D-03  空色の

 ガラス一枚隔てた向こう側を、数人の少年達が楽しそうに歩いていく。話題の中心にいるのは、蜂蜜色の髪をした背の高い少年だ。身ぶり手振りを交えて話す彼の話に、度々歓声があがる。ガラス板を挟んだこちら側にはその声は届かないけれど、彼等の様子から十分に楽しそうな雰囲気が伝わってきて、ミランは不機嫌な溜め息をついた。
 いつもなら、彼の隣には自分がいるのに……
 そう考えた途端に、もやもやとした苛々が押し寄せてくる。
 その苛々を振り切るように、ミランは窓から視線を引き剥がした。
 無数の商品が置かれた、狭くて雑多な文具店。ミランはすっかり癖になった溜め息をつく。誰が見ても、今の自分は「憂鬱」が服を着て歩いているように見えるに違いない。そんなことを考えながらふと見上げた大きな柱には、古びたポスターが貼られていた。
―― 貴方に必要な色は何色ですか? 何でも揃うクルール文具
 そんな煽り文句とともに、パレットのイラストが描かれている。
(青だ、青。絶対)
 眉間に皺を寄せて、ミランはポスターを睨み付けた。それから、商品棚に眼を移す。青、水色、コバルトブルー、スカイブルーに、瑠璃、群青……青い棚を端から端まで眺めるけれど、ミランの求める「青」はそこにはない。
「なにが何でも揃うだよ」
 そう毒づいて、ミランは店を後にした。
 もやもや、苛々が治まらない。
「たかが絵の具じゃないか、くだらない。ハルの莫迦」
 八つ当たりで蹴飛ばした車止めが思いのほか堅くて、ミランは思わず脚を抱えた。そのままなんだか虚しくなって、路地の片隅に座り込む。友達と喧嘩したくらいで泣きそうになっている自分に、少しばかり情けない思いがする。人通りのない奥まった路地で、ミランは膝に顔を埋めた。
 
 ことの発端は、美術の時間の些細な諍いだった。
「ミラン、こいよ。ハルが珍しいもの持ってきたぞ」
 授業が始まる前の休み時間、ミランは準備室から運んできた大荷物を教卓に下ろし、呼ばれるままに少年達の輪に向かった。
 大抵の場合、話題の中心にいるのは蜂蜜色の髪をもつ長身の少年だ。ともすると嫌味になりそうな整った容姿の持ち主だが、人好きのする笑みと巧みな話術で、いつもどこでも皆の人気者になれる。そんな人望の持ち主。
「いいよなぁ。舶来物だってさ」
「箱まで格好良いや。あ、こんな色まで入ってる。凄いなぁ」
 そんな称讃をうけながら嬉しそうに笑んでいる少年は、案の定蜂蜜色の髪をしていた。
「何がそんなに凄いんだ?」
 ミランはその蜂蜜色の後ろから、彼の手元を覗き込んだ。そこには、クラシカルな木箱に納められた見たことのないメーカーの絵の具が、ずらりと並べられている。銀色のチューブに付けられた色とりどりのラベルには、これまた、見たことのない異国の文字が並んでいた。
「南方に行っている伯父さんが、旅先から送ってくれたんだ」
 そういって、ハルは邪気のない笑みでミランを見上げた。
 クラシカルでシックな木製ケースに、三十色はありそうな舶来物の絵の具。見たことのないビビッドな色や、なかなか上手く作れないミルキーカラー……。
 それは、彼等がどんなに欲しても手に入らない代物だ。羨ましい気持ちとともに、そんなものをひょいっと貰える友人に対して、面白くない気持ちが胸をよぎる。
「ふーん。絵の具ねぇ。いいよな、素敵な伯父さんがいて」
 思わず嫌味っぽくなってしまった口調に、ハルは顔を曇らせた。
「なんだよミラン、突っかかるなよ」
 気分を害したようで、ハルの口調にも少しばかり棘が含まれる。
「別に突っかかっちゃいないだろ」
「突っかかってるじゃないか。不機嫌て顔に書いてあるぞ」
「なんだそれ」
 突然訪れた険悪な雰囲気を、周りの少年は固唾を飲んで見守っている。他の友人達の手前、このまま槍を納めたら負けな気がして、ミランは意地になっていた。恐らく、ハルも似たような気持ちだったに違いない。お互い引っ込みがつかないまま、意味のない口論だけがエスカレートする。
「なんだよ。羨ましいなら羨ましいって言えばいいじゃないか」
「別に。そんなの、羨ましかないね」
「へぇ。そうは見えなかったけど?」
「なんだと?」
「ミラン!」
 掴み掛からんばかりのミランに、周りから制止の手が伸びる。勢い余って少年達の肩がぶつかり合い、ハルの絵の具箱が宙に舞った。箱の中身が床に散乱する。さすがにやり過ぎたと思ったのか、ミランはバツが悪そうな顔をして、ハルから顔を背けた。
「……ごめん」
 聞き取れないくらい小さな声で、ミランが謝る。けれど、ハルは黙って散らばった絵の具を拾い集めるだけ。その背中を呆然と眺め、周りの少年達もバツが悪そうに顔を見合わせた。
 床に向かっているハルの表情は、誰にもわからない。
「ハル……」
 すくっ、と立ち上がったハルは、泣きそうな顔をしていた。手には、不様にひしゃげた絵の具が一つ。
 当りどころが悪かったのか、その絵の具だけは、見事に真ん中からひしゃげていた。その上チューブの脇が切れて、中の絵の具が染み出していたる。
 最悪だったのは、それがハルの好きな「青」だったということ。それもそんじょそこらの「青」ではなくて、少し変わった「天色」だ。多分、まだ一度も使われていない絵の具箱の中で、ハルが一番気に入っていた色。
「……ごめ……」
「もういい」
 泣きそうな顔のまま、ハルはミランを睨み付ける。付き合いの長いミランは、その表情から、彼の怒りがとても深いことを知った。取り返しのつかないことをしてしまったという絶望感が、ミランの身体を取り巻く。
 間の悪いことに、始業のチャイムが教室に響き渡り、画材を抱えた先生が教室に入ってくるのが見えた。止まっていた時間が動き出すように、周りの少年達が各々の席へと散らばっていく。ハルは自分の席に腰を下ろし、ミランを拒絶するように背中を向けた。慰めのつもりか、誰かがミランの肩を軽く叩く。ミランも仕方なく、自分の席へと戻った。
 
