E-08  リルハの真珠

 高地の風は、冷たい。
 老人はその身を切るような風がゆっくりを頬を撫でても、首筋を吹き抜けても、全く動じることなくその濁った目で湖面を睨み続けていた。
 湖面は波の無い静かな、まさに鏡と呼べるような正確さで山を、雲を映し出している。その中で三千メートル級の山々は白く鋭く、小さな村をじっと見つめているかのように湖と村の周りに聳え立っていた。
 この静かなリルハの村で人々は僅かな草原や、緑の山肌に羊やヤギを放牧し、ヨーグルトやチーズを作って暮らしている。
 美しい湖は、村のすぐそば。
 大きくは無い、でも、小さくもない。この村の住民にとってはそれは十分に大きいもので、けれど空から見たらきっとすごくちっぽけな水たまりにしか見えないのだろう。でもそれはあまりにきれいな湖で、だからその村の名前を取って「リルハの真珠」と呼ばれていた。

「飛行機だ!」
 甲高い少年の声に続いて、軽い足音が聞こえてくる。
「ねえ、おじいさん。飛行機だよ! かっこいいなぁ。僕もあれに乗りたいなぁ……」
 少年が首をいっぱいに伸ばして空に食入る姿は、湖面に静かに映っている。老人は僅かに視線をそこにずらし、次いで少年を見た。
「坊主、飛行機が好きなのか?」
「うん!」
 満面の笑みで応える少年には、飛行機が嫌いだなんていう人間がいないとでも信じているような真っ直ぐな好奇心がある。老人は僅かに目を細めて少年を見ると、すぐに湖面へと視線を移した。
「おじいさん、いつも湖を見てるよね。面白いの?」
「いや。だが、他にすることも無いからな。放牧はもう若いのがやってるし、うちには女房も子供もおらん」
 そうは言っても、こんな田舎じゃみんなそれなりに仕事を持って、助け合って生きてることを幼い少年だってわかってる。
 少年は帰宅するなり、父親に老人の事を聞いた。小さな村では、住民は皆お互いのことをよく知っているものだ。
「あの爺さんなぁ。悪い人じゃあないが、頑固者だよ。奥さんがいた頃は、それでも結構丸くなってたもんだがな。奥さんが早くに亡くなっちまって、息子が家を出てからはめっきり老け込んでな」
 本当は老人も放牧を引退したとは言っても、跡を継いだのは実の息子ではない。隣の家の息子に、自分のところの分の家畜も放牧に連れて行ってもらっているという。
「でもおじいさん、息子はいないって……」
「そりゃあ、あの爺さんが自分で勘当したからな。出来が良くて、親思いの優しい子で、なんで勘当なんかしたんだか、村の人は誰もわからん」
「その人、今何してるの?」
「さあ? もう十年も村に帰って無いからなぁ。おっと、もうこんなに真っ暗だ。早く寝るぞ。明日も仕事があるんだから」
 少年にはまだ聞きたいことがたくさんあったのに、少年の父親はもう話すことなど無いとでも言うように、さっさと寝てしまった。

 暗い部屋の中で、老人は死んだ妻の姿を見ていた。台所に立って、老人が座る椅子のほうをじっと見る。
 何も言わず、ただ悲しそうに見つめるばかりのその妻のしぐさに、老人は彼女が何を伝えたいのか痛いほど理解していた。
 彼女は、老人を責めているのだ。一人息子を理不尽に勘当した夫を。
「おまえはいつもそうして、わしを責めるんだな。いや、仕方あるまい。おまえが生きていたら、きっと追い出されてたのはわしの方だったろうな」
 聞いているのか、いないのか。
 悲しげな視線を揺らす妻の姿は、皮肉なことに生前の彼女とは似ても似つかない。
 妻は、明るい女だった。元々彼女は商人で、老人がまだ少年だった頃から父親と一緒に村に品物を売りに来ていた。そんな彼女を娶ったのは、老人が十八になった頃。
 老人は彼女が話すリルハ村の外のことが好きだった。特に海のこと。海を見た事の無い老人には、それがどれほど魅力的に思えた事か。
 結婚して数年、息子が生まれた。母に似て明るく、老人に似て真面目な性格。昼は父と一緒に家畜の放牧へ行き、夜は母の台所仕事を手伝う。
 その三人の慎ましやかで幸せな生活が終わりを告げたのは、ある冬の寒い日。風邪をこじらせた妻は、あっけなくこの世を去った。
 老人は今ほど老いてなく、息子はまだ十六になったばかりだった。

