E-02  虚無の空

 突然の衝撃に顔を上げる。
 ぐらぐらと揺れる情景に、かろうじて男の足元が見えた。そのままたどって上へと思ったが、気分の悪さに断念する。船酔いのような症状に、いったい何がどうなっているのか思い出そうとすることさえ面倒になる。
 頬に当たる床の冷たさが気持ちいい。
「ローズさん! こんな時間までどうしていたんだ。どこかで行き倒れたのかと思ったよ。あまり、心配させないでおくれ」
 じいさんの声。たぶん足の主。頭の上の方から聞こえる。
「……拾った」
 ぽつりとも、ぼそりとも表現されるような抑揚のない若い女性の、少女の声。トーンは高め。足元から聞こえる。
「ローズさん」
 呆れと諦めの入り混じったじーさん。
「猫や犬ならともかく、人間は拙いよ、人間は」
 次第にはっきりしてくる意識のおかげか、それが自分をさし、さらに少女の拾ったにかかるものだと分かった。
 そう、そうだ。ここはどこだ? そして、なんで自分は――生きているんだ?
 東の空がうっすらと色を帯びてきたのを見ながら、僕は、高い、高いビルの上から身を投げたというのに。
 その浮遊感と白々と明け行く空を思い出しながら、僕の意識は再び眠りの渕へと沈んでいた。

 次に起きたのは夕方近くだった。来客用の部屋なのだろう。家具が一切置かれていない。遮光カーテンを開けると、今まさに沈んで行こうとする夕日が――見えなかった。雨戸がしまっていたのだ。幸い、最後の持ち物である腕時計で日時と時間は分かったものの、さてこれからどうしようとベッドの上で呆けていた。体のあちこちが痛い。
 そこへ、昨日の足の主がやってくる。ブラウンのパンツに白いシャツ、その上から家の中だというのに白衣を着ている六十代ぐらいの老人だ。
「やあ、起きた? シャワーを浴びておいで。もう一時間したらローズも目を覚ますから食事にしよう」
 彼は僕にバスルームへの行き方を伝授すると余計なことは何も聞かすに出て行った。さすが人間を拾ってきたと言ってのけた少女の保護者だ。……たぶん保護者なのだろう。というか拾って来たって何だ? 確かに飛び降りたと思ったのに。だけど、こうやって生きているからにはもしかしたら、飛び降りた気になっていたのかもいれない。それより前に気絶してしまい、倒れていた……そこら辺が真実だろう。だが、あの浮遊感は?
 考えても埒が明かないし、実はどうでもよくなっていたので僕はバスルームへと向かい、一時間後には暖かい夕食の席についていた。
 良い匂いに刺激され次々と口へ運ぶ。とても美味しい。誰かに作らせているのだろうか? 食器を見るに、高価なものが多くそれもありえるとうなずく。事業に成功して隠居中の道楽爺とその孫といったあたりか? 僕はちらりと右側に座る少女の顔を盗み見た。
 真っ白い肌に鴉の濡れ羽のような黒い長い髪を背中までたらしている。瞳は青く、唇は血を吸ったように赤い。まるで人形のような少女だった。彼女の名前がローズ。どうやら僕を拾ってきた張本人。ただ、彼女の細い腕で自分を持ち運んでくるのは無理だろうから、誰かが一緒にいたのかなとも思う。
 爺さんはジェイクというらしい。だがローズも、本人も、自分のことを博士という。そう、呼んでくれとも言われた。
「あなたの名前は?」
 ローズが相変わらず感情のこもらない声で尋ねる。
「うん」
 名前。とっても大層な名前がついていた。だが、今はもう彼は死んでしまった。今の僕には、もう名前などという個々を判断するようなものはいらなくて――。
「じゃあミック」
「ミック?」
「私が拾ったんだもの。私が名前をつけるわ」
「ローズ! それは失礼だろう……」
 博士の当然の抗議に僕は反射的に答えた。
「いいよ。それで」
 きょとんとする博士。うなずくローズ。
 僕はその後一言も話さず黙々と食事を続けた。
 久しぶりの楽しい食事だった。

