D-04  玉音

 昔、空はずっと蒼いと信じていた時があった。
 見上げた空は蒼くて、蒼くて。夕暮れに染まった茜色のものは、空でなくて別の物だと思っていた。
 でも、紅いのも蒼いのも、灰色のも黒いのまで、全部同じ一つの空で。
 怒ったときに諌められる空も、悲しいときに何も言わずに突き放す空も、みんな同じだった。
「総悟、総悟ー」
 耳をくすぐる程の声が遠くから呼ぶ。顔に春の陽射しが射してきて暖かい。それが心地よくて、寝返りを打つ。いつまでも、こうしていたい……
「――こら、総悟!」
 大声の一喝と同時に、ばん、と頭に何かが落ちてきた。一気に眠気が飛ぶ。
 総悟は驚いて目を開けた。途端に、眩しい陽光が眼を刺す。手で太陽を覆いながら何度か瞬きすると、そこにはしかめっ面をした幼馴染がいた。予想とは違う人物に、総悟は詰まった息を吐き出して起き上がった。
「……理央か。驚かせんなや、見つかったかと思うたわ」
「よう言う、先生に絶対分からんところ探したくせに」
 呆れた風に言って、理央は手に持っていた二つの鞄のうち一つを投げて寄こした。顔に落とされた、教室から持ってきた総悟のものだ。
「あんた、まーた授業出んかったな。今月何回目? 先生怒っとったよ」
 言いながら、草原に寝転ぶ総悟の隣に座る。総悟が授業をすっぽかしてどこかで昼寝している時は、必ずこの裏庭にいた。この場所を知っているのは理央だけだ。
「敵国で戦ってる兵隊さんに示しがつかんやろう、授業受けるくらい当然やと思うて、心を入れ替えて真面目にやらなあかん! やて」
 理央は人差し指を立てて、しかめっ面で教師の口真似をした。
 太平洋戦争が開戦してから一年、教師たちは少し口うるさくこの文句を言うようになっていた。しかし、まだ数えで十三の二人には、その「真面目」がどういったものかはまだ分からない。
「ほんでも、そろそろ本気で授業付いていけんようなるんとちゃう?」
 頭の後ろで腕を組んだまま、総悟は横目で理央を見た。身を乗り出す理央は、挑戦的な期待顔だ。しょっちゅう総悟が授業に出ないので、真面目に授業を受けている理央は、いつか総悟が勉強に付いていけなくなるのを待ちわびていた。総悟は少し起き上がって理央に視線を合わせ、にっと笑った。
「残念やけど、まだあと二月は保つやろな」
「もう」
 口を尖らせた理央に胸をどつかれ、草の上に戻される。総悟は昔から勉強がよくできる。数ヶ月分は自分で先取りすることができた。
「ええなあ、自由で」呟いた総悟に、「何が?」と理央。
「あれ」
 指差した先には、青い空が際限なく広がっている。
「総悟、空好きなん?」
「羨ましいやんか、好き勝手できて」
 数拍の間言葉を返さずに理央が黙って、突然どさりと総悟の横に自分も寝転んだ。
「そりゃね。好き勝手できてええでしょうよ、空は」
「何や。理央は空が嫌いか」
 尋ねた瞬間、空を見上げる理央の目が憎らしげなものになった。
「空なんかキライや。すぐにころころ顔を変えて、知らん振りするから」
「そうか? きれいでええやんか」
「そんなん偽善や。綺麗なもんは、見せるだけで何もせえへんの」
 ざっくり却下されて、総悟は「さいでっか」と目を閉じる。空に何かを期待するなんて、追い詰められすぎてやしないだろうか。ばあちゃんが芋を洗う時の水のように、胸の中がもやもやと濁っていた。
「何で空は色を変えるんやと思う?」
 まるで親が子供を叱る時の誘導尋問のようだ、と思ったが、総悟は指摘しようとしてやめた。この調子では、口答えすると怒らせてしまいそうだった。
「……それは、地球が太陽の周りを一日に一回の周期で」
「そんな天文学的な話ちゃうの!」
