D-10  Agony

 昔々、遠い遠い西の国に、一人の少年が住んでいました。少年の父親は、何年も前に起こった隣の国との戦争に駆り出され、少年の国が負けてしまった時に捕虜となって死んでしまったので、少年は母親と、弟と、まだよちよち歩くこともできない小さな妹の三人で暮らしていました。少年は、来る日も来る日も小さな畑を耕し、弟は町の人たちの肥を汲み取る仕事をしてわずかばかりのお金をもらっていました。あまり身体の丈夫でない弟でしたから、少年も少年たちの母親もそんな仕事はさせたくないのですが、弟はいつも笑って僕にはこの仕事が合っているから大丈夫、と言うのでした。
 ところがある日のこと、その弟が日暮れになっても町から帰ってきません。待っても待っても帰ってこないので、心配になった少年が町へ探しに行こうとした時でした。表のほうからガヤガヤと騒がしい声が聞こえてきたのです。少年が外に出てみると、そこには村の人たちが勢ぞろいしており、他にも少年の知らない町の人たちも大勢立っていました。
 君の弟さんが、と誰かが言いました。君の弟さんがね、と他の誰かも言いました。後ろのほうの男の人たちが何か、荷車のようなものを引いているのが見えて、少年は嫌な予感がしました。
 君の弟さんが、町で撃たれたらしいんだ。隣に住んでいる男の人がそう言いました。倒れていた弟さんの横に、これが落ちていた。そう言って開いて見せた男の人の手の上には、隣の国の紋章が象られたボタンがありました。少年たちの国が負けて以来、隣の国からは沢山の軍人たちがやって来て、少年たちの国を我が物顔でのし歩いては横暴なことをやってまわっていたので、少年にも弟の横に落ちていたというそのボタンが一体どういうことなのか、薄々予想がつきました。恐らく、肥溜めを持って歩いていた弟さんのところに、隣の国の男がすれ違おうとしたんだろう。何が起こったのかは分からないが、すれ違った瞬間に弟さんがよろけて肥溜めを男の足元にこぼしてしまったのか、それとも肥溜めを運んでいた弟さんがその男の気に障ったのか。ともかく男は何かに逆上して弟さんを撃った。事の顛末はそういう感じだろうな。と誰かが説明していました。
 弟の顔を見てやるかい、という声で少年はゆっくりと荷車の横に歩みよっていきました。弟の顔は、朝出かけた時と全く同じでした。少し青白くて、誰よりも優しい、可愛い顔をした弟の顔に相違ありませんでした。騒ぎに気付いて家から出てきた母親は、何が起こったのかを知った瞬間、顔を両手で覆ったまま物も言わずに地面に倒れこみ、まだ何も分からない小さな妹はびっくりして泣き出しました。あんなに自分を可愛がってくれていた兄がいなくなったということも、妹にはまだ分かりないのです。
 長い間続いている隣の国の圧制的な干渉に、誰もが疲れきっていました。誰かが、もうこんなのは我慢ならないと言いました。どうせこのまま生きていても野たれ死ぬだけだ。あの国に踏みにじられながら死ぬだけだ。こんな子どもが殺されても何をすることも出来ないで、明日からもまた隣の国に献上する食べ物を作り続けるだけだ。
 やるか。と誰かが言うと、その場にいた人々は一瞬沈黙しました。少し時間がたってから、やろう。と誰かが答えました。静かな声はやがて天を突くばかりの怒号となり、そのざわめきはさざ波のように村から村へ、町から町へと広がってゆきました。あの気の毒な子どもの仇を取ってやろう、と誰もが叫びました。国中がその叫びに奮い立っていく中で、少年もまた黙って武器を手に取りました。
 まず、少年たちの国をのし歩いていた隣の国の軍人たちが徹底的に殺され、それでますます勢いづいた人々は、雪崩のように隣の国へと攻め込みました。同じ村の人が隣で倒れるたびに、少年は十人の隣国人を殺しました。隣の国は初めこそ驚いて敗戦ばかりを重ねていましたが、やがて勢いを盛り返してきたので、どちらも一歩も譲らない闘いだけが繰り返されるようになりました。
 苦しい戦いでした。
 三年が過ぎた頃、故郷の村でじっと少年の帰りを待っていた母親と妹が死んだという知らせが届きました。他にも、残された妻や子どもが故郷で飢えながら死んだという知らせに泣き出す人が一人、また一人と増え始めました。ただでさえ先の戦争で田畑が荒れていたところに、再び男たちが戦争へ行ってしまったのです。まだ戦を始めるべき時じゃなかったんだ、という呟きが聞こえるようになりました。あの殺されたという男の子の話に俺たちは乗せられてしまったんだ、という恨み言を吐く人まで現われ始めます。その中で、少年は黙々と敵を殺し続けました。自分に向かってくる人間は誰でも殺しました。初めは、少年よりも年上でいかにも鍛えられた感じのする軍人たちが相手でしたが、やがてあまり武器を持ちなれていない顔が多くなっていきました。そのうちに、少年と同じ年くらいの子どもや少年の死んだ父親によく似た顔が目の前に現われるようになりました。それでも少年は黙って目の前の顔を殺し続けました。
 そして戦争が始まってから五年目の冬。ついに、少年たちの国は隣国と停戦の約束を結びました。少年たちの国に隣国の軍人たちを立ち入らせないことと、隣国へ作物などを貢ぐことを止めるという条件を隣国はしぶしぶ受け入れました。負け戦ではありません。ですが、勝ったわけでもないのです。これ以上隣の国のための作物は作らなくてもよくなりましたが、既に少年の母親も妹もいません。それぞれの故郷に帰っていく人たちの背中は、ずっしりとうな垂れていました。
 少年は一人都に残されて王宮に招かれました。沢山の人を殺したからです。沢山の人を殺したという証拠を沢山服に着けてもらいました。沢山の人を殺してくれたので、これから一生不自由なく暮らせるという言葉も貰い、目の前には美味しそうな食事が食べきれないほど運ばれてきました。何年も前に死んだ妹は、薄い乳の味以外には何も知らずに死んでいったのだ、と少年は思いました。
 君も君の弟も本当によく働いてくれた、と王様の隣に立っている大臣のような人が言いました。君たちが悲劇の英雄になってくれたおかげで、私たちの国はあの憎たらしい隣国から見下げられることも干渉されることもなくなった。私たちは本当に感謝している。褒美に何か望むものがあれば何なりと申してみよ。
 少年は顔をあげました。顔をあげて言いました。私の弟を殺した隣国の軍人の顔を見たいのです。少年がそう言うと、大臣は困ったように肩をすくめて、座っている王様の顔をうかがいました。王様は、金の杯にたっぷりと注いだぶどう酒を味わいながら、機嫌のいい声で笑いました。
 あぁ、あれはちょっとした私の策なんだ。少年は黙って王様の顔を見ながら続く言葉を待っていました。あれは私の策でね。だが、あの私の策のおかげで我が国は威信を回復できた。いやいやもちろん君の弟と君の尽力もあってのことだが。策とは何のことでしょうか。少年が静かに尋ねると、大臣は少しばかり心配そうな顔をしながら答えました。


