D-11  ぼくは再び空を描く

 えらいことになった。広大なオーストラリア大陸を見下ろしながら、ぼくはシートの中でぶるぶると身を震わせた。
 地図を覗き込んでいるわけではない。大陸の上に立って足下を見下ろしているわけでもない。高度一〇〇〇〇フィートの空を駆ける飛行機からの景色である。それもまた随分と特別な飛行機だった。信じられないことに、搭乗口が開きっぱなしなのである。うっかりすれば、いつでも地上に真っ逆さまだ。
 故障で扉が閉まらなくなったのでは、勿論ない。たんに扉がないのである。邪魔なのだ。空に飛び込むためには。
 スカイダイビング用というわけである。
 一フィートが約三〇センチメートルだから、一〇〇〇〇フィートはざっと三キロメートルという計算になる。横浜ランドマークタワーや七年後に完成予定の阿部野橋ターミナルビルのほぼ一〇倍の高さというわけで、まったく途方もない高さだ。こうなるともう距離感と危機感が麻痺してしまって、いわゆる高所恐怖症の人間も平然としていられるに違いない。なお怖じ気づくのは、筋金入りの臆病者ばかりだろう。
 例えば、ぼくのような。
「あと四〇〇〇フィートよ」
 スカイダイブ開始までの残りの高度である。告げたのは、傍らに座る金髪碧眼の女の子だった。「とびきりの」の五字が頭に燦然と輝く美少女である。フェリシテ・ピーノルト、フランス人、一七歳。富と名声をたらふく蓄えた家に生まれ、少なくとも英語フランス語日本語の三カ国語を自在に操る。才色兼備の仏製お嬢様というわけだ。
 そして、ぼくを只今高度一一〇〇〇フィートの空に連れ出してくれた死神である。
 柔らかな金髪を帽子に押し込みゴーグルを装着した彼女は、母なる大地から三キロメートル離れた空に上がっても、至極平然としていた。多少の緊張はしているのかもしれなかったが、凛とした表情は相変わらずで、ぼくには違いが分からない。
「なに呆けているの。準備はできたのかしら」
「やっぱりぼくは遠慮させていただこうかと」
 とは言えなかった。氷を思わせるあおい瞳から鋭い光が発せられて、ぼくの喉を貫いたのである。がっくりと首の力が抜けて、結局ぼくは頷いてしまう。いつもそうだった。不平不満の類は声を殺して叫ぶしかない。
 一体誰だ、フランスに仏の字なんかあてたのは!




 フェリシテ・ピーノルトが現れたのは、つい半年前、高校に入って一度目の九月一日のことである。
「四組にすごい美人が入った」
 新学期一発目のショートホームルームが終わるなりこんな噂が舞い込んできて、ぼくらはこぞって隣のクラスに詰めかけた。友人にノートを借りたり貸したりするためという名目を掲げていたが、もちろん隠れ蓑だ。堂々と隣室に乗り込んだぼくたちはぐるりと教室中を見渡し、揃って視線を一点に集中させた。教室の中央である。
 まさに今優雅に立ち上がった見慣れぬ少女は、窓からさし込む陽光を受けて、光り輝いて見えた。
 とんだ高嶺の花だ。彼女の異質さを直観して、異国の転入生を眺める男子の列からぼくはいち早く抜け出した。あの金髪とは友達にすらなれないに違いない。
 それが、どう間違ってしまったのだろうか。始業式を終え、宿題の提出を終えた後。放課後の廊下で、ぼくはばったりと、彼女に出逢ってしまうのである。
 美術部の部室まで、あと二分というところだった。階段を一段飛ばしに下り、最後の五段を思い切って飛び降りたぼくは、不運にも足を滑らせて盛大に転んだ。
 幸いだったのは、ここが人の寄りつかぬ北棟の東端、日の射し込まない不気味な校舎の一番奥だったことだ。美術室と美術準備室、そして余った机や椅子を押し込んだ空き教室しかない一帯に近寄る生徒など、美術部員以外にあり得ない。そして、我らが美術部は、僅か三名の部員を抱えるだけの極小規模団体である。顧問を含めても、目撃者となりうるのは気心の知れた三名というわけで、周囲の目を気にする必要はなかった――はずなのに。
 頭上から、思い掛けぬ声が舞い降りた。
「あなた、美術部員ね」
 聞き覚えのない女声だった。音楽部の人かななどと思ったのは、透き通るような美しい声だったためである。陽光を知らぬ冷たい廊下に張り付いていたぼくは、考えなしに顔を起こして首を巡らせた。
 これがいけなかった。相手は女子生徒で、スカートなのだ。床にへばりつくような姿勢で顔を上げればどんなことになるか、分かりきっているというのに。
 すんでの所で、ぼくは破廉恥を演じずに済んだ。何かで頭を抑えつけられたのである。尤も、感謝などする気にはなれない。頭に触れる感触から上履きの底が当たっていることに気付くと、憤りが湧いてきた。頭を踏みつけられて尚心穏やかでいられる人間など、ないに違いない。
 残念ながら、どいてくれの五字からなる抗議文は、提出間際に押しとどめられた。頭上の彼女が声を上げたためである。
「Oui ou Non?」
 すみません、何言ってるか分かりません。




