D-09  薔薇の館

 はじめに目に映ったのは、笑みの形に動いたその口元だった。
 
 紅、薄ピンク、淡い紫、オレンジ、純白――
 視界を埋め尽くす、ありとあらゆる色彩の薔薇が咲き誇る庭で、けれどそれらよりも鮮やかに目に映ったのは一人の少女の姿だった。
 薔薇の群に埋もれるようにして佇む彼女は、花々のどれもが持たない「黒」という色彩をしていた。
 腰ほどまである長さの黒髪と、妙にひらりとした黒いドレス、手にしている黒い日傘。そして、それとは対照に透き通るように白い肌、濡れたように紅い唇、天上を思わせる真っ青な瞳。
 惚けたように彼女を見つめるユヅルの耳に、突然甘い声が届いた。

「貴方、『死』が視えるわ」

 それが目の前の、人形のように可愛らしい少女の口から発せられた言葉だと理解するのにしばらくかかった。死が見えると言われたってはいそうですか、と納得できるものでもない。ましてこんな死とはこれ以上ないほどにかけ離れた印象の薔薇園で、初対面の美少女に言われた言葉ならば尚更だ。
 それでも何も言葉を返さないのは失礼だと思って、必死で頭の中身を掻き回してみたけど、勿論ユヅルの頭の中にそんな気の利いた返答が浮かぶはずもなく。
「……はい?」
 口から漏れたのは我ながら気の抜ける一言で。その言葉に少女はクス、と静かに笑ってまた甘い声で囁いた。
「薔薇の芳香ってね、人の、死の匂いに似ているの。こんなに鮮やかに咲き誇る美しい花と、朽ち果てた人の香りが似ているというのもおかしいけれど――でも、そうなのよ。そして、」
 言葉を紡ぎながらその白い指先をつい、とユヅルの方に向けて少女は笑む。
「貴方の身体からは、確かにこの香りが。何より、黒い影が見える……」
 ごぉっと風が駆け抜けて、咲き誇る薔薇たちを揺らす。それが不吉の予感に思えて、ユヅルは両腕で身体をギュッと抱きしめた。明るい休日の午後、何気なく薔薇を愛でに来ただけの自分に、何故そんなことが言われるのだろう。
「分からないのも無理はないし、いきなり理解してくれとも言わないわ。けれどね、ここはすでに貴方がさっきまでいた世界ではないのよ」
 念を押すようにもう一言彼女は呟いて、手近にあった淡いピンク色の薔薇を一輪手折ると、ユヅルに付いてくるように手招きしたのだった。


「紹介が遅れたわね、私はこの庭と館の住人で、エリン・ガーディナー。一年中薔薇の咲き誇るこの館へようこそ、ユヅル」
 外のきつい陽射しの下から突然屋内に入ったからか、軽く眩暈を感じながらユヅルは少女に続いて長い廊下を進んで行く。
 陽光のきらめく薔薇園とは違い、館の中はどこもかしこも暗く、闇を落としている印象だった。
「僕は、君とどこかで会ったことがある?」
 名乗った覚えはないのに彼女は自分の名前を知っている。そのことに軽く疑問を覚えてユヅルは尋ねた。けれど、返事の代わりに返ってきたのは、また意味深な微笑みだけで。
 果てがないように思えた廊下の一番奥にようやくたどり着くと、少女――エリンはいつの間にか手にしていた鍵でカチリ、と目の前の扉を開けた。
 部屋の中は、また見事としか言いようのない光景が広がっていた。
 床に敷き詰められた毛足の長い絨毯、見るからに高価そうなソファやテーブル、ランプ、本棚など。テーブルの上にあったガラス細工の一輪挿しに、先ほど摘んだばかりの薔薇を生けて、彼女はユヅルに窓際のソファを指し示した。
「甘いものは好き?」
 きょろきょろと部屋中を見回していたユヅルは少女の言葉に一瞬ぽかんとしつつも、とりあえず頷いておいた。


 慌しい日々の仕事に疲れて、遅い夏季休暇を取ったのは昨日のことだ。
 春先に限らず、いつでも満開の薔薇を見ることのできる場所があると教えてくれたのは仕事先の先輩で、そういうものに触れる機会もしばらくなかったな、と思ったユヅルは、なんとなく夏季休暇をそこで過ごすことに決めたのだった。
 半年ぶりにようやくもらえた休暇を一緒に過ごそうと恋人に連絡を取ったのも昨日の夜遅く。何度電話しても留守電ばかりが続く彼女の携帯が通じたのは、それからさらに遅くなってからのことで、前置きもそこそこにとりあえず本題を話してみた。

「明日、薔薇を見に行かないか?」

(半年も放置しておいて今頃薔薇って何よ、ていうかあたしがまだあなたを待ってると思っているの?)

