E-03  煙の向こう側

 その日暮らしのティーレは、空を見たことがなかった。
 この都市で生まれ育った彼にとって空というものは、くすんだ煙に覆われた黒灰の天井でしかなく、一層暗くなる夜の訪れが仕事の終わりを告げているのだと知っているだけだった。

 今年で十一歳になるティーレは、幼い頃から鉱山の狭い穴で厳しい労働をしている。日に当たらない生活が五年近く続いているものだからか、一般家庭の子供よりも肌が青白く病的に見えた。背も大して高くならない。
 ひょろりと伸びた手足を見つめる度に、栄養が足りていないのだなとティーレはぼんやりと思っていた。お腹が満たされた記憶などない。朝から晩まで働いても彼が一日に貰える給料は、パンが一つ買えるか程度しかないのだから。
 そんな毎日を送っているティーレにとって、周りの景色など無意味なものだった。
 ましてや煙突の煙で曇っているばかりで、鉱山内の粉塵を思い起こさせる空になど良い感情を持っているはずがない。あれを吸うたびに、何だか命が磨り減っているような気がするのだ。
 現に同じ鉱山で働いていた同世代の子供が、一人二人といなくなる。働けなくなった理由はいくつか考え付くが、大部分が先日まで具合を悪そうにしていたことから病に患ったのだろうとティーレは見当をつけていた。
 毎日あれほど働いて体調を崩さないわけがなく、ましてや狭く暗い坑道の中が劣悪な環境でないはずがない。
 街の淀んだ空気と相成って、次は自分ではないのかとティーレは微かな恐怖を覚える。
 濃厚な闇に染まる晩の、眠りにつく直前にいつも考えてしまうのだ。明日の朝には起き上がれなくなっているのかもしれない、と。
 それは決して杞憂ではない。近いうちに必ずやってくる現実だとティーレには分かっていた。
 ティーレの母は肺を病んでいた。煙が原因だったというのは幼かった彼にも何となく察せたが、知っていてもどうすることも出来なかった。
 刻々と迫ってくる死期に気付いていたのか、母はよくティーレに自分の夢を語った。
 星が見たいという、ほんのささやかでどうしようもできない願いを。

 もう五年以上も前の話になる。
 まだ母が生きていた時――父親もやはり鉱山で労役を課せられていたが、ティーレが生まれる前に土砂崩れの事故で死んでいた――寒々しい隙間風が吹き込む掘立小屋で、ティーレは父の故郷の話を彼女から聞いたことがあった。
 田舎で生まれた父は家族のために、やむなく都市へと出稼ぎに来ていた。彼の故郷の空はとても美しく澄んでいるらしく、都市で生まれ育った母は、父の話した満天を一度で良いから見てみたいとよく呟いていたものだ。
 だが都市を出る金があるはずもなく、病を治すことも助けを求められるような当てもなく。
 ティーレが六つの時に、彼女は静かに眠るように死んでいった。
 咳き込むたびに苦しげにしていた母が、死ぬ間際だけは穏やかだったことがせめてもの救いだったように思える。

 彼女がまるで少女のように瞳を煌かせながら語った星空という光景は、一体どのようなものなのだろうか。
 幾度も耳にした話だったが、ティーレには父から伝えられた母の言葉から想像することしかできなかった。
 程無くして仕事を始めそんなものを考えられるほどの余裕はなくなったため、擦れ違う金持ち達が身につけているきらきらしたものが、きっと黒い空に浮かんでいるのだろうと時折思う程度だった。
 ――そんなものが無意味に頭上にあるとしたら、奪ってお金に換えてしまえるのに。
 母の綺麗な夢に対してそんなことを思ってしまう自分が、ティーレは少しだけ嫌いだった。


 その日の夜も、ティーレは家路を急いでいた。手に握っていた硬貨は既に食料に姿を変えて、細い腕の中に大事に抱えられている。
 明日も早いのだ。身体を早く休ませなくてはならない。
 人気の耐えたメインストリートを真っ直ぐと歩きながら、時々彼は咳き込んだ。
 息苦しくなる間隔が、だんだんと短くなってきているような気がする。これでは母の二の舞になってしまうのだろう。だが、子供を雇ってくれる場所はあまりないのが現状だ。他の場所に職を変えようにも、選べる権利があるはずもない。
 ティーレは濁った空を睨みつけるように仰いだが、煤混じりの空気が目に沁みるだけだった。

 どうしてこんなに苦労して、生きているのだろうか。
 漠然とした思いがティーレの脳裏に過ぎったことは、一度や二度ではない。両親を亡くして、過酷な労働を課せられて、辛くて逃げ出したい日なんて何度もあった。死んだらどんなに楽になれるだろう、と。
 その度に思い浮かぶのは、母親のやつれた笑顔だ。
 何とかしてティーレを養ってくれていた母は、いつでも笑っていた。貴方がいるから頑張れるのよ、と言って一人分しかない食事をいつもティーレに差し出していた。
 自分が生きることを諦めてしまったら、母の頑張りは何だったのだろうとティーレは思うのだ。
 身軽な一人身であれば、もしかしたら父の故郷の空を見られるかもしれなかった母。彼女から些細な希望の可能性すらも奪って、今自分がここに立っている。そのことを理解するたびに、ティーレは戻れない一歩を踏み出さずにいられた。

