C-02  空色の爪。あるいはおとぎの国のゴスロリ探偵。

 まるで吐血するように、紅い液体が王子の口から溢れ出た。
 指から落ちたワイングラスは、白いテーブル――いまや王子がぶちまけた赤ワインで血だまりのようになっていた――の上に落ちていった。
 王子、王子、とトランプの従者やら、白雪姫やらが叫ぶ中。
 ただ一人。
 王子の妻であるシンデレラだけが、蒼白な顔のまま、そっと愛おしげに落ちたグラスをつまみ上げ、とても上品な手つきでテーブルの上に置き直した。
 吐き出された赤ワインに濡れるシンデレラの白い指先の小さな爪。
 その爪先を飾る空色が。
 ――何故かとても、美しく見えた。


「つまらん! 実につまらんね!」
 芝居がかった声で叫んで女主人が投げだした新聞を、宇佐見は腰をおって拾い上げた。
 と、女主人は尚も声を張り上げる。
「なあ、つまらんと想わないかね! うさぎ君」
「……あのぅ。だから、僕の名前は宇佐見だと……」
「世の中、こんなくだらない、しかも、趣味を疑う、恥ずべき風潮が広がっているとは!」
 この女主人に拾われてから、実に千三百五回目となる訂正をものの見事に無視され、宇佐見はため息をつく。
 中学校の飼育箱から逃げ出した兎を追い掛け、裏庭の森の崖っぷちで足を滑らせそのまま三メートル転がり落ち、打った頭をかかえ左右を見渡せば、あら不思議。
 "そこ"はおとぎの国だった。
 建築法も真っ青の、雨が降れば倒壊確実なお菓子の家に、絵本そっくりのシンデレラ城。
 あちらに白雪姫の小人の家があれば、こちらには裁判が好きなトランプの女王の庭園が存在する。
 この国境無視、作家無視、ついでに倫理まで無視したおとぎの国で、いかなる艱難辛苦が宇佐見に襲いかかり、今の女主人に拾われたか。ということや、これまた物語的に都合良く、名前とここへ来た経緯以外のすべての記憶を気前よく、さっぱりと、漂白したように忘れた事については……物語の本筋とは全く関係ないため、豪快に削除するとして。
 宇佐見の現時点での問題は、女主人が、人々が魔女と呼ぶ、このゴスロリ一辺倒女が、一体何に憤慨しているのかという事にあるわけで。
「あのぅ、一体、何をそんなに憤慨で?」
「するとも! するともさ!! このようにおぞましい事があってなるものか!」
 長いキセルをぷかりとふかし、いらだたしげに室内を歩き回り、眼帯と包帯で飾られた巨大なピンクの熊のぬいぐるみを蹴り飛ばした後。
 我らが魔女は、黒レース三昧のパニエをかっと太股で跳ね上げ、お行儀悪くも片足上げて椅子を踏みつけ、海の彼方を見るような声で叫びあげた。
「人間界では、メイドとロリィタを混同しているのだぞ?!」
 がくりと首をうなだれ、肩を落とす。
 お仕着せの執事服の襟が、少年・宇佐見の心情に同調したようにくたりと曲がった。
「まあ貴女が、人並みの正義心だとか倫理だとかを備えているとは、拾われてこの方、これっぽっちもまったく想いませんが」
 そもそも、人並みに他者を哀れむ心があったなら、うっかりと人間界からこの世界に(しかも己の魔法の失敗で)おっことされた少年を、何とか戻してやろうと誠意奮闘してくれる筈だ。
 まちがっても、助手兼執事が増えたなどと喜び、そのままこき使ったりはするまい。
 戻してくれないと困るなあ、と想い、手にした新聞で腰を叩くが、怒り頂点にあるゴスロリ魔女は、ポーズを決めたまま、聞いてもいない演説をぶちまけていた。
「ロリィタとは令嬢であり姫であり、己の独自価値観世界に君臨する唯一絶対の女君主! 支配者にして高飛車であるべき存在だ! 人に仕えられる存在だ! しかしメイドは人に仕える事を喜びとする職業! つまり、支配者と被支配者ほどの違いがある! それを混同するなど! ああっ、おぞましい!」
 口から勢いよくキセルの煙を吐き叫ばれたのを聞き流し、拾った新聞に目を落とす。
 白雪姫、シンデレラ姫の夫君を毒殺?! といった大見出しの記事の下に、"長靴を履いた猫による人間界探訪記"という小さな記事が、メイド萌え〜。なる気の抜ける見出しと共に秋葉原のメイド喫茶が小さな写真入りで掲載されていた。
 ――なるほど、服装のひらひら度だけみたら、普通の人は混同するだろう。
 そう想いながら、どうせ怒るなら毒殺事件の起きる世の中にしてくださいよ。と、言いかけた時。
 凄まじい勢いで館の扉が開かれた!
「魔女! 魔女はいるか!」
 帽子屋の屋号をはった黒いシルクハットをこれ以上ないまでに見事に傾かせ、白いシャツに黒いベスト、黒いズボンに黒の巻き長エプロンといった服装の青年が、新聞片手に飛び込んできた。
「なんだ! ここはメイド喫茶ではない! 萌えならよそを当たれ!」
 火種を落としたキセルを、指揮棒のようにぴしりと訪問者の顔に向け魔女が怒鳴る。
 普通なら、「は?」とでも言い立ち止まるだろうこのセリフに、しかし、ずかずかと入ってきた帽子屋はものともせず。
「大変だよ、大変。白雪姫がシンデレラ姫の夫君を毒殺し、明日にでもトランプの女王が裁判を執り行うと」
