E-01  空の果てまでこの歌を

 ──急がないと。
 早枝《さえ》は小さく呟き、足を速めた。
 太陽はまだ頭上高くにあり、時刻は午後三時を回ったばかり。まだ家路を急がなくてはならない時間ではない。だがこの神戸の街から寄宿舎に戻るにはいくらか時間がかかるため、そのための時間も計算に入れなければならず、そう考えるとあまりゆっくりしている暇はなかった。
 曖昧な記憶を頼りに目的地まで道を急ぐ。何回か訪れたことのある場所だが、今までは数人の同級生と連れだって来るのが常だった。馴染みのない街を一人で歩くのは少々怖い。
 大通りには何台もの車がエンジンの音を響かせながら走り抜け、人々の話し声が満ちあふれている。洋風の瀟洒な煉瓦造りの建物も並び、大きな街であることをうかがわせた。
 また、あちこちの電柱や塀にポスターが貼られているのが見えた。時勢を反映し、国債の購入を求めるものや国民の奮起を呼びかけるものが多い。商品の宣伝にも“戦時”の文字が見える。
 時は昭和十八年。戦争はなおも続き、国民の生活は圧迫され続けていた。贅沢などもってのほか、食料や衣料の入手までも規制されている。早枝とすれ違う人々も、男性は国民服、女性は標準服と呼ばれるもんぺ姿が目に付く。
 自分の姿を見下ろし、早枝はわずかに居心地の悪さを感じた。
 彼女の身につけた長着は地味な紺色、髪もお下げにして背中に垂らしている。だが袴は鮮やかな深緑だった。長着の色味のおとなしさからさほど華美な印象は与えないが、少々変わった服であることに変わりはない。ちらりちらりと視線を向けられているのは早枝の気のせいばかりではないだろう。
 だがこの緑の袴は早枝の自慢だった。あからさまに早枝を振り返った中年の男に見せつけるようにして胸を張る。
 早足になって道を歩くうち、ふと思いついて早枝は歌いだした。落下傘部隊を讃えた、国民に広く知られている歌である。ワルツのような軽快なメロディを彼女は気に入っていた。
 小声で歌を歌いながら歩く少女を道の人間はますます奇異な目で見ていたが、それには気づかず、早枝はようやく目的の店にたどり着いた。
 繁華街の中にあって、ひっそりとした佇まいの店だった。人目をはばかるように大きな看板もない。以前からの常連のみが訪れる店だった。
 店に足を踏み入れる。ここの主人である老婆にとって濃緑の袴は見慣れたもののはずで、早枝もようやく一心地付いた気がした。欲しいもののありかを尋ねるとすぐに答えは返ってきたが、それは嘆息混じりだった。
 早枝もそれを手に取ると小さく息を吐いた。
 彼女が手にしたのはトゥ・シューズだった。だが爪先に当たる金具は錆びたような色で、靴の布地もどこか古びて薄汚れていた。それに足首の紐が太すぎる。これでは履いてダンスをしたときに足首が痛くなってしまうだろう。
 ちらりと主人を見たが、小さく首を横に振っただけだった。これに代わるものなどないのだろう。まだこのようなものを買えるだけでも良しとしなければならない。
 配給切符を店主に渡して支払いを済ませ、店を出る。空を見上げると日はまだ高かった。これなら余裕を持って帰れるだろう。
 だが店を出てもと来た道を戻ろうとして、早枝はぎくりと足を止めた。
 道の向こうに黒色の軍服が見えた。背の高い男で、こちらに向かって歩いてくるようだ。早枝にとってはあまり会いたくない類の人間で、どきりと心臓が跳ね上がる。
 どうか何事もなくすれ違ってほしい、早枝が念じるのを無意味なものとしたのは軍人のほうだった。
「ああ、君」
 軍人は気軽に片手を上げて声をかけてくる。早枝は思わずぎゅっと目をつぶった。
「その緑の袴。君、宝塚歌劇の生徒さんでしょ?」
 言い当てられて、早枝は身体を固まらせた。
