C-04  一人法師

 山の動物達も寝静まった幽玄の刻に、菊乃は長い髪を束ね、着物の袖を縛って、幽鬼のごとく木々の間を彷徨い歩いた。
 家にいたところで、心を交わす相手もない。空の賑わいで己を慰めるがごとく、星明かりの強い夜に散歩することは、半ば日課となっていた。
 今宵も、灯など必要とせぬほど空の光点が輝いている。いっそ、下弦の三日月がさらに身を細らせ霞んでいるかのようであった。
 しかし、菊乃がそれらを見上げたのは、明るさを確かめる、ほんの一度きり。
 ――あれらは、遠く冷たい光。所詮、触れることも叶わぬ。
 その目は歩きながら、命あるものの姿を追い求める。自ら、命あるものを遠ざけておきながら。
 ――なんと、あさましいことよ。
 心の内で自嘲しながら、なおもあきらめきれぬように、枯葉を踏みしめ歩き続ける。
 ――何でもいい、血のかよったものにふれたい。それすら、果たされることのない、贅沢な望みだというの。
 立ち止まって見渡したところで、生きものの姿など見当たらぬ。かすかに気配を感じることはあれども、それも近づくとどこかへと逃げ出してしまう。
 無論、このような山奥に人の姿を見ることなど有りはしない。ならばせめて小さな動物に触れたいものだと夜闇に彷徨い出たものの、それすら叶わぬ望みらしい。
 菊乃は溜め息をひとつ吐き、もと来た道へと引き返そうとした。
 と、不意に、異変を感じ取る。
 急に、周囲の空気が冷えたようであった。季節は秋、間もなく冬といった頃合といえども、同じ夜にこれほど突然、寒さを感じたことはない。
 そして、異変はこれだけにはとどまらない。ざわざわと、何が起きてもおかしくないような、混沌とした雰囲気が夜の空気を乱す。
 近くに生まれる、奇妙な気配。
 ――物の怪だ。
 直感的に悟ると、菊乃は木の陰へ身を潜めた。
 人里離れた場所、或いは人通りの少ない夜の道端など、物の怪が現われ人を取って喰らう、などという話は聞いていた。それでも、かつては物の怪など本当に存在するのだろうか、と思うていたが、ここへ来て、すでに幾度か姿を見ている。
 それが危険なものだと、本能が告げていた。震えそうな膝に力を入れ、じっと動きを止める。できるだけ、自分の存在を無に近づけようとする。物音ひとつ立てようものなら、瞬時に身を引き裂かれるであろう。
 ――そんな死にかたは、いや。
 そうやって消えるのも良いかもしれない、と思ったこともあった。だが、できればぬくもりのなかで消え去りたい、という願いは、常に胸の内にある。
 早く物の怪が去るように祈りながら、目だけを動かすと、重なり合った木の葉の向こうに、身を潜めた物の怪が見えた。一度見たら忘れ得ぬような、真っ赤な血の色をした目だけが、ぎょろりと見開かれている。
 握りしめた手のひらに汗をかきながら、闇に身を潜める女は、呼吸の音すら消そうとする。
 しかし、地面を照らす星明りに影が揺れるのを見ると、あっ、と叫びそうになる。
 影に続いて、その主がゆらりと姿を見せる。道中笠を被り、墨衣に袈裟をまとったそれは、間違いなく。
