C-09  うつせみ

 ナイルズは店に入ってきた男を見て、すばやく品定めした。こんな下町にやってくるような身分の男ではなさそうだ。しかし、ナイルズはあくまでも平静を装った。彼の店にやってくる人間は、男では少ないが、女は大概こうした身分の人間だったし、それが何よりの金蔓になることを、彼も充分に弁えていたからである。
 ナイルズは愛想良く客を迎え入れた。外聞を憚る身分の人間が多い商売だけに、彼は客をして偽名で呼んでいる。男はミスタ・アダムス、女はミズ・スミスだ。
「こんにちは、ミスタ・アダムス」
 本日のミスタ・アダムスは頷いただけで何も答えなかった。ナイルズは愛想笑いの下から、客を観察する。長身白皙、理知的な顔立ちだ。双眸には好奇心の光が溢れ、一方、口許には皮肉な笑みが見え隠れしている。冷やかしか、本物の客か。しかし、纏っている空気は何も構えたところがない。周囲を観察する様子もなければ、ナイルズを値踏みする視線もない。珍しいタイプの客だ。
「ヘリーン・ハウスにようこそ」
「ここ、占いの館なんだとか。ヘリーンは随分よく当たる女占師と聞いた」
 初めて客が口を開いた。上流階級の話す、綺麗な標準英語だ。そのくせ、ものの言い方には気取ったところがない。ナイルズは違和感を覚えながらも客のコートを受け取った。
「それは少し違います、サー。この館はあくまでも、迷われている方の手助けをするための相談所に過ぎません」
「相談所、ね。死期を当てる相談所など、聞いたことがないぞ」
 笑った客の声は妙に愉しそうで、ナイルズは頬が引き攣りそうになるのを必死に堪えなければならなかった。表向きカウンセリング・ハウスと名乗ってはいるが、確かにここは男が無造作に言ったようにフォーチュン・ハウスなのだ。しかし、そんな胡散臭い存在は当局に目をつけられたら一巻の終わりだ。軽々しく口の端に上らせて欲しくない。
 それにしても男はナイルズ達について詳しく知っているようだ。死期を当てる、という言葉が示している。
 男の言う通りのことも、過去にあった。まだ本格的にこの店を始める前、ヘリーンの占いが辻商いだった頃だ。一番最初に見た若い、いかにも農村から都会へ流れてきたと言った雰囲気の男女に対して死を予言して怒らせた時にはナイルズも慌てた。そして、数日後の新聞で予言が成就したことを知って、なお驚いた。これは本物だと思いながらも、ナイルズは警戒心を募らせた。当局に目を付けられるのだけは避けたかったからだ。そこで彼は辻商いを止めて、一軒の廃屋を買い取って商売の拠点をそこに移した。ヘリーンを室内に隠すためにも最適な手段だった。
 そのことを知っているのは、当時、同じ掃き溜めに住んでいた連中ばかりの筈だ。客の身分を考えると、彼らから聞いたとは思えないのだが。誰から洩れたのだろうかと、微かな不安を感じながらも、接客は忘れない。
「噂でございますよ、そのようなこと……」
 誤魔化すナイルズに案内されるまま、男は館の奥へと踏み込んだ。幾重にも重なる様に吊るされた黒い帷の中を進んでいく内に、外は昼だと言うのに、夜と錯覚せんばかりの闇が現出する。足許だけが灯りに照らされているが、それ以外は闇に目が慣れても、よく見えないようになっている。それは雰囲気を出すためにナイルズが考案したことだったが、同時に実利も兼ねていた。奥の間に隠した女を極力他人に見られないようにするには、実に効果的だった。
「こちらです、どうぞお入りを」
 ナイルズは薄いレースの向こうの扉を指差した。客が迷わないように、そこだけは明るくしてある。
 暗闇の中にぽっかりと浮かび上がる、薄汚れた黄金のノブ。大抵の客はここで刹那の逡巡を見せてから、ノブを強く握り締めて、戦々恐々としながら部屋に入っていく。そして、ある者は穏やかな顔で、ある者は晴れやかな顔で、そして残りの者は強張った顔で、出てくるのだ。ナイルズは表でそれを待ち、彼らから金を受け取る。
 しかし、今回は勝手が違った。
「悪いが、中まで案内してくれたまえ」
「えっ」
「僕と一緒に、その部屋に入ってもらいたい」
