E-06  デイエンド

『逃げろ』
 寝起きの頭では文字が読めても理解ができない。京介はいったん枕元の時計に目をやり、ケータイの画面に戻す。
 姉からのメールは半日前にここへご来臨していたらしい。大学生のマナーとして講義中はバイブにしておいたのがまずかった。もっとまずいのは、その後の飲み会で盛り上がりすぎて意識を失って気づいたらアパートに帰ってきていることだが。
 ともかく、三十分後に迫った一限目は必修でしかも開始時に出席を取る。電話をかけて事の詳細を聞く余裕はない。
 チェーンで下げた指輪の無事を確認して、シャワーを浴びるために服を脱ぎ――パンツ一丁になったところでドアが蹴破られた。
 無反応というリアクションをしてしまうのは日本人の性だろう。
 現れたのはヤのつく自由業としか思えない男達だった。スーツにグラサン、物騒な雰囲気。懐にはドスかチャカか。
「兄ちゃん、ええ部屋住んどるのう」
 その中でもひときわ体格のいい男が口を開いた。ネイティブかどうかはさておき、初めて聞く関西弁だった。
 答えを『どちら様でしょうか』『部屋をお間違いですよ』『誰だチミは!』のどれにしようか迷った。生え際が〇.二五ミリ後退するであろうほど深く。
「兄ちゃん、まあ座り」
「はい」
 トランクス姿で床に正座する。素直に従ってしまうのは普通の小市民だからだ。
「よう聞き? あんな、和美ちゃん夜逃げしてん。おっちゃんとこで金借りたまんまな。借りたもんは返す、小学校で習ったやろ?」
「はい」
 姉の名前と数分前のメールの文面が重なった。後悔は本当に先に立たない。後からやってきて容赦ない一撃で谷底まで連行してくれる。
「せやからおっちゃんたち、和美ちゃんのお友達に協力してもらってん。うちとこ良心的やから連帯保証人いらんねん。ちゅーことは、頼るのは家族しか残らんやろ?」
「はい」
 至極真面目に答えていたのだが、相手はそう受け取ってくれなかった。男は眉間の皺をぎゅっと深め、斜め四十五度からすごむ。
「さっきからはいはいはいはいて、話聞いとるんけ」
「聞いてます。姉の借金を俺……私が払えばいいってことですね。いくらですか?」
 数学の授業と天文学会でしか聞かないような桁を言い渡された。
「払えるか?」
「払えません」
 京介の答えに、黒服(雑魚)がわらわらとやけに統制のとれた動きで部屋を物色しはじめた。だが一介の大学生の一人住まい、めぼしいものは電化製品ぐらいだ。
 男はしゃあないなと指を三本立てる。
「ちゅーことはや。兄ちゃんに稼いでもらわんとあかんわけや。お船に乗って太平洋をクルージングと、生物の授業と、ベンツにダイブと、どれがええ?」
 マグロ漁船か内臓の売買か当たり屋か。もちろん、地道にバイトしますという選択肢は用意されていない。
 考え込むふりをすることで時間を稼いでいると、男は無遠慮に京介の胸元に手を伸ばした。指輪をすくい取られる。
「ごっつ高そうな光モンやないか。利息ぐらいにはなるよってに」
 それだけは渡せない理由を説明すると男は決まり悪げに笑った。
「なんぼなんでも、そんなモンまで奪われへんわ。大事にしとき」
「はい」
「ひゃっ、頭! こいつオタクでっせ!」
 雑魚の一人が声を上げた。京介はむっとしたが反論できない。プラモ好きが高じてガレージキットの収集・作製が趣味となり、完成品は押し入れの上半分を陳列棚にして飾ってある。二次元の美少女にはあまり欲情しないが三次元の存在となった彼女たちにときめくことは多々ある。
 頭と呼ばれた男の表情が微妙に変化する。
「兄ちゃん、手先器用なんか?」
「まあ、多少は」
「なら決まりや! ヤス、ヒロ、カトメ! ボンのとこ連れていくで!」

 そんなわけで京介はお情けで服を着せてもらった後、黒塗りのベンツの後部座席にいた。大阪から名阪〜東名を通ってきたのだろうかと考えていたら、そんなことはなかった。
