D-06  黄昏鉄道

 カタン、カタン、カタン……
 心地よい揺れを感じながら、アイビスは窓の外を見た。広がるのは紅の雲、果てなき空を走る列車の中に彼女はいた。
 噂は本当だったのか。彼女は思う。
 夕焼け空を走る列車の噂は学園中に広まっていた。綺麗な夕焼けの日に現れる、目指す場所に連れて行ってくれる“黄昏鉄道”。空を走る列車を見たという噂があるだけで、本当に乗った人の話は聞いたことがなかったが。
 気づけば、裏山には真っ白な列車が停まっていて、その周りにはいち早く列車の到着に気づいた学園の生徒が群がっていた。遅れて駆けつけたアイビスも人に潰されそうになりながら、かろうじて滑り込んだのだ。
 が、アイビスは妙に複雑な気分だった。
 勢いで乗ったはいいけれど、自分はどこに行くのだろう。目指す場所に連れて行ってくれるというけれど、自分は何を目指しているのだろう。
 皆は、どこを目指しているのだろう。
 カタン、カタン、カタン……
「アイビス!」
 揺れる音以外に音が存在しなかった場に、明るい声が生まれる。アイビスがそちらを見ると、見慣れた二人組が立っていた。
「ベル、レイン」
「よかった、置いてかれたんじゃないかって心配してたんだよ?」
 明るい声の持ち主、ベルが笑う。ベルの後ろに立つレインもくすりと笑みをこぼした。
「席、一緒していいですか?」
「もちろん」
 アイビスも満面の笑顔で二人を迎えた。
 ベルとレインはアイビスの級友だ。ベルは陽気なしっかり者でクラスのリーダーを立派に務めている。対照的にレインは物静かだが、心優しく誰にでも愛される少女である。
 近寄りがたいと評されるアイビスの数少ない友達で、アイビスにとって大切な居場所でもある。その二人が一緒だと知り、アイビスの心も心なし軽くなった。
「よかった、一緒だったんだ」
「あったり前。レインがもたもたしてるから、こっちも危なかったんだけどね」
「ごめんなさい……あんまり人が多いから、びっくりしちゃって」
「私もびっくりした。学園祭でもあんな狭い中で押し合ったりはしないよ」
「あはっ、言えてる」
 三人は額を突き合わせて小声で笑った。何しろ、話をしているのはこの場で三人だけ、車内には他の生徒の姿もあるが、誰もが窓の外に広がる黄昏に目を奪われて言葉もない。
 自然と三人も言葉少なに窓の外を見つめていた。広い空以外に何もないように見えるけれど、よく見れば空のグラデーションや眼下に広がる雲の形は刻々と変化している。
 レインがうっとりと溜息を漏らす。空を走る列車なんて、彼女にとって、いや、誰にとっても物語の世界でしかなかったのだから。アイビスも思わず呟いていた。
「夢、みたいだね」
「だけど、夢じゃない」
 声につられて見れば、ベルは遥か彼方を見つめていた。いつもきらきら輝いている瞳を、夕日にいっそう輝かせて。
 きっと、ベルには見えているのだ。黄昏鉄道の終着駅、自分が目指した場所が。そんなベルを見ていると、こんなもやもやした心のまま列車に乗り込んだ自分が恥ずかしくなってアイビスは体を縮める。
「あのさ……ベル、私」
「実はね、あたしも怖かったの」
「え?」
「一人だったら嫌だよ。でも、レインとアイビスがいてくれるなら怖くない」
 ベルは華やかに笑う。大輪の花のように。
「私たちだったら、どこまでも行けるよ!」
 ベルに言われると、本当にそんな気分になってくるから不思議だ。上手く乗せられて、ベルに振り回されたことも、一度や二度ではないはずなのに。
 多分、厄介事に乗せられても最後には三人で何とかするからだろうな、とアイビスは考える。ベルの行動力とレインの思慮。無愛想で不器用な自分が役に立っているのかは知らないが、二人と一緒なら何でもできる気がした。
「……そう、だね」
 だからベルの言葉一つで、安心できる。
「あとどのくらいで駅に着くのかな?」
「いえ……ベルはわかりますか?」
「うーん、夜に着くって話だけど、なかなか日が沈まないからね」
 ベルの言うとおりだ。発車してから結構時間が経ったように感じるのだが、夕日は依然西の空に浮かび続けている。珍しく、レインが真っ先に立ち上がって言った。
「あの、展望車に行きませんか? もっと綺麗に夕焼けが見えると思います」
「あァ……いいね。行こっか」
 アイビスも立ち上がり、ベルが続いた。
 展望車はいくつかの車両を越えた先にあった。高くなっている車両の壁は全面ガラス張りで、広がる紅の空が一望できた。
「わあ」
 レインの歓声が響く。アイビスも、言葉を失って立ち尽くしていた。限りない赤い空に、桃色の雲の海。これほどまで美しい空を、今まで見たことがあっただろうか?
