A-05 心残り

 私はその部屋を見下ろしていた。
 ずらりと並んだ花。真ん中に置かれた白い棺。大きな写真の中からは鏡で見慣れた笑顔がこちらを向いている。
 お坊さんがやってきて読経が始まった。最前列に座る両親は手で顔を覆っており、隣に座る兄夫婦も顔を上げようとしない。
 ゆっくりと会場を見回す。近所に住む中学の頃の友達、高校の頃の友達。全国に散ったはずの大学の頃の友達も来てくれている。
 視線を転ずれば、ハンカチで目元を押さえる会社の同僚、神妙な顔をした直属の上司の姿もある。仕事が忙しい時期なのに来てくれているのだ。
 すすり泣く声があちこちから聞こえる。それを見下ろしながら首を傾げた。
 私はどうして自分の葬式を見ているのだろう、と。



 急ブレーキの音。「危ない!」と叫んだ誰かの声。
 そして、体に走った衝撃。
 葬儀の前、親戚連中が話していたところによると、歩道を歩いていた私の背中に居眠り運転の車が突っ込んできたようだ。世も末である。
 読経が続く。吉川美園という私の名前は、もっと長く漢字ばかりの名前になって皆から拝まれている。人は死んだら神様になるという。けれど、私はまだここにいる。死ぬのは初めてなので勝手がよくわからないが、こういうものなのだろうか。
「違うよ」
 答えは背中の向こうから聞こえた。
 振り返る。私と同じ目線で高校生が浮かんでいた。髪を逆立て学ランを羽織り、ふてぶてしそうにこちらを睨んでいる。
「……誰?」
 彼は明らかに不良クンだった。けれど、私は臆せず聞き返した。不良に絡まれて半殺しにされた人を知っているが、今の私にそんな心配は無用だからである。
「俺は案内人だよ」
「案内人?」
「あんたみたいに強い『心残り』があって、現世をさ迷ってる魂を、正しい道に送り届けるのが仕事。ほら、漫画とか映画とかでもよくあんだろ」
「漫画もあまり読まないし、映画もあまり見ないから、そんな作品が『よく』あるのかは知らないけれど……」
 つまり。彼の言葉で重要なポイントは一つ。
「私、さ迷ってるの?」
 コクリと不良クンは頷いた。
「あんた何か『心残り』があるんだろ。それが未練になってんだよ」
 そう言われても。身に覚えのない私は当惑する。
「『心残り』って何が?」
「それはこっちの台詞」
 やる気なさそうに彼はそう返した。
「困るんだよ、あんたみたいなのがいると。もういいから、とっとと成仏してくれない? ほら、あの坊さんだってあんなに頑張ってるんだし」
「そんなこと言われても……こっちだって困ってるのよ」
 不良クンはわざとらしくため息をついた。
「ま、『心残り』を解消すれば成仏できるし。案内人として、それは手伝うから」
「……ありがと」
「で、あんたの『心残り』は?」
 私はもう一度考えて首を横に振る。
「わからない。思い当たるものがないわ」
「あんた、もしかして事故?」
 頷くと舌打ちをされた。
「こりゃメンドクセーパターンかも」
「面倒くさいって、何が?」
「事故のショックで生前の記憶の一部が吹っ飛んでるってパターンが稀にある」
「じゃあ、私が『心残り』を思い出せないのは、事故で記憶が飛んだからってこと?」
「その可能性はある」
 はあ、とため息をついて不良クンは辺りを見回した。ある一点に目を留め、急降下する。何をするのだろうと見下ろしていると、下りて来いと手招きされた。
 彼の真似をして下降し隣に立つ。床を踏んでいるはずなのにその感覚はなかった。
「これ、開けろ」
 不良クンが指したのは箱である。そこには私の身の回りの品が入っており、一部はこの後、棺に一緒に入れられることになっている。
 開けろ。そう言われても困る。物に触れることができないし、第一、私の姿は生きている人間には見えないのだ。こんなところで箱が勝手に開いたらパニックになるだろう。
 はあ。またため息をついて不良クンは頭を掻いた。
「もういいや」
 ズボっと、箱の中に手を突っ込み中から次々と取り出していく。携帯電話、iPod、家の鍵……。私は慌てて周りを見るが、こちらに気づいた人間は誰もいないようだ。
「見えてない見えてない。っていうか、生きてる人間のことなんて、気にしてる場合じゃないだろ」
 はい、と最後に取り出したものを手渡された。会社のロゴが入った手帳だ。意外に使いやすいので、ずっと愛用している。
「勝手に取ったら失礼かと思ったんだけど、ま、いいだろ?」
「それは、いいけど……何で掴めるの?」
「物を掴んだんじゃなくて、この手帳の魂的なものを……そんなことはどうでもいいんだよ。あんたの『心残り』、手帳に書いてないか探せ」
「手帳に……?」
 私はパラパラとページをめくる。書き込まれているのは過去の予定とこれからの予定。事務的な普通の手帳だ。『心残り』なんて書いていない。
「そうじゃなくて、これからの予定を見るんだよ」
「予定?」
「例えば、『二週間後に楽しみにしてたライブがある』とか、『明日、初デート』とか」
「なるほど、そういう『心残り』ね」
 しかし。私の記憶にある通り、その手帳にはこれといった予定は書き込まれていなかった。強いて言うなら、今週末の飲み会と来週日曜のショッピングである。前者は、中途入社者の歓迎会、後者は時間が合えば行こうかと友達と話していたものだ。両方ともキャンセルになっても困らない。
 デートの予定はない。彼氏とは一ヶ月半前に別れたところで、今は好きな人もいない。別れたのは向こうの浮気が原因だから未練は全くない。
 再来週の月曜日に