 実は、君の弟は隣国の軍人に殺されたのではなかったのだよ。


 少年は……いえ、国の威信を回復した悲劇の英雄は一人、宮殿から出てきました。王様から直々に賜った礼服と勲章はずっしりと石のように重たく英雄の肩にのしかかります。


 君の弟は、実は肥溜めを運んでいる時に急に倒れた。そこへ、王の策を実行するために町を歩いていた我が国の軍人が通りかかった。彼は、息絶えた君の弟の身体を銃で二発ほど撃ち、その傍に隣国の紋章が象られたボタンを落とした。それから先のことは君がよく知っているだろう?
 君には悪く思わないでほしい。私は、まともな葬式をあげられるかどうかも怪しかった君の弟を祭り上げて国の英雄にしたのだから。私の策により、君の弟が火付け役になってくれたおかげで、我が国は誇りを回復した。もうあの隣国に大きな顔をされることもない。勿論、ここまで来るのに随分手こずったのは予想外だったが、我が国の民はそれほど戦には強くないのだからしようがない。だが、とにもかくにも私たちは誇りを回復したし、民もこれからは今までより楽に暮らせる。君だってそうだろう。弟のおかげでそんな礼服と勲章を身に着けることができる。弟のおかげで君まで国の英雄になることができた。これからだって一生君は遊び暮らすことができる。私のやったことが不満だろうか?

 
 国の威信を回復するための立役者となった悲劇の英雄は、一人で宮殿の門を背にして立ち尽くしていました。


 穏やかな春の風が立ち尽くしている英雄の頬に優しく触れては去っていきました。そしてそれに誘われたように、彼はゆっくりと顔を上げて、目を空に向けました。春の日差しに柔らかく染まった青い空は、遠い昔、故郷で見上げた空と全く変わりません。ぼろ布のような服で畑を耕していた少年に、弟が突然大きな声をあげて笑いながら呼びかけました。お兄さん、空を見てよ。ほら、春が来たんだ! だってこんなに空が優しいんだもの。


 少年は歯を食いしばりました。歯を食いしばったまま、震える手で勲章をひとつひとつ引きちぎっては、宮殿の門の外の大理石の地面に投げ捨てました。勲章が全部なくなってしまうと、今度は自分が着ている礼服を物も言わずに引きちぎり始めました。売り払えば三年間は遊んで暮らせるほどの金になるという礼服はひどく上等で、それを引きちぎっている少年の手はやがて切れて血が滲みはじめました。それでも少年はやめません。涙も流さず、一言もうめき声は漏らさないまま、少年はいつまでもぼろぼろになった手で礼服を引きちぎりながら、歯を食いしばるのでした。

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