「ねえレイン、あれが宵の明星?」
 ベルが夕日に寄り添って輝く星を指差し、レインは笑顔で頷く。しかし、アイビスは二人とは別のところを見ていた。星を指差すベルの手に、全ての意識が吸い寄せられる。
「あのさ、ベル。その手の模様は何?」
 言葉は、考える前に口から出ていた。ベルはアイビスが何を言い出したのかわからなかったのか、猫のような目を丸くする。レインの方が先にアイビスの言葉の意味に気づいて、おずおずと自分の手の甲を見せた。
「列車に乗るときにスタンプを押してもらいましたよね? 乗車券の代わりです」
 一対の羽の文様と知らない文字が、夕焼け色のインクで押されている。アイビスは首をかしげて両手の甲を二人に見せた。
「いや、私の手にはないよ」
 もしかすると、乗り込むときにあまりの人数が押し合いへし合いしていたものだから、車掌も見逃してしまったのだろうか?
 思いながらベルに視線を向けて、アイビスは息を飲んだ。ベルが突然、表情を失ったからだ。
 しかし、それは一瞬のことだった。もしくはアイビスの見間違いだったのかもしれない。ベルは普段と何ら変わらぬ笑顔で、レインと同じ羽のスタンプを押された手を伸ばす。
「なら、今から車掌さんに言いに行こう。スタンプがないと大変だよ」
「そうなの? それじゃあ仕方ないか」
 面倒くさいけれど、仕方ない。アイビスは案内してもらおうとベルの手を取ったのだが。
 ――ひやり。
「……っ!」
 次の瞬間、アイビスはベルの手を振りほどいていた。ベルは驚いた顔で「どうしたの?」と聞いてきたけれど、なぜだろうか、今はその声もやけに白々しく聞こえる。
「ベル……何が」
「大丈夫。私とレインがついてるんだよ」
 ベルはいつもの、ヒマワリの笑顔でアイビスの手首を掴もうとする。
 体温の感じられない、氷のような手で。
 違う、何かが変だ。
 思い出せない。どうして、自分はここにいる。どうやってこの列車に乗った。
 いや……そもそも“黄昏鉄道って何だ”?
「ダメですっ!」
 高い音を立ててアイビスの手首に触れようとしたベルの手が弾かれる。何が起こったのかわからなかったが、すぐにレインがベルの手を叩いたのだと気づいた。
 レインはいつになく険しい表情でアイビスに目を移す。アイビスはわけがわからないままレインに手を引かれた。
「行きましょう!」
「どこへ……うわっ!」
 予想以上に強い力で腕を引かれ、アイビスはつんのめるように走り出す。レインが向かう先は、展望車の外。そして、アイビスの手を引くレインの手もまた、冷たかった。
 カタン、カタン、カタ、カタ……
 心地よかった揺れが、微かに強くなった気がした。レインはアイビスを展望車から出すと、ベルが追いすがってくる前にドアを勢いよく閉めた。ドアの向こうでベルが叫ぶ。
「レイン! 何でっ!」
 レインはベルの声を振り切るようにアイビスの手を引いて連結部を飛び越え、後ろの車両へと走り出す。
 アイビスは走りながらも、吐き気を伴う不快感に囚われていた。今まで考えたこと、見たこと、感じたこと、全てがよくできたツクリモノ、ニセモノだったかのような感覚。
 終わらない夕焼け空。空の上を走る列車。切符代わりの赤いスタンプ。冷たい体の友達。
 終着駅は「目指した場所」。
 夢ではないはずなのに、何もかもがふわふわ浮ついているようで落ち着かない。
「レイン……何、この列車は、私は!」
 たまらずに声をあげたアイビスの手を、振り向かないままレインは強く握り返した。食い込むほどに握った手はひどく冷たいけれど、アイビスがよく知るレインのものだ。
「もしかしたら、アイビスなら、間に合うかもしれないのですっ!」
「何それ? それに、ベルは」
 ベルは、一緒に行こうと言っていた。一度はあまりの手の冷たさに驚いて手を離してしまったけれど、どうしてベルから逃げるのだろう。悪いことをしている気分だ。ベルはスタンプを忘れたアイビスのことを心配してくれた。一緒に車掌に会いに行く、それだけだ。