 物思いに耽りながらぼんやりと歩いていたティーレは、路地裏から怒声が響いたことに気付き立ち止まった。
 家に向かうために曲がる角をいつの間にか通り過ぎていたようで、慌てて身を翻そうと踵を返す。
 この辺りは酒場が多く、治安があまりよくない。
 さっきの怒声から近くで喧嘩でもしているのだろうと踏んだティーレは、騒ぎに巻き込まれると面倒だと慌ててその場から離れようとした。
 だがその瞬間。
 騒ぎの原因が騒音をたてながら、目の前に勢いよく倒れ込んできたのだった。

「いててて。全く、酔っ払いは加減ってものを知らないなぁ」

 思わず硬直してしまったティーレを尻目に、突然現れた男の能天気な声が街灯の下に響き渡る。
 呆気に取られていたティーレはその場から立ち去ることも出来ず、ただ彼の姿をまじまじと凝視していた。
 ティーレの着ているみすぼらしい物に比べて明らかに上品な仕上がりの服は、胸倉を掴まれたのだろう皺だらけだった。
 彼は立ち上がりながら、思い切り殴られたらしい赤く腫れた頬をゆっくりと擦っている。

「おや、坊や。驚かせちゃったのかな。ごめんね?」

 佇んでいるティーレに気付いた男は、上半身を起こして人の良さそうな笑みを浮かべた。
 優しそうな青い瞳が、真っ暗な夜道を照らす街灯に照らし出される。
 ティーレは息を呑んだ。
 その綺麗な色彩の双眸にでさえ溜息が出そうになったというのに、男の頭を飾っている眩い煌きを放つ黄金の髪を目にした瞬間、時間が止まったような気さえした。
 この都市では金髪など特に珍しくはない。だが混血が進んだせいか、それともあの煙のせいなのか――ティーレには正確なことが分からないため、彼なりの予想でしかないのだが――赤みの強いものや色褪せたものばかりだ。
 しかし目の前にいる男は、今まで出会った誰とも違う。
 名を付けるとしたら、宝石が散りばめられた純金。両親が生きていた頃、一度だけ見たことのある王様の戴冠式で一際目立っていたあの至高の輝き。

「王冠……?」

 ぽつりと呟いたティーレを不思議そうに男は見上げてきた。
 その温和な瞳が不意に心配そうに細められた。ティーレが込み上げてきたいつもの発作を耐え切れず、軽く咳き込んだからだ。
 彼は慌てたように立ち上がり、ゆっくり少年の細い背中に手を置いた。伸ばされた大人の手にびくりと肩が引き攣ったが、そっと触れてくれた手の温もりにティーレは呆然と男を見上げた。
 普段であれば鉱山の監視員が殴りつけてくるばかりで、気遣うような仕草が信じられなかったのだ。
 久しぶりに感じた他人の温度は、じんわりとティーレの胸に広がっていく。

「坊や、もしかして鉱山で働いているのかい」
「う、うん。あのう……」

 おずおずと答えたティーレに、申し訳無さそうに男は眉を下げた。
 何だか彼の方が泣き出しそうだ、とティーレは思った。彼の青い眼は鉱山で時折見つける原石のように綺麗だ。潤んで歪むと水分でその輝きが乱反射し、まるで宝石のように煌いて見える。金持ち達が着飾るために着けているものではなくて、そこに自然とある確かな存在感を纏って。
 深い青に輝く光。
 こういうのが、母の言っていた満天の星なのだろうか。

「そっか……やっぱり、俺がやらなくちゃ始まんないんだな」

 自分に言い聞かせるように男は一つ頷き、咳の収まったティーレの頭を力強く撫でた。
 男は近くで見れば、まだ少年とも呼べるような容貌をしていることに気付く。
 若い年上の青年は酷く大人びた眼差しで、ティーレを真っ直ぐと見つめた。

「俺、ずっと逃げていたんだ。でも大人の都合とかどうしようもない掟とか、仕方の無いことばかりで――諦めなくてはならないことばかりで、毎日が嫌だったから」

 ティーレはその言葉をじっと聴き入った。
 それは彼自身も日々感じていたことだ。逃げたいと何度でも思った。思って、何処にもいけない現状が身に沁みた。
 男は自分と違って逃げられる環境にあったのだろうことが少しだけ羨ましく思えたが、それにしては苦しそうな表情をしていることに気が付く。
 逃げた代償に彼は一体何を失くしたのだろうと、ティーレは男の端整な白い顔を見合え続けた。
 苦く唇を噛み締めた男は、でも、と一度途切れた声音をしっかりと紡ぎ始める。

