E-11  胡蝶の夢

 狭くて小さな空だけが世界の総てだった。
 ――十七を迎えるあの日までは。


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「団長殿。また来てますよー」
「……またか」
 執務室の扉が開くと同時にされたその報告に、執務机で山と積まれている書類と睨めっこをしていた男は心底疲れたように、そして呆れたように呟いた。
 ――ここは世界で最も北に坐す、とある小さな雪国。名をティルハという。
 雪国とはいっても一年中雪が降っているというわけではなく、ただ冬が他の国よりも、他の季節よりも長いだけである。だがそれがこの国の特色であり、同時に政治や商業や食物など多くに影響を及ぼしている。当然、いい影響もあれば悪い影響もある。
 そしてティルハには他の国にはない制度がある。
 国を治めるのは王、或いは王に近しい貴族である。ティルハも例外ではなく、代々国の名を持つ王族が玉座に就き国を治め続けている。但し、ティルハに黎明期の頃から住まう五つの家系――五大貴族の協力を得ながら。
 そもそもティルハの国そのものが成立したのは、後《のち》にティルハと名の持つ王族となる男とそれに連なる五つの家系を築くことになる五人の存在あってのことである。もしこの六人がいなければ、今のティルハはなかったであろうと歴史の初めに常に語り継がれるほどに。
 ティルハを立ち上げティルハで歴史を紡ぎ刻んで来たが故に、ティルハと国の名を持つ王族と五大貴族の間にある縁は切っても切れない――切ってはならない縁があるのである。
 そのため、ティルハの政治は王族だけでなく、五大貴族も加わっている。
 王族と五大貴族が手を組み協力することによってティルハの調和と均衡は重んじられ、同時に保たれてきた。
 しかし、互いに協力し合わなければ到底保てないその危うい均衡が、切ってはならないはずの縁が、ここ十数年で崩壊しようとしていた。
 その原因は、五大貴族の一つであるエルドモンド家にある。
 エルドモンド家の現代当主であるミクバ・エルドモンドが、十数年前から貴族がしてはならないこと――いや、もっと正確に言うならば、誰もが思わず目を背けたくなるような所業を繰り返しているのである。そしてそれらの所業の中には、ティルハの政治への不参加やエルドモンドの領地の不治も含まれている。
 但し、当然と言うべきだろうか、ミクバ・エルドモンドの褒められざる所業は最初から明らかになっていたわけではない。少しずつ時間が経るごとに目立つようになり、漸くミクバ・エルドモンドの歓迎されざる所業が誰もが知るところとなると、同時にエルドモンド家の治める領地に住む民からの不満や不安を訴える声も出てくるようになったのである。
 そして更に、ここ数年はエルドモンド家の治める領地を離れる民も出てきている。民が見限ってしまう――見離してしまうほどに、ミクバ・エルドモンドの所業はいよいよ黙って見過ごして済ますものではなくなってきている証である。
 また来ているという報告も、エルドモンド家の治める領地から出てきた民がここ――ティルハの中央に坐す王宮に、住む場所が決まるまで身を寄せに来たという意味のものである。
 なぜ王宮で起きたこと――エルドモンド家が治める領地を離れた民が王宮へやってきたこと――がこの騎士団に知れ渡るのか。それは騎士団が王宮が擁する形で王宮の中にあるためである。王宮で起きたことがすぐに知れ渡るのは自然な成り行きと言えよう。
 更に深く深く嘆息した上司に、報告した男は小さく肩を竦めて見せた。
「まあ、予想していたことですからおかしくはないでしょう。この分だと、エルドモンド家が堕ちるのも時間の問題ですか。もっとも、その前にマヤが廃れそうですが」
 マヤとはエルドモンド家が治める領地の名である。
「……あっさり言うな。全く……これで二百十三件目か」
 部下のその言葉に上司が窘め、最後の方は呟くように言った。――マヤを離れた民が王宮へ駆け込んだ件数である。
 ティルハでは領地に民が何人済んでいるかを毎年調べているが、今年の調査ではマヤに住む民は二千人弱であった。去年の調査結果より千人下回っている。更に今年に入って二百十三件目になる、お馴染みとなった報告。今年に入ってまだ二ヶ月も経っていないというのに、である。
 ミクバ・エルドモンドがなす所業に対して何らかの対策を打たねばならないことはもはや火を見るより明らかである。
 だが。
「でも、変ですよねぇ」
 ぽつりと漏らした部下のその呟きに、上司は天井に注いでいた視線を部下へとやった。見れば、部下は腑に落ちないといった表情で首を捻っている。
「何がだ」
「ミクバ・エルドモンドのことはもう放ってはおけないはずでしょう? それなのに、ここに来てもまだ何も仰らないし何もなさらないでしょう、陛下は」
 上司はぴくりと片眉を吊り上げた。
「気付いていたか」
「そりゃあ気付きますって。気付かない方がおかしいですよ。ミクバ・エルドモンドのやっていることは誰の目にも明らかなのに、真っ先に立つべきはずの方がこんなになってもうんともすんとも言わないなんて、おかしいを通り越して不気味にすら思えます」
「……失礼になりかねない言いようだな」
「御前では気をつけてますから問題はありませんよ。ともかく、おかしいことには変わりありません」
 部下がそう言い終えたその時を見計らったかのように執務室の扉を叩く者があった。
「誰だ」
「王の使いにございます」
 上司はすぐさま部下に目配せして扉を開けるよう促し、そうして入ってきた王の使いである男は会釈してから火急の用ですので挨拶は省かせて頂きますと単刀直入に切り出した。
「ティルフ騎士団団長、バルト・クラウド様。今すぐ来るようにと、王のお達しです」


