D-02  いつか出会うために。

 その手紙が届いてから、ヒューイはなんだか、おかしかった。
 いつもみたいにはしゃがないし、笑い方もぎこちない。
 何をしててもぼうっとしてて、塞ぎ込むことも多くなった。
 いやな予感がして、あたしは、ヒューイの話を聞きたくないと思った。
 だって、ヒューイの話を聞いてしまったら、全てが終わるような気がしてたから。

 
「リン、ちょっといい?」
 パチパチとはぜる焚き火の音と、虫の声。
 満天の星空の下、毛布にくるまったあたしに、ヒューイが呼びかける。
 そっと横目で見てみたら、ヒューイはあたしの方を見てなくて、夜空を見上げて寂しそうな顔をしてた。
 とうとうその日が来たんだ、って、あたしはそう思って、何も言わなかった。
「お父様から、手紙が来たの」
 聞きたくないのに、ヒューイは一方的に話し始める。
 あたしは、この期に及んでまだ、諦めきれずに寝たフリをして、何の返事もしなかった。
 それでもヒューイは、話をやめてくれない。
 聞いてしまったら終わりなのに、ヒューイは泣きもしない。
「わたし、家に帰るわ」
 ヒューイは、静かにそう告げた。
 あたしは、寝たフリをひたすら続けながら、手元の毛布をぎゅっと握り締める。
「わたし、もう18になったから。家に帰って、王族の務めを果たさなきゃいけないの」
 月の光を浴びて、キラキラと輝く金の髪に、翡翠のような瞳。
 黒髪に黒い目のあたしと違って、王族の特徴を備えたヒューイには、長く放浪の旅をしてもなお、色濃く残る気品がある。
「来週、ミロンの町に迎えが来るわ。……リン、見送ってくれるよね?」
 どこかで、オオカミが仲間を呼ぶ声がした。
 小さな、人畜無害なモンスターが茂みを進む音がして、やがてまた、静かになる。
 流れる雲が月を覆い隠して、夜の闇の中、あたしとヒューイのいるこの小さな空間を、焚き火の赤い光が照らし出した。
 あたしは、寝返りをうつみたいにして、ヒューイに背中を向けた。
「ねえ、リン……」
「あたし、行かない!」
 寝ころんだまま、あたしは言った。
 ヒューイがどんな顔してるのか気になったけど、あたしは振り向かないで、毛布に顔を埋めて叫ぶ。
「ヒューイはそれでいいわけ!? 父親に言われたからって……ヒューイはどうしたいのよ!」
 自分で言っておいて、すごく意地悪な質問だと思う。
 答えられないことを聞いてるくせに、返事を期待してる。
 夜の帳が下りた森の中、互いの鼓動すらも聞こえてしまいそうな静けさに、息が詰まりそうになった。
 あたしは、黙ったままのヒューイの視線を避けるみたいにして、ぎゅっと両目を閉じて睡魔が訪れるのを待ち続ける。
 いつもは明日が来るのが楽しみでしょうがないのに、今日は違ってた。
「……リンに見送ってほしかったな」
 寂しそうなヒューイの声。
 あたしは、明日が来るのが怖かった。

 

 翌週、街道の分かれ道で、あたしたちは別れた。
 3年続いたあたしとヒューイの冒険の終わりは、本当に本当にあっけないものだった。
 ミロンの町へと続く街道の片隅に立って、ヒューイは泣きもしないで、寂しそうに笑って、手を振ってた。
 元気でね、って言って、あたしが見えなくなるまでずっと。
 あたしは、そんなヒューイに何も言えなくて、ロクに顔も見れないまま、別の町へ向かう街道をひとりで歩いてきた。
 
