C-03  きみは空色

「ちょっとアオ! なんでこんなもの買ってくんの!」
 広くもない2DKだ、怒鳴らなくても聞こえるというのに、いらいらしている母はもう我慢ならないというように叫ぶ。なんだか知らないが明央は台所で粗相をやらかしていたようだ。あのぎゃんぎゃん声、たまんねえなあ。明央はため息をついてパソコンの前を離れる。ああして叫んでいる母は、明央がちゃんと現場にいって謝罪し、ご機嫌をとって宥めるまで止まらない。最近よくヒステリーを起こすようになった。いちど「更年期か」と言ったことがある。端的に明央も幼なかった。二度とその手の冗談を口にすべきではないと骨の髄まで叩き込まれた。
「なに」
 台所の入口に立って訊くと、目の前に牛乳パックを突き出された。ただの牛乳、紙パックの二リットル入りのやつだ。きのう明央が買ってきた。なぜ怒らせたのかわからない。賞味期限は確認したんだけどと思い、あらためてパックを点検すると、自分の誤ちがわかった。
「あー、ごめん。悪い。気がつかなかった。産地な」
「わざと買ってきたんでしょ。私のことが気に入らないからって、こんなもの」
「まさか。ただうっかり、凡ミスだよ」
「うっかりでこういうことするわけ? 私がほんとに嫌いなんだって知ってるでしょ? 人のことなんかどうでもいいと思ってるから忘れるのよ」
 怒り半分、泣き半分。母親は乱暴に牛乳パックを引き開けて中身をシンクに流し捨てた。そこまでやるかと思いながら明央は黙って見守る。なにしろ自分のミスだ。母は空が大嫌いだ。正確には空という単語が大嫌いだ。牛乳のパックには「北海道空知地方」と産地が表示されていた。それだけで母は本気で我慢がならないらしい。たまたま牛乳が特売だったから家計のために気を利かせて買っておいたのだが、裏目に出たわけだった。
「ほんと悪かった。きょう数学の小テストだったんだ。きのうはそれで頭がいっぱいで……」
 母相手には勉強ネタに限る。明央はこれでも学業不振でない方だ。もともと大した高校に行っていないから苦労しないというのもあるが、中堅とはいえ一応は進学校の理系クラスで、上の中くらいの成績をキープしている。狙いどおり母は、指で触れられたオジギソウのようにおとなしくなった。
「……で、どうだったの」
「え」
「テスト」
「ああ、おかげさんで。まあまあできたと思う。あさって返ってくるから」
「平均点以下だったら承知しないわよ」
「だいじょうぶだよ。おれ、アヤコの息子だよ?」
 高学歴のプライドをくすぐられた母は鼻息で応え、空になった牛乳パックを洗いもせず明央に押し付けて台所を出ていった。やれやれと明央はその背を見送り、シンクでパックを洗う。水道水と混じってうすい灰白色の液体が排水溝へと渦を巻いて流れてゆく。とつぜん、排水溝の鈍色のフタが卵子、そこへ吸いこまれていく牛乳が精子という暗喩が頭の中にわいてきて、明央は思わず牛乳パックを自分の額に打ちつける。パックの中にはすこし水が入っていて、派手な水音をたてて飛び散った。
「アオ? なにしてんの」
「……いやちょっと、反省を」
「何ばかなこと言ってんの。散らかしたら片付けてよ」
「へい」
 雫になって前髪から滴りおちてゆく水牛乳を眺め、明央は独りため息をついた。
 更年期の一件以来、どうも旦那の役割まで強要されている気がする。母さんと呼んでも返事をしない時がある一方、アヤコと名前で呼ぶと「生意気だ」と言って喜ぶ。
 よくないよなあ。
 よもや母親とどうにかなるとは考えないが、母一人息子一人の家ではなにか隠微なニオイがして落ち着かない。そんな雑念を紛らすために明央は気合を入れてシンクを洗い流し、床に飛び散った水を拭き取って、その雑巾が臭くならないようよく濯ぎ、最後に牛乳パックを切り開いて干すことまでやった。
 家事が完璧にできすぎて我ながらちょっと泣けた。