 最後の言葉が終わるか終わらないかと同時にプツンと無情な音を立てて電話は途切れ、それきり携帯はつながらなくなった。
 彼女とは学生時代からの付き合いでこの夏で七年目を迎えたのに。明日がその七年目だというのに……
 固定電話の横に置かれた赤い布張りの箱を切なげに見やって、彼はどこにも行き場のないため息をついたのだった。

 そうして今日訪れたのがこの場所だ。
 まさかこんな風に館の中に通されるとは露ほども考えず、しかも普段自分が生活している場所からそう遠くないところにこんな所があるのも知らなかった。
 咲き誇る薔薇には確かに心を癒されたが、隣に愛する女性はおらず、ズボンの左ポケットには無駄になった婚約指輪が無造作に押し込まれている。
 死が視えるとエリンが言うのならそれもいい。
 薔薇の芳香に包まれてこの命が散るのなら、まだ救いもあるように思えるから。


「遅くなってしまってごめんなさい」
 エリンが紅茶とスコーンの乗った銀の盆を手に部屋に戻ってきたのは、数分経ってからのことだった。
 ソファへと案内したはずの男は、四肢を投げ出し、ぐったりと横たわっている。
「ユヅル?」
 相手の意識がないことをすでに知りながらも、念のために名前を呼んでみた。けれども返ってきたのはすぅすぅという規則正しい寝息だけで。テーブルの上に飾ったピンクの薔薇は、しっかりその効果をもたらしてくれたようである。
 エリンは手にしていた盆を音を立てないようにテーブルに置くと、ユヅルが眠っている右隣にそっと腰かけた。
 色素の薄い薄茶の髪、すっきりと整った鼻梁。彼がかなり美形の部類に入ることは、一目見ただけで分かる。しかし今苦しげにゆがめられたその寝顔は、彼のすべてを物語っているようだった。目尻にたまっていた涙の粒を、白い指がそっと拭い取る。

「そんなに濃く死の気配を背負っていては駄目。貴方には、まだ大切なものもたくさん、あるでしょう?」

 意識のないユヅルにそっと囁きかけて。エリンは彼の頭を自身の膝の上に抱えあげると、愛しいもののようにそっと抱きしめる。
 室内は柔らかい静寂に包まれ、ユヅルに膝枕をしたかたちで、エリンも静かに目を閉じた。

 
 * * *

 
 金曜日の午後のオフィス街。
 忙しく行き交うスーツ姿のサラリーマンと、高いヒールの音をカツカツと鳴らしながら早足で歩くOL達。
 そんな人たちがふと目をやって見ていくのは駅ビルの壁面に大きく貼り出されたポスターだった。薄茶色の髪と目をした男が、物憂げに遠くを見つめている――そんななんでもない一枚の写真。それでも皆がその写真に目を奪われてしまうのは、彼が最近人気急上昇中のモデルだからだろう。ポスターの右端には小さく「ユヅル」と彼の名前が表記されている。
 そんな中をまさか本人が歩いているとは誰も思わないはずで。
 サングラスをかけただけの変装ともいえない無防備な姿のまま、ユヅルは人ごみに紛れて真昼のオフィス街を歩いていた。
 彼の右ポケットには、恋人の指輪の号数を正確に記したメモが入っている。時折手をやってその紙の感触を確かめながら、どこにも立ち寄らないまま、ユヅルはまっすぐに宝石店に入った。頭上には女の子なら誰もが一度は憧れる有名店舗の名が刻まれている。
 中に入るなりうやうやしく口上を述べにきた店員に一言だけ伝える。ぺこりと頭を下げた店員が小走りに奥に引っ込み、小さな赤い小箱を出してくるのを見てから、ようやく彼の表情がほころんだ。
 
「――もしもし? うん、そう俺だけど」
 店を出るのももどかしく、転がり出るように外に出てからユヅルはすぐに電話をかけた。
 待ち合わせ場所は駅ビルの真下、自分のポスターが飾られているところ。彼女には少し、いつもよりきれいにしてくるように言い含めて、じゃあ三十分後に、と電話を切った。
 来る時には急ぎ足でほとんど見ていなかった街並みを、ゆっくりとかみ締めるように眺めながら、目的地までの道を街路樹の影に沿ってのんびりと歩く。
 まさに夏真っ盛りという季節の今、見上げた空はどこまでも続く抜けるような晴天が広がっていた。
 彼女と出会ったのもちょうどこんな天気のいい夏の昼下がり。そう、きっかり七年前の今日のことだった。思い返しながら、自然と浮かんでくる笑みを自覚しつつも、それを隠そうという気持ちさえなかった。
 周りに怪しい人間だと思われたって別にかまわない。もうすぐ会う愛しい彼女はこの指輪を受け取ってくれて、きっと自分の奥さんになってくれる。これ以上の幸福がどこにあるだろう。