 客は、さも当然であるかのようにナイルズの後ろに立ち、さりげなく彼の退路を断っている。ナイルズは己の表情が険しくなるのがわかった。客に不穏なものを感じたのだ。
「ミスタ・アダムス、そのようなルール違反は困ります。お客様はヘリーンと二人で会う必要があるのです。そうしてこそ、初めて貴方様のご苦悩、ご懸念に対する答えが極自然に浮かび上がってくるのです」
 警戒しながらも、彼の声は必死に取り繕われた。しかし、男は一向に気にする様子でもない。来た道に立ち塞がり、ナイルズが言われる通りにするまでは絶対に動かないと言わんばかりに、堂々とふんぞり返っている。
「御託は良いよ。早くその扉を開けてくれ」
「ですから……!」
「それとも、奥に入れない理由でもあるのか?」
 急に男の口調が冷え冷えとしたものになって、ナイルズは思わず首を竦めた。妙な迫力があった。それでも何とか反論しようと試みたが、暗がりの向こうからはいかなる抗いも受け付けないと宣告する空気が漂っている。ナイルズは諦めた。
「わかりました。今回だけは特別ですよ、サー」
 もともと、ヘリーン・ハウスを始めたばかりの頃には、ナイルズも客と一緒に部屋に入っていたのだ。しかし、それでは客も話し難いだろうと思い、彼は席を外しておくようになったのだ。客自身が望むなら、別に構いはしない。
 ナイルズがノブを回すと、扉の軋む音と共に冷気が部屋から零れ出てきた。黒幕に覆われて陽光から遮られた部屋は、冬ともなると常人には寒いくらいなのだ。快適なのは部屋の住人だけだろうとナイルズは小さく身震いしながら考えた。
 ヘリーンは中央のソファにぼんやりと座っていた。彼がロンドンに連れてきた時と変わりなく、彼女の眼は虚空を見つめている。寒気がする程の美貌の持ち主だが、彼女の顔には生気がない。明るい部屋の中で、ナイルズはそれを横目で確認しながら客に椅子を勧めた。男は気負いなく腰を下ろす。
 そろりと、ヘリーンの紅い唇が動いた。その表情はいつも通り虚ろだ。
「なぁに」
 彼女は眼前に座った相手を認識しているのかいないのか、消え入りそうな声を出した。質問なのか呟きなのかもわかりにくい程の、いつもよりさらに小さな声。長い足を投げ出すようにして座った男は、その声にそっと目を細めた。
「聞いてほしい話がある。貴女と彼、ジョン・ナイルズに」
 客が言った瞬間、ナイルズの背を悪寒が走り抜けた。男は彼の本名を言い当てたのだ。今までも客に名を訊かれたことはあったが、彼は偽名で押し通していた。そして、客たちもそれを不審がるでもなく、当然のこととしてきた筈だ。
 やはり、この客は怪しい。詳し過ぎる。ナイルズは不意打ちを食らわせてきた男を睨み付けた。しかし、客の視線はヘリーンに集中している。ナイルズは気取られないように気を付けながら、背後に手を回した。
「早すぎた埋葬、という言葉を知っているか?」
 ナイルズは男から目を逸らした。ヘリーンの表情を伺うが、そこにあるのは空っぽの瞳だった。
「中世において、死んでもいない人間を間違って埋葬してしまった話さ。話くらいは知っているだろう、昔は結構多かったらしいぞ」
 不意にヘリーンの肩が小さく動いたように見えて、ナイルズは冷や汗が吹き出た。彼女の瞳を凝視する。まだ、そこに感情の色はない。彼は隠し持っていた拳銃に指を触れた。もし、男が決定的な破局を口にするなら、彼は自身の安寧のためにも男を殺さなければならない。そして、仮にヘリーンが己を取り戻した場合には、彼女も。
 そう考えた瞬間。
「ところで、ナイルズ!」
 急に大声で呼びかけられて、彼は息が詰まった。動きを止める。客はナイルズを横目で見た。彼は顔を背けることもできず、硬い表情のままグッと顎を引いて相手を見返した。
「半年前、ベヴァリーという町の出身者が、ある伝手を頼って俺を訪ねてきた。ヘレンという娘の遺体が行方不明になったと言うんだ。なんでも、その娘は全く健康だったのに突然病に倒れ、医者もなすすべがないまま急逝。遺体は早々に埋められたんだそうだ。ところが、その棺が翌朝には蛻の殻になっていた。土は掘り返され、棺の蓋は外れていた。残された蓋の裏には無数の引っ掻き傷と赤黒い血の染みがあったらしい。ただ、残念ながら俺は墓守じゃないから、どうしようもない。彼には警察に頼むように言った。それが筋と言うものだろう?」