 ――人間?
 胸が高鳴る。人の姿など、久しく目にしてはおらぬ。
 物の怪への恐れも忘れて見入る菊乃の存在に気がつくこともなく、旅の法師と見える人間は、物の怪が身を隠す木の前で足を止めた。
 ――あれが、見えているの?
 菊乃が疑問を抱いた直後、葉を散らし、物の怪が飛び掛った。輪郭のはっきりしない、黒い『何か』が、鋭い爪を眼下の人間へと突き出す。
 やっと出会えた人間が、生きものではない、得体の知れぬ物の怪などに引き裂かれてしまうのか。
 酷く落胆しながらも、生きものに恋焦がれていた女は、じっと見つめ続け――だが、その人間の死を目にすることはなかった。
「破」
 小さな、息を吐くと同時の気合の声は、若い男のもの。男は武器も持たぬ右手を横薙ぎに振り、物の怪の胴を両断したのである。
 信じられぬ光景に、菊乃は束の間、瞬きすら忘れて見入った。
 黒い血をまき散らして地面に落ちた物の怪の残骸は、蒸発するようにして消える。
 人間はしばしの間、確かめるように、それが消えた辺りを見下ろしていた。
「妖は消えた。恐れることはない。姿を見せられよ」
 アヤカシ、妖怪。いずれも物の怪の、まごうことなき別の呼び名であった。
 ほんのわずかな間ではあるが、菊乃は、その言葉が己に向けられているものだと気がつかなかった。だが、彼の声を耳にするものは、ほかには存在しない。
 瞬きの間のためらいのあと、木の陰からつと歩み出る。星明りの下に全身をさらすと、思わず足が震えた。
 ――このような身にも、羞恥のような感情が残っていたのか。
 本来なら、到底、人前に晒せる身なりではない。恥ずかしさのあまり、視線を感じると全身に熱を感じるほどだが、意を決して顔を上げる。
 笠の下から穏かな視線を向けているのは、端正な顔立ちの、若い男だった。
「あの……旅の法師さまが、なぜこのような人里離れた地へ……?」
 女がそう切り出すと、男は幽かに苦笑し、笠を手に取る。黒髪が濡れたように、葉の間からこぼれるわずかな明りを反射した。
「この姿は、生きやすいがためのもの。私は只の、流浪の者です。そうかしこまらないで頂きたい」
「左様でございましたか。しかし、まことの法師に引けを取らぬ品位を感じます。それに、先ほどの物の怪祓いの術……」
「降りかかる火の粉を払ったまでです」
 言って、男は笠を再び頭上に持っていく。またすぐに、旅立つかまえと見えた。
「このような夜更けです。よろしければ、わたくしの家で夜明けを待ってはいかがでしょう。世辞にも綺麗とは言えぬ家ではありますが、露をしのぐことくらいはできましょう」
 道なき道を分け入り、このような山奥まで登ってきたのだ。一見そうは見えなくとも、相応に疲弊しているはずであった。
 事実、余り表情の変化が大きな方ではないと思しき旅人も、少々ほっとしたように頬を緩める。
「そう言って頂けるのなら……是非、一晩の宿にあずかりとうございます」
 その穏かな微笑に、菊乃は永らく感じることのなかったぬくもり――命の気配に胸を躍らせた。

