B-09  ウテンケッコウ。

 蝙蝠傘は世界で一番小さな二人のための屋根である、と言ったのは夭折した詩人で、あたしは今まで一度も、彼の作品を見たことがない。内張が青空柄の蝙蝠傘を差し出しながら、「晶華の上にいつも青空を約束する」と言ったのは写真家志望の恋人で、あたしはこのところ、彼の作品しか見ていない。
 修行と称して海外に渡って三年、関は思い出したようにキャビネ版の裏にメッセージを書き付けて送ってくるけど、多分あたしが二九歳になっていることは都合良く忘れているのだろう。「風を撮りたい」と夢を追う男に、あたしの現実はいつも取り残されている。
 職安からの帰り道、五月雨に濡れる坂を、傘を回しながらゆっくりと歩いた。青い紫陽花が潤むように揺れている。私道を登り切ったら、古びたモルタルの外構に似合いの、朱色のポストが見えてくる。鞄から小さな鍵を取り出して、あたしはポストの南京錠に差し入れた。軽く錆に引っかかる感触にも慣れた。
 そして、空っぽのポストを覗くことにも。
「こんにちは、橘さん。本日の成果はいかがですか?」
 ため息もつかずに鍵をかけ直していたあたしに、塀の中から男性が声をかけてくる。
「両方、空振り。景気が上向きって、どこの世界の話って感じよ。だから早くうちの土地を返してください、お役人様……どうしたの千尋君、その恰好?」
 挨拶代わりの軽い皮肉で顔をあげたあたしは、相手の予想外の姿に吹き出してしまった。
 相嶋千尋は、ゴミ袋を切り開いて作ったと思われる、即席のレインポンチョを被っていたからだ。ご丁寧に「燃えるゴミ」である。
「急に降ってきたから。傘さして発掘ってわけにもいきませんし」
「学者先生なのに、ちゃんとしなさいよ」
 弟を叱るみたいに笑うと、千尋は困ったように首を傾げた。あまり大柄ではない彼は、柴犬のように賢そうな目をしている。学者じゃありませんってば、と恥ずかしそうに否定するけれど、あたしからすれば学芸員なんて似たようなものだ。
「それで、そっちは何か成果があったの?」
 彼の肩越しに『家』を覗く。といっても家はもうない。倒壊した瓦礫も綺麗に処分された更地に、幾筋もの溝が掘られている。昨日見たときよりも何か違うのかもしれないけど、あたしにはさっぱりわからない。千尋が嬉しそうな顔をしていたから、訊いてみただけだ。案の定、彼はパッと表情を明るくした。
「ええ、すごく綺麗な銑鉄が見つかったんですよ。鑑定にかけないと正確なことは言えませんが、ウィドマンシュテッテンが出るんじゃないかと、みんな期待してるんです」
 ご覧になりますか、と腕を引きそうな彼に、丁重なお断りを告げる。前回は興味もあったが、どう見ても真っ黒い小石では愛想も言えなかったし、正直、こんな物のために家土地を追われた自分が情けなく思えた。それが伝わったのか、しょんぼりしてしまった千尋の様子も、ちょっと可哀想だった。
 彼の職業は県の埋蔵文化財センターの学芸員で、専門は鉄器の研究らしい。鉄の話をするときはとても楽しそうだけど、あまり女の子にはうけないと思う。
「えと、えーと、もう帰りますか橘さん? 良かったら一緒に帰りませんか?」
 車の鍵を出す彼に、あたしは二度瞬きした。
「それは助かるけど……仕事中でしょう?」
「雨ですから。今日はもう掘れないので、解散したんです」
 ならどうしてここに残ってるの、と訊ねることができるほど、あたしは無邪気ではない。
 千尋とあたしの関係は、説明が難しい。
 彼はあたしの隣人で、一番新しい飲み友達。時々、不倶戴天かと思う若造クンにして、あたしを持家から追い出した張本人でもある。
 車を回してきます、と軽やかに雨の中を走り出した彼を見送りながら、あたしは空を見上げる。遠くの空が晴れ始めていて、狐の嫁入りみたいな奇妙な天気。
 あたしたちらしい空模様だと思った。

「だって、あんまりだと思うのよね。失業中で、実家にも帰れなくて、住む予定の家まで追い出されちゃうなんて。聞いてる?」
 ついでにご飯も一緒に、と入った居酒屋であたしは酔ったふりをして千尋に絡んでいる。もちろんビールを飲んでるのはあたしだけで、運転手はおとなしく烏龍茶だ。
「そもそもどうして仕事やめたんですか」
「セクハラよ。耐えられなくなってパソコンで殴ったら、なぜかあたしが辞めさせられた」
「パソコン……いえ、はい、橘さんが正しいです。でもそれって、会社がおかしいですよ」