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 じゃらりと、鎖が鳴る。
 物心ついた頃から、いや、生まれた時からあるそれは両手足首をそれぞれ拘束しており、彼女が動く度に重い音を響かせる。その音は同時に彼女の自由を縛ることを教えており、その音を聞く者がいたならば即座に憐憫の情を誘われたであろう。
 しかし、ここには彼女以外、誰もいない。
 一日に三回食事を運ぶため、そして彼女の両手足首の大きさに合わせて新しい鎖へと換えるためにやってくる者がいるだけで、彼らとて用事が終わればすぐに姿を消す。長居をしようとする者は一人もいない。
 ここではそれが日常であった。
 鎖に繋がれた少女は、自分が動いたことで重い音を鳴らした鎖を不思議そうにちらりと見下ろしたが、すぐに興味をなくしたようにゆるりと顔を上げてすぐ傍にある壁へと寄りかかった。そうしてから、細長く、四角く切り取られた、自身が寄りかかった壁にある窓へと視線を向けた。まるで、そこしか見るものがないというように。
 彼女がいるのは牢と言うに相応しい狭い部屋であった。
 そしてその部屋には家具も物も何もなく、ただ窓があるだけであった。
 彼女の世界は生まれた時からずっとこの部屋だけであり、そしてその部屋にある唯一の窓から見えるものが彼女の世界のすべてであった。――それ以上に無限に広がる世界など、彼女には知りようのないことであった。


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 十九という若さにしてティルフ騎士団団長に就いた、ティルハの五大貴族のうち一つ、クラウド家の当主でもあるバルト・クラウドは目的地を前にしてふうと息を吐いた。
 バルトとその部下であるユリシス・スティン、そして彼ら率いる数十人の騎士は今、ミクバ・エルドモンドのいる場所――エルドモンド家の屋敷の前にいる。ティルハの中央にある、王宮が坐す街――イハからここ――マヤまでは馬、或いは馬車で数時間かかる。数時間馬を駆けただけで音を上げるようでは到底騎士は務まらないためか、彼らの中には一人も疲れた様子のある者はない。もっとも、誰もが緊迫したような表情を浮かべているのはそれだけが理由ではない。
 ――あの後、王の使いがもたらした用事を果たそうと王宮へ向かったバルトを待っていたのは、思いも寄らぬことであった。いや、薄々気付いていたから思いもよらぬことと言うのは正しくないかもしれないが、それでもバルトにとって意外なことであったことには違いない。
 謁見室へ入ったバルトに、王は厳しく引き締めた顔を向けておもむろに言い渡したのである。
 ミクバ・エルドモンドから全ての権限を剥奪した上で捕らえ、そしてかの家族を含むマヤの全ての民を保護せよ。
 それはマヤの全ての民の解放を意味していたが、同時にエルドモンド家の終わりを意味してもいた。
 ティルハから五大貴族の一つが消えるということは即ち、今まで保たれて来た調和・均衡に少なからず影響が及ぶことでもある。王族と五大貴族によって保たれて来たそれらが、エルドモンド家の没落によって少しでも崩壊してしまわないか――そういった不安が、騎士たちの緊迫した表情にありありと表れている。
 バルトやユリシスも同様であったが、王の命とあらば遂行するのみと割り切っている分、騎士たちよりはるかに落ち着いているようであった。
 再度息を一つついて頭をくしゃりとかくと、バルトは空高く手を挙げた。
「ミクバ・エルドモンドを捕らえろ!」
 声を張り上げて放たれたその命に、騎士たちは門を開いて屋敷の中へと突入した。
 バルトとユリシスも遅れをとるまいと、すぐに駆け出した。