 遮られて一喝。他の回答が見つからずに総悟が黙っていると、理央は溜め息をついた。
「空の上に、人がようけおるからやとは、思わへん?」
「はあ?」
「人が死んだら星になるっていうやろ。空の上におる人の分だけ、色があるんかもしれん」
 そう言う理央の顔は険しく、目は晴れ渡る青空を鋭い眼光で突き刺している。やけに真面目な台詞と表情に、総悟は吹き出した。
「何やお前、急に詩人みたいなこと言うて」
「詩人て何やねん、総悟の鈍感! あんたには情趣ってもんがないんか」
 帰ろ、と理央は反動をつけて立ち上がり、勢いよくお尻を払った。総悟を待たずに歩き出した。
 へいへい、と呟いて、総悟も立ち上がった。鞄を持って影を目で追う。理央の背中は遠くなっていた。

 幼馴染というのは単純明快なようでとても複雑な位置関係である、と総悟は考える。
 ずっと同じ場所にいれば、「幼馴染だから」一緒にいて当然ということになる。――同時に、この年なら同級生にからかわれるようなことも度々あるけれど。
 それで別々の場所にいても、「幼馴染だから」いつ一緒にいなくても平気ということになる。その間お互いのことが気になってしょうがない、なんてことはまかり間違ってもないから、この辺りは気が楽でいい。
 要は、ある程度幼い頃に一緒に遊んでいると、その後一緒にいようがいまいが「幼馴染」になってしまう、ということなのだ。
 幼馴染というのは、複雑だが当人たちにとっては結構都合がいい。人が期待するようなことは決してないから、なおさら都合がいい。男より腹を割って話せる女子というのは、安全で貴重な存在だ。……他の男子が目の色を変えて欲しがる女子の情報だって、すぐに耳に入れる手に入れることができるし。
 理央は客観的に見ても、男子顔負けの勇ましさを持っていた。女子にちょっかいを出して泣かせた男子は素手で殴って泣かせ返すし、上級生にも物怖じせずに面と向かって文句を言ったりする。総悟だって理央に守られたことは一度や二度ではないし、いつも理央の後ろでひやひやしているか、後ろからこっそりと役に立つ進言をするのが役割だった。理央が運動系担当、総悟が知能系担当というわけだ。
 そんな風に担当分けがされてしまってはいるが、理央は本当は握力も弱くて小柄だ。意地っ張りだから強がって重い物を持とうとふらふらしていたりするのは日常茶飯事で、総悟の方が力もあるだろうに、助けようとすると怒ってはねつける。まるでハリネズミのようだった。
「総悟は将来天文学者になるん?」
 理央が興味津々でそう訊いてきたのはいつのことだったか、訊かれた総悟の方が不思議な顔になった。
「何で?」
「いっつも寝とるから、空とか星とか、よう講釈垂れるやんか」
 いつも寝ているから、というのは些か理不尽な理由に聞こえた。
「理央が言うか」
「何いよ、事実やろ」
 総悟が天文学的に説明しようとすると、それを遮って詩的に締め括るのはいつも理央の方だ。
「……そんなら、理央は将来詩人やな」
「総悟は思考回路が単純やわ」
 つんとそっぽを向いた理央だったが、その横顔は笑っていて、満更でもないようだった。

 四年目を迎える頃、日本は負ける、と総悟は思った。口に出して言ったことはなかったし、家でも両親の内緒話に口を挟むことはない。理央の前でも言わないようにしていたが、どの局面から見ても圧倒的に不利なのは明らかだった。
 食料の配給、学徒動員、日々激しくなる空襲。数年の間に、何人か同級生を亡くした。
 学校でまともに授業を受けることもなくなった。勉強の先取りも、意味を為さなくなった。そういえば、理央とも顔を合わせる機会が少なくなったように思う。