「着いたで」
 頭にうながされて出てみればそこはまだ都内でビルが乱立していた。少し歩かされて雑居ビルの最上階に案内される。
 看板も何もないそこは事務所になっていた。
「帰りました」
 妙なイントネーションの敬語で頭が言うと、給湯室と書かれたドアから少年が現れた。年の頃は十前後でどこかの制服のようなシャツと半ズボンを着ている。ウィーン少年合唱団の日本版にいそうな天使の輪っかを持ったピュアな感じの子どもだ。
 少年は水分をたっぷり含んだ雑巾を振り回し、頭に向かって飛ばした。べしゃりと貼り付く。京介はその他大勢と一緒にあわあわした。
 少年は無邪気な笑みを浮かべる。
「おかえり、バカ」
 頭は引きつった笑顔を返して雑巾を取る。
「ボン、儂はバカやのうて若頭や、ゆーてまんがな。わ・か・が・し・ら」
「わかったよ、バカ」
 関西人に向かって『馬鹿』は関東人に向かっての『阿呆』だ。頭――若頭が関西人なのかエセ関西人なのかはわからないが屈辱だろう。
「それで誰? このもやしっ子は」
「ボンが欲しいゆーてた、手先の器用な兄ちゃんや。好きに使とってや」
 背中を押されたので名乗ってよろしくお願いしますと頭を下げる。上げる。ボンの目がキラキラと少女マンガのように輝いていた。
「わあ! これで作業もはかどるよ! こっち来て!」
 バックをとられぐいぐいと押されては歩き出さないわけにいかない。辿り着いたのは簡易キッチンだった。
「入って」
 ボンは無茶な要求をする。芸人でもあるまいに電子レンジに入れるわけがない。いくら業務用でサイズとしてはセーフでも。そもそもこんなところになぜ巨大な電子レンジが必要なのかがわからない。
「入らない? それなら東京湾と大阪湾、どっちにダイブしたいか教えて?」
 小さくてもその筋の人間だ。京介は渋々ながら電子レンジに身を納めた。ボンは扉を閉める。
 猫を乾かそうとして電子レンジに入れて爆発という話を思い出した。今日のことが表沙汰になればアメリカンジョークからジャパニーズスプラッタに格上げだ。
 ボンが『あたため』スイッチを気軽に押す。京介は目をつぶり――意識を失った。

 京介は段ボール箱の中で胎児のように丸まっていた。
「いつまで寝てるアルか? 起きるアルよ」
 関西弁の次はエセ中国人だった。まだ若いというか幼い少女のものだ。蓋を開けた彼女は京介に向かって腕を伸ばす。害意を感じないので手を取って出るとそこは和室の六畳間だった。天井からは裸電球が一つぶら下がっている。
 部屋は生活臭たっぷりに荒れている。
 とりあえず十代とおぼしき少女と向かい合った。黒いカンフー服に耳の上でお団子になった髪、太めの眉の上で一直線に揃った前髪。日本人の持つチャイナ少女のイメージを典型的に再現していた。
「えーと?」
「追加か。よろしアルね。昨日でぱいと三人へたよ。追加あるだけで御の字よ」
 奥底にどす黒さを感じる笑みを浮かべて握手を求めてくる。とりあえず応じた。
「私、主任の美鈴よ」
「京介だ」
「ハオ。ここは惑星のテラフォーミング作業本部アルよ。貴様の役目、図工の時間ね。空作るよろし」
 道具は……と美鈴はがらくたを掘り返してあれこれ差し出す。数本の筆。アクリル絵の具八色セット。パレット。バケツ。土台とおぼしきガラスドームは直径が一メートル弱ある。
「エアブラシは?」
「探すよろし。きとないね。あたら他のぱいと楽してたアルよ」
「……………………」
「マグマ冷えてかたまたね。じきに海出来るアルよ。時間ないね。けつかちんで急ぐアル。水道とぺんじょは出て廊下の突き当たりの左ね」
 逃げる気力も抵抗する気力も失って部屋を出た。言われた場所で水を汲んで元の部屋に戻る。部屋はいくつか並んでいたがものの見事に人の気配がなかった。