「あんたDQNな親らしいよ」
「ドキュン? なんだそれ」
「おれの名前。明るい中央でアオだなんて、ふつう読めないだろ。そういう妙な名前を子供につけるような親は、DQNなんだ」
 ひさしぶりに会った父はよく日に焼けて健康そうで、快活な笑顔だった。こっちは苦労してるのに、と思うと腹が立って、明央は自分の名前のことで父を責めるという自虐戦術に出た。
「へえ。それはきっとネットの言葉だね」商社の営業をやっているだけあってさすがに察しの良いところを示し、父は屈託なく笑った。「いい名前だと思うけどなあ。アオ。青色なんだよ、きみの名前の音はさ」
「知ってる。そのままブルーの『青』で良かったんだ。変にいじるからおかしくなった」
「そうかな」
 そう言って首をひねっている能天気さにまた腹が立つ。だいたい半年に一度しか会えない息子とマクドナルドに入るとはどういう了見だ。こんなだから母に愛想を尽かされたのだ。稼ぎの大半は慰謝料や養育費に消えているはずだから吉兆だのリッツカールトンだのとは言わないが、せめてチェーンでもいい、レストランに入るべきところだと明央は思う。百歩譲ってファストフードでも、モスとかサブウェイとか、フレッシュネスとか。
 まあ今さら言ってもせんないことだ。この男に期待すること自体が間違っている、そう容赦なく断定して明央はむっつりとバーガーにかぶりつく。トマトグリルチキンサンド。父はといえば嬉しそうにビッグマックを頼んで、「仕事の日はこういうの食べられないんだよなあ」と言ってのけたところがまた気に障ったという次第だった。
「あんたがしっかりしないから、おれに余計な皺寄せがくる」
 明央と同じようにビッグマックを頬張っていた父はもぐもぐと口を動かして、なかのものを嚥下してから「苦労かけてすまないねえ」と言った。
「絢子から聞いてるよ。僕に似なくて彼女に似たからきみは優秀なんだそうだ。良かった」
「アホか。なにが、良かった、だ。この甲斐性なし」
「その容赦ないところがまた絢子そっくり」
「バカにつける薬はないらしいよ。残念だったな」
「ほんとにねえ」
 父はポテトをつまみながら、ケチャップはないのかな、と店内を見回している。明央はもう罵倒するのも嫌になって、父のポテトを一掴み横取りしてやった。
「おお。さすが食べ盛り。もっと食べていいよ、ほら、どんどんお食べよ」
「うるせー」
 何を言っても何をやってもこの調子だ。超がつくほどマイペース、暖簾に腕押し。人間としては良いのかもしれないが、と明央は腹立ちの中で思う。ある面で魅力的なパーソナリティであることは認める。だが夫としては不適だった。相手によるのかもしれないが。頭に来ている時にこんな応対をされたら、母の性格では耐え難かったことだろう。今まさにいらいらしている明央は心から母に同情する。
「圭祐のほうが良かったかい」
「は? ケイスケ?」
 突然言われたことの意味が不明で訊き返すと、父はつまんだポテトを指揮棒のように動かして「圭祐」と空中に書き、笑った。
「きみの名前さ。明央は、なんだっけ、ドキュンなんだろう。それは僕の案だ。絢子は圭祐にしようと言っていた。どっちがいいか二人で比べて、明央に決めたんだよ」
「……良かったかって言われてもな」
「そりゃそうだ。きみの自我は明央という名前と分かち難く結びついてる。はずだ。たぶん」
 字を書いたポテトを躊躇なく平らげて父は頷いた。明央の名前になるかもしれなかった字。
「してみると僕は、きみのお父さんなんだよなあ、ほんと」
「いっぺん殴られてみるか」
「遠慮しとくよ。きみはもう立派な体格をしてる。殴られたら痛い」
「自虐的な気分になったらいつでも呼んでくれ。叩きのめしてやる」
 父はおもしろそうに笑い、目を細めて明央を見つめた。
「じろじろ見るな。気色悪い」
「だって、きみがあんまり優しくて感動したんだもの。やっぱり絢子に似たんだねえ」
「気の毒なアヤコさん。こんなのが元ダンで」
「ああそうそう、それも言ってた。最近きみはお母さんのこと名前で呼ぶんだってね」
「……たまにだよ」
 母はそんなことも父に話しているのだ。明央は横目で父を見た。父はもう明央を見ておらず、ポテトの油と塩がついた指を紙ナプキンにこすりつけながら、ガラス越しの雑踏を眺めていた。
「なんだか喜んでるふうだったな。彼女も甘えるのがへただからね。だろう?」
「おれに訊くな」
「それもそうか。いや、でもきみが一番近くにいるんだし」
「やっぱ喜んでるのか、あれ」
「そう思うよ。年頃の少年としちゃ、何だ、微妙なとこだろうね?」
 ずばり指摘されて明央は返答に詰まる。そんな息子を見て父は笑った。
「でも久しぶりにきみと話してみて、大丈夫そうだから安心した。ま、今は子供が母親のことを名前で呼ぶのが珍しくないらしいからね、若い気がするとかで、絢子もそれで抵抗がないんだろう。あまり負荷がかかるようなら言ってくれよ。甲斐性なしだけど、できることはある。かもしれない」
「……このタヌキ親父。くそったれ」
「きみね、仮にも社会の第一線で戦ってるサラリーマンを甘く見るんじゃないよ」
 むしゃくしゃする。明央は食べおえた後の紙屑やコップをトレーにまとめて父の前に押しやった。あっち、とゴミ回収ボックスを指差すと、父はごちそうさまと言って機嫌よく捨てに行った。
 それから書店に寄ってフランク・ロイド・ライトの建築写真集を一冊買ってもらい、それで父との会合は終わりだった。父は仕事、明央は勉強でお互い忙しい。次に会うのはまた半年後だ。別れ際の挨拶はこんな具合になった。
「僕は優しくないらしいけど、これでもきみたち母子のことはいつも想ってる」
「ああ、そう。ありがとう」
 明央はぶっきらぼうに答える。ほかに反応のしかたを思いつかなかった。
「ひとつ教えといてあげるよ。きみの名前ね、思い付いた時、僕と絢子は山の頂上にいた」片手でコニーデの形を描き、富士山、と付け加える。「きみがまだ細胞の一かたまりだった頃さ。恐ろしいほど空が青かった。きみがいつか、あの天上の青を見てくれたらいいと思うよ」
「……ふうん」
「もっともこれは絢子のあずかり知らぬことだ。僕のそういう趣味を彼女は笑うもんだからさ、だまって一人で感動してたわけ」
 たぶん、母は父と離婚したあとで空が嫌いになったのだろう。わかるような気がする。頭の中に空色のペンキをぶちまけられたような気分で、明央は右の手のひらを上へ向けて父に差し出した。
「なに。握手?」
「ちがう。富士山、行ってくるから交通費」
「だめだめ。自分で稼いで行くんだよ、もちろん。あたりまえだ」
「おれ、学費自分で払ってんだけど。これ以上バイト増やしたら成績落ちて母さんが怒る」
「そうだった。だめな父親だねえ、僕は」
 そう屈託なく笑い、父は諭吉を一枚ぽっきり明央の手に置いて、じゃあねと手を振って歩き去った。

