかわからないけれど、目が見える人にとっては当たり前のものらしい。
「雲がふわふわ浮いていて、雲は白くて」
「綺麗?」
「……ああ、綺麗だよ。それにしても、どうして急にそんなことを?」
 私は、おばさんとの会話をかいつまんで話した。その間、私は綺麗という言葉を反芻していた。感動するくらいの力が空にはあるんだ。でも、私は空を知らない。空なんて、目が見える人だけのものなんだ。
「ウィルは空が好き?」
「ああ、好きだよ。だから飛空艇乗りになったんだ」
 彼は正直に即答した。でも、答えはとっくに知っていた。だって、彼がどれだけ空の仕事に夢中なのか話をきいてきたから。空について漠然としか知らなかった私だけど、彼があんまりにも楽しそうに話すから楽しい場所なのだと思っていた。彼が空を好きだから、私も好きになった気でいた。でも、違う。ウィルが何でこんなに楽しくて何でこんなに好きなのか、私にわかるはずもない。
「私、やっぱり飛空艇なんて乗らない」
 なぜ、とウィルが戸惑った声で尋ねた。
「空がどんなのかわからないくせに、飛空艇に乗っても楽しくないよ」
「ルウ、そんなことはない」
「だって、空なんて見えないもの! 太陽が動いたって、空が青くたって、私には何のことだかわからない! こんな目、大嫌い。だって何も知ることができないもの!」
 空なんて、他人の顔も物の色みたいに誰かの話をきくだけ。私は永遠に知ることがない。皆の知る世界に私は入っていけない。孤独だ、この何もない世界しか持たない私は孤独だ。
 扉を力いっぱい閉めると、嫌な音がした。せっかくウィルが帰ってきているのに、仕事で疲れて休まりたいはずなのに、私はどうしてこんなことしちゃうんだろう。でも、ごめんなさい。私のこの苛立ちは、自分でも止められない。
 ウィルが仕事の話を聞かせてくれるのは楽しい。だって、彼の言葉はわかりやすいから。本当は、空が好きなんだって言うだけでいいのに、その気持ちを私に伝えようと遠回りしてくれる。でも、私は空を知らないから、彼の仕事の本当の魅力なんて理解できないんだ。本当はうわべだけでしか彼の話を理解していないんだ。
 ごめんなさい、ウィル。あなたはこんなに優しいのに、私は嫌な子になっちゃったよ。目が見えたら、こんな気持ちにならないの? ウィルが感じている世界を私も感じられるのかな。こんな私、大嫌い。


 家を長い間空けるとその分長い休暇がもらえる。でもウィルはそれを三日で切り上げて、また飛空艇に乗ると言った。私の中に苦い気持ちが広がった。きっと、私の気が治まるまで一人にしてくれるのだ。
「行ってらっしゃい」
 私はぶっきらぼうに言った。こんな態度がますます彼を遠ざけてしまうのに。行ってきます、という言葉を待っていたけれど、何もなかった。自分が悪いのに心がちくちくと痛む。無常な扉の閉まる音を予感していていると、思わぬ返答があった。
「ルウも一緒に行こう。約束よりもちょっと早いけど、飛空艇に一緒に乗ろう」
 私が思っているよりもウィルはずっと誠実だった。不意だったので、私のほうが固まってしまった。乗らないと言ったばかりなのに。
「でも」
「うん、実はもう、親方へ話は通したんだ。荷物をまとめて出発だ」
 どうして彼はこんなに優しいのだろう。私はいまだに素直に謝れもせず、ぐずぐず卑屈に悩んでいるのに。
 いつものように飛行バイクに跨り、木々を避けながら軽快に走る。ウィルの運転はいつもより乱暴で、私は振り落とされそうになる。普段なら話が途切れないのにどちらも無言。何もない世界に放り出されないように、私はしっかりを抱きついた。
 それからしばらくして、潮の匂いを感じた。本土に程近い島にウィルの船はあるらしく、船で海を横断するとのことだ。たまに港に連れて行ってもらう私は海が好きだ。空気が家とは違う様子で楽しくなるし、波の揺れが船に伝わってゆらゆらするのに身を任せると、波がどんなものかわかって楽しいから。
 少し身を乗り出すと、飛沫が顔にかかった。少ししょっぱい気がした。ウィルが危ないというから適当に座って揺られていると、彼は隣に腰掛けた。普段よりも遠出をしている私が疲れたかどうか気になるらしい。やっぱり私は、大丈夫と無愛想に言ってしまった。
 船が着くと、ほんの少しの間だけなのに波に慣れてしまった自分がいて吃驚した。地面があまりに固くて安定していて、逆にこっちがゆらゆらする。その様子がおかしいのかウィルが噴出したのを私は聞き逃さなかった。