 流浪の男は、菊乃の名を問うて、良い名ですね、と讃えたものの、一向に己の名を告げようとはしなかった。
「私のことは、法師とでも、浪人とでも、好きにお呼びください」
 所詮は、一晩だけの関わり合いだ。名を知られることを厭う罪人とも思われない。それだけの付き合いに過ぎぬ、ということなのであろう。
 菊乃の家は、柱と板を組み合わせただけのような、あばら屋であった。それでも、何とか石と木枠を組み合わせて砂を盛った囲炉裏に揺れる火が、誰かがそこに暮らしているのだという風情を見せている。
 あちこちが欠けた、都に住む者なら触れるのもためらうような湯呑みを、法師は平然と受け取って茶をすすった。あきらかに菊乃より年下と見える男だが、そのたたずまいには、幾多の人生を見てきた老法師のような落ち着きがある。
「法師さまは、なにゆえこのようなところへ? とても、人が旅するようなところではありますまい」
 まだ、最初の問いかけの答を聞いていない。今一度、同じ問いを重ねる。
「旅をするにもそうですが、人が住まうにも難儀なところです。菊乃どのは、なぜこのような人里離れたところに住んでおられるのです?」
 菊乃は、はぐらかされたと感じた。しかし、相手にとっては当然の疑問に違いない。
「わたくしは、かつては小さな村で暮らしておりました。しかし、今はその村に、会いたくない者がおるのです。わがままなことですが、それゆえにこうして、人と顔を合わせることのない山奥にて暮らしております……だというのに、愚かなことです。人恋しゅうてたまらぬのです。言葉を交わす相手もないとは、こうも寂しいものなのですね」
 菊乃は、嘘や誤魔化しが苦手だった。そして、それを用いることがこの場では無駄であるとも感じていた。見透かされるような気がしたのである。
 法師は、笑うでも眉をひそめるでもなく、じっと漆黒の目を向けていた。
「そうでしたか」
 湯呑みを置き、彼はひとつ、息を吐いた。
 ――次は、あなたの番。
 口に出さずとも、菊乃の目は如実にそう語っていたであろう。法師も、この期に及んではぐらかすつもりはないと見えた。
「本来ならば信じがたい話であろうが……菊乃どのは、あれをご覧になられたのでしょう」
 あれ、とは、物の怪を両断した技に相違なかった。いかに強力な祓い師といえど、あれほど容易く物の怪を消し去るという話など見たことは勿論、耳にしたこともない。
 女が静かにうなずくのを見届けて、法師は淡々と語り始める。
「私はもともと、妖祓いの術師の一族の者なのです。しかし、あるとき、手に負えぬ物の怪を敵に回してしまい、一族は、一人、また一人と倒れていきました。このままでは全滅かと思われたところ……命が惜しかったのでしょう。叔父が、代々一族で守ってきた、鬼の肝を持ち出したのです」
「鬼の肝……?」
 無論、菊乃は鬼など見たことはない。だが、鬼とはひとつの種族ではなく、物の怪の中の恐ろしく強力なものをそう呼んでいるのだ、と耳にしたことがあった。幼いころ、悪戯をしていると鬼が来る、などと、よくたしなめられたものだった。
「左様。何百年も前に先祖が八百日の戦いの末に封じた鬼の肝で、それを口にすれば、不老不死になって大きな力を得るか、人の心を失い自らも鬼と成り果てるか、そのどちらかだと云われておりました」
 どちらにせよ、人ではなくなる、ということではないか。人間としての命を異質なものへ変えることが、菊乃には酷くおぞましく感じられた。
「叔父は、さすがに自分で口にするのは恐ろしかったようで、鬼の肝を私に喰らわせたのです」
 唯一の聞き手がそれの意味することに気がつくまで、少々の間を要した。
 ――この法師が、鬼の肝を喰らった?
「それでは、法師さまは……」
「肝の力で、妖祓いの力は高まり、老化もすでに止まっております。私はもう、齢百を超えている……信じられぬ話でしょう」
 無表情に近かった法師の顔に、どこか寂しげなほほ笑みが浮かぶ。とても人の一生分以上の時を経ているとは見えぬ、若々しい顔に。
 しかし、彼が嘘をついているとも思われぬ。村に住んでいた頃ならばともかく、菊乃はすでに、信じられぬようなものをいくつも目にしている。物の怪も、それを法師が祓うのも、その目で見た。
「では……年取らぬのを怪しまれぬよう、法師の姿で人里離れたところへ……?」
「それも、この姿の理由ではありますが、やはり、寂しいのです。ですから、できるだけ他人と関わらぬようにしております」
 寂しい。
 菊乃の心にも、大きく根を張っている感情であった。だから、菊乃は命あるものを探す。
 だが、この法師は逆に、人を遠ざける。
「それは、どういう……?」
「人と関わると、情が移ります」
 答は明確だった。
「人としての幸福に触れてみたいと……人を愛し、子を儲けたことすらもありました。しかし、どんなに愛しい者も、私より先に逝くのです」
 大切な者を失う苦しみを味わうくらいなら――ずっと一緒に生きられぬのなら、最初から得られぬ方が良い。ということなのだろう。
「人の心を失い、鬼になる……それが、鬼の肝を得た者の末路の一方。できるだけ人と関わらず、心を消して生きている私は、すでに鬼なのかもしれません」
 何かを悟ったような目に、菊乃は、心が揺さぶられるような衝動を感じる。
「この姿も、私が求めるのは空の境地であると……自らを騙すための道具なのかもしれない。私など、到底辿り着けはしないというに」
「そんなことはないはずです」
 この男は、愛することも愛されることもやめ、一人、ぬくもりのない闇を歩き続けている。今はまだ求めることを止められぬ、己の行き着く姿であるかのようだ。
 つい、口を挟まずにはいられない。
「求め続けていれば、いつかは手が届くはずです」
 その言葉に、相手は少し面食らったように目を見開いたあと、微笑した。
「信じてくださるのですね。菊乃どのは、優しいおかただ」
 満足げに言うと、墨衣の懐から小さな包みを取り出し、菊乃の前へ差し出した。
「わたくしに……?」
 驚きながら、木の葉を重ねた包みをほどくと、さらに、愕然とさせられる。
 包みの中にあったは、紐で結われた、一房の遺髪だった。そして、包みの内側には、見覚えのある筆跡の文字が連なっている。