 ドアを開けると美鈴は細いワイヤーで何かを作っていた。
「ぐずぐずしないで作るアル。ボンは良い悪人ね。テラフォーミング成功したらしゃきんチャラよ。パスポートも偽造してくれるアルよ」
 またたく間に完成した奇妙なオブジェを持って彼女は出て行った。
 京介は部屋の隅にコーナーを設けて作業を開始した。まず、つるつるのガラスに絵の具は載らない。載ってもぺろっと剥がれてしまうことがある。蟻塚よろしく塔を形作っている道具の中からサンドペーパーを発掘して内側にやすりをかける。見上げる誰かは中に存在するから外側から彩色した方が奇麗に仕上がるが、クリエイターとしてはこちら側の方が格段にやりやすい。
 作業に没頭した。時計も窓もないからわからないが、美鈴が晩飯の号令に来たということはかなり時間を費やしたのだろう。
 メニューは八宝菜と青椒肉絲と高菜チャーハンだった。尋ねてみたらシェフは美鈴だそうだ。さもありなん。

 絵の具を載せる作業も四日目になると危機の一つや二つ訪れる。
 京介は背中合わせに編み物をしていた美鈴を振り返った。
「美鈴ちゃん」
「ダメアル! 私主任よ! 主任様呼ぶよろし」
「はいはい、主任サマ。絵の具がなくなった」
「また倉庫探すよろし」
「出てきたうちの最後の一本をたった今使い切ったところ。四回探して見つからなかったものが、同じことして見つかると思う?」
「げんぱひゃぺんアルよ」
「間に合わないかもしれないけど?」
 伝家の宝刀に美鈴はフリーズした。
「仕方ないアル。本部の資材課に連絡するアル」
 美鈴はシャア専用ザクのような真っ赤なケータイでどこかに連絡をとった。最初は下手に出ていたが段々と苛立ちが高まり、最後は日本語以外の言葉で罵倒する。罵倒しあっているというのが正確なところか。巻き舌の怒鳴り声が京介にまで聞こえる。
 二十分後にようやく電話を切った美鈴は勝利の美酒に酔いしれていた。心地よい疲労に包まれて額を拭う。
「すぐに届けさせる言た」
 重なるようにして押し入れから電子音が響いた。そこには京介が移動に使った段ボール箱がしまわれている。
 ふすまを開けると立ち上がった人物は上段に頭をぶつけて再度小さくなっていた。
「アイヤー、ぽん来たアルか」
 今まで上機嫌だった美鈴がうなだれる。瞳を潤ませて美少年効果を三十パーセント増やしたボンは、ここ数日でさらに人外魔境と化した部屋に降り立った。
「絵の具を持ってきてやったよ。感謝の言葉は?」
「さんきゅね!」
「どうもありがとうございます」
 棒読みなのは致し方ない。ボンは絵の具を京介に渡すとアトリエを見渡した。オーラが一瞬にして不機嫌になる。
「こんな汚いところで作業してるの? 虫が湧いたらどうしてくれるの? 掃除してよ。もちろんそれが理由で作業が遅れるのはありえないから」
 殺意が湧いたのは美鈴もそうだと思う。だがクライアントに逆らうことはできない。文字通り命綱を握っている相手だから。
 ボンが押し入れの上段に座り足をぶらぶらさせながらアニソンを歌う。音痴とまではいかないがカラオケで嫌がられる程度には下手だ。
 美鈴が掃除機を発掘する横で京介はがらくたを分類する。すると収納のキャパシティをはるかに越えていることがわかる。倉庫から板と大工道具を持ってきて棚を作ることにした。
 その間にボンは作業の進み具合をチェックしていた。中央管制室とかなんとかご大層な名前のついているであろうメインルームへ足を運び、しばらくして大掃除中の作業部屋へ戻ってくる。邪魔以外何でもない行為で京介と美鈴の間をうろうろしていたが、作りかけの空の前で足を止めた。
「これ、ダメ」
 京介は動きを止めてふつふつと湧き上がる怒りを必死にこらえた。
「どうしてですか?」
「だって、これを被せたら中が見えないでしょ? だからダメ」