 彼といつものように手をつないで、飛空艇とやらに乗り込んだ。階段を何段も上ると、さっき乗ってきた海の船と同じような感覚を感じた。あとで教えてもらったのけど、飛空艇って空飛ぶ船のことだったらしい。
「やあ、ウィル。その子がルウかい」
 知らない声に、一瞬身構える。でもウィルは親しげに応じ、仕事仲間だとわかった。
「初めまして」
「初めまして、ご自慢のお嬢さんにようやく会えたな」
 ウィルが照れてその人を叩いたらしく、悲鳴が聞こえた。私はウィルの何も知らない。ふざけてどついたりすることも、こんなに親しくできる友人がいることも。
「ルウ、おいで」
 私の寂しさを感じてか感じてないのか、ウィルはしっかりと私の手を取って歩き出した。
 多くの冷やかしの声にも適当に答え、私たちは歩いて、しばらくするとウィルが立ち止まった。私を抱きかかえながら。
 大きな音がして、出航の鐘が鳴った。すると、いきなり揺れてよろけそうになった。強烈な風が私たちの体を叩きつける圧迫感。吐く息よりも強く、体の中に空気が入り込んでくる。
「ここは飛空艇の一番先、一番風を感じられる所だ」
 風がすごいと、ウィルは言っていた。いつもの風を基準に考えていたけれど、想像を超えていた。体に襲い掛かる感覚は、バイクとも船とも違う。初めて出会う感触。
「ルウ、一歩進んで手を広げて」
 恐る恐る言うとおりにした。ウィルが両肩を抑えてくれるから安定している。しばらくすると揺れは少し収まって、代わりに心地よい空気の流れがあった。
「いま、空にいるんだよ」
「そうなの?」
 あまりにも簡単にウィルは言って、拍子抜けした。だって、空だってことがわかるものが何もないから。もっと儀式めいたものを感じると思っていたのに。きっと言われなくちゃ、今でも空にいるなんて思えない。
「何もないよ、空は。君の手はもう船から出ているけれど、何もない。もう一歩踏み出せば、船から落ちる。でも、下には何もない。地面は遠いよ」
 しゃがみこんで更に腕を伸ばす。何もつかめない。海には潮風と波しぶきがあった。でも、ここには何もない。揺れるけれど、バイクみたいに小刻みではない。うまく説明できないけれど、ふわふわとした楽しい揺れ。
「空には木も山もないから。太陽も遠いね」
「じゃあ、空って何?」
 太陽ですら手が届かないのなら、空って何があるの。
「空は、何もない世界だね」
 何もない世界という言葉につい反応してしまう。
「そんなのがウィルは好きなの? だって、あんなに楽しそうに話していたのに」
「そうだね、最初は拍子抜けしたよ。地上から見るのとはぜんぜん違う。でも、遮るものも何もない無限に広がる世界。その果てしなさが、僕はとても好きだ」
 何もない世界。それは私の世界と同じだろうか。でも、空は本当に何もないの? こんなに風が気持ちいいじゃない。
 あ、それってどこでも一緒だ。私は何も見えないけれど、風を感じることができるし、揺れを楽しむことができる。何もない世界かもしれないけど、何もないわけじゃない。
 そうだ。私には目が見えない代わりに、この感覚がある。
 私の右肩を、ウィルがちょんと叩く。穏やかな声が耳元をくすぐった。
「三日間いろいろ考えてみたんだけど、これが君の問いに対する僕の答えかな。自分でも、空をちゃんと考えたのは初めてだよ」
「……ありがとう」
 わざと意地悪なことを言って困らせた私に、ウィルは真面目に向き合ってくれた。色とか太陽とか気になっていたことの半分は未だに理解できないし、これが真実かはわからないけれど、ウィルが私にくれた大切な答えだ。
「ありがとう、ウィル」
「ほら、こうするともっと空に近づける」
 ウィルは私の腰をつかんで持ち上げた。ぐらりとして、足は何もつかない。手も何もつかまない。私に触れるものは何もない。そうすると、なおいっそう心が躍った。
 きっとウィルは笑っている。笑い声は出していないけれど、私にはわかる。
 私は思い切り手を伸ばす。何もない空間、空に私は触れているのだ。風が吹いて気持ちがいい。
 その場にいたウィルの仲間全員にからかわれたけれど、私にとって最高の瞬間だった。

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