「でも俺は知ったんだ、本当のこと。俺にしか出来ないことがあるって」
「自分にしか、出来ないこと?」

 俯きかけた頭を持ち上げて、男はティーレに笑いかけた。
 首を傾げる子供に彼は曇りの無い笑顔を向ける。
 言葉の意味の一欠けらも伝わっていないことは分かっているだろうに、男は独り言のように謎掛けを差し出した。

「いつか必ず、この都市を変えてみせるから。綺麗な空を取り戻してみせるから。この約束を、君だけでも良い――覚えておいてくれよ」

 泣きそうに歪んでいたはずの青の両目。そこに宿った力強い輝きにティーレは息を呑む。
 見たこともない晴天のような笑顔。見たこともない、星の輝きを持つ男。
 再び路地裏へと入って行った男の背中を、ティーレは食い入るように見つめていた。
 彼が何者なのか、まるで分からなかったけれど。
 上流階級の人々は皆、ティーレのような境遇の者を忌み嫌っているというのに。薄汚いからといって触りもしないのに。
 彼は違った人間なのだと。金と青で出来た綺麗な青年には、心の中に美しい空があるのだと。それだけは、理解できた。

「ねぇ……母さん、父さん」

 夜の道で佇んでいたティーレは、ぽつりと呟いた。
 今は亡き母に教えてやりたい。今は亡き父に伝えたい。
 この都市は汚れているけれども。死にたくなるほど、辛い場所だけれども。自分もまた早く逝ってしまうのかもしれないけれど。
 もしかしたら。

「本物の空が、見えるかもしれないね」

 ティーレは両親を亡くしてから、初めて笑顔を浮かべた。
 父の故郷に繋がっている同じ空の下で、母が夢見た満天の星空を見上げてみたい。
 この時ティーレは誰のためでもなく、自分のために生き続けていたいと思った。男が生み出すと約束してくれた、彼のような空を見てみたいから。



 それから数年後。
 都市の条約が変わり、産業や労働の大きな改革が進んでいた
 煙突は全て消えてはいないけれど煙の量は少しずつ減っていき、薄給で半分強制的に働かされていた子供達を保護する孤児院が設立した。
 ティーレも例に及ばず、鉱山から解雇されて無事に孤児院に入れてもらうことが出来た。そこで勉強をさせてもらい、字の読み書きが出来るようになってから初めて、国の政治方針が変わったことを知った。
 今のティーレの歳は、あの夜に出会った男と同じくらいになっている。
 やせっぽっちだった身体も随分と大きくなり、彼と同年代になれるほど生きていられたことにティーレは正直目元が熱くなるほど嬉しかった。
 病状は少しばかり重くなっていたが治らないものではないことも分かり、国から出される援助金により薬も貰えている。もう少し早ければ母は助かったかもしれないという思いも浮かんだが、それでも毎夜に湧き上がっていたあの不安は随分と軽くなっていた。
 何よりも彼と交わした約束を、母が願っていた夢を、自分はこの目で確かめられるのだという希望が湧きあがっていた。

「シスター、どうしたの? 今日は朝から外が賑やかだね」
「ほらほらティーレも御覧なさいな! 王様の戴冠式よ!」

 窓越しにはメインストリートが見える。その道を真っ直ぐと北へ行くと、国のお抱えである大きな大聖堂がある。ティーレが昔、両親に連れて行かれた場所だ。
 シスターの言うとおり、道には兵隊の列と馬車が見える。前の戴冠式からあまり時間が経っていないことに首を傾げたティーレに、シスターは少しだけ悲しげに言った。

「前の王様はね、ティーレがここに来る前にご病気で亡くなったそうよ。今日の戴冠式はその息子の王子様ね。権力争いに嫌気がさして、お忍びであちこち放蕩していたらしいけれど――」

 隣で語るシスターの声が、やけに遠くに聞こえた。
 硝子越しの大きな道を行く立派な兵士と騎馬達の合間に、懐かしいあの色を見つけたから。

「この街を変えてくれたのも、王子様が尽力して下さったおかげなんですって。きっと真っ直ぐなお方なのでしょうね」

 宝石のように煌いていて、だからといって嫌な気には決してさせない穏やかな光。気高い黄金と、清廉とした青。
 あれから何年も経っているというのに、何にも変わらず優しくそれは輝いていた。

「……約束、守ってくれたんだ」

 ティーレは、込み上げてくる感情に突き動かされるがまま駆け出した。
 孤児院の扉を勢いよく開け、そして視線の先に広がっていたものを眩しげに見上げる。
 馬上の人となってしまったもう手の届かないその人は、相変わらず王冠そのもののような髪を靡かせて、晴れやかな笑みを浮かべていた。
 その背中には彼の瞳と同じ色の空が、黒煙と混じりながらも天高く続いていた。

 ティーレはその時、初めて空が青いことを知った。
 ――星が見られる日も、きっと近い。

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