 行く当てもない、突然拾われてきた男を家に招きいれる博士もおかしいが、ローズはもっともっと不思議な子だった。
 正直、今年二十五になる僕には十歳近く年下の少女と話す機会なんてほとんどなかったし、それだけ離れていると話のネタにも困る。まあ、そこら辺はたとえ年が離れていなかったしても最近の流行なんてまったくしらない僕とは会話が成り立つとは思えない。
 夜、日が暮れてから起きだし、夕食を一緒に食べる。その後彼女は犬や猫と――全部で三十匹以上いるこいつらの面倒を見るのが、今の僕の仕事だ。これら全てをローズが拾ってきたという――遊んだり、いつの間にかふらりと姿を消す。外に出て帰ってくるのは夜中の二時、三時。僕が眠ってからのことも多い。
「こんな真夜中にローズ一人で大丈夫なんですか?」
 と、博士に聞いたこともあるが、平気平気と、何の根拠もない返事が返ってきて諦めた。心配して後をつけようとしても、いつの間にか巻かれてしまう。
 また、こんなこともあった。
 この大きなお屋敷のどこかにローズの部屋があるそうだが、ある朝彼女はリビングのソファーで眠ってしまっていた。起こすか移動させるかと思ったが、回りにうずくまる動物たちに阻まれて彼女に触れることはできなかった。仕方なくいつも通り雨戸を開けて太陽の光を取り入れようとすると、今まで静かに寝息を立てていた犬猫が突然怒り出し、それに気付いた博士が飛んできた。怖い顔をして首を振り、僕は外へ動物たちの散歩に追いやられた。なぜかと聞いたが博士は微笑んで首を横へ振るばかり。
 夜しか活動しない少女。陽の光を嫌う少女。そういえば毎日使っている食器は全て金だ。まあ、金メッキなんだろうが、食器の豪華さを考えると銀でも良いはずなのに。いやいや、銀の食器の手入れは大変だし、うん、別に、銀じゃなくても不自然ではない。
 日に日に増す疑いの気持ち。
 もしかして? と、脳裏をよぎる不吉な予感。
 そして、とうとう決定的な場面に出くわす。

 夕方、いつものように夕食を作る手伝いに台所へと向かった。そう、あの美味しい食事は全部博士の手製なのだ。彼は屋敷から続く研究所で日ごろから研究業務にいそしむ傍ら、彼女の食事を自分で作ってあげていたのだ。僕はあんな風に美味しいものはできないので、もっぱら下ごしらえの役割を担う。人参やジャガイモの皮むき。シンプルで味を左右しないですむ、大切なお手伝い。
 すると、めったに台所で姿を見ることのないローズが、起きぬけの眠たそうな顔で冷蔵庫を物色していた。
「どうしたの?」
「……喉が渇いて」
 僕がグラスに水を注ごうとすると、彼女はいらない、と言う。
 そして現れたのは――真っ赤な色をした飲み物。
 グラスの割れる音がする。
 僕が、手から滑らせてしまったのだ。
 真っ青な顔をしている僕に、ローズは怪訝な表情を向ける。
「大丈夫?」
 大丈夫なんかじゃない。不審な男を快く迎え入れた理由が、今まさにわかってしまったのだ。
「ミック?」
 僕は――彼女の、食料なのだ。
「ミック、どうしたの?」
「ミック? ローズ? 何かあったのか?」
 異変に気付いたのか、調理に取り掛かろうと思っていたのか、博士までやってきた。
 そこでふと我に返る。
 別に良いではないか。だって、僕は死ぬ気だったんだから。もう何が起こっても別に、どうってことない。僕は、死んだんだから。
 ただ、知らないままと言うのは嫌だった。
 何も知らないまま物事が進んでいくのは、もう嫌だ。
「ローズは、ヴァンパイアなの?」
 呆然としたと思ったら、唐突にそんなことを言い出した僕に、二人はきょとんとして動きを止めた。
 そして――ほぼ同時に彼らは笑い出す。博士はいつものように大きく豪快に。ローズは、くすくすと小さく、それでも僕がここに来て初めての笑い声をこぼした。
「これは、トマトジュースよ?」
 そういって右手に持ったままだった赤い液体を僕の鼻の先に突き出す。……確かに、トマトジュース特有のあの匂いがした。
「で、でも!」
 銀製の食器がないのは……別に不自然じゃない、か。だけど、夜にしか行動しないとか陽の光を嫌うとか。
「まあ、いつかはばれるだろうから、君にも話しておくべきかもしれないね。注意してもらうわなければならないことも多いし。いいかい? ローズ」
「構わない」
 博士は優しくうなずくと、僕のほうに向き直った。
「ローズはね、ポルフィリン症なんだ」
 まるで聞いたことのない名前で、首をかしげる。
「特効薬のない病でね、人にうつったりはないけれど、症状の一つとして太陽光が刺激となる。紫外線に弱いんだ」
「紫外線に?」
「そう。人によりその度合いはさまざまだけどね、ローズのはかなりひどい部類で、あっという間に皮膚がただれて命に関わる事態となる」
 洋服から出た彼女の白い肌にちらりと目をやる。あの綺麗な白が、真っ赤に腫れあがるそのさまを、想像できない。
「私の研究所はね、血液や遺伝関連の大きな施設だ。そこで彼女の病を治す手立てを探しているんだよ……」
 