 と、ロリィタ魔女の意見も主張も真っ正面から踏みつぶし、宇佐見から見たら羨ましい程強引に、来訪の用件を告げてきた。
「あー、らしいですね。何でも三月うさぎさんのお茶会で振る舞われたワインに、毒が入ってたって?」
 新聞の一面を広げ、記事を拾い読む。
「そうそう。白雪姫が土産と持ち込んだワインに毒が入っていて、それを口にした王子が呼吸困難でひっくり返ったと」
 せわしない身振り手振りで、ワインを落とす仕草をしたり、神に祈る仕草をしたりと、帽子屋は事件の再現に忙しい。
「それで、裁判好きのトランプの女王が明日裁判するっていうから、いつものように、僕とチェシャ猫に事件を調べろと」
「で? どう想うか私に聞きに来たのかね! くだらん! 実にくだらない!」
 言うが早いか、ロリィタ魔女は、天使と薔薇を象眼した銀のソファーにどっかりと腰を下ろし手を組んだ。
「大体、あの二人はいつかやりあうと想っていたよ。片がついて、いっそ清々するんじゃないかね?!」
 はっ、と息を吐き、毒の塗られた林檎のような不気味に紅い唇をニヤリと歪める。
「まあ……。いつかやり合うとは想ってましたけどね」
 女主人の指摘に、宇佐見はうなずく。
 童話の上ではめでたしめでたしで終わった白雪姫も、ここおとぎの国では――その後だけが延々に続く世界では、そうでもなかった。
 王子の口づけによって目覚めた白雪姫は、怖ろしい事に、違う方面でも目覚めてしまい、今や、男と見れば宇佐見にでも色目を使うほどの好色ぶりだった。
 その白雪姫が、おとぎの国で自分と人気を二分するシンデレラに対抗心燃え上がらせ、彼女の夫君であるシンデレラの王子を誘惑しようとするのは、当然といえば当然の流れで。
 そして、シンデレラが、貧しい想いをしたが故に、物に対する執着心を強くした娘(でなければ、使えない片方だけのガラスの靴を、後生大事に隠していた訳がない!)が、夫を寝取られる事に平然とする訳がなかった。
 当然にして当然の成り行きで、何とかシンデレラの夫君を誘惑しようとする白雪姫、誘惑させまいと妨害するシンデレラ。という女対女の、因縁の対決の図式はできあがり。
 それが、つまり、行き着くところまで、――殺人が起きるまで行ってしまったというのが、宇佐見も含めたおとぎの国の住民の大方の見解だった。
「それで?」
 酷くつまらなさそうに、ツインテールにした自慢の黒髪を指にからめ、ロリィタ魔女が退屈そうに言葉を投げた。
「裁判で実験するから、トリカブトの毒を借りてこいとトランプの女王陛下が言われてね」
「実験?」
「本当に死ぬかどうか、トランプの兵士にちょいと飲ませてみるそうだ」
 朝に目覚めのギロチン、昼にデザート代わりにギロチン、夜寝る前にギロチンと、ギロチン大好きな女王だ。
 手下の三六人一山のトランプ兵士、一人が死のうと平気の平左という事か。
 まあ、このおとぎの国を、人間界の倫理や道徳を尺度に物を計っても仕方ないとわかってはいるが。
 それでもまあ、犠牲になるトランプ兵士に、哀れの念を抱かずにはいられない。
「トリカブトねぇ」
 ソファーの横の果物かごから林檎を取り上げ、両手で回しながら魔女が顔をしかめる。
「王子はトリカブトで死んだのに間違いはないのかい?」
「それはもう! 監察医のチェシャ猫がニヤニヤ笑いながら断言したよ! トリカブトだねえって!」
 帽子屋のキンキンと高い声に耳を痛めつけられながら、宇佐見はチェシャ猫、と呼ばれる眼鏡白衣のおっさんを想い出す。
 猫のようにニヤニヤと笑い、死体の解剖が三度の飯より大好きな美少年スキーなおっさんは、人間としてはともかく、監察医としての腕はこのおとぎの国で一番だ。
 殺された遺体の死因を間違える事は、まずあるまい。
 魔女のお茶会に現れた際、ついでとばかりに宇佐見の尻を揉んでニヤリと笑った眼鏡の猫耳中年を想い出し、ぶるりと鳥肌たてて身を震わせれば、魔女はもう一度、「トリカブトねぇ」とつぶやいた。
「王子のゲロ……っと、吐瀉物からも、飲み残しのワインからも、トリカブトが検出されたんだ。もう、これは間違いないよ!」
 疑わしげな魔女の目に、憤慨しつつ帽子屋が叫ぶ。
「それは白雪姫が持ってきたもの?」
「そうだよ! シンデレラ姫の夫君がワイン大好きなのは、おとぎの国では有名だからね! それに毒を仕込んだって筋書きさ!」
「肝心の白雪姫は?」
「私じゃないって言ってるけど、否定したって駄目だろう。状況がそろいすぎている」
 何を今更、といった調子で帽子屋はずりおちてきたシルクハットを押さえ叫ぶ。
 刹那。
 ゴスロリ魔女はバネが跳ねる勢いで起きあがり、両手でくるくると紅い林檎を回し、毒々しい深紅の唇をますますとつり上げた。
「白雪姫が、持ってきた」
「ああそうさ! それを飲んだ王子は、たちまちに顔を青ざめさせて、紅いワインを血のように口からぶちまけテーブルに倒れたよ!」
「へえ! そう! へえ! そう! 紅いワインね!」
 がっ、と林檎を鷲掴み、黒くマニキュアした指を果実にめり込ませ、魔女は帽子屋に向かって林檎ごと手を突きつける。