「そうね。あたしもそう思ったから、裁判起こしてやろうとしたのよ。なのに、味方のはずの両親に止められて。体裁が悪いってどういうことよ、失礼しちゃうわ」
「はあ、それで実家を飛び出してこられたと」
「祖母が残してくれた家があったからね。とりあえずそこで、これからのことを考えようと思ってたのに……」
 あたしはそこで言葉を切って上目遣いに千尋を睨む。気圧されたように彼は、すみませんと頭を下げた。本当は彼に微塵も責任はないので、あたしはそれで許してあげる。
「地盤沈下ってだけでもあり得ないのに、その下から遺跡が出てくるなんて、何の冗談よ」
 ビールを飲み干してグラスを置くと、その音の高さにまた千尋がかすかにのけぞる。
「でもですね、橘さんの地所にある遺構は、日本史を塗り替える重要な発見が」
「か・も・し・れ・な・い。でしょ。もう、鉄屑が出たからなんだって言うのよぅ。家が潰れちゃって住めないのは諦めたけど、土地も使うな処分もするなって国家のオーボー」
「補償をお支払いしてるでしょう、だから」
「まあね。おかげさまで、今のアパートに入れたんだから、ヨシとしないとね」
 これ幸いと実家に呼び戻そうとする両親を蹴って、入居したアパートの隣の部屋に住んでいたのが、あたしから土地を差し押さえてしまった組織の人間、というのは不思議な巡り合わせだろう。ロミジュリもここまで変則パターンだとロマンチックにはほど遠い。
 膨れたあたしを宥めるように、空のグラスにビールを注ぐ千尋は、年下のくせに実は大人かもしれないと思う。
「千尋君はどうして今の仕事してるの? ちょっと珍しい仕事よね」
 各県の埋蔵文化財センターは、その名の通り埋蔵物を管轄しているお役所だ。縁の下の小判から、城趾や貝塚、化石まで土の下から出てきた物はすべて届けなければいけない。そしてそれが文化財と認定されたら、土地を封鎖して発掘調査もする、らしい。
「僕は大学に残れるほどの才能がなくて。それでもここなら研究は続けられますから」
「そんなに鉄が好き?」
「好きというか……面白いんですよ。僕は特に古代鉄器の発祥がテーマですけど、それってつまり自然や宇宙と人の共生ってことで」
「宇宙まで言っちゃう?」
「そりゃそうです。人類が最初に鉄を手に入れたのは、宇宙からですからね。鉄隕石、最初にご説明しませんでしたっけ?」
 聞いた気もするけど、よく覚えていないので、あたしは愛想笑いを浮かべる。
「ニッケルとの合金が高温で燃えながら空から降ってくるんです、きっとそれは神のように見えたでしょうね。最初に鉄に触れた人類は何を思ったんだろう、宗教観の醸成も含めて、とても面白い。最古の物は紀元前四千年紀後半、ゲルゼーやウルなどから、自然の隕鉄を利用した鉄器が発見されています。僕もいつか、行ってみたいんですよ」
 楽しそうに目を輝かせる彼を見て、あたしは少し引いた。その目をあたしはよく知っている。関と同じ、千尋も大きな夢を見る。
「我が国では、鉄器は中国からの舶載品を皮切りに、六世紀頃にようやく製錬が開始されたと言われています」
 へえ、と気のない返事をしてしまったが、千尋は気がつかない。
「橘さんの土地から出ている銑鉄は、ヘキサヘドライトです。炭素14法で年代測定中ですが、地層から見ても六世紀より以前の物である可能性があるんです。もしそうなら」
「日本の歴史が塗り変わるのよねー」
 あたしの意地悪な声で、千尋はふと口を噤んだ。それでやめておけばいいのに、あたしは説明がつかないくらい気分が腐っていた。少し酔っていたのかもしれない。
「いいわね、夢がある人は。あたしみたいにつまんない人生じゃなくて」
 気まずい沈黙がテーブルに漂う。冷めてしなびたポテトみたいに、どうしようもない。
「……つまらなくしてるのは、本人ですよ」
 カチンときた。千尋はたまにこういう物言いをする。でも言い返せないのは、それが本当のことだから。黙って唇を噛むあたしから目をそらして、彼は話もそらした。
「橘さんは、何を待ってるんですか。毎日、ポストを見に来ないでいられないくらい」
「ああ……。手紙をね。彼が外国にいるから」
「恋人がいるんだ……その傘をくれた人?」
「そう。夢ばかり見てるような人でね。あたしの上にいつも青空を約束する、なんて言っておきながら、もう何年も雲みたいに風任せでふらふらしてる」
 あたしにも夢はある。関や千尋を前にしては口にすることもできない、ささやかな夢。
 生涯、君を愛す。その誓いをくれるたった一人を待っている。
「僕には、そんなにして待つ人もいないし、待ってくれる人もいない。そういう人生も、つまらないかもしれませんよ」