 それから数日、ハルはミランを避け続けた。放課後も、下校も、ミランは独りだった。周りの友人達は同情の目を向けてくれたが、そんなものはなんの意味もなかった。
 そこまでやるつもりはなかったとしても、自分がハルに酷いことをしたのはかわりない。謝っても許してもらえないなら、この孤独は当然の罰なのだ、とミランは自分を納得させた。
 
 そうして今も、ハルと仲直りするきっかけを探しながら、彼は独り膝を抱えて蹲っている。
「どっかに、珍しい青い絵の具……なんて、ないよなぁ」
 ほぅ、と溜め息をついて、ミランは背中を壁に預けた。
 路地には人通りどころか、猫一匹通らない。灰色の塀に囲まれた灰色の道。頭上には隣家の庭から枝がはり出し、深い緑の影を作っている。そのさらに向こう側、まばゆい夏の陽射しの裏には、何処までも遠い空の青。
 無気力に、ただ漠然と空を見上げていたミランは、不意に奇妙な音に気がついて耳をそばだてた。
 − カラコロ カラコロ…… シャッコン シャッコン……
 機械的な、どこか古めかしい音が風に乗って運ばれてくる。その音は、梢の揺れる葉擦れのざわめきに混ざって、ミランの耳へと届いた。
(なんだろう)
 風に乗って微かに聞こえる不思議な音に、ミランの好奇心がうずうずと首をもたげてくる。
 彼は立ち上がり、音の聞こえる方角へ、路地の奥へと歩き出した。
 − シャッコン シャッコン カラコロ カラコロ……
 音が少しずつ大きくなる。ミランは駆け足になり、路地の最後の角をまがった。
「あっ」
 角をまがった瞬間、何かにぶつかりそうになって、ミランは思わずその場でたたらを踏んだ。足元の黒い影と、奇妙な靴が目に入る。
 その靴は、左右で色が違っていた。右は艶々と輝く闇の色。左は燦々と輝く太陽の白。
「おや、失礼」
 少し上から、やや高い男の声が響いた。ミランは奇妙な靴から目を外し、ゆっくりと視線を上にあげた。色違いの靴の上には、白と黒の縦ストライプのズボンが続く。変わった形のシルバーの上着に、中のシャツは艶消しの黒。そんな、見るからに怪しい出で立ちの男は、長身痩躯の上にのっぽな山高帽を被っていた。そのせいで、余計に縦に長く見える。
 男は、少しハルに似た人好きのする笑みでミランを見下ろしていた。顔にはサーカスのピエロのようなペインティングが、これまた無彩色の白と黒で施されている。目の周りのダイヤモンドに、三つ連なる涙型。
「す、すいませんでした」
 ミランは反射的に踵を返した。こういう変人には近付かない方がいい、と、瞬間的に判断したのだ。けれど……
 − シャッコン シャッコン……
 男の背後から件の音が聞こえて、ミランは駆け出しかけた足を止めた。振り返ると、ピエロのような男はにこやかな笑みで、ちょこんと小首を傾げている。そうしてその後ろには、見たこともない不思議な機械が、シャコンシャコンと音を立てながら動いている。
 ミランは眉を顰め、その不可思議な機械を上から下まで観察した。
 大きな漏斗が空に向かって口を広げ、漏斗の下にはフラスコのような丸ガラスがついている。その丸ガラスの中に、ぽたん、ぽたんと薄水色の液体が溜まり、溜った水は管を通って隣のガラスに流れていく。隣では、こぽこぽと青い色水が泡を吹き、キラキラした白い煙が横の煙突から上へと噴き出す。泡立った青い色水は細い管を伝い、その管は機械の左下へと繋がっていた。