「おじいさん、お母さんがこのチーズをおじいさんにって」
「わるいな。お母さんによろしく伝えておいてくれ」
 老人は大きなチーズの塊を受け取りながらしわを深くして笑い、少年の頭をくしゃくしゃと撫でた。少年はその子ども扱いに少しむっとした顔をしながらも、老人の隣に腰を下ろす。
「お父さんとお母さんが言ってた。おじいさん、この辺の草のことなんでもわかるんでしょ。暑すぎたり寒すぎたりして十分草が育たないときも、ちゃんと草が生えてるところを知ってて教えてくれたって。だから家畜が飢え死にすることが少なかったんだって」
「もう、昔の話だ」
 老人の瞳は遠く、湖面を眺める。
「おじいさん、今度僕に放牧を教えて!」
「わしには、もう無理だ。足腰が弱ってな。あんな山道、もう登ることも下ることも出来んよ」
「でも……」
「やめときな、坊主」
 会話を打ち切られて、少年はどうしていいのか戸惑った。老人の目は、相変わらず湖面を睨んだままだ。居心地の悪さにどうしたらいいのかわからなくなって空を仰いだその瞬間、それは聞こえた。
 飛行機のプロペラとエンジンが混じった独特の音。
「飛行機だ!」
 少年は立ち上がった。
 編隊を組んだ軍の濃紺の機体が後ろの山から現れた。少しのぶれも無く真っ直ぐに、ただ先を目指して五機が飛び去っていく。その飛行を記そうとでもするように、飛行機雲がスッと伸びる。
 高く高く、どこまでも果ての無い空を濃紺の五機が威風堂々と進んでいく。その光景に、少年は心を打たれた。
「すっげぇや……」
 飛行機が去っても、その少年は音が消えるまで、飛行機雲が消えるまでずっと空を眺めていた。
 やがて空が平穏を取り戻し、飛行機が現れる前と同じに戻ってから、ようやく少年は老人に目をやる。老人は相変わらず湖を見つめたままだった。
 その老人が、きっと一度たりとも空を見上げなかっただろうことを、少年は感じ取った。その背中が、全てを否定している。
「おじいさん、飛行機嫌いなの?」
「ああ、大嫌いだな」
 あまりにも早く強いその応えに、少年は反感と、同時に疑問をも感じた。まるでむきになっているかのよう。
「どうして?」
「あの馬鹿でかい音で飛ばれた日にゃ、羊どもが怯えちまって仕方ない。それに、あれは人を殺すものだ。好きになんてなれるはず無いだろう」
「殺すもの? 違うよ。飛行機は僕らを守ってくれるんだ!」
「わしの息子は飛行機に殺されるんだ!」
「えっ……」
 ショックを受ける少年に、老人は自分の失言を後悔した。
 老人はゆっくりと立ち上がって、背を向ける。少年はその老人の後姿に声をかけようとするが、その背中はあまりにも小さくて、少年はかける言葉を失った。

 ――どうしてわかってくれないんだよ、父さん! 俺はただ海が見たいだけなんだ。母さんが見たっていう、海を! 父さんだって見たいだろ。俺が見せてやるよ!!
 ――そのために人を殺すって言うのか!
 ――違うよ父さん。人を殺すんじゃない、守るんだ!!
 ――守るために、殺すんだろう! 人殺しなんぞ、わしの子どもではない。出て行け! 二度と戻ってくるな!!
 もう十年も前の息子の言葉を、声を、絶望した顔を、老人はまだ忘れられずにいた。
 放牧するのがうまくて、いつの間にか自分の知っている放牧地を全て覚えていた息子。馬に乗るのも、羊を追うのも得意で、よく手伝いをしてくれた息子。
 いつもわがままなど言わなかったいい子が、たった一度言った自分の希望。それだけで、彼はここを出た。いや、追い出してしまった。後悔していないわけがない。だが、それでも老人には認めることが出来なかった。許すことが出来なかった。息子が、軍に入るなどということは。
 知人の伝で、息子が空軍に入ったことまではわかった。だが、今はどこでどうしているのやら。
 妻の亡霊は今日も、悲しそうな瞳で老人を責める。彼はうつろな視線でその亡霊を見て、そしてかすかに頭を振った。