 別に、拗ねてるわけじゃない。
 あたしだって子どもじゃないから、ヒューイの選択が間違ってないことも、ヒューイが他にどうすることもできないことも、ちゃんとわかってる。
 ヒューイは、決して小さくない王国の、王弟の娘だ。
 そもそも、あたしみたいな平民丸出しの人間と、こんなところで旅なんかしてるほうがおかしい。
 閉鎖的な王宮での暮らしに反発して城を出たとしても、ヒューイが定期的に家族と連絡をとっていたのは知ってるし、彼女の母が彼女の気持ちを汲んで、せめて王族として成人するまでは好きにさせてほしいと、王や王弟を説得し続けていてくれたことも知ってる。
 あたしと旅を続けるために、今まで、ヒューイとその家族がどんなに努力してきてくれたか、あたしはちゃんとわかってる。
 王族は、いつか国のために、相応しい相手を見つけて結婚し、国を支えなくちゃいけない。
 それは、あたしにもヒューイにも、誰にも変えることのできない、当たり前の現実だ。
 ヒューイは王室の在り方を嫌ったけれど、王族であることを嫌ってたわけじゃない。今回のことだって、別に父親が何も言わなくても、ヒューイはいつか自分自身で、国に帰ることを決めたと思う。
 国を変えたり、治めたりすることは、誰にでもできる事じゃない。
 ヒューイには、ヒューイにしかできない事があるから、帰りたいんだろう。
 そんなことぐらい、訊かなくてもわかる。
 ずっと一緒に旅をしてきたから、ヒューイのことならなんでもわかる。
 それに、もしあたしが彼女の立場だったら、きっと、同じ事をしてたと思うから。
「……でも」

 行き交う馬車と、まばらな人々。
 あたしは、次の町へと急ぐ旅人たちの間で立ち止まり、大空を仰ぎ見た。
 秋の空は青く澄んで、光り輝く太陽の下、大鷲が弧を描くようにして舞っている。
 街道沿いの森は赤く染まり、にわかに吹き始めた北風に、枯葉が乾いた音を立てる。
 かすかな足音に振り向けば、大地の色をした小さな野兎が顔を出す。

「あたしは、一緒にいたいよ……」

 昨日まで、当たり前にいたヒューイが、そこにいない。
 特に何もなくても、二人でいればそれでよかったし、どんな手強い冒険でも乗り越えてこれた。
 キレイなものをキレイと、美味しいものを美味しいと、そんなどうでもいいような事を普通に言い合える相手がそこにいて、同じように続いて行く明日があって、本当に楽しかったのに。
 今日も明日も、あたしはひとりでいなきゃいけない。
 一緒にいたい、って、そう言って欲しかった。
 そうすることはできなくても、あたしは、ヒューイの本当の気持ちが聞きたかった。
 3年間ふたりで積み重ねてきたものは沢山あるのに、王弟の手紙なんて紙切れ一つで、それが全部なくなってしまうような気がした。
 あたしたちの思い出も、友情も、全部奪い取られていくみたいで、悔しかった。
「泣きもしないでさ……あんなにアッサリ……」
 鼻の奥がつーんと痛くて、あたしは、服の袖で目頭をこする。
 気がついてみれば、ヒューイと別れた時には出なかった涙が、あたしの両目から、次から次へと零れてた。
「あたしたちの3年間って、そんなもんだったの……?」
 あたしは、その場に立ったまま、人目も憚らずに大声で泣いた。

 もう会えなくても、またね、って言えばよかった。
 きちんとさよならを言えばよかった。
 楽しかったね、って、笑って別れればよかった。

 できなかった事が次々と頭に浮かんでは消えて、後悔ばかりが胸を締め付ける。
 もう会えないんだって、そう思うと、寂しくて、悲しくて、まるで、自分の半身を失ってしまったみたいに空虚な気分だった。