 宝塚歌劇。大正三年に創設された、女子のみの歌劇団である。元々は温泉の余興として始まったのだが、次第に評判を呼び、現在は歌劇団としてその名を馳せている。劇団は宝塚音楽舞踊学校を併設しており、舞台に立つ者たちは皆その卒業生だ。
 緑の袴はその音楽学校の生徒であることを表すものだ。いつもなら誇らしく身につけるそれも、今ばかりは恨めしかった。
 戦時にあって贅沢はもってのほかだ。高級料亭、芸者遊び、漫才や歌劇に至るまで、軍部は締め付けを強めている。宝塚歌劇もその例に漏れず、軍から高圧的な態度を取られたという。
 私たちは悪いことをしているわけではない、堂々としていなさい。先輩たちはそう仰って胸を張っている。早枝も普段はそれに賛同する。だが、今軍人を目の前にしてそう言い張る勇気はなかった。
「あれ、なんで脅えているかな。俺、まずいこと言った?」
 黙って俯いたままの早枝の顔の前で、軍人はぱたぱたと手を振っている。このままではまずそうなので、早枝はようやく顔を上げた。
「いきなり声をかけて驚かせたのかな。ごめんよ。久しぶりに内地に帰ってきて、珍しい服を見たから、つい」
 早枝はようやく軍人の顔をまじまじと見た。顔は若々しくよく日焼けしていて、髪を短く刈り込んでいる。上背は高く軍服の下の肉体も鍛えられているものと見えた。大日本帝国軍人としては模範的だろうか。
 その表情は軍人としてはいくらか気安かったが。目を瞬かせる早枝に、軍人は苦笑していた。
「でも君、なんでこんなところにいるの? 宝塚の劇場はもっと鉄道で行ったところでしょ」
「ダン……踊りのための靴を売っている店が、神戸の一軒しかないんです」
 早枝はなんとか返答を絞り出した。生活必需品すら不足する状況では、トゥ・シューズなど洋装文化の贅沢品と言われても文句は言えない。音楽学校の生徒にとっては必需品なのだが、そんな言い訳は通用しないだろう。
「ああ、そうか。売ってないよね、そういうのは」
 軍人は気軽に笑った。
 早枝のような市民にとって、軍人は国のために戦う英雄であると同時に、上から国民を監視する存在でもある。しかしこの軍人たる青年はその印象からは少々はずれていた。
「ちょっとそこまで歩かない? 懐かしいなあ、宝塚」
 軍人はぽんと早枝の肩を叩くと歩きだしてしまった。早枝は一瞬泣きそうな顔をしたが、仕方なしに小走りで追いかける。
「そういえば名前も言ってなかった。船津一馬だよ」
「……高柳早枝です」
「へえ、綺麗な名前。芸名じゃないんだよねえ」
 言って一馬はにっこりと笑った。その顔を早枝はまじまじと見つめる。女ばかりの寄宿舎で暮らす彼女には、その顔はとてもまばゆく見えた。
「まだ俺が小さい頃、十かそこらかな。俺の爺さんが宝塚の温泉に連れて行ってくれたんだ。そこで初めて歌劇を見た。演目は何だったかな……とにかく舞台が派手だったのは覚えてる」
 一馬は肩をすくめた。つられて早枝もわずかに顔がゆるむ。
「それから何回か見に行って……ああ、士官学校に入る直前にも行ったんだ。せっかくだから思い出を作っておこうって」
「そんなにお好きだったんですか、歌劇が」
 早枝が尋ねると一馬はぱたぱたと手を振って笑った。
「だって、学校に入ったら男しかいない世界でしょ。だったら、たくさん女の子がいるものを見ておいたほうがいいなあって思ったんだよ。友達も何人か一緒に行ったけど、そいつらも楽しんでたし」
 そう言って大仰に手を振る一馬の仕草は役者のような外連味があったが、不思議と嫌味ではなかった。
「でも、軍人さんなら、なんでここにいるんですか?」
「ああ、いつもは南方にいるよ。休暇が取れたんで内地に帰ってきたんだ。実家がこのすぐ近くなんだよ」