 女子生徒の正体はフェリシテ・ピーノルトだった。ぼくが美術部員だと白状すると、彼女は当然と言わんばかりの調子で言い付けた。
「美術室に案内して。それから、一番絵の上手い人を紹介して頂戴」
 なるほど、確かに「すごい」美人である。先刻聞いた噂を思い出し、ぼくはいたく感心した。これは負けていられないと、ぼくは気の利いた返事を考えた。
「イエス、マム」
 会心のできだと思うのも束の間。目の前のすごい美人の表情を確認して、ぼくは大きく肩を落とした。あろう事か、彼女はまったくの無関心面を浮かべていたのである。どうやら伝わらなかったらしい。金髪のくせに、と悪態を吐きながら、ぼくは彼女を伴って渋々美術室に入った。
 中には誰もいなかった。準備室の方にも人気はない。ぼくは首を傾げた。生徒はともかく、四六時中準備室に引きこもっている偏屈な顧問がいないのは珍しい。まさか、美人と評判の音楽の先生との噂が本当で、誘い誘われ仲良く腕を組んで昼食に出かけたのだろうか。いや、あの偏屈にそんな甲斐性があるわけ――
 幸いにも、理由探しの旅は二分足らずで打ち切られた。校内放送が掛かったのである。間もなく職員会議を始めますので先生方は職員室にお集まり下さい。
 合点の行く答えを得て、ぼくは胸を撫で下ろした。理由は推して知るべし、である。
 顧問がいないのでは、他の部員もなかなか集まるまい。予想を告げると、麗しい転入生は呆れ気味に肩を竦めた。
「いいわ。とりあえず絵を見せて。目をかける価値があるかどうか、見定めてあげる」
 なんと傲慢な言い草だろう。ぼくは気付かれない程度に目を瞠った。各部の予算を決める鬼の生徒会役員たちだって、もう少し控え目な言い方をするのに。
 もはや高嶺の花ではない。高慢の花だ。ぼくはこっそりと肩を竦めて、物置のようになった準備室に入った。
 額縁に収められた「入賞作」を数点抱えて戻ると、フェリシテ・ピーノルトの姿が消えていた。荷物は残っている。トイレにでも行ったのだろうと踏み、ぼくは床の上に額縁付きの絵を下ろして一息吐いた。その時である。
 部屋の奥で、息を飲むような音がした。
 微かな音だったが、ぼくは盛大に反応して、飛び上がるように振り向いた。目が止まったのは、イーゼルが立ち並ぶ美術室の片隅である。被せられた布を持ち上げて、フェリシテ・ピーノルトが未完成の絵を見つめていた。
 勝手なことを! と怒鳴りそうになったが、辛うじて踏み留まった。舌が言葉を打ち出す寸前、彼女の見つめる絵が誰のものだったかを思い出したのである。
 ぼくのものだ。
 行き詰まった空の絵である。描き始めたのは、初めて応募したコンクールで堂々佳作に選ばれた直後のことだった。市立美術館主催の小さなコンクールに過ぎなかったが、先輩たちをさしおいて佳作に選ばれたというのはやはり嬉しい。更に周囲に持て囃され、すっかり有頂天になっていたぼくは、ようし次は空の絵を描いてやると意気込んで筆をとったのだった。
 もちろん、部の先輩や顧問は忠告をしてくれた。空は難しいからなあ、と。愚かにも、ぼくは耳を貸さなかった。
 挫折は早々訪れた。描き始めたときには面白いように筆が進んだというのに、二日ばかり経つと、もう全く描けなくなっていたのである。何かが足りないのだ。透明な青とふわふわの群雲さえ描いておけばそれらしく見えるはずなのに、完成間近に思えたぼくの空は、全く空に似ていなかった。
 ぼくには空なんて描けなかったのだ。
 失敗作が見られているとわかると、恥ずかしくて堪らなくなった。今すぐにこの場から立ち去ってしまいたい。ぼくは詰め寄ろうとして踏み出しかけた足を無理矢理に戻して、踵を返した。
 そして、改めて一歩踏み出そうとした時。パンと音を立てて、ぼくの右手が掴まれた。犯人は明々白々である。この部屋にはぼくと彼女の二人だけしかいない。
「あなたが描いたのね」
 口調は断定的だった。質問ではない。確認である。振り向いたぼくは、主人の気の強さを反映してきらきらと光る碧い瞳に心を射抜かれて、僅かばかり気を失った。気づけば正直にかくかくと頭を上下させていたという具合である。
 そして、フェリシテ・ピーノルトに振り回される日々が始まった。