 至る所に歯車があり、その歯車がまわる度、シャコンシャコンと音がする。
「面白いでしょう?」
 男が自慢げに言う。少し迷って、ミランは正直に頷いた。
「これは……、何をしているの?」
「これですか? これはね、空から空色を作っているんですよ」
 芝居がかった大仰な仕種で、男は空に向かって腕を広げた。それから器用に片目を瞑ってみせる。
「素敵な仕事でしょう」
「まさか。空から色を作るって? そんなの無理だろ」
 訝し気に眉を顰めたミランに対し、男は肩を竦め、不可思議な機械の下を指さした。細い管の行きつく先では、ひっきりなしに銀色のチューブが膨らんでいる。一つ一つ詰め終わる度に空色のラベルが貼られ、完成品は下の木箱にころころと転がり入る。それは、どうみても絵の具のチューブに見えた。
「絵の具は鉱物から作るはずだよ」
 そう反論するミランに、男はもう一度肩を竦めて見せる。
「鉱物に空の色が作れると思いますか? 残念。空の色は空にしか出せないんですよ。だからこうして、雲の成分を取り除いて、綺麗な空色を抽出するんです」
 煙突から吐き出されるキラキラとした煙を指さして、男はそれを「雲の成分」だと言った。
「それじゃあ、海の青は?」
「もちろん、海から作るんですよ」
 さも当然のように男は言い、木箱からできたての「空色」のチューブを拾い上げる。
「はい。どうぞ」
 差し出されたチューブを、ミランは釈然としない気持ちで見遣る。なおも無言で勧められて、仕方なく、彼はチューブを摘まみ上げた。
 銀色のチューブに貼られた、空色のラベル。見たことのない横文字に、センスの良いツバメのロゴが描かれている。
(ハルの絵の具とは、少し違うな。でも、これなら……)
「これ……」
 いくらするんですか、と続けようとした言葉を、ミランは飲み込んだ。目の前の奇妙な男は、口元に人さし指を立てて、茶目っ気たっぷりにウィンクをする。
「それはお一つ差し上げましょう。今日は特別です」
「いいの?」
「もちろん」
 ミランはもう一度、手元のチューブに視線を落とした。
 よくわからない奇妙な男が、見たこともない不可思議な機械で作った絵の具。本当に空から作ったなんていうのは信じがたい話ではあるけれど、これがちょっと珍しい絵の具なことにかわりはない。今はそれだけで十分な気がした。ハルと仲直りできるきっかけになれば、それでいいのだ。
「お、いけない。そろそろ夕暮れの色が混ざってしまう」
 シャコンシャコンと響いていた歯車の音が、はたと止まった。
「友達と、仲直りできるといいですね」
「え?」
 言っていないはずなのに、なんで?
 かけられた言葉に驚いて、ミランは顔を上げた。けれど、顔を上げた彼の目に飛び込んできたのは、ただただ続く灰色の塀とそれに囲まれた灰色の道。そして、頭上に広がる、茜色が混ざり始めた夕空だけ。
 あの白と黒の奇妙な男は、忽然と姿を消していた。大きな漏斗のついた不可思議な機械も、キラキラと吐き出されていた煙すら、跡形もない。
「……なんだったんだろう……」
 まるで白昼夢を見たような気分だった。けれど今のは夢ではないと、ミランは知っている。
 その証拠に、右手にはしっかりと銀色のチューブが握られていた。
 