「会えないなんて……嫌だよ……!」
 泣き声のまま、あたしは空を仰ぎ、叫ぶ。
 その時だった。

 突如として飛来したいくつもの影が、太陽の光を遮り、青空を灰色一色に埋め尽くす。
 人々はざわめき、揃って頭上を見上げて立ち止まった。
 目を凝らして見れば、それは遥か上空を飛ぶ数十の大小さまざまな翼竜の群れで、街道に沿って進んでいる。
「あれは……」
 やがて、人々の視線の先で、一頭の竜が群れから離れ、高度を下げてくるのが見えた。
 それは、唯一、美しく輝く銀の鱗を持った、神々しい姿の大きな竜だった。
「きゃっ……!」
 頭上から吹き下ろしてきた突風に、あたしは思わず目を閉じて頭を庇う。
 咳き込みそうなほど激しく舞い上がる土埃の中、凄まじいまでの強風がしばし吹き荒れ、竜の翼の音が驚くほど近く聞こえた。
「リン!!」
 風が止み、羽音も聞こえなくなって、あたしの耳は、聞き慣れた声を聞いた。
「――……ヒューイ?」
 ゆっくり目を開けると、あたしの目の前には、銀色に輝く巨大な翼竜が寝そべっていて、その首元で、見慣れた少女が笑ってた。
 驚きすぎて言葉も出ないとは、この事だと思う。
 あんなにヒューイの事を想ってたのに、いざとなるとあたしは、ヒューイを見つめたまま、何も言えずに立ち尽くしていた。
「リン、乗って!」
「ええ!?」
 困惑するあたしの意思を完全に無視して、ヒューイはいきなり、あたしの手を引いて強引に竜の背に引っ張り上げる。
 冷たくてざらざらしてるんだろうって思ってたあたしの予想に反して、竜の体は意外にもあったかくて、滑らかだった。
 ヒューイの後ろに乗せられたあたしは、驚きと不安と感動が入り混じった、変な顔をしてたんだと思う。ヒューイは、そんなあたしを見てちょっと笑って、再び前を向く。
「ヒューイ……なんで?」
 なんで、ってその言葉には、あたしのいろんな感情が入りすぎていて、あたし自身、一体どういう意味で訊いたのかわからないぐらいだった。
「リンに言ってないことがあったから」
「……言ってないこと?」
 ぽかん、として見つめるあたしの前で、ヒューイは腕を真上に向け、上空を旋回する翼竜の群れを人差し指で指し示し、言った。
「王国の竜騎士団よ。わたしを迎えにきたの」
 その瞬間、突然竜の翼が大きく羽ばたき、勢いよく空へと飛び立った。
「う……わ!」
 竜の背に乗ったのは、初めての体験だった。
 変な浮遊感と風の抵抗が全身を襲い、あたしは恐怖を感じてヒューイの腰にしがみつく。
 思ったより安定感はあったけど、足の下には何もないのだと思うと、やっぱり平常心ではいられなくて、あたしは思い切り目を閉じたまま、全く開けられなかった。
「やだ! 怖いってば、ヒューイ!!」
「大丈夫。目を開けて、リン。絶対に落とさないから」
 諭すみたいに言うヒューイの言葉に、あたしは高鳴る鼓動を自分の耳で聞きながら、ゆっくりと目を開けてみる。
 最初に目に入ったのは、あたしたちと平行して飛ぶ、王国の紋章を背負った竜騎士たちの編隊。
 それから、いままでにないくらい近くに見える白い雲と、青く広がる秋の空。
「わぁ……!!」
 ちょっと怖かったけど、それよりも興味のほうが上回って、あたしは眼下に広がる大地に目を遣った。
 さっきまで歩いてた街道も、赤く染まった森も、流れる川も、遠くに広がる青々とした海も、すべてがあたしたちの下でひとつに繋がって、まるでミニチュアみたいに小さく見える。
 一面に広がる緑の大地の向こうに、高く聳える山脈が見えて、その向こうには果てしなく続く砂漠の国がある。
 そしてそれを越えたさらに先には、翼竜たちの住まう美しい国がある。
 それが、ヒューイの王国だ。
「すごい……! きれい!!」
「リンに見せてあげたくて、追い掛けてきちゃった」
 ヒューイは、そう言ってあたしを振り返ると、いたずらっぽく笑って片目を閉じる。
「すごい! すごいよ、ヒューイ!! こんなの、見たことない!」
 あたしは興奮しきった声で叫んで、ヒューイにしがみついたまま、キョロキョロと子どもみたいに周りを見渡した。
 そんなあたしを、ヒューイはしばらく笑って見てたけど、急に真剣な顔になって、あたしの目をまっすぐに見据える。
 あたしは、ヒューイのその眼差しに射竦められて、景色を見るのも忘れて動きを止めた。
「……ごめんね、リン。一緒にいられなくて」
「ヒューイ……」
 寂しそうに笑うヒューイの声は、少し震えてた。
「だけどわたし、リンと一緒に旅したこと、一生忘れない。リンと出会ったこと、後悔したりなんかしないから」
 ヒューイの目は、少しだけ潤んで見えた。
 だけどあたしは、何か言いたいのに、次々に涙が溢れて、言葉にならない。
「何も言わないでいいの。わたし、リンのこと、何でもわかるから。そんな友達、もう一生見つけられないと思うわ。最高に幸せよ」
 腰に回したあたしの手を、片手でぎゅっと握り締めながら、ヒューイは優しい声でそう言った。
 あたしは、ヒューイの体をさらに強く抱き締めて、涙で裏返る声で、精一杯、言った。
「あたしもだよ……!!」
 青い空を背にして、ヒューイが微笑う。
 その頬を伝う涙が、秋の太陽の光を浴びて、まるで宝石みたいに輝いて見えた。
「ねえ、リン。見て、この世界を」
 ヒューイは、静かな声であたしを促した。
 あたしたちの下に広がる大地を指差して、ヒューイは言う。
「わたしたちの住む世界なんて、こんなにちっぽけなものなのよ。こんなに狭い世界の中で、悩んだり、笑ったり、泣いたり喜んだり、いろんなことがあるわ」
 ヒューイの言葉を聞きながら、あたしは、どこか懐かしい気持ちで眼下の景色を眺めていた。
「あたしたち、こんな小さな世界にいるんだね……」
「そうよ。だから、きっとまた会えるわ。同じ空の下に、わたしたちは生きてるんだもの」