 もうドアに遮られて見えないとわかっていても、ベルの姿を求めて振り向き、アイビスは目を見開いた。
 先ほどまで自分たちがいた真っ白な展望車の車両が、赤く燃えている。喩えでなく、炎を上げて、ゴウゴウと音を立てて燃えている。不思議と熱は感じなかったが、あの中にまだベルがいるのだと気づいて足を止める。
「止まって! ベルが、ベルが中に!」
「止まらないで!」
 決して足を止めないレインの高い声が響いた。会話は噛み合わないし、「見ないで」と言われても、ベルは燃え盛る炎の中なのだ。両足で踏ん張ってレインを引きとめようとした、その時だった。
 ――アイビス。
 速さを増していく列車の音にまぎれた、小さな声。ベルが、アイビスの名を呼んでいる。なおも走ろうとするレインの手を払ったアイビスは、声の限りに叫んだ。
「ベル、私はここだよ!」
 途端、音を立てて閉じていたドアが弾け飛んだ。車両の中から爆発的に広がった炎がアイビスの体を舐めるが、やはり熱は感じなかった。
 自然、胸の鼓動が高まる。冷たい汗が背中を流れて落ちる。まさか、手遅れだったのだろうか。三人ならどこまでも行ける、と言っていたあのベルは、どこに。
 その時、か細い声が聞こえた。思わずアイビスは燃える車両に駆け寄ろうとしたが、レインが後ろから抱きついて留める。これ以上邪魔するのなら、相手がレインでも力づくで振り払おうとアイビスが心に決めた時。
 炎から腕が伸びる。焼け爛れた、腕が。
「言ったよね……三人なら、どこまでも行けるって」
 一歩、また一歩、人間の形をしたモノが、炎を纏って歩み出る。学園の制服は既に燃え尽き、ほとんど姿の判別もつかないモノが、いやに明るいベルの声で言う。
「三人なら、寂しくないよ……アイビスも、一緒に、行こう」
 アイビスはヒュッと息を吸う。確かに焼けた人の形をしたモノには恐怖している。だが、それ以上に恐ろしかったのは、全てが焼け落ちているにも関わらず、手の甲に押された赤い羽の印だけが淡い光を放っていたこと。
 そして、展望車の中から現れたのはベルだったモノだけではなかった。同じように焼け爛れたモノが、何人も、何人もアイビスに向かって手を伸ばす。それぞれの手には、やはり赤い羽の印が刻まれていて……
「振り向かないで、走って!」
 レインの声は耳元で聞こえた。すでにベルの焼けた指先が目の前に迫っていたが、はっと我に返って背を向ける。
「あいびす……あいびす……」
 ベルの切ない声が響くも、アイビスは決して振り返らなかった。後部車両に向かうレインの背を追って、全力で走りだす。
 カタ、カタ、カタ、カタカタカタ……
 激しい揺れの中、二人は飛ぶように走る。一つの車両を抜けて連結部分を越えるたびに、背後で爆発音が聞こえてくる。
 レインは無言でアイビスの手を引き続ける。アイビスは恐怖に震えているのに、普段はベルやアイビスの背を追うばかりのレインが、今はぴんと背筋を伸ばして走っている。
 走って、走って、ひたすらに走り続けて、突然視界が開けた。
 車両と車両との連結部分、しかしその先はなかった。転落防止の柵の向こうに広がるのは、終わらない赤の空。
「……ここまで来れば、しばらくは大丈夫です」
 柵によりかかり、レインは息をついた。元々体がそれほど強くないはずのレインだが、肩を上下させるアイビスに対して、ほとんど息が切れていない。
 だが、もうアイビスにもわかっていた。この“黄昏鉄道”が何であり、どこを目指して終わらない夕焼けの空を走るのか。
 夕焼けの向こうは夜。人間は皆、同じ場所を目指す。永遠の夜、終わりの世界を。
「レイン」
 息を整えながら、アイビスは改めてレインを見る。白い肌のレインの顔は、夕日に赤く染め上げられて、綺麗だった。窓から夕日を見ていたベルもまた美しかったと思いだす。
 しかし、夕焼けの空が美しいのは、きっとその後の闇を思うから。
 アイビスは思い切って言葉を吐き出す。
「私たちは、死んだんだね」