 翌日、教室は普段通りの活気に包まれていた。ハルの周りもいつもとかわらず、賑やかな少年達の輪ができている。ミランは自分の机に鞄を下ろし、彼等の輪に近付いていった。
 少年の一人がミランに気付き、隣の少年を肘で小突いた。幾人かが顔を上げ、困ったような表情でお互い顔を見合わせる。みんな、ここしばらくのハルとミランの喧嘩を知っていて、どうしたものかと迷っているようだ。
 そんなことにはお構いなしに、ミランは真直ぐハルの前に向かった。ぴたりと話が止んで、その一角だけが急に静かになる。
「おはよう」
「……」
 かけられた言葉に顔をあげることもせず、ハルは眉を顰めてそっぽを向いている。憎まれ口すら叩かないところを見ると、何事もなかったように話し掛けられて、内心戸惑っているのかも知れない。
 そんなハルの視界に入るように、ミランはポケットから取り出したものを差し出した。
 それは、空色のラベルのついた、ちょっとかわったデザインの絵の具。見たことのないツバメのロゴが入った、外国製。
 誰かが、あっ、と小さな声を漏らした。
「……なんだよそれ」
 訝し気な視線を絵の具にやって、ようやくハルは口を開いた。
「お詫び。……この前は、ごめん。やりすぎた」
 思っていたよりも、素直に言葉が言えた。それだけで、ミランは少しだけほっとする。ハルは、なんとも言えない表情でじっと絵の具を見つめている。きっとハルの中にも、何か葛藤があるに違いない。そう思いながら、ミランはただ黙って手を差し出していた。
 周りの少年達は、固唾を飲んでハルの様子を伺っている。その緊張した空気の中で、ふと、ハルが肩の力を抜いた。
「仕方ないなぁ」
 そう言って、彼は茶目っ気たっぷりに片眉を上げてみせる。
「よーし、許してやろうではないか」
 芝居がかった偉そうな言い方に、周りの少年達がどっと笑った。
「なーにが、許してやろうだよ」
 ハルの肩を軽く小突いて、ミランも笑う。わだかまっていた苛々はどこかへ消えて、ミランは気持ちが軽くなるのを感じた。
「それにしても、そんなの何処で手にいれたんだよ」
「実は、俺にも素敵な伯父さんがいたのさ」
「なんだそれ」
 みんなが不思議そうにミランを見る。けれどミランは笑うだけで、それ以上何も言わない。
「お前に伯父さんなんていたか?」
 怪訝そうに聞くハルに、ミランは悪戯っぽい笑みを浮かべて答えた。
「昨日だけね。ちょっとハルに似てたかな」
 なんだそれ、とハルが繰り返す。その釈然としない表情に、ミランはひとしきり笑った。
 始業のベルが鳴り響く。少年達は、慌ただしく自分の席へ向かう。同じように自分の席へ向かおうとしたミランの袖を、ハルが掴んで呼び止めた。
「あとで本当のこと聞かせろよ」
「あとで、な」
 器用に片目を瞑ってみせるハルに、ミランは指で輪を作ってOKサインを返した。
 担任の姿が戸口に見えて、教室のざわめきが遠のく。出欠を確認する声、目配せで交わされる会話、退屈な授業、放課後の計画……いつもとかわらぬ、教室の風景。
 眠くなりそうな教師の声を聞きながら、ミランは窓の外に広がる空を見上げた。
 晴れ晴れとした、雲一つない空が広がっている。あの奇妙な男は、今日もどこかで空色の絵の具を作っているのだろうか。そんなことを考えながら、ミランは欠伸をかみ殺す。
 もう一度空を見上げると、そこには一筋、真白な飛行機雲が走っていた。

 - fin -

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