E-05  幽霊は長月に笑う

 長くて短い休みが終わりを告げ、今はけだるさの残る九月。夏の余韻からなかなか抜け出せないでいる校内では、秋風と一緒にある噂が流れていた。
「最近、この高校には幽霊が出るらしい」。
 幽霊の通称は「そらみさん」、漢字をあてると「空見さん」となる。
 何でも日中、立ち入り禁止の屋上に時折現れては空をじっと見つめているのだとか。単にどこかの馬鹿が侵入しているだけだとする常識的な認識から、黒魔術の失敗で生み出された悪霊なのではないかというオカルトじみた噂まで、その存在は勉強に飽いた生徒の間であれやこれやと話題になっていた。かく言うわたしの立場は当然前者で、後者など脳裏に過ぎる段階で既に下らないと思う。見えないものは信じられない。
 第一男女いずれの姿をしているのかも不明な上、日中に出没する型破りな幽霊をテーマにした怪談では、あまりに真実味がなさすぎる。嘘くさい目撃者が増える度に騒ぐクラスメート達の前でそう率直に言ったところ、ひどく驚かれたのだが。

「委員長は、何で『そらみさん』を信じないの?」
「興味ないから」
「またまたぁ、そんなこと言って」
「ねー」
 わたしの発言にクラスの女子達は顔を見合わせ、くすくすと笑う。尋ねてきた側のくせに、答えたら答えたで笑いの種にしようとする様がイライラする。付き合う気になれないし、そもそも付き合ってやるつもりもない。黙って机に頬杖をつきそっぽを向くと、彼女達は「委員長さん怖ーい」「行こ行こ」とささやき合い去っていった。
 元気なことだ。足取りの軽さは頭の中身の軽さに比例する。
 ともあれ静寂が戻ってきたのかと思えば、背後では男子が下世話かつ訳のわからない会話で盛り上がっていた。わたしは内心閉口し、当たる相手も場所もなくため息が洩れる。四方八方、人間だらけでうんざりだ。
 今学期こそ窓際の席を狙っていたのに、結局くじ引きで正反対の廊下側に座ることになってしまったのも良くない。そういえば数ヶ月前の春には、いっこうに決まらないクラス委員長の役割を、この席替えのような調子で引き当てた覚えがある。まったくもってついていない。
 無性に居心地が悪くなって、頬杖を止め机に直接顔の側面を押し当てた。感じるのはとわずかな冷たさとかすかな木の匂い。耳が片方塞がったせいか、余計な喧騒からも気休め程度に遠ざかった。

 家と学校を往復しては、将来の足しにならない授業を聞く。こんな毎日、面白くも何ともない。
 皆がこぞって「そらみさん」の話を盛り上げようとやっきになっているのは、そんな現実の退屈さを紛らわすためだ。日常の中に懸命に非日常を組み込もうと努力し、その結果が幸か不幸か、世に聞く学園七不思議とやらになっていく。小さい子どもが絵本の中の魔法使いに憧れるのと原理は同じだ。いつか神秘に出会えるはず、いつか奇跡が起こるはず、いつかいつかいつか。
 でも、いつか、ほど不確定な言葉はない。にもかかわらずそれにすがろうとするのは、夢も希望も空っぽになった今、手のひらの上に残っているのが空想だけだということを誰もが知ろうとしないからであろうか。
 事実を拒絶すればするだけ心はどんどんマヒして、やがてそこにある悲しさや惨めささえも感じなくなる。結果、空想に逃げたはずがかえって空想に取り込まれてジ・エンドだ。
 人間の心は弱くはかない。末期がんを宣告されたおじいちゃんは「死にたくない」と繰り返して恐れあえぎながら亡くなったし、いとこの恵美子ちゃんはいじめが元で義務教育の九年間の大半を家で過ごした。
 ささいなことで壊れる心を守る方法がさほどあるはずもなく、よって無駄なあがきは余計に日常を単調なものにし続ける。