 屋敷の主であるミクバ・エルドモンドはすぐに見つかった。
 彼は最上階である三階にある自室で一人掛けのソファに坐り込んでおり、悠々と酒を味わっているところであった。流石と言うべきか、貴族ならではと言うべきか、自分を捕らえに数十人もの騎士が来たというのに欠片ほども動揺する素振りを見せずに悠然と構えているその様子に、部下に案内されてその部屋へ足を踏み入れたバルトは意外そうに片眉を器用に吊り上げた。実際、驚いたし意外にも思ったのである。
 大小や程度に関係なく、自分の身に危険が降りかかれば、多少なりとも動揺するのが普通の反応である。であるのに、この男の動じなさと言ったらどうであろうか。
 バルトは僅かに眉を寄せ、緩慢に酒を飲み干すミクバを見遣った。
「……抵抗しないのか?」
 怪訝そうに放たれたその問いかけに、ミクバは酒に濡れた髭をしごこうともせずに自嘲気味に笑んだ。
「抵抗をして、逃げて何になる」
「諦めてるのか」
 それには答えずに、ミクバは笑みを深め、手に持っていた杯を近くにある卓の上に置くと、ソファの肘掛を掴んで億劫そうに立ち上がった。それを見た何人かの騎士が警戒心を剥き出しにしてそれぞれ構えたが、それすらミクバは気に留めていないのか、それとも眼中にないのか、やはり動揺する素振りは少しも見せない。寧ろ嘲笑うように喉をくつりと鳴らした。
 酔っているのか、ミクバはどこか頼りない足取りで部屋の一面丸ごとに嵌め込まれた窓の方へ近付くと、それまでバルトたちに向けていた背を窓の方へと向けてバルトたちに向き直った。
「バルト・クラウド、だったか」
 突然の指摘に少しばかり戸惑ったが、それをおくびには出さずにバルトは頷いて肯定した。
「ティルフ騎士団団長、バルト・クラウド。王の命により、兄《けい》を捕らえに来た。――ミクバ・エルドモンド、我らがなぜ兄を捕らえにきたのかはもう察しがついているだろう。ならば大人しく捕らえられてはくれまいか」
「その必要はない」
 肯定とも否定ともつかぬその答えに、バルトはす、と目を細めた。
「どういう」
「なぁバルト・クラウドよ、なぜ人の心は移ろうのだろうな」
 何の脈絡もないことを言い出したミクバに、更に問い詰めようとしたバルトは虚を衝かれて黙り込んだ。
 くつくつと、ミクバは自嘲のような、嘲るような、そんな笑みを浮かべながら続ける。
「なぜ心は目に見えぬのだろうな。なぜ心は触《さわ》れるものでないのだろうな。なぁバルト・クラウドよ、貴殿ならどのようにして留め置く? 私は――私は、できることなら、どんな手段を使ってでも繋ぎ止めておきたかったのだ」
 狂気めいた光がミクバの瞳に宿り、それがぎらぎらと不気味に煌めき、騎士たちを戦慄させた。ともすれば自分もわけの分からぬ恐怖感に負けそうになりながらも何とか腹に力を入れて耐え、バルトはミクバを凝視した。
「だが、できなかった。できなかったのだ。五大貴族に連なる身分、権限、名誉、財産――どんなに恵まれていようと、叶わぬことがある。これ以上の嘆かわしいことがあろうか!」
 叫ぶようにそう言うと、ミクバは狂気に満ちた笑いをあげた。笑いながら、ゆっくりと身体を後ろへと傾けていく。
 バルトが気付いて駆け寄ろうとした時にはもう遅かった。
 嘗ては名誉や名声などを恣《ほしいまま》にしていたはずが、いつの間にか狂人と変わり果てていたミクバ・エルドモンドは、三階の自室から身を投げ出し、命を落とした。
 ――呆気ない終わりであった。