 言われて、早枝の心にも一瞬望郷の思いが浮かんだ。十五歳で故郷を離れて、まだ一度も戻っていない。家族たちは元気でいるだろうか、──無事だろうか。その想いは一馬も同様だったのだろう。
「お元気でいらっしゃいましたか、ご家族は」
「ああ、元気だった」
 その一言に早枝もほっと胸をなで下ろした。
「……南では何をやっていらっしゃるんですか?」
 ふと早枝は尋ねた。寄宿舎で音楽に打ち込む生活をしていても、社会の状況はそれなりに耳に入ってくる。大日本帝国は躍進を続けていると報じられているし、一馬に花を持たせる世間話のつもりだった。
「俺は航空科なんだよ。飛行機に乗ってる」
 へえ、と早枝は感心して相槌を打った。飛行機乗りならば早枝にも聞き覚えがあった。歌劇にはよく飛行機乗りも出てくる。
 夢の世界を描き出す宝塚歌劇も戦争と無関係ではいられなかった。世間からの圧力か、時勢に乗った自主的なものか、演じられる物語は戦争色を帯びていく。現在は大劇場で演じられる歌劇もいわゆる『戦争もの』が多かった。すらりとした立ち姿で軍人を演じる男役の先輩には早枝も憧れている。
 憧憬の眼差しで見上げてくる早枝に、一馬は苦笑したようだった。
「地元に帰ってきてまで仕事の話はしたくないな。そうだ、せっかくだから何か歌ってよ。得意でしょ、君」
「……ここでですか?」
 二人がいるのは往来である。そのまっただ中で歌うのはさしもの宝塚歌劇の生徒でも恥ずかしい。
「そうだなあ。そういえば、近くに空き地があったと思うよ」
 言うなり歩いていってしまう一馬を早枝はまた慌てて追う。果たして一馬の言う“空き地”はすぐ近くにあったが、そこは既に潰されて畑になっていた。
「あー……しゃあないか」
 ぽりぽりと一馬は頭を掻く。早枝は困った顔で一馬を見上げた。
「あの、ここでいいですよ。今は人もあまりいないし」
 観客が一人であろうと、畑の真ん中であろうと、歌を所望されたならここは早枝の舞台である。下腹に手を当てて数回深呼吸をし、胸を張った。
 歌いだした彼女を、しかし一馬が手を振って止めた。
「その歌じゃなくてさ。ほら、宝塚の有名な歌があるでしょ。花が咲く頃……みたいな」
「すみれの花咲く頃、ですか?」
「そう、それ。そっちがいいな」
 早枝がさっき歌おうとしたのは大劇場で演じられている歌である。勇敢な飛行機乗りの物語だ。軍人の一馬にはそのほうが気に入ると思ったための選択だったので、早枝は首を傾げた。
 だが一馬は理由を語ることなく手拍子を始めた。
「ほら、お客さんが待ってるよ」
 そう言われれば早枝に拒む理由はない。もう一度深呼吸すると、高らかに声を張り上げた。


「昔、空を飛びたいと思ったことがあったんだよ」
 早枝が一曲歌い終えた後、ふと一馬が言った。空を見上げている。早枝がその視線の先を追うと一羽の鳥がいた。
「だから飛行機に乗りたいと思って航空科に入ったんだけど。軍に入ったことに後悔はないけど、空を飛びたいとすると……どうだったのかな」
 それは早枝に聞かせるためなのか、ただの独り言なのかは分からなかった。早枝は黙って聞いている。
「俺は軍属だ、命令とあらば飛ぶことに躊躇いはない。でも、あの鳥と同じにはなれなかった。陸と海と同様に空にも境界線があって、それを巡って争っている。昔は、空を飛べばどこまででも行けると思ったんだけどな」
 ぼんやりとした表情だった。早枝は思わず口にする。
「いつかは自由に空を飛べるようになりますよ」
 一馬は目を瞬かせた後、穏やかに笑った。
「そうか、そうだな。そうなるといいな」
 その“いつか”がいつのことになるのか、それは二人にも分からなかった。だが二人は顔を見合わせて笑った。今はそれでいい。
「さて、俺に付き合ってくれてありがとう。もう君も帰らないとまずいだろう? 俺もそろそろ戻らないと」