 だからわたしは、「そらみさん」の正体を確かめに行くことにしたのだ。
 他に理由はない。興味があったからでも期待したからでも、ましてや空想にすがりたくなったからでもない。航路の間違いを気付かぬ振りで乗り切ろうとした挙句沈んでいく船のように、他の生徒達と一様な運命をたどりたくなかった。どんな空想も、いずれは空ろだと悟らされるのだ。ここまで来たら、いつわたしが皆の望む世界を離れようが変わりはしない。
 幽霊見たり、枯れ尾花。「そらみさん」が何のことを指しているのか、皆より一足先に見届けておくのも悪くない。



 明くる日、わたしは普段より一時間早く学校へと足を運んだ。早朝練習の途中なのか、野球部の威勢の良い点呼が聞こえる。
 数合わせを頼まれ入部した吹奏楽部を抜けて以降、私は部活動には入っていない。トロンボーンではなくフルートをやりたい、と言っただけで場が凍るような部だった。恐怖政治で埋まらない担当楽器を押し付けようともくろむ先輩のいる場所に、別段未練はないけれども。
 味気ないスクールシューズの形式をした上ばきを履き、生徒玄関から直接屋上を目指す。
 クリーム色で統一された壁のあちこちでは、今日も卒業生達の寄贈した絵画がこれでもかといばっていてうっとうしい。二階へ上がる階段で下級生と、三階へ上がる階段で同級生とすれ違ったが、わたしをとがめる者はいなかった。この調子なら屋上へと繋がる階段では上級生と出くわすだろうか、と一瞬予想したものの、即座に考え直す。
 この学校は、三階までが教室だ。四階、すなわち屋上に用があるとしたら、酔狂な人間か「そらみさん」くらいではないか。

 三階を抜けて廊下のつきあたりを北に歩き、周囲に人がいないのを確認してから「非常階段、立ち入り禁止」と赤字で書かれた灰色の扉を手前に強く引く。暗い階段内部へ足を踏み入れたとたん、朝の陽光はなりをひそめ、後ろ手に閉めた扉は堅固な錠前よりも重々しい音を立てる。そして出し抜けに闇の中へと放り出されたわたしの視界は、みるみる黒一色に覆われていく。
 何ものかに歓迎されたようでひやりと背筋が凍ったが、落ち着いて携帯電話を取り出しそのライト機能で明かりを灯す。階段が確認できると、足元も心境も安定して急に力が湧いてきた。
「よし」
 孤独感から逃れようと独り言を口にして、段差を注意深く確認しながら上っていく。遠い日に聞かされた十三階段のいわれやら本で読んだ絞首刑階段の情報やらが脳内を駆け巡っているのは、緊張のなせる業。唇を噛んで勇気を奮い起こす。
 勇気? そんなもの、本来なら必要ないはずだ。わたしはただ、日常に持ち込まれるふざけた非日常を第三者的視点で探しに来ただけなのだから。
 きっかり十段上ると、暗闇にまぎれ見えにくくなっていた黄土色の扉が眼前に来る。窓らしきものもあったが、ガラスが割れているのかその箇所にはガムテープがべたべたと貼り付けられている。このせいで光がさえぎられていたのだ。茶色のテープが剥がれかけているところを見るに、「そらみさん」の噂以前からとうにこの窓のガラスは壊れていたのかもしれない。
 やっと、着いた。
 知らずとあふれてきた唾を飲み込んで、ドアノブを握る。冷たいものと思われた金属は触れると心なしか生温かく、まるで生き物のようだった。気持ち悪さもあって鍵が掛かっている可能性を考慮せずにノブを回してしまったが、最後の扉はあっけなく開く。幽霊においでおいで、と誘われている気分だ。
 真っ白な光が、黒の世界に慣れかけていた目の奥へ一挙に差し込んでくる。痛くてめまいがして、幽霊に誘われているのか拒まれているのかわからない。