 富士山に行くことは母に言わなかった。富士山という固有名詞を出した瞬間、母は鋭敏なカンで何かを嗅ぎつけるだろう。あの人から何を吹き込まれたの、などと痛くもない腹を探られるのはまっぴら御免だった。
 勉強をガリガリやって、息抜きに友だちの家へ泊まりに行って、帰ってきたらまたガリガリやる。
 そんな架空の筋書を聞いた母は、しかし暗い目になった。母子ふたりで向きあった沈黙の後、ちゃんと帰ってきてよと言った母に、明央は黙って頷くしかできなかった。

 空気が薄い。
 高山病で寝転がっている人がそこらじゅうにいる。夏だから人が大勢いるだろうと当て込んで明央は単独登山に踏み切ったが、つまり何かトラブルがあっても誰かが助けてくれるだろうと思っていたのだが、こんな光景は予想しておらず、否が応にも気は引き締まった。
 足が重い。一、二、一、二、心の中で自分に声をかけながら進む。一、二、一、二。
 汗がしたたり落ちる。水を飲む。水は明央の中で何かと混じり、重く、灰白色に、濁ってゆく。

 母さん。おれ、空を見にいくんだ。
 父さん。母さん、泣いてるんだぞ。

 薄いガスが出てきた。明央は前方を振り仰ぐ。青い空が紗のような白で覆われていく。まだだ、まだ見ていないのに。父と母が見た空を明央はまだ見ていないのに。しかし明央は諦めずに進んだ。頂上へ。

 頂上は岩とガスと、それからガスだった。数メートル先のものも見えない。ヤッケを頭から被っていなければガスの水気でびしょ濡れになっていただろう。間断なくガスを運んでくる風の中、明央は無言で立ち尽した。いつの間にか隣に立っていた中年女性が「なにも見えないねえ」と文句を言った。
「見えないっすね」
「なに。僕、一人?」
 僕はないだろうと思いながら明央は頷く。
「ええ。ちょっと空が見たくなって」
「それじゃ残念だったわね」
「そんなもんじゃないすか。見たい時に必ず見れるとは限らない」
 半分は自分に向けて言うと、女性は明央の腕を叩き、「若いくせして」と言って去っていった。自分の言葉がすんなり腑に落ちた明央は、休憩してから下山しようと決め、女性が歩いていった方へと自分も歩きだした。

 直後、ふと明るさを感じた。まさかと思う間にも明るさは増してゆく。
 振り返った瞬間、視界が晴れた。

 青。
 どこまでも青。
 この青か。これが、父と母の見た天上の青か。

「こんなもんじゃない? 見れないと思ったら見れた」
 背後で声がした。さっきのおばさんだ。明央は頷く。
「なんかあったの、あんた。顔つきが変。ばかなこと考えちゃだめよ」
「……おれ、アオっていうんです。名前」
「そ」
「ここで、この頂上でおれの名前、思い付いたんだって聞いて」
「ロマンチックね」
「笑っちゃいますね」
 ヤッケのフードをどけて、水滴のついた前髪を払い、明央はおばさんに笑いかけた。
「ちっとも。ぜんぜん、おかしかないわよ」
 おばさんは大まじめな顔で答え、明央の手にチョコ菓子を一つ押しつけた。
「あげる。食べて、家までちゃんと歩いて帰んのよ」
「すいません。ありがとう。大丈夫です」
 わざわざチョコのために戻ってきてくれたおばさんは、また向こうへ歩き去って行った。
 明央は立っていた岩の上にあぐらをかいて座り、足の疲労を確かめながらチョコをかじった。目はひとときも前方から離さない。

 空は深く、大きく、何もかもを呑みこんで青かった。

C-03: きみは空色
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