 ヒューイと旅した3年間、いろんな国へ行って、いろんな冒険をした。
 小さな国のお家騒動に巻き込まれたこともあるし、魔物の巣食う海を渡ったこともあった。
 たくさんの人たちに出会って、たくさんの別れも経験した。
 時にはケンカもしたし、離れて過ごしたこともあった。
 いろんなことがあったけど。ずいぶん長い間、旅をしてきたような気がするけれど。

 足元に広がる小さな世界、それがあたしたちのすべてだ。
 ちっぽけな世界の中で、ちっぽけなあたしたちは、何度も出会いと別れを繰り返しては、泣いたり笑ったり、毎日を精一杯生きている。
 いくつもの国に分かれ、いくつもの人種に生まれ、身分が高かったり低かったりしても、それでも、あたしたちは同じ大地に生まれ、同じ時を生きている。
「ヒューイ。あたし、ヒューイに会えてよかった」
 あたしとヒューイは、顔を見合せて笑った。
 別れても心は一つ、なんて言葉は嫌いだけど、これだけはわかる。

 あたしとヒューイは、同じ空の下にいる。
 どんなに時が経っても、どんなに離れても、それだけは変わらない。

 思い出が色褪せても、人々があたしたちのことを忘れ去っても。
 あたしたちが過ごした日々は、消えてなくなったりなんかしない。 

「わたし、立派に王族の務めを果たすわ。リンがわたしのこと、誇りに思えるように」
 そう言って前を向いたヒューイは、いつもよりずっと、大人っぽく見えた。
「じゃあ、あたしは強くなる。伝説に残るような……ヒューイが子どもに自慢できるぐらいの、伝説の勇者になってやるわ」

 そう、あたしたちはここで別れなくちゃいけない。
 だけどそれは、悲しいことなんかじゃない。
 たくさんの思い出と、それぞれの想いを胸に、あたしたちは別々の道を歩き出す。
 またいつか、この世界のどこかで、もう一度出会うために。

 どこまでも続く、この青い空の下で。

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