「あ、いらっしゃい」
 声が聞こえた気がした。不躾で生意気で、低すぎも高すぎもせず、まださほど歳を取っていない声。言うなれば同年代の男子の声だ。わたしは片手で目元に日陰を作り、現状以上の直射日光を避けながら辺りを見回す。首だけのぞかせるつもりが段差につまずき身体ごと飛び出してしまったため、扉はあの非常階段を思い出させる音を立てて閉まる。重低音にも足首の軽い痛みにもひるまず顔を上げると、そこに人影を見た。
 着ているのは白いワイシャツに濃紺のネクタイ、それは個性のかけらもないここの学校の夏服。胸元の校章の色を確認するに、わたしと同じ学年だとわかる。
「残念。俺が先客だよ」
 男子生徒は腕を組みフェンスに寄り掛かり、じっとこちらを見据えている。案の定、さっきの声の主だ。
「あなたは、誰」
「あれ、前に会ったことなかったっけ? 二年A組の板垣コウさんでしょ、こっちはよーく知ってるんだけどなぁ」
 明らかにふざけた様子で肩を大げさにすくめ、彼はニイと笑った。わたしに向けられた瞳はどこまでも真っすぐで輝いていて、子どもっぽい。朝の日差しを浴びると茶色い髪の色がずいぶんと透けて見え、いちいち不必要なまぶしさを覚える。遠巻きに推測して背はわたしより若干高いくらいに思われるから、電車で背後に立つ男性に対してごくたまに感じるような威圧感や不安感はない。
 わたしの名前と役職を知っていることには、正直ほっとした。ここで本当に「そらみさん」に出会ってしまったら、もはや笑いごとでは済まない。

 けれども余計な緊張で喉の奥がつかえていたせいか、その笑顔を見つめていると腹が立ってくる。
「わたしは知らない」
 つっけんどんに返してわざとらしく目を逸らす。拒絶を絵に描いた返答と態度にさすがにがっかりしたか、彼は組んでいた腕を解き、深く息を吐いた。
「まぁいいよ、どうせそう言うと思った」
 笑顔が失せると代わりに哀愁が漂い、背負った朝日も夕日のように心もとない。何かしら言い返してくるものと想像していただけに、これではわたしのほうが悪人に思えてくる。
 やっぱりこんな毎日、面白くも何ともない。悔しい。許せない。不愉快だ。
「そらみさん」を生徒達の空想の産物とさんざん叫んできたものの、屋上までの道のりは実のところ非常に怖かった。それは認めよう。だとしてもわたしが全部悪かった、間違っていたとは決して思わない。いくら笑われようが、見えないものは信じられないし、また信じたくない。
 どうしてだか泣きたくなったが、眉を寄せて我慢した。両手を拳の形にしてこらえる。
「板垣さん?」
「何でもない。ちょっと自己嫌悪におちいってただけ」
「ふうん」
 彼は俯いたままのわたしを一瞥すると、フェンスからつと離れる。大股でこちらに近付いてくる足音に驚いて一歩下がると、自然と重くなりかけていた頭は跳ね上がった。ただ自省をしていただけで、その中で妙なことなんて一つも口走ってはいないはず。

 視線が交差する。予想に反して、彼の背はわたしとさほど変わらない。脚が真っすぐで長いから、すらっとした印象を受けるのだ。
「それにしても、まさか天下のカタブツ委員長さんが校則破りとはね。いいの、朝から?」
「いいの」
 目をしっかりと合わせた上で尋ねられ、負けじと半ばにらむ勢いで見つめ返す。間近でとらえることとなった彼の顔立ちには、美醜の基準がわからずうまく言及できない。人懐こく思える以上は相応に整っていると判断するべきか。今まではあまり気にしてこなかったが、話していて見苦しくない顔、表情をして相手と接することは大切なことなのかもしれない。わたし自身に照らし合わせて思う。
 堅い性格と認められるのは構わないが、毎回見苦しい顔つきをしていれば周囲の雰囲気もおのずと悪くなる。ひねくれるのもほどほどに、という天のお告げかと結論を出すと、らしくなくておかしかった。不意に口元がゆるみ、笑みがこぼれる。
「おっと、鳴いたカラスがもう笑った。笑うとわりと可愛いね」
 真正面でわたしを見ていた彼には、ほんの少しの変化も反応すべき範囲だったらしい。まじまじと観察されるのは好きではないのだけれども、こちらも十分凝視していたのだから文句は言えない。涼しい風が二人の髪をそよがせたのを機に、わたしは再び眉をきつく寄せた。
「最初から泣いてない。『わりと』は余計だし」
「こりゃ失敬」
 彼は苦笑気味に言って、天を見上げる。わたしがつられて仰ぎ見るとそこに広がるのは一面の青空で、白く薄い雲はあちこちに散って空間の飾りとなっていた。蒼穹と呼ぶにふさわしい威風堂々としたありさまに、一瞬呼吸を止めてみとれてしまう。
 真っ青にもかかわらず透き通り、形を持たないにもかかわらず形あるものを圧倒する。
 思い起こせば、自分がずっと窓際の席を望んでいたのは空をもっとよく見たかったためだ。なぜ忘れていたのだろうか。