「……」
「ところが、ちょっと変わったことをその男が口にした。葬儀の直前に村の若い男女が姿を消したんだそうだ」
 男の話の向かう先がわからずに当惑しながらも、ナイルズは背後で強く拳銃を握った。男は背凭れに身体を預けて、寛いでいる。拳銃のことなど気付いていないのだろうと見て、ナイルズは心の中で密かに己を叱咤した。その気になれば一発で片がつく。必死で逸る心を抑える。誰も彼のやったことを知る者はいない。目の前の客が何を求めてやって来たのかを見極めるのが先だと、自分に言い聞かせる。
「一体、何が仰りたいんですか。もしかして、そのお嬢さんの遺体がどこにあるのかをお知りになりたいのですか?」
 何とか平静な声を装う。無用な刺激を与えて、墓穴を掘るのだけは願い下げだった。ところが、客はナイルズの不安と苛立ちを無視するかのように、にやりと笑って答えた。
「いいや。まったく興味がない」
「えっ」
 咄嗟に、男に向けた緊張が緩まる。それと男が身を起こして右手を振るったのとが同時だった。
 あ、と思った時には遅かった。ステッキに強烈に横面を打たれて、ナイルズはよろめいた。拳銃こそ落とさなかったが、目の前に火花が散るほどの痛みに引き金を引くこともできず、男に腕を抑えられる。それでも強引に一発打ったが、鉄の塊は壁の漆喰に深々と喰い込んだだけで、彼を助けてはくれなかった。
「引き金に手をかけながら客と同席するとは酷い商売だな、ジョン・ナイルズ」
「こ、この野郎……っ」
 口の中に錆の味が広がるのを感じながら睨み上げる。男はその視線を鼻で笑った。
「早すぎる埋葬の一言に過剰反応し過ぎだぞ。さすがは墓荒らしのナイルズだな。そういう墓を暴いたこともあるんだろう。お前を突き出せばロンドン警視庁も少しは喜ぶだろうよ」
 醒めた口調でそれだけ吐き捨てた客は、おもむろにヘリーンを見た。無表情に座っていた筈の女の瞳に恐怖が過ぎったのを、ナイルズは見逃さなかった。彼女は微動だにしていなかったが、誤魔化しようもない程に動揺が全身から零れ出てきていた。ナイルズは驚きに気持ちが乱れた。客は強引にナイルズを立たせてから、ヘリーンの仮面を打ち砕くように怒鳴りつけた。
「いい加減にしろ、アン・カーソン!」
「ア……何?」
「もう全てわかっているんだ。ヘレンを騙るのはやめておけ」
 ナイルズは再び驚倒した。押さえ込まれた腕の痛みさえ、一瞬忘れた程だ。
「こ、この女、ヘレン・デーヴィッドじゃないのかっ?」
「そうだ」
「嘘だろっ。この女は間違いなくヘレンの墓から這い出してきた女だぞ!」
「それでヘレン(Helen)にアルファベットを書き足してヘリーン(Helene)と名付けた訳か、この三流悪党め」
 男の声に容赦はなかった。
「ベヴァリーで起きた事件の全容は、こうだ。ヘレンという娘は病に倒れたというが、それは薬か何かを使った芝居だった。死者と見なされて棺に入った彼女は、もちろん、埋葬される直前に棺を脱出する。しかし、棺が空であれば誰かが埋葬直前に気付いてしまうかもしれないと思った彼女は、年恰好の似た幼馴染を身代わりにすることを思い付いた。それがアン・カーソンという地主の娘だったのは、たぶんヘレンの鬱屈の現われだったろう。アンにとって小作農の娘のヘレンは都合の良い小間使い程度にしか思われていなかったからだ。むろん、生き埋めにしたつもりはなかったに違いない。ヘレンはちゃんと毒を盛って殺したつもりだった。ところが想定外のことが起きた。毒殺した筈のアンは墓の中で蘇生してしまったんだ。違うか、アン・カーソン」
 ナイルズはこの一年、同じ屋根の下にいた女を見た。気後れする程の美貌だが、一緒にいてもついに一度も女としての魅力を感じなかった女。常に虚空を見つめ、何を感じているのかさえ不明だった女。墓荒らしに行った共同墓地で見つけた蘇った死者。