 一馬の言葉に、早枝は慌ててもう一度空を見上げる。太陽がだいぶ傾いていた。
「あ、はい。帰らないと……その、楽しかったです」
「こちらこそ歌を聴かせてくれてありがとう」
 一馬が手を差し出してくる。その大きな手に自分の小さな手が握られた瞬間、心臓が思わず高鳴った。
「お元気で。……またお会いできましたら」
「そうだな。また会いたい。でもきっと大丈夫だよ」
 一馬は言い、空を見上げた。
「どこにいても、同じ空の下だ」


 昭和十九年三月四日、強制命令によって宝塚劇場は閉鎖された。
 劇場や学校施設は海軍に接収され、団員たちは移動隊として各地を慰問することとなった。寄宿舎の生徒たちも親元に帰され、一部の生徒たちは宝塚音楽舞踊学校女子挺身隊として、川西航空機工場での勤労奉仕を行うことになったのだった。


 外に出ると、早枝は夕闇に押し潰されそうな気分になった。
 上空からの爆撃の目標にならないよう灯火管制が敷かれているためだ。家でも明かりを絞り窓の外に漏れないようにする。結果、夜の街並みは暗く重苦しかった。以前は夜でも明かりが賑やかだったのに。
 勤労奉仕からの帰り道を、早枝はとぼとぼと歩いていた。彼女は疲れ切っていた。慣れない肉体労働はもとより、踊りも歌もなく、ただ単調な労働の日々がこんなに辛いとは思わなかった。
 自分の両手を見つめると、あちこちに傷があった。工場では女性も旋盤を回すなどの仕事を与えられたが、慣れない作業に指を飛ばすなどの大けがをしたという話は事欠かない。早枝もダンスで鍛えた脚力で間一髪難を逃れたということがあった。
 早枝の隣を男二人が追い越していく。会話の内容が漏れ聞こえてきた。どこかの街で機銃掃射による死者が出たらしい。
「戦闘機がやってきたら……」
 呟いてみるとぞっと背筋が凍えた。空から銃弾が降ってくるなんて恐ろしい目にあったら、自分はどうなるのだろうか。
「飛行機……」
 早枝はふと、神戸の街での出会いを思いだした。飛行機乗りだと言っていた一馬。彼は上空から爆弾を降らせる役目なのだろうか。そのためにこの工場で作っている航空機が使われるのだろうか。
 早枝はおそるおそる空を見上げた。街が暗いため星がよく見える。そういえば一馬もこうやって空を見上げていた。あの時は鳥が飛んでいた。
 ──自由に空を飛びたい、一馬の言葉が思いだされた。
 思えば戦場にいる彼は、この恐怖とずっと戦ってきたのだろう。いつ敵が襲ってくるか知れない、自分もまた敵地に向かわなくてはならない。鳥にはなれなかったと呟いていた一馬の言葉の意味がやっと分かった気がした。
「いつかは自由に……」
 自分が一馬に言った言葉だ。だが今となっては、その“いつか”など存在するのだろうか、そんな考えが頭をよぎる。
 一馬も同じ気持ちだったに違いない。だが彼はその希望を否定しなかった。自分の手を握って笑ってくれたのが思いだされる。
 あの日焼けした顔を思いだして、ようやく少し気分が楽になった。
 そう、希望まで否定することはないのだ。一馬が自由に空を飛びたいと願ったように、早枝も願うことがある。またかつてのように宝塚で歌って、いつかあの大劇場の舞台に立ちたい。
 歩くうち、早枝の口から自然に歌がこぼれていた。勇ましい戦争の歌ではなく、一馬が望んだ華やかなりし宝塚の歌だ。
 同じ空の下だ、一馬はそう言った。ならばこの歌声も空の向こうの彼に届いてくれるだろうか。この時代の飛行機は鳥になれないけれど、どうか歌声には自由な翼があるように。
 ささやかな想いを乗せて、歌声は夜空に流れていった。


 昭和二十年八月十五日、日本は終戦を迎える。
 そして昭和二十一年四月二十二日、宝塚歌劇は再開された。

inserted by FC2 system