 湖は、まるで鏡。
 何でも見える。何でも、映す。山も、村も、雲も。
「やあ。こんにちは。君はリルハ村の子だろ?」
 不意に話しかけられて、少年は慌てて振り返った。そこには背の高い一人の青年が立っている。
 そこは牧草地。それも、結構村から離れた高い場所だ。村を見下ろすことは出来るけど、小さくて人の姿など黒い点にしかすぎない。それでも老人が湖のほとりに腰を下ろし、ずっと湖面を見つめているのは見えていた。
 そんなところで声をかけられたのだ。ここまで人が登ってきたなんて、気づきもしなかった。しかも見た事の無い人だ。村人じゃない。
 青年の長く黒いコートの下からは、空軍の制服である濃紺のスラックスがのびている。
「おじさん、飛行機に乗ってるの?」
「そうだよ。訓練で、よくここを飛ぶんだ。リルハ村の出身だから、懐かしくてね。今日は一日休みをもらえたから来てみたんだ」
 父よりは若く、でも少年よりはずっと年上のその青年は、少年に優しく微笑んだ。
「君が、あの人と仲良くしてくれてるんだってね」
「あの人?」
 そう問いかけながらも、青年の瞳が真っ直ぐに湖のほとりに向けられていることで、すぐにわかった。その目つきは、まさに老人とうりふたつだったのだから。
「どうしてあの人なんて呼ぶの? お父さんなんでしょう?」
「昔はね。でも、俺は縁を切られてしまったから。もう子供とは思わないから、父と呼ぶなって言われた」
「でも……」
「ずっと心配してたんだ。一人で大丈夫かなって」
「だったら、会ってあげなよ。おじいさん、きっと、待ってる……」
 自身が無くて語尾が小さくなる少年の言葉に、青年は老人と同じように少年の頭をくしゃくしゃと撫でて応じた。
「優しいね、君は。わかってるよ、あの人がまだ俺のこと許してないって。きっと一生許してくれないと思う」
 少年は何も言えなかった。だって、老人があんなに怒っていることを知っているから。
「これをあの人に」
 差し出されたのは、一枚の写真。
 下半分は白いもくもくとした羊の毛の塊のようなものがずっと続いている。上半分には、何もない。
「これ、なに?」
「雲だよ。雲海っていうんだ。雲の、海。飛行機に乗ったカメラマンが撮ったんだ。どうしてもって言って、一枚もらってきた。昔あの人に、海を見せるって言ったから」
 少年は目を閉じた。どこまでも高く広く続く空に、白い雲の波。最果てでその両者が一線に合わさる、どこまでも遠く、遠く。光に満ちた、希望の世界。
「すごいや……」
「本当は、海の写真を持って帰りたかった。でも、海の写ってる写真は全部軍が持ってるからね」
「どうして?」
「明日の出撃で俺たちは、海を越えるから。作戦がばれちゃいけないから、偵察で撮った海の写真は持ってこれなかった。でも次に来るときは、必ず海の写真を持ってくるよ」
 海を越えるということが、少年にはわからなかった。海の向こうは外国で、海を越えてそちらに行くことが侵攻だなんて、田舎に住んでいる少年に理解できるはずも無い。
 それでも青年の悲しい微笑みに何か切羽詰った悲しみのようなものを感じて、少年はこのままじゃいけないと思った。
「会わなきゃ駄目だよ! 縁を切られたって、喧嘩してたって、会わなきゃ駄目だ!!」
 ――わしの息子は飛行機に殺されるんだ!
 そうだ、それは息子に怒りをぶつけているわけじゃない。心配して、息子を殺す飛行機を憎んでいて……。
 老人は何を見ていた?
 あの湖面をじっと見つめて、そこに見えるのは湖面に映る山々と、そして青い青い……。
 簡単なことだったのに、なんで気づかなかったんだ。
「おじいさんはおじさんに死んで欲しくないんだよ。おじさんが飛行機に乗って死んじゃうのが、怖いんだ! おじいさん、ずっと見てたんだ。湖に映るおじさんの飛行機。本当は見上げたいけど、自分が縁を切ったから見上げることが出来なくて、だからこっそり湖を見てたんだよ!」
 青年は微笑んで、腕時計を一瞥した。そのしぐさに、少年は自分と青年との温度差を感じた。胸が、苦しい。
「ありがとう。君がそんなにあの人のことを気にかけてくれているってわかって、嬉しいよ。これからもあの人を頼む。もう時間だから、行かなくちゃ」
「卑怯者! 会えよ! 逃げるなよ!!」
 浮かぶ言葉を片っ端から投げつけるのに、背を向けた青年が足を止めることはない。やがて青年の姿がなくなって、少年は泣き崩れた。