「それは白雪姫は無実だね」

「え?」
「は?」
 ほとんど同時に、宇佐見と帽子屋は間抜けな声を上げた。
「え、だって、毒は白雪姫のワインから検出されたん……ですよね?」
「そう。王子のワイングラスから検出された」
 魔女の言葉がわからずに、宇佐見と帽子屋は新聞を広げ、二人で顔を寄せ事件を復習する。
「馬鹿だね。ああ、まったく揃いも揃って馬鹿だね! チェシャ猫の野郎、美少年と遊ぶ時間が惜しくて、どうせいつも通り大した説明もせず事実だけを言ったって寸法だろう!」
 林檎が真犯人の心臓であると言いたげに、魔女はわしわしと握る力を強めて笑う。
「いいかね! トリカブトが一体何の毒かわかっているのかね?」
「え? 植物の毒でしょう?」
 立ち上がり、新聞の影に隠れ怯える二人の男どもを見下す魔女に答える。
 と、魔女は大きくうなずいた。
「そうとも! 植物だとも! そして植物の毒はアルカロイド! つまりはアルカリ性だ」
 ぐしゃりと、驚異的な握力で林檎を握りつぶし、魔女は壮絶な笑みを唇に刻み、唇と同じ紅い紅い瞳をぎらりと燃えたぎらせた。