 タネが明かされればなんということはない。
 僕が不安を抱いたこと、全てに理由があったのだ。
 まあ、拾い物の癖はそんなことには全く関係がないのだろうけど。

「どうしたの? うれしそうな顔して」
 月明かりの夜、僕は中庭のベンチで空を見上げていた。
 いつもながら唐突に現れた彼女は、僕の横に腰を降ろした。
「ちょっと前までは僕の家にも中庭があってね。同じように薔薇の花が植わっていた。こんな月明かりの夜は、こうやってよく眺めた」
 中庭の真ん中には、博士作の薔薇の花壇がある。丸く円を描いたその頂上に、今宵の月はあった。その光を浴びて赤い薔薇がなんとも幻想的な色となる。
「月の光は太陽光を反射しているって言うけど、大丈夫なの?」
「うん、これくらいなら平気。月の光は、柔らかい」
 立ち上がり、心の中で博士に謝って一つだけ薔薇を折る。
 その姿を堪能した後彼女に渡そうとしたら拒絶された。
「薔薇はだめ」
「嫌い? 君の名前なのに?」
「うん」
 ローズはうなずく。
「それより、あなたのおうちの薔薇は? ちょっと前まではって?」
 今日の彼女はよくしゃべった。
「ああ……僕もね、間抜けだったんだ。結構なお金持ちだったんだよ? だけど、きちんと遺産分配せずに父が亡くなって、研究馬鹿だった僕は気付いたら身包みはがされていた。無一文ってすごいね。ほんとに、何にもなくってさ」
「だから飛び降りたの?」
「そう」
「なんで?」
「僕は、研究者でさ、ホント親のすねかじって研究だけで生きてきたんだ。自分の食い扶持稼ぐ方法なんて知らなくて、まあ、甘いんだろうけど、ホントに、どうしたらいいか分からなかった」
 父も研究者だった。二人で、同じように毎日実験室にこもって、だから、父がいなくなったら僕は本当にどうしてよいかわからなくなった。
 分からなかった。
 気付かなかった。
「あの人の体調が悪いのに、何で気付いてあげられなかったんだろう」
 一番側にいたのに。一番、時間を共有していたのに。
 なんで僕は気付かなかったんだろう。
 頬に涙が伝わる。
「皆に言われた。お前は馬鹿だ。研究馬鹿だって。実の親の体調も気遣ってやれないほどに没頭してどうするんだって」
 自分でもそう思った。
「だけど研究をやめたら僕に何が残るんだろう。何も、残らない。そう思ったらもう、どうでもよくなった」
 だから、飛び降りた。何もなくなってしまったから。父と学び続ける喜びを、もう感じることができなかったから。
「夜の空が綺麗だったんだ。星がいっぱい輝いていて、それでいて東の空から希望の光がやってくる。だけど、あの時の僕にはその光に希望を見いだせなかった。希望のない空虚な光があちらからやってくる。とっても恐ろしくて……」
 だから、逃げるように飛び降りた。

 長い沈黙の後、ローズが僕の手を握る。
「それでもあなたは生きてるわ。太陽が輝く空の下を、光の下で生きている」
 僕の手の中にあった薔薇が地面へ落ちる。
「いいじゃない、続けなさいよ。お父様が最後まであなたと一緒になって研究していたのは、それが楽しかったからでしょう? 調子が悪いのを押してでも研究していたのは、あなたと一緒に研究することが楽しかったからでしょう? だったら、きっと今のあなたを見たらお父様は悲しむわ」
 今までにない饒舌なローズに僕は面食らう。
 だが、その言葉の中に救いを見出している自分もいた。
「でも、僕は、もう何をして良いか分からない」
 父と続けていた研究は人の手に渡ってしまった。
「なら、博士のところで。彼はもう随分と年を取った。後継者を探してる。博士の元で研究を手伝ってあげてよ。夕飯をお手伝いするように」
「博士の……」
「ええ、私の、研究をしているわ」
 ポルフィリン症。ローズの中に巣食う凶悪な病。
「――分かった。分かったよ。そうしよう。君を、いつか太陽の下に招待できるように」
 夜の闇から光の中へ。
 君に救われた命を君に捧げよう。


「ローズさん……拾い癖を直せとは言わないけどね、人間はやめよう」
 僕の言葉に少女はばつの悪い顔をする。
「でも、落ちてたから私のものよ」
 年老いた身に、この明け方までの徹夜は少々きつかった。怒りは感じないが、寂しさを抱き、彼女の手元に目を落とす。
 目の前に置かれた青年。まるであのときの自分を見るかのようだ。もう三十年以上前のことなのに、昨日のことのように鮮明に思い出せる。
「いいでしょう? ミック」
 真っ赤な唇を尖らせてたずねる少女に、否と答えることはできなかった。
「仕方ないね。部屋を用意しよう」
「うん、大好きよ、ミック」
「僕も大好きだよ」
 僕を虚無の空から救い上げてくれた、闇の姫君。

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