 千尋はあたしの顔を見ないまま、伝票を掴んだ。八つ当たりで傷つけたことくらいはあたしにもわかる。慌てて追いかけて謝ったけど、アパートの駐車場に着くまで一言も返事をしてくれない。
 ずいぶん反省していたのに、千尋は別れ際に可愛くないことを言った。
「空なんか晴れてたって仕方ないです。隕石だって降るんですから」

 あたしは毎日ポストに行くけど、いつも千尋に会うわけではない。無職のあたしと違って彼は働いているんだから当然だ。
 久しぶりに彼と話したのは、やっぱり雨の日だった。そして前回と同じように、千尋は奇妙な格好をしていた。即席のレインポンチョはともかく、傘を持っているのに自分の上にさしていなかったのだ。
「何、してるの」
「このポスト、雨が溜まるみたいだから」
 呆れたことに彼は錆の浮いているポストに傘を貸して、自分はゴミ袋を被っているのだ。
 千尋の言うとおり、この古い鉄の箱は長雨だと郵便物が水浸しになる。扉を開けた瞬間にコップを倒したくらいの水が溢れることもある。でも、どうせ中身など入っていないのだから構うことはない。
「上げ底を作ったんです」
 彼が差し出したのは、薄いプラスチックに切れ目を入れて格子に組んだ物だった。
「材料はコンビニ弁当の蓋です」
 エコです、とすました彼に吹き出してしまった。上げ底は計ったようにぴったりだった。
「これでもう濡れませんよ、よかったですね」
 自分のことのように笑う千尋の顔と、今日も空っぽのポストに胸がちくりと痛む。
 あたしの気も知らないで、彼はおっとりと雨に揺れる木々を見上げている。
「この前、橘さん、鉄はつまらないと言ったでしょう? ああ、もう怒ってませんから」
 言い訳しようとするあたしを遮って、千尋は賢い柴犬みたいに目を輝かせた。
「鉄って、固くて黒くて綺麗じゃないと思われてますよね。だけど本当は空みたいに澄んだ深い青を発色するんです。たとえば紫陽花の青は土壌に鉄分が含まれている証拠です」
 彼が指さした先には、重たげな花房で雨滴を弾く鮮やかな青が目にしみる。
 それから、と言いながら彼がポケットから出した物に、あたしは目を瞠る。だってそれはどう見ても、指輪のケースで。実際に中からサファイアのリングが顔を出した。
「コランダムのうち、青い物だけをサファイアと呼びます。コランダムというのは変成岩とか火山岩の捕獲岩の中にできる鉱物なんですけどね、ゼノリス、わかります?」
 わかるはずがない。というか、鉄の次は岩の話なのか、とあっけにとられる。そりゃそうですよね、と千尋はにこにこ笑っている。
「捕獲岩というのは、火成岩、えーと溶岩が冷えて岩になるタイプですね、これが固まる途中で紛れ込んだ母岩です。平たく言えば石の材料の一種ですけど、この捕獲岩が鉄だった場合、サファイアになります。綺麗でしょう? これが鉄の色です」
 はあ、と間の抜けた合いの手しか入れられないあたしに、千尋は自慢げに胸を張った。
「隕鉄は地球の原始の組成と同じだという説があります。つまりこれは、宇宙の色なんですよ。すごいでしょう? 面白いでしょう?」
 確かに興味深い話だけど、あたしの視線は指輪に釘付けだった。
「これ……どうしたの」
「買ったんですよ、給料の三ヶ月分」
 苦笑した千尋が、急に柴犬から人間の男に戻る。あたしは地味に衝撃を受けていた。
「そんな人、いないって言ってなかった?」
「実はこれからダメ元で告白予定です」
 まだ誰の指も知らない空の欠片は、あたしと同じ九月生まれの、鉄や岩の話をにこにこ笑って聞いてあげる、若くて可愛い女の子に捧げられる。どうしてそんな子がいるのに、彼はあたしのポストの前にいるんだろう。雨降りでは発掘調査もないのに。
 居たたまれなくてあたしは踵を返した。
 橘さん、と驚いたように千尋が声をかけてきたが、あたしは振り向かなかった。
 頭の上に広がっているのは関のくれた小さな空。晴れていてもちっともハッピーになれない、隕石の一つも降ってこないニセモノ。それが私に約束されたものなのだ。
 どうやってアパートまで帰ったのかよく覚えていない。後ばねに汚れた足のままレターラックをひっくり返すと、空の写真が床に散らばった。スカイブルーはNYの空の色なのだと教えてくれたのも関だった。日本人が思っているより、ずっとずっとくすんだ重たい青。千尋の鉄の色とは似ても似つかない。
 しゃがみ込んで一枚一枚裏返すと、あたしの住所と関のメッセージが書かれている。