 ミクバ・エルドモンドを捕らえに来たはずが、本人が死んだのではどうしようもない。バルトは仕方なく、もう一つの命を遂行しにかかった。ミクバ・エルドモンドを除く、エルドモンド家の者を含むマヤの全ての民の保護である。
 しかしエルドモンド家にはいるはずの従者や使用人は片手で数えるほどしかおらず、更にはミクバ・エルドモンドに嫁いだはずの女性や彼ら二人の子供の姿は見当たらなかった。ミクバ・エルドモンドは二十余年前に妻を一人迎えており、彼女との間に一人か二人は子供をもうけているはずなのだが、嘗ては多数いたはずの従者・使用人にすら見捨てられ半ば廃墟と化している屋敷の中にはそういった気配は見られなかった。
 どういうことだと訝っていると、部下の一人が屋根裏に通じる階段及び屋根裏に一つの部屋を見つけたと報告して来た。
 一体何があるのかと、案内する部下についていきながら幅の狭い階段を慎重に上ると、階段と同様に幅の狭い扉があり、その扉は今は開かれていた。最後の階段から足を上げてその部屋へと入ると、戸惑ったような困惑したような表情を浮かべているユリシスがいた。どうしたのだろうと、ユリシスの視線を辿ってそこにあるものを認めたバルトは目を見開いた。
 細長く切り取られた窓があるだけの、牢と言うに相応しい部屋にいたのは、両手足首を鎖に繋がれた、まだ成人にも満たない少女であった。着ているものは質素な白い着物のみで、そこから覗く手や足は悲しいほどに細い。
 だがそれよりも目を惹き付けられたのは、少女の、人形のような表情であった。このような年頃の少女ならば感情豊かにころころと表情を変えるものであるのに、少女の顔には人形のように何の表情もなかったのである。
 ミクバの娘かと思ったが、それにしてはミクバの面影は全くない。
 ミクバはこの娘を知っているのだろうか。知っていながら、この娘を今までずっとここに閉じ込めていたのだろうか――
 にわかには信じ難いことを目の当たりにして呆然と立ち尽くすバルトに、ふいに少女がゆるりと顔を向けた。その顔には、瞳には、やはり何の感情もない。無機質そのものである。
「……だれ?」


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 日当たりのよい部屋で、三人掛けのソファの肘掛を枕にしてまどろんでいたティアレは彼女の髪を梳く優しい手を感じてゆるゆると閉じていた瞼を開けた。恩人でもあり彼女の生涯の伴侶でもあるバルトの優しい顔が視界に入って、ティアレは無意識に微笑んだ。
「おかえりなさい、バルトさま」
 まだ幼さの残るその言葉遣いに、けれどもバルトは優しい顔のままただいまと返した。
 ミクバ・エルドモンドの死――エルドモンド家の没落から三年が経っていた。
 エルドモンド家の屋敷の屋根裏部屋に監禁されていた少女は救出されたが、それまで誰も彼女に愛情を注ぐ者がなかったために彼女は中身は赤ん坊のままであった。そのため、彼女には何もかもを一から教えなければならなかった。
 だがバルトが彼女を引き取り、彼と彼の友人・知人や家族が彼女に惜しみなく愛情を注ぎ、何事も辛抱強く教えた御陰で彼女は何の支障もなく生活を送れるようになった。
 ティアレという名を与えられてバルトの伴侶となった彼女は、ゆっくりと身体を起こしてバルトを見上げた。
「夢を、見ていました」
「どんな?」
「狭い空が、無限に広がってゆく、夢です。世界があんなに広いなんて、知りませんでした」
 それは喜ばしくもあり哀しい告白でもあった。確かに、彼女はほんの三年前までは狭く切り取られた空しか知らなかったのだから。
 ほんの一瞬、バルトの瞳に哀しみが過ぎったが、すぐにそれを消して手を伸ばし、愛しい存在をその腕の中に収めた。
 ――大丈夫。世界はまだ、広がっていくから。

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