「アルカリ性の毒を垂らされたワインが、どうして血のように紅いのかね?」

「あっ」
「ああっ」
 またしても異口同音に宇佐見と帽子屋は叫びを上げる。
「ワインは放っておけば酢になる。――つまりは酸性で、赤ワインには葡萄の皮のアントシアニンって物質が含まれる。こいつは酸性かアルカリ性かで色が変わる面白い物質だ。身に覚えはないかね? 赤ワインの染みを石鹸で洗濯したら青く変わったなんて事が」
 林檎の果汁に濡れた手を、猫の仕草で舐め取りながら、魔女はくくっと喉を鳴らす。
「一滴や二滴ならわかるまい。けれど、もし、白雪姫がワインにトリカブトの毒を仕込んでいたなら――毒であるほど強いアルカリ性物質を詰め込んでいたら、それはそれは見事に青い、空色のワインだっただろう! だがしかし、実際に王子が吐いたのは、血のように紅いワインだった! ……そうだろう?」
 獲物の血を舐め取るように、執拗に執拗に手についた果汁を舐めていた魔女は、それにも飽きたのか、はっ、と息を吐き出し、編み上げブーツの底で床をどんっ、と蹴りつけ高笑いした。
「つまり犯人は別の人間で、そいつが王子に毒を仕込み、果てには白雪姫に罪をなすりつけたくて、王子が倒れた直後のどさくさに紛れて、ワインに毒を仕込んだんだろう」
 最もな指摘に、宇佐見と帽子屋は青ざめる。
「で、でも、それなら真犯人は」
 取り落とした新聞を拾う事もできないまま、魔女に向かって問いかける。
 が、魔女は真実を開示したことで事件への興味が薄れたのか、知らないとばかりに肩をすくめ、くるり背を向け吐き捨てた。
「――そうさねえ。王子の側にいて毒をいつも入れられる人間、そして多分どこかに青い染みを付けていた」
「シンデレラだ……」
 帽子屋が帽子のつばを引っ張り、顔を陰らせながらうめいた。
「彼女が王子を助け起こした時、吐き出した赤ワインに濡れた手の中、空色の爪だけが妙に綺麗で――美しくて」
 真実に青ざめ言葉失う帽子屋に、魔女はからかうように笑いを放つ。
「ああそうだろうさ。妻の彼女なら、王子を助け起こすふりをして、ワインに毒を仕込む事も簡単だろう。あらかじめ自分が飲ませた毒が効く時間を見計らい、王子にワインを勧める事も。トリカブト毒の粉末なんて、…指輪に細工でもして隠せるものだし」
 帽子屋を追い出すようにひらひらと手を振り、魔女はさらに言葉を続けた。
「わかったら、今頃美少年とよろしくやっている、あのいい加減なチェシャ猫医者を引きずり回し、王子の胃から出てきた食べ物とやらを詳しく聞き出すんだね。きっとその中に、シンデレラが毒を仕込んだ何かが混じっている。たとえばチョコレートだとか、クッキーだとか。お茶会にシンデレラが持ってきただろうお菓子のどれかに、ね」
 告げられるや否や、帽子屋は顔をあげ、シルクハットを跳ねとばさんばかりの勢いで背を向け、来たとき以上の騒々しさでサロンの扉を開き、大変だ大変だと騒ぎながら、魔女の館を飛び出した。
 台風の去ったサロンで、帽子屋にふみつけられ、しっかりとしわくちゃになった新聞を拾いながら、ため息をつく。
「でも、どうして、シンデレラは自分の夫を殺害したんでしょうねえ」
 殺すなら白雪姫の方だろうに。と、尋ねれば。
 魔女は、再び長椅子に横となりキセルをふかしながら、ははんと鼻を鳴らしあざけった。
「シンデレラは貧しかっただろう?」
「はい」
「王子を手に入れて、それから、姫の立場を手に入れて、服を手に入れて、宝石を手に入れて。でも、貧しく、姉に豪華な服や宝石を見せびらかされていた頃の悔しさがあって、酷く物欲が、独占欲が強くなった」
 めでたしめでたしのその後を、とうとうと語りながら、魔女は細く細く紫煙を吐いた。
「だから、さ」
 長いまつげをゆらし、ぱちんと見事に片目を閉ざし笑う。
「王子を白雪姫に誘惑され、取られるのが我慢ならなかったのさ」
「……」
「死体は誘惑されない、死体は奪われない。何たって動きはしないんだからね」
 二度と微笑みかけない、二度と話さない、抱きしめない。
 それでも、シンデレラは良かったのだろう。
 手に入れた王子が奪われないのなら。
 手に入れた道具が、いつまでも側にあるのなら。
 物欲という、童話の影にかくれた欲望を満足させてくれるなら。
「……」
 居心地の悪い沈黙に宇佐見が立ちすくんでいると、まるで物語の終末を告げるように、鳩時計が三度鳴いた。
「さて、迷惑な客も片づいた事だ」
 魔女は身を起こし、キセルの煙でわっかをつくり、それを指にくぐらせながら笑った。
「三時のお茶にでもしようではないか。うさぎ君」
「……だから僕は宇佐見ですってば」
 無駄な抵抗を見せながら宇佐見は。
 ――この世にいつまでも幸せに、めでたしめでたしなど無いことを、しみじみと思いしらされていた。

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