 レインの答えは寂しげな笑みだった。
 やっと思い出したのだ。学園祭の日に生まれた小さな火。それはすぐに学園中に広がって、アイビスたちが逃げる間もなく建物は炎に包まれた。
 裏山に現れる黄昏鉄道の噂は、死を認めないアイビスが頭の中で作り上げたウソに過ぎない。列車の中で感じていた不快感は、それがニセモノだと気づいてしまったから。
 レインは制服のスカートを翻し、アイビスに背を向ける。
「約束、覚えてます? 学園祭の後には」
「シュートーカのケーキを食べに行くんだったね。私が食べたことないって言ったから」
「ベルも私も、楽しみにしてたんですよ」
「こんなことになっちゃったけどね」
 アイビスは苦笑する。先ほどまで感じていた恐怖は、既に綺麗に消え去っていた。焼け爛れた体のベルを見て恐怖した自分が恥ずかしい。きっと、自分もレインも本当は同じように炎の中で死んでいるのだろうから。
 レインは、しばらく夕焼けを見つめていたけれど、やがてアイビスを見た。その目は、悲しみと強い力を感じさせる目だった。
「アイビスは、まだ、帰れます」
「何で?」
 アイビスは聞き間違いかと思ったが、聞き間違いでない証拠にレインはアイビスの目の前に手の甲……一対の羽の印をかざす。黄昏鉄道の乗車券。天国への入場券。アイビスの手にはない、印。
「アイビスは、この列車の乗車券を持っていませんよね? 多分、アイビスはまだ呼ばれていないんです。今ならきっと間に合います。生きて、帰れます!」
 アイビスは「だけど」と口の中で呟いて立ち尽くす。三人ならどこへだって行ける、それこそ天国にだって。ただ、何のとりえもない自分だけ帰って、何ができる?
「私は」
 言いかけたところで、爆発音が響いた。自分たちの乗っている車両も爆発を始めたのだ。遠ざかっていたアイビスを呼ぶ声も近づいてくる。ベルが、呼んでいる。一度は閉じたドアを開いて、レインが笑いかけた。
「私が食い止めます。その間に、降りてください」
 降りる……この列車を? 降りる場所なんてどこにもないし、自分が降りるよりも、まずアイビスが考えたのはレインとベルのことだった。だがアイビスがレインに向かって口を開く前に、レインは車両の中に駆け込みドアを閉じてしまった。
 慌ててアイビスはドアを強く叩く。ドアノブを握るも、内側から鍵をかけてしまったのだろう、押しても引いても開かない。
「レイン! あんたも一緒に……」
 不可能だ。レインには、すでに天国行きの印が刻まれている。行き先は定まっている。それでもアイビスは認めない。すぐそばにいるレインと一緒にいられないことが、認められなくて。がらにもなく涙をこぼして叫ぶ。
「レイン!」
「私だって、三人で行きたいです!」
 ドアの向こうから聞こえた声もまた、湿っていた。
「でも、アイビスだけで行ってください。だって」
 姿が見えなくても、レインが泣きながら笑っているのだとわかる。
「ケーキが食べたいと言ったのは、アイビスです」
 ドアから炎が漏れ出してくる。ドアを叩くのを止めたアイビスに、レインが声をかける。
「私たちの分まで、味わってくださいね」
 いつものレインらしい言葉だった。アイビスは内部の爆発の音を聞きながら、目に溜まった涙を無理やりにぬぐった。
「そんなに食べられないよ」
 冗談交じりに呟いて、燃える車両に背を向ける。時間はもう残されていない。もしこのドアが破られれば、ベルやレインと共に終着駅を目指すことになる。
 それも、一つの選択だが。
 目を閉じて、深く息を吸って。
「……行こう」
 強く柵を掴み、アイビスは笑う。
 燃える雲の海が、眼下に広がっている。
 アイビスが、これから目指すべき場所。
 それは、黄昏鉄道の終着駅なんかじゃない。
 両足に力をこめて、手を離し――
「行くんだっ!」


 アイビスは、飛んだ。

 終わらない夕焼けの空に向かって。

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