 確かにアクリル絵の具をベタ塗りすれば不透明になる。だが、心血を注いだ作品をあっさりジャンクにしてしまうのは出来ない相談だった。
 その場を救ったのは美鈴だった。
「見えればいいアルか?」
 言うなり拳を振り上げる。止められなかった。
「ホワチャ!」
 気合一閃。正拳が作製途中の天蓋に叩き込まれる。京介はブラックアウト寸前の意識をなんとか保って現実を見つめた。
 ガラスドームは割れずに少女の拳サイズの穴だけ完成した。ボンはたちまちご機嫌になった。
「よし、ギリでオッケー。これで観察できるや」
 京介の記憶が確かなら、粉砕された部分はうっすら雲がたなびいているグラデーションを二時間かけて仕上げた渾身のセールスポイントだったはずだ。
「ハオ。二日で有機生命体誕生するアルね。キョスケの作業おわたら準備おわるよ」
「間に合わなかったら生きたまま解体ショーだから」
 とても裏社会の人間らしい励ましの言葉を残してボンは段ボール箱に戻った。フラッシュのような光が漏れると箱は空に戻る。
 京介は涙をこらえて絵の具のチューブを手に取った。

 徹夜で完成させた空を乾燥させるためドライヤーを当てていると、ボンが現れた。
「出来た?」
「ひゃー、ごっつやつれたのう」
 ついでに若と三下連中が段ボールから順番に出てくる。
 美鈴は胸を張った。
「仕事おわたアルよ。後はぽんが仕上げするだけね」
「ふうん」
 ボンはガラスドームをじっくり観察した。そして若に命じた。
「ドラム缶とコンクリートの用意ね」
「へえ」
「ちょちょちょちょっと待ってください。何がダメなんですか?」
「キョスケに教える、情けね」
 地面の付近はやや赤味の勝った紫で、上にいくに従い徐々に明るさを落としていき夜色になる。八色しかない絵の具と平筆でちまちまと完成させた傑作だというのに。ボンは天蓋を指さす。
「星がないよ。ダメダメ、ボツ」
「星があればいいわけですか」
 スパッタリングを真っ先に考えたが出来ない。網は厨房から目の細かいザルでも借りるにしても材料がない。絵の具は一つの色を表現するだけだ。またたくなんて芸当は出来ない。
 考え込むこと十秒、京介は胸に下げたリングを取り出した。
「主任サマ」
「はいやー?」
「ダイヤを素手で砕くとか出来る?」
「あたり前田のくらっかよ」
「それなら、これ頼む」
 指輪の中央に飾られているのは小指の爪ほどの大きさのダイヤ。ブルーを帯びた透明な光を放っている。
 美鈴は親指と人差し指でダイヤをつまんだ。京介は黒い下敷きを持ってスタンバイする。
「アチョ!」
 怪力とかそういうレベルではない人智を超えた能力で宝石は粉々になった。
 京介は下敷きをガラスドームに近づけて息を吹く。
 きらきらきらきらと舞い落ちた粉は夜空に光を添えた。
 美鈴が残念そうに呟く。
「もたいないアル。売れぱしゃきんへたよ」
「売れないよ。ひいじいちゃんの遺灰で作ったダイヤだから」
 値段はつけられないが曾孫の命の代金になったとわかれば故人も本望だろう。
 ボンは完成品に満足したようで抱えてメインルームへ走った。手下も金魚の糞よろしくついていく。
「よくやたよ、キョスケ」
 美鈴が親しげに肩を叩いた。京介は大きなため息をつく。
「これでまっとうな世界に帰れると思うとほっとする」
「何いてるアルか。この星はおわたアルが、次がまてるよ」
「……………………え?」
「知らないか? 今のぷーむはテラフォーミング神様ごこね。そこで地道な職人が求められるアルよ。キョスケセンスいいね。私の部下にならないアルか?」
 真剣に提案された。
 安アパートに帰る日は遠そうだ。京介はようやく蒸発した姉を恨みたくなった。

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