 見慣れたポスターが再び視界に入ってくる。そのすぐ下に、真っ白なワンピースを着た女の子が立っているのが見えた。
 どうやら向こうが先に着いちゃったみたいだな、と苦笑して、ユヅルは少し歩くペースを上げる。
 と、その彼女の白いスカートを小さな子がすがりつくように握るのが見えた。少女の指差した先を同じように見上げて、彼女がふわりと笑う。
 少し背の高い木の上に、赤い風船が引っかかっているのが分かる。
 彼女の待っているところへと階段を駆け上がりながら、彼は知らず叫んでいた。


 危ない、やめろ――

 
 それからの映像は映画のコマ送りのように頭の中に残っている。
  手を伸ばした彼女をあざ笑うかのように、風船は風に飛ばされてまた少し遠くへ。
 まだ大丈夫、と足元の子供に笑いかけてもう少し、と手を伸ばす彼女。
 そのバランスを崩しかけていた危うい背中に、通行中のサラリーマンが軽くぶつかる。
 あ、という形に口を開いたまま、伸ばした手の先から彼女の姿は手すりの向こう側へ。
 
 そして……ちょうどユヅルの駆け上がっていた階段のところからは、落ちていく彼女の姿がよく見えた。

 落ちて、くったりと地面に横たわったまま動かない恋人。
 着ていた真っ白いワンピースは、ところどころ赤く染まっていて。



 * * * 


「彼女は!?」
 ソファで横たわっていたユヅルは、突然がばっと跳ね起きた。その反動でエリンはソファから滑り落ちたが、それを感じさせない優雅な姿で立ち上がると、一言、呟いた。
「貴方が今夢見ていたことがすべての真実。ひとつの嘘も偽りもなくね」
 カップにゆっくりと紅茶を注ぎいれながら、少女はユヅルに目の前の椅子を薦める。
 がっくりとうなだれたまま椅子に座った彼の前に、湯気の立つ熱い紅茶を静かに置いてから、エリンは歌うように話を紡いでいく。

「記憶の改ざんをすれば楽になるわ。救われないと思っていた自分を、違う結末に導くことができるから。けれどね」
 生けられていた薔薇を手に取り、その香りを吸い込む。確かに摘み立てだったはずの薔薇が、すでに枯れかけているのを見て、ユヅルは軽く息をのんだ。
「けれど、それは、貴方には救いになっても、彼女の救いにはならないのよ」
 分かるでしょう? とその青い瞳に見つめられて、ユヅルは力なく頷く。
「彼女は、確かに貴方を愛してた。待ち合わせ場所で、はちきれそうな期待に胸を膨らませて待っていたのが本当の彼女であって、半年ぶりに電話をかけてきた恋人に怒ったのは貴方が作り出した都合のいい幻影」
 くるくると薔薇の茎をもてあそんでいる少女の手は、小さな棘に徐々に傷つけられていく。
「そうであれば彼女は生きているから。自分と同じ道を歩むことはなくても、この世界に存在していることになるから――」
 でもね、と続きを語ろうとしたエリンはそこで言葉を切った。そしてぼんやりと頭をあげたユヅルが見たのは、ぽろぽろと涙をこぼす少女の姿だった。
「……どうして、君が泣くの?」
 どうして、君が俺の夢を知っているの。どうして、君が俺の名を知っていたの。どうして――
 聞きたいことはたくさんあったが、じっと目の前のエリンの姿を見ていて、ユヅルは唐突にすべてを理解した。


「君が、彼女だったのか」


「……だから最初に言ったでしょう。ここは、すでに貴方がさっきまでいた世界ではないのよ、って」

 見て、と白い指先は壁にかかっている柱時計を指差した。けれどそこに「時計」はあっても「針」は見当たらない。なるほど、自分は確かに現実とずれた所に足を踏み入れていたらしいとユヅルはおぼろげながらに理解した。

「忘れたままなんてそんな都合のいい事許されると思って? 貴方は、これからもトップモデルとしてちゃんと働いて、また素敵な恋人を見つけなくちゃ」

 そう言って泣き笑いの表情を浮かべたまま、とうとうエリンはユヅルに抱きついた。
 黒い真っ直ぐな髪と、紅い唇と、青い目をした少女の姿にだぶって、勝気そうな笑顔を浮かべて白いワンピースを着た恋人の姿が見える。姿は違っても、確かに自分の愛した彼女だと実感して、ユヅルはその唇にそっとキスを落とした。


「さようなら。最後に、会えてよかったわ」

 腕の中に抱きしめた少女がそう囁いたのを最後に、視界が暗転していく。遠のく意識の中で、少女の特徴のある甘い声が響いた。


『目覚めたら貴方はここでのことをすべて忘れてしまうけれど。それでも――こんな生と死の狭間まで会いに来てくれて、ありがとう』


 そう言って微笑んだ彼女の指に、ピンク色の石がついた指輪が光っていたのは、もう誰も知らないお話。

 あとには、一年中咲くことを止めない薔薇たちの庭と、幼い少女の姿をしたビスクドール姿と、古い洋館だけがあった。   

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