 工場からの帰り、家路について川べりを一人歩いていると、ぱしゃんという水音がした。俯いていた顔を上げる。小さな影が座り込んでいた。近付いてみると、理央だった。石を掴み、何かを堪えかねている顔で、じっと空と川を見つめている。
 普通とはいえない過激さを押し殺した表情に声をかけたものかと一瞬迷い、結局気付かない振りをして側まで行ってみる。あんな怖い顔を見て、流石に素通りはできない。
「理央?」
 今にも別世界へ飛んでいきそうなぼんやりした仕草で首が動く。総悟、と呼ぶがどこを見ているのかよく分からず、のろのろと理央が立ち上がるまでに、総悟はその目が赤く腫れぼったいのを見つけた。向き合っているはずなのに、理央は目を合わせない。いつものように、遠慮ない抉るような視線がこない。
「兄ちゃんが……」
 言って、黙りこくる。喧嘩でもしたのかと言いかけて、総悟は慌てて改めた。
「ああ。お前の兄ちゃん、予科練に行ってたんとちゃうかっ……」
 続きは言えなかった。ずっと俯いていた理央が、突然胸に飛び込んできたのだ。
「――ちょ、理央」
 総悟は焦って、置き場所のなくなった手を挙げる。自然に降参の仕草になった。
 参った。身動きが取れない。
 引き剥がすこともできずに、変に上を向いたまま「どうしたんや」と訊く。困り果てて、声が掠れた。そのとき、肩口の服を掴んでいた手が、ぎゅっと拳を握り込んだ。
 理央は黙ったまま、総悟の肩に顔を押しつけた。沈黙する。総悟も、沈黙する。
「……兄ちゃん、特攻隊に入れられたんやて」
 やっとのことで出たのが、ひどく不安定な声だった。総悟は空を見上げて、口を開きかけ、また閉じた。
 かけるべき言葉が見つからない。何をいっても、今は空虚に聞こえてしまう気がした。理央とも総悟ともよく遊んでくれた優しい顔が浮かびかけたが、数年を隔てたその記憶は曖昧で、すぐに消えてしまった。
 特攻はほぼ死に等しいと、この歳なら嫌でもわかる。
「やっぱり、空なんてキライや」
 とん、と拳が肩を叩く。今にも泣き出しそうなのを堪える声が、悔しさを滲ませていた。
「涼しい顔して、綺麗な振りして、兄ちゃんを見捨ててく……」
 嗚咽が混ざり出した。泣くな、とも言えず、総悟は降参の両手を下げた。
 薄い膜で理央を守るように、目線の少し下の肩に手を置く。迫り来る、抑え切れない大きな何かから守れたら、こんな風に泣くのを我慢させなくてもいいんだろうか。
 ――何でだ。何で強気な理央が泣かなきゃならない。何で理央の大好きな兄貴が死ななきゃならない。
 何で、理央が泣いてて、俺がこんなに憤らなきゃならない。
 全てがもどかしくて腹立たしくて、総悟は空を見上げた。今まで予想もしなかった、ある選択肢が浮かび上がってきていた。

 遺体のない葬儀から、まる一週間が経った。理央は家に入って戸を閉め、遠ざかる総悟の足音を聞いていた。まだ重く闇を落とした家の中にいるのは気が進まず、そのまま戸にもたれかける。
 総悟に泣きつくなんて、まったく予想外だった。今思い出しても顔が赤くなる、あんな拒みようもない状況であんな風に女々しくするなんて、理央自身が一番嫌いなやり方のはずだったのに。
 柄にもなく弱い部分を曝け出してしまったせいで、総悟は理央を割れ物のように扱うようになった。口に出しこそしないが、色んな気を回してくる。
 黙りこくって何も話しかけてこないくせに、毎日家まで送ったりするのだ。あの、人のことに頓着しない総悟が。笑えるような異常事態だった。
 ――こんなことになって、嬉しい?
 総悟の足音を聞きながら、毎日自分に問いかける。
 こうなるんだったら、兄ちゃんが死んでくれてよかったとでも思ってる?