 毎日のようにぼくは異国からきた転入生につきまとわれた。ただついてくるばかりではない。時には腕を掴み、豪勢な車に押し込んで、彼女はぼくを全く唐突な旅行に連れ出した。行き先は様々である。国内もあれば国外もあった。彼女の故国であるフランスをはじめ、一〇カ国は訪問したに違いない。その行く先々に彼女の家の別荘があるのだから、とんでもない財力だ。
 驚かされたのは、彼女の家の富豪ぶりに対してばかりではなかった。フェリシテ・ピーノルトの企みもまた常軌を逸していたのである。
「一年後の芸術基金賞では、絶対に入賞するのよ。そのための旅行なんだから」
 無茶にもほどがある。ぼくは頭を抱えた。彼女の指定したコンクールは、先日ぼくが佳作をとった市立美術館主催のものとは規模が全く違うのだ。積み上げても一〇〇〇〇フィートに達することはないだろうが、一〇〇〇〇点以上の応募があることは間違いない。国が主催している上に、大賞受賞者にはフランス留学のチケットと多大な助成金が交付されるのである。芸術で食っていこうと本気で考えている猛者どもが犇めくというわけで、勝てる気など全く持てない。
 大方、金さえ積めば良い絵が描けるなんて妄想を抱いているのだろう。我が侭放題に育ってきただろうお嬢様を横目に見て、ぼくは大きく溜息を吐いたものである。
 独り善がりな見解だったが、全く的を外しているというわけでもないようだった。フェリシテ・ピーノルトは一向に訂正しようとしなかったのである。ぼくが言わなかったのだから反論のしようがないわけだが、相手は目の動きの変化から相手の考えを読み取る「すごい」美人である。ぼくのささやかな侮蔑に気づかぬはずがない。
 やれやれ、とんだ道楽に巻き込まれたものだ。ぼくは諦めて、お嬢様の好きなようにさせることにした。
 そしてたどり着いたのが、高度一四〇〇〇フィートの空というわけである。
「立ちなさい」
 の一言とともに、とうとう運命の時が訪れた。いよいよスカイダイブである。
 認識した途端、恐怖が最高潮に達した。圧されて正気が逃げ出す。ぼくは恐慌をきたしかけた。
 すんでの所で正気を引き留めてくれたのは、自信を持ちなさいと叫ぶ鋭い声だった。フェリシテ・ピーノルトである。我に返ったぼくの正面で、勢いよく叱りとばした彼女はうって変わって落ち着いた声音で囁いた。わたしが今まであなたを連れ回してきたのは色々なものを見せるため。あなたは技術も経験も未熟だけど、一番大切なものを持っている。
「あなたの絵は、今までに見てきたものの中で唯一、わたしの心に届いたわ」
 全くの不意打ちである。恥ずかしい台詞を聞かされて、ぼくは恐怖をすっかり忘れた。代わって支配権を握ったのは、懐かしの、主人の気の強さを反映してきらきらと光る碧い瞳である。
 ぼくが大人しくなると、気丈なお嬢様は早速作業を再開した。ぼくを前面に括り付けるのである。タンデム・ダイブというやつだ。一七歳の男が自分より小柄で線の細い少女に全てを任せるというわけで、格好悪いことこの上ない。
 もっとも、恥ずかしいとは思わなかった。先ほどの台詞がまだ頭の中に響いていて、それどころではなかったのである。気がつけば風の吹き込む搭乗口前に立っていて、一歩踏み出せば地上へ真っ逆さま、という具合だ。
 準備万端。後は身体を前に押し出すのみである。
「しっかり目を開いていなさい。これが、あなたが描く空よ」
 フェリシテ・ピーノルトが囁いた。合図である。ぼくは腹をくくった。不思議な安心感が、ぼくを満たしていた。
 間もなくぐるりと世界が回転して。
 ぼくらは果てしなく広がる空に飛び込んだ。

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