 夜の帳が下りる頃、少年は泣き腫らした目で老人の家を訪ねた。
 入りなさいといっても首を振り、ただ一枚の写真を突きつける。その写真を見て、老人はすぐに悟った。
「あいつが戻ってきたんだな」
「これ、雲の海だって。飛行機から撮った写真、おじいさんにって。次に来たときは海の写真持って来るって……。会ってって言ったのに、時間が無いって……」
 老人はまだ涙に濡れた声で話す少年の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「坊主、ありがとうな。あいつ、次は海の写真を持ってくるって、そう言ったんだろ。だったら、大丈夫だ。昔から誰に似たのか頑固でな、言ったことは絶対やる。大丈夫だよ、あいつは」
 少年は優しい老人の笑顔が辛くなって、夜の闇の中を走って家に帰った。
 一人残された老人は、家の中に入る。たった今もらった写真を、壁に留め、一歩下がってその写真を見た。
 どこまでも広がる雲の海、そして何も無い虚無の空。
 なんて寂しい風景だろう。山も無い、草もない。湖もない。ただこんな白と青だけの世界を、息子はどこまでも飛んでいく。海を目指して、遠く、遠く。
 目を明けて振り返れば、そこには妻がいた。今日は、少し微笑んでいる。
「悪かったな、あいつを追い出して。おまえいつも怒ってただろ、わしのこと」
 妻は、笑った。
 ――馬鹿ね。あの子はしっかりしてるわよ。追い出されたくらいで死にはしないわ。私はね、怒ってたんじゃないの。心配してたのよ、あなたを。だって一人じゃ何もできなかったでしょ。なのにあの子まで出て行っちゃって。ずっと心配だったの。
「わしだって、一人生活するくらいできるさ」
 強がって言ってみれば、妻は小さく頭を振った。
 ――どうだか。でも、あんな可愛い男の子が心配してくれるなら、大丈夫そうね。村の人たちもよく面倒を見てくれるし。もう安心だわ。
「そうだな」
 ――もう。少しはその頑固なところを直して、素直になりなさいよ。
「フンッ」
 妻の亡霊は、笑いながら消えていった。

 翌日、湖畔で老人の姿を見つけた少年は近づくかどうか戸惑った。だが先に気づいた老人が微笑みながら手を上げたので、少年はいつもどおり彼の横に腰を下ろす。
「昨日はありがとうな、坊主」
「僕は何も出来なかった……」
「写真を届けてくれたさ。あいつの言葉もな」
 優しい老人の言葉に、少年は言おうかどうしようか迷っていたことを、思い切って言ってみることにした。
「おじいさん、息子さんのこと……」
 だが言葉を言い終えるよりも先に、遠くの空から響いてきたその音を少年は目で探す。やがて後ろの山から飛行機が姿を現した。濃紺の、五機の編隊だ。
 老人は、湖面を見つめたまま。
 少年は立ち上がっていた。あの五機の中に、青年がいると確信したから。少年は大きく手を振る。
 五機の編隊は真っ直ぐ、迷いも無いように飛んでいく。はずだった。だが一機だけ、編隊から外れた機体があった。
 老人がおもむろに立ち上がり、空を見上げる。そして、ゆっくりと、だがしっかりした動作でその飛行機に向かって敬礼した。
 飛行機はまるで返礼するかのようにゆっくりと弧を描き、そしてすぐに編隊に戻って行った。
 二人は編隊が山の向こうに見えなくなるまでずっと、そのエンジン音やプロペラ音が聞こえなくなるまでずっと、空を見上げていた。
 もう少年に言うことは何も無かった。

inserted by FC2 system