 その彼女は今、かつてナイルズが見たことのない感情の炎を双眸に宿らせて男を睨み付けていた。視線だけで焼き殺さんばかりの迫力に、彼は言葉を失った。
「アン?」
「そうよ」
 彼女は胸を張って答えた。臆する様子はない。
「君に未来が見えるのは事実だろう。毒による仮死や埋葬された衝撃で君の頭の中にちょっとした変化が起きてしまったんだ」
「……ああ、そういうことだったの。最初は驚いたわ。もう慣れたけれど」
「ただし、君が見ていない未来がひとつだけある」
 男は拳銃だけを取り上げて、ナイルズの手を離した。もはや彼に反撃する気力が残っていないことを見抜いているのだろう。そして、止めを刺すような言葉を無造作に放った。
「君の占いの最初の客、ヘレンとステファンの死だ」
 ナイルズは呆然と突っ立ったまま、目の前の女、ヘレンという名だと信じていた相手を見ていた。その耳には外から奥の間に向かってくる数多くの足音は聞こえていなかった。衝撃と共に、幾重にも張り巡らされた暗幕が防音効果を発揮したせいもあった。
「墓荒らしのナイルズに拾われた君はベヴァリーを捨てることにして、ロンドンで占い師になった。そして、最初の客が来た。君を殺して身代わりにしようとしたヘレンとその恋人が。自分たちの前に座っている美貌の女占師が君だとも気付かずに。そして君は復讐を誓い、彼らに恐怖の未来を見せた。ナイルズ、お前だって四六時中彼女といた訳じゃないんだろう?」
「……ああ」
「そうして、アン・カーソンはナイルズの目を盗んで復讐を遂げた。ヘレンと、彼女の言いなりになって実の姉を埋葬しようとした弟のステファンを」
「弟っ? 馬鹿な!」
「事実だ」
「待てよ! あの青年が弟だったなら、なぜ気づかなかったんだ? ヘリーンが殺した筈の姉だと、なぜ」
 ナイルズの当然の疑問に、男は懐中から一枚の写真を取り出した。やや焦点の合っていない写真だが、若い娘が派手な格好をして写っているのがわかる。目鼻立ちははっきりしていて愛嬌はあるが、綺麗という形容詞には少し及ばない。あまり洗練されていない印象も受ける。
「これがアン・カーソンの顔だ」
 突き付けられたナイルズは絶句して、写真とヘリーンとを見比べた。まったく似ても似つかない。
「早過ぎる埋葬は人間を恐怖のどん底に突き落とすために、容姿が激変する人間も少なくない。大抵の人間は髪が真っ白になり、何十年も経ったような姿になる。生き埋めとは、それだけ恐ろしい出来事なんだ……だからと言って、誰しもがそうなる訳じゃない。本当に極めて稀にそれが真逆になる人間がいるんだ」
 荒々しい音がその語尾に重なって、警官たちが雪崩れ込んできた時、ナイルズには口を開く力さえ残っていなかった。腕を取られ、警棒で床に抑え付けられる時も、抵抗らしい抵抗さえできなかった。床に這い蹲りながら、顔を上げて女を見る。思いがけない強い瞳が彼を見ていた。憐れむ様でもあり、突き放す様でもある視線。完全な正気に戻っていた。否、初めから彼女は正気だったのだ。その芝居にナイルズが騙されたのは彼女の予知能力のせいか、美貌のためかはわからない。あるいは異常な出逢いが彼の判断を狂わせたのかもしれない。
「棺の中から助けてくれたことは感謝するわ。貴方がいなければ死ぬしかなかった」
「ヘリーン」
「だから貴方がやり易いように生きたお人形の真似をしてみたけれど、空虚な一年だったわ。でも、それも今日までの話ね。さよなら、ジョン・ナイルズ」
 空虚な人形はすでに消えた。美貌の女、もはやナイルズの知らない存在となった彼女は胸を張って立ち上がり、周囲を睥睨した。そして、制服警官たちが圧倒されたように後退するのを無視して、彼女は訪ねてきた男、彼女の罪を暴いた男の前に立った。しばらくその目を見つめてから、アン・カーソンは俯き、唯一の出口に向けて踏み出した。彼女はすれ違いざま、男に小さな声で囁きかけた。
「貴方も見えていたわ。貴方が私を逮捕する……ずっと前からわかっていた。棺の中で一番最初に見た未来ですもの」

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