 遠山に君いづこやと問ひにける
       山彦のみぞひとつかえらむ

 はらりと一滴、菊乃の目にあふるるものが落ちた。
「道中、世話になったおかたを看取るご縁がありました。しかし、そのかたの魂が、一向にこの世を去ろうとしないのです」
 法師の声をどこか遠くに聞きながら、菊乃の目には、かつての日々の光景が、浮かんでは消えていった。
 添い遂げようと誓った男は、没落貴族であった。暮らしはその日の食べ物を用意することにすら苦心するありさまであったが、子宝にも恵まれ、満ち足りた日々だった。
 しかし、菊乃は己が流行り病にかかったと気がつくと、一人姿を消し、山に入る。ほかに道はなかった。医者にかかる金などなく、そばにいると、家族にも感染してしまうのだから。
 人の入らぬ山奥で生きているとも死んでいるともつかぬ暮らしを続けて一年も経たぬうちに、菊乃の命の灯は尽きた。
 ――あの人も、死んだのか。
 すでに肉体は朽ち果て地に還った。それでも魂魄だけで存在しているのは、孤独が、ぬくもりへの欲求がここに残っているため。
 ――あの人は、私に心を残した。
 懐かしさに、喜びに、手が震える。
「では……法師さまは……」
 相手が何のためにここへ来たのか、今や明確であった。彼は、最初から菊乃に会うつもりだったのである。
「強制はいたしませぬ。しかし、共に逝かれるのであれば、そのようにご供養いたしましょう」
「願ってもないお言葉です」
 両手に掲げる遺髪にぬくもりを感じながら、菊乃は、その手が少しずつ、色を失っていくのを見た。
 ――いよいよ、消えるときが来たのか。
 しかし、恐れはなかった。すぐそばに、確かに愛しき者の気配が寄り添っている。
「生きものの近づくこともない、冷たい幻として彷徨い続けるだけと思われた身が、愛する人と共に逝けるのです。何をためらうことがありましょう」
 満ち足りた、あたたかな気分であった。菊乃は夫の遺髪と包みを抱いたまま、感謝を込めて法師を見る。そして、しばしの間、相手の笑顔に釘付けとなった。
「それは良かった」
 喜びの心情がそのまま表われたような、屈託のない笑顔。心洗われるようなそれを、菊乃は最期に目にできてよかったとさえ思う。
「他人のためにそのように笑えるあなたが鬼であるなどと、わたくしには思えません」
 ――それでもなお、私を葬ったあとも、この人は変わらず孤独な旅を続けるのだろうか。
 傍らに愛する人の気配を感じる喜びを噛みしめながら、菊乃は最後の瞬間まで、目の前の法師に、まるで子を案じる母のような気持ちを抱き続けた。

 まだ夜の明けきらぬうちに、法師は菊乃とその夫を丁重に葬ると、木々の間を歩き出した。
 その目は、生きものの這う大地よりも、専ら空へと向けられる。
 彼は、夜空を見るのが好きだった。生命あるものはほんのわずかな間に生まれ、滅び、移ろいゆくが、星々は容易には変わらない。それは、己が確かに周囲の世界、そしてそこに生きるものと同じ時の流れにいるのだと感じさせてくれる。
 星明りのみを頼りに、只一人、夜の山を行く。
 その姿はやがて、木々の葉に阻まれ、光すら届かぬ闇の中へと消えていった。


   〈了〉

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