 いつからだろう。関はあたしに、金の無心しかしなくなった。職を失ったと伝えて、あたしとの将来を考えるなら、三十歳になる前に返事をくださいと書いた手紙から、三ヶ月音沙汰はない。誕生日まであと三ヶ月あったけど、あたしは本当は知っているのだ。
 自分がくすんだ色の偽物だということを。
 ポストを開けるたびにそれを確認している。自虐的なこの痛みが積もり積もれば、あたしは我慢できなくなって大声で泣いて、関のくれた空約束を捨てられるのだろうか。

 ハローワークは今日も素っ気なくて、永久就職先も当てがない二九歳の独身女としては、くたびれ果てた躰と心を抱えてのコンビニ通いも板についてくる。飽きられないようにくるくると商品を入れ替えるコンビニの努力は、賞味期限切れの男の始末もろくにできないあたしには眩しいくらいだ。
 梅雨時の店内は湿っていて、まとわりつくような空気が空調で冷やされて頭が痛い。高校生らしい男の子たちの、野太いくせにけたたましい笑い声も、乱暴に響く。
 あまり食べたくなくて、ざるそばの小さなパックを選ぶ。そのくせ、エビスのロング缶はケースで買っているなんて、我ながら大した堕落だと思う。お金を払って重たいビニールを受け取ると、自然とため息が出た。
 最近、ポストを見に行っていない。千尋の作った上げ底はきっとよく働いているだろうけど、守るべき手紙が一通もないのは変わっていないだろう。
 やみそうにないな、と外を見上げていたあたしの横を、高校生たちが通り過ぎる。押しのけられるように脇に避けたあたしの目の前で、一人が傘立ての黒い蝙蝠傘を掴んだ。
 ガラスの向こうで偽物の青い空が広がる。何が起こっているのか一瞬わからずにいたけれど、すぐにその子があたしの傘を盗んでいこうとしているのだと気がついた。
「待って、それ、あたしの傘」
 叫ぶのと自動ドアが閉まるのはほぼ同時、次のコマでは男の子たちがどっと笑いながら逃げていく。ちっとも悪びれていない、むしろ人を傷つけることを楽しんでいるような、残酷な笑い声だった。
 追おうとした足が続かなかった。相手は高校生の男子だから追いつけるはずもないし、追いついても危ない。それに、そうまでして取り戻すべき傘ではないと心のどこかが囁いた。執着するだけ、自分が惨めな気がした。
 棒立ちになったあたしの前を、誰かが走り抜けていく。見慣れた背中のように思えて、また硬直したあたしの元へ、しばらくするとその人は戻ってきた。
 傘もささずに行った彼はどろどろに汚れて、息を切らして、それでも右手に掴んだ傘をあたしに突き出してくる。
「……こんなこと、しないでよかったのに」
「ダメです」
「ダメじゃない」
「いいえ。この傘を手放すときは、橘さんの意志でなきゃダメです」
 彼は何を言っているのだろう、とあたしはぼんやりと考える。そんなあたしから千尋はビニール袋を取り上げて、ビールばっかりと顔をしかめてから、肩を翻した。
「ポストに来ないから、心配しました」
 年下のくせに偉そうにそう言って、千尋は土砂降りの中に無造作に踏み出していく。いくらアパートから近くても、帰るまでにはずぶ濡れになってしまうと、あたしは慌てて傘を差しかけたが、彼は嫌がるように避けた。
「この傘の世話になるのはごめんです」
「取り返してきたの、君じゃない」
「でも、イヤです」
 大きな歩幅で怒っているように先に行ってしまう千尋の背中に、あたしは覚悟を決めて傘を閉じた。小走りで追いつくと、彼はぎょっとしたように目を剥いた。
「傘さしてくださいよ」
「いらないわ」
「橘さんの傘でしょう」
「そうよ、だからあたしの自由なの」
 あたしの自由。声にした瞬間に、心が晴れていくのを感じた。千尋を見上げると、彼は困ったような目をしたが、やがて諦めたように息を吐いて羽織っていた上着をあたしの頭から被せた。ゴミ袋よりはましでしょう、と声が笑っていた。
「ねえ、指輪は渡せた?」
「……今、タイミングをはかってます」
 水たまりを蹴散らしながら喋る。偽物の青空の下に隠れているより、雨滴の中を堂々と走るほうが、ずっと心臓がどきどきする。
 明日、晴れても雨でも、あたしはまたポストを見に行く。そして、手紙があってもなくても、誕生日になったら待ちくたびれた夢に手を伸ばしてみようと思うのだ。
 その宇宙色の指輪を、あたしにちょうだい。生涯、君を愛すから、と。

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