 見えないものは信じられない、がわたしの行動理念。だから目に見える「空(そら)」だけを受容し、目に見えない「空(くう)」を真っ向から否定してきた。それが他人の意見を押しつぶすわがままな独りよがりだと悟りたくなくて、皆を言い訳で見下してはあらゆる人の輪を崩してきた。
 まるで幼稚園児の食わず嫌い。
「そらみさん」の噂やその存在を信じる生徒達を、わたしは理解しようとしなかった。空を眺めることと空想にふけることを全く違うと差別して、正真正銘空っぽの自身を隠し通そうとしていた。「そらみさん」の正体を知ろうとやって来た時点で、もう己のあなどる空想の世界に片足を突き込んでいたというのに。
 不思議なことに、二度目の自省では恥ずかしさこそあれいらつきや悲しさは生まれなかった。屋上を包む光と風と空が、かたくなな固定観念と表情を洗い流していく。
「いいな、この空」
 ごく自然に感嘆の声を上げると、彼はさも嬉しそうな顔をしてわたしに向き直る。ゆるく巻かれていたと思しきネクタイが、その拍子にうねって揺れた。
「あ、板垣さんもそう思う? あんな噂が流れるのもわかるよな、こんなキレーな空を見上げてるっていうんだからさ」
「そうかもね」
 珍しく打った相槌は、我ながら柔らかい。これだけ優しい声が出せるのならば、クラスの雰囲気にももう少し溶け込んでいけるのではないかと思う。笑顔もたまには良いものだ。

 しばし口を閉ざして、わたしと彼は青の世界に浸った。流れる雲を数えては心の中が満たされていく感覚を覚え、こんな平和が永遠に続けばとさえ思ってしまう。
 ここに来た理由を問われなかったのは、相手もわたしと似た考えに基づき出向いてきたからに相違あるまい。「そらみさん」は結果的にいなかったのだから、とどのつまり、お気に入りの場所を偶然発見した生徒が一つの意図を持って人を遠ざける噂を流した、ということになる。存在を信じ興味しんしんにのぞき込んできた者達には、屋上に設置されたアンテナの影でさえ幽霊に見える。それが「そらみさん」の真相で、お粗末な結び。
 けれども、確かにこの空を独り占めしたくなる気持ちはわからないでもない。無限の可能性を連想させるさまざまな青は、静かに心身をほぐしてくれる。
「そらみさん」が真実いるとしたら、この空を愛するがゆえに現れてしまうのだろう。



 背後で予鈴が鳴ったのは、それから何分経ってからのことか。どちらからともなく扉まで歩き、後ろ髪を引かれる思いで進み出て彼より一歩先にドアノブを握る。秋の気配にあてられた金属は、入ってくる時とは異なりひんやりとしていた。
「俺はのんびりでもいいけど、委員長さんはさっさと行かなきゃなんじゃない? ほらほら」
「うるさい、黙って」
 言い返した後に続けて相手の名前を呼ぼうとして、ぐっと言葉に詰まる。そうだ、彼の名前をわたしはまだ知らなかった。
 これから校内でちょくちょく会う機会はないにしても、絶対に質問してはいけない事柄でもない。今さらすぎてきまりが悪くはあったが、あえて尋ねることにする。
「ところで、あなたの名前は?」
「え?」
「ごめん。わたし、やっぱり思い出せない」
 どう考えてもこちらとしては面識がない、という当然の弁解をせず素直に謝ると、彼は長くも短くもない間を取ってから答えた。
「……『そらみさん』だけど。それが、どうかした?」

 さながら空気のように宙へと溶けたその言葉は、きっと彼なりの冗談に違いない。

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