「最低や……」
 自分に深く突き刺さるように、わざと声に出して言ってみた。本音かどうかはわからない、ただ闇雲に自責の念に駆られた。それでも心は硬く強張っていて、言葉の激しさも撥ね返してしまう。
 疲れを訴える頭を振って家に上がると、居間で家族がひそひそと話す声が聞こえてきた。夏だというのに、戸という戸を閉め切っていた。
「何で、総ちゃんが。賢くて良い子やのに」母だ。
 理央の中で、何かが急速に曇り出す。息を殺して障子の側に立った。
「理央には言うんちゃうぞ。今から変えられることなんか、もう何もないんやからな」
 抑えて言う父の声に、母の啜り泣きが重なった。
「よりによって、何で自分から志願したりすんの。うちの子を見た後で、わざわざ同じ道を辿るような……」
 事態を呑み込んだ理央の足が、すぐさま外へ向かった。持てる限りの力で縁側を走り出す。けたたましいほどの音を立てる理央に家族は気付いたが、呼び止めようとする声は聞こえなかった。
 家を出て、斜向かいに突進する。少しの距離しか走っていないのに、心臓が跳ねる。挨拶もせずに名を叫ぶと、総悟はすぐに出てきた。
 そのいつもと変わらない無気力そうな顔を見ると、一気に現実が押し寄せてきて、理央は声を震わせた。
「何で、あんなことした!?」
 総悟はちらりと理央を一瞥し、脱力したように言った。
「理央には関係ない」
「あるわ……」理央は首を振って、荒々しく目元を拭った。総悟の意図が全く分からなかった。
「うちは特攻しろなんて一度も頼んどらん!!」
「別に、お前のためやない」
 苛々したような総悟の言葉が、自分から自分へのどんな罵声より胸に突き刺さった。自分の顔が絶望的に歪んだのを、総悟が目を逸らしたことで理解した。
 恥ずかしかった。今すぐ総悟に背を向けてどこかへ行ってしまいたかった。総悟の行動が全部どこかで自分につながっていると、根拠もなく自惚れていたのだ。途方もなくなって俯く。総悟のことなのに、自分の悲しみしか浮かばない。
 二人の間に沈黙が入り込み、奥から、おばさんが泣き声を殺しているのが聞こえてきた。
 背後を振り向いて、総悟は理央の目を見ずに言った。
「出えへんか」

 怒りと恥とで顔を赤くした理央を川原に座らせ、総悟は立ったままだった。
「訓練期間はほとんどないらしい。すぐに出してくれるんやと」
 理央は抱えた膝に顔を押し付けた。何も言わない。
 しばらくの間理央を見下ろし、総悟は息を吐いて自分も座った。
「……俺は、意気地なしや」
 理央は顔を上げて総悟を睨んだが、何も言わなかった。表情が怒気に染まっていた。総悟は口元に薄く諦めの笑みを浮かべ、遠くを見ながら小さい声で呟いた。
「理央、日本は負ける」
 驚いて、理央は思わず立ち上がった。
「……な、にを」
「隠しとるが、軍備、食料、資源、戦力、何につけても勝ち目はない。新聞で言うほど勝っとるわけない、適当なことぬかしとる。沖縄ももうすぐ堕ちる。本州に渡られたら、一瞬で捻り潰されるやろう。降伏の気配がないで、アメリカも止めを刺すために大きなことをするかもしれん。――遅くても、今年中」
 淡々と言って、やっと総悟は絶句する理央の目を見た。
「早くて、一月」
 笑い飛ばせる話でも空気でも、話し手でもない。真剣そのものだった。
「もしかすると、戦争が終わって帰ってこられるかもしれん。その確率の方が高い。――意気地なしやろう。もっと早くに志願するのは、怖かった。工場におれば終戦までよう使ってもらえると、そこにつけこんで……」
 総悟ははっと口を噤んだ。口を引き結び、言ったことを後悔しているようだった。
 この見えないものが見える目は、他の人が考えないことを考える頭は、理央よりももっと多くのことを隠して堪えているのだ。
 理央は胡座をかいて座る総悟の両腕を掴んだ。
「総悟。絶対、帰ってきいや」
 総悟が目を閉じ、口を開きかける。義務として言うべき言葉は、口に出される前に理央が強引に遮った。
「あんたは元気に帰ってきて、将来天文学者になる」
 理央は想いを流し込むように腕を握り、じっと総悟を見つめた。涙が後から後から溢れてくる。どうか目を開けないでほしい、きっと総悟ならそうしてくれるはずだから。
「だらだら勉強して、余裕で難しい学校行って、学者になっても寝ながら講釈垂れんの! だから、ええな。――ええな、絶対、帰ってくるんやで!」
 息が詰まって咳き込みかける。総悟はようやく少し口の端を上げた。
「理央は詩人?」
「何にでもなったるから!」
 反射的に答えると、総悟は低く笑った。
 目を開けかけたところに焦り、総悟の首に飛びつく。
 信じるしかない。総悟は戻ってくると。
 たとえ空が総悟を見捨てても、最後の一人になったって自分は総悟を信じてやる。
 そうしないと、総悟の空が綺麗に見えないから。
 総悟の好きな空が、総悟の薀蓄を聞きながら総悟の隣で見られないから。

inserted by FC2 system