C-07 心の形
心には、確かに形がある。
僕がそれを初めて知ったのは、小学生のときだった。両親が離婚し、僕は母に引き取られた。
僕がまだ幼稚園に通っていた頃、家族三人で遊園地に行ったときの写真があった。楽しそうに笑う僕を抱いた父に、寄り添うように立つ母。
いつ頃から両親の笑顔が消えたのだろうか。十歳の誕生日には既に家の中に笑いはなく、綺麗に彩られたケーキもローソクも、プレゼントもなかった。父は夜遅く、酒の匂いを漂わせて帰り、母はどこかへ出かけたまま、帰ってこなかった。
その数日後、家族は壊れた。
父は何か、獣のような雄叫びをあげながら母を殴り、「お前さえ生まれなければ……!」と叫びながら僕の首を絞めた父。その目にはただ、憎悪しかなかった。
何故なのか、僕にはさっぱりわからなかった。ただ、優しかった父に殺されかかったのだということだけは理解できた。
なぜ?
何故?
答えは誰からも与えられなかった。ただ、そのとき、確かに僕の「心」にヒビが入ったことだけはわかった。同時に、傷がついた心の一部がどこかへこぼれ落ちて、消えていったことも。
あの日から、僕はほとんど笑えなくなった。笑いたくても、顔が強張ってしまってなかなか動かない。同じように笑わなくなってしまった母に微笑んでもらいたくて、優しいあの笑顔をもう一度見せてもらいたくて、一生懸命笑えば笑うほど、母の顔は暗く、冷たくなる。酷いときは「その顔で笑うな」と怒鳴りつけられた。
僕の笑顔を拒絶される理由が分かるのに、それほど大した時間は必要ではなかった。アパートの近所の主婦たちの噂話は、意外と子供でも理解できるものだ。僕に聞こえないと思ったのか、わかりはしないと思ったのか。ヒソヒソと囁かれる「浮気」「離婚」「男が逃げた」という会話の断片から、うっすらとでも理解できる程度には、僕は母から、特に容姿を嫌われていた。
僕は母の不倫の相手にそっくりだったのだ。まだ家族が家族であった頃、時々遊びに来ていた父の同僚のおじさんが何故、僕を見るとぎくりとしたように笑顔を強張らせていたのかも、やっとわかった。
「生まれてこなければ」
父の叫びが僕の記憶によみがえった。父の声を思い出したとき、既にヒビの入っていた心は静かに、その一部分をどこかへ落として失くしてしまった。
母は、僕を見なくなった。
いざとなったら自分を捨てた男を思い出すからだろうか、それとも単に女手一つで子供を育てるという苦労に疲れたからだろうか、……きっと、両方だったのだろう。良い匂いがしていた「お母さん」はいつの間にか酒の匂いを昼から漂わせるようになった。
月々入る父からの形ばかりの養育費は全て酒となって母の腹に消えていった。最初は真面目に勤めていた仕事も休みがちになり、一日中、家で酒を飲んでいるようになっていた。
高校生になった僕はアルバイトで生活費を稼ぐようになった。
生活費? いや、僕が住む家を失わないための、そして命を繋ぐ最低限の食料を手に入れるための、死と隣り合わせに近い生活だった。奨学金を受け、アルバイトに明け暮れる日々。高校生のアルバイトで家賃と、余裕のある生活費を十分に稼ぎ出すことなど、到底無理な相談だった。しかも母はすっかり酒におぼれ、酔えば口汚く僕を罵った。
「お前さえ生まれてこなければ」
母は父と同じ言葉を口にした。
僕は好んで生まれてきたわけではない。選んでこの顔で生まれたわけではない。責められるのは僕ではない。むしろ、望まぬ僕の誕生を防ぐべきあなたたちの責任だったのではないのか。
口に出来ない言葉は胸に溜まる。そして、はけ口を失った攻撃の言葉は行き先を探し、一番手近にあった僕の心を責めた。
「お前は生まれるべきではなかった」
心の欠片はぽろぽろと崩れては消え、消えては崩れていった。
母が亡くなったときのことは、今でもはっきりと覚えている。
酒の匂いの染み付いた四畳半の部屋で、嘔吐物を喉に詰まらせての窒息死だった。酒で意識を手放していたときの事故だから、苦しみもほとんどなかっただろう、と少し気の毒そうに僕に告げる警察官の声を聞きながら、僕は小さくうなずいて見せた。ホッとしたように息を吐く警察官をぼんやりと眺めながら、どうせなら首を絞められる程度には苦しめばよかったのに、と思っていた。
葬儀に来てもらいたい人もいないし、いたとしても僕にはわからなかった。一人で焼き場の空を見上げ、母の体が燃えている、と思ったけれど、何も感じなかった。ただ、焼かれた骨を拾い上げるために渡された太い箸で骨をつかんだ次の瞬間、ぽろりと崩れた骨が鉄の台の上に落ち、灰のように粉々になってしまったときに、心の欠片がまたどこかへ消えてしまっていることに気付いた。
母の持ち物は全て、処分した。
「大変だったわね」
「何かあったら言ってね」
近所の主婦たちは親切そうに言ってくれた。僕は頭を下げ、ありがとうございますと礼を言いながら、さめた目で彼女たちを眺めていた。口調も表情も完璧に、たった一人の身寄りを亡くした可哀想な少年に同情する心優しい私、を演じていたけれど、僕を見る目と心のそこには興味半分でしかないのだと雄弁に語るものが見えていた。
どうしてそっとしておいてくれないのだろう。優しくしてくれなくても、僕は構わない。恨みもしない。どうでも良いのなら、本気で何かをしてくれる気がないのなら、放っておいてくれたら、僕も無理に悲しそうな表情を作ったり、微笑んで見せたりしなくても済むのに。
偽りの笑みを浮かべるたび、目にするたびに、心がぽろぽろと崩れて消えていく。僕はそれを感じているしかない。最初は大きなヒビが数本入っているだけだったのに、いつの間にか無数のヒビが走り、そこから少しずつ、ときには大きな塊が崩れ落ち、消えていく。心の欠片が消えていくことに最初のうちこそ恐怖や淋しさ、悲しさを感じていたけれど、今はただそれを無感動に眺めているだけだった。もう、どうにもならないとわかっていたから。
少しずつ風化していく遺跡のように、人の心も削れていくものだから。
一人で暮らし、一人で学校に通い、一人で眠る。それがこんなにも楽なことだとは思わなかった。けれど、人の中に入ればどうしても僕もその中のルールに従わなければならない。ほとんどのルールは多少の面倒くささはあっても、守ることは難しくなかった。なるべく一人で過ごし、人の中に入らなければならないときは大人しく、目立たないようにしていれば、誰も僕に注意を払わない。
ただ、……たまに、女の子が近付いてくることだけは、苦痛だった。
僕は独りでいたい。誰にも縛られたくない。そのためなら、社会のルールには喜んで従おう。それで僕のささやかな願いが叶えられるのなら。
僕は人に注目されるらしい自分の顔を、初めて恨んだ。
「ごめんね」
謝ると、彼女たちは泣きながら、それでも僕を許してくれた。
いっそ、恨んでくれたら。
いっそ、両親のように蔑み、憎み、呪ってくれたら。
そうしたら、僕も楽になれるのに。傷つきながら、泣きながら、それでも僕を許してくれる女の子たち。彼女たちを傷つけなければならないことが、無性に悲しかった。
僕にはそんな権利などないのに。けれど、好きでもない彼女たちと付き合えば、もっと酷く、もっと大きな傷をつけてしまう。
偽善だとわかっていても、それでも、悲しかった。悲しいなどと思う自分の醜悪さに自分を呪い、心などなければ良いのに、と思った。
僕の期待にこたえてくれたのか、僕が僕を憎むたび、心は少しずつ確実に崩れ、消えていった。
心とは結局、何だったのだろうか。
心の形は一体、どんな形だっただろうか。絵で見るような、可愛らしいハートの形をしていたのだろうか?
時々、ふとした拍子にそんなことを考える。真夜中に目が覚めたときだったり、食器を洗っているときだったり。
心を完全に失ってしまった僕には、もう、「心の形」を知ることは出来ない。
失くす前の形なら覚えているだろうかと考えたこともあった。でも、……いや、本当に、わからないのだ。僕は本当に、心の形を知らないのだ。
僕が失くしたものは本当に「心」だったのかと問われても仕方がないかもしれない。似ている何か、違う何かだったのかもしれない。
でも、確かに心があった場所にはもう、何も残っていない。
いつ、完全に心が消えて失くなってしまったのかは僕にもはっきりとわからないけれど、ふと、すきま風を感じることがある。そこがきっと、心の収まっていた場所だったのだろう。今ではすっかり空になってしまった僕の心は、どこへ消えたのだろう。
身軽になった僕は時々、そんなことを考えて、そしてすぐに忘れる。
失って初めて分かる価値というものもあるけれど、僕にとって心は失くして救われたものだったから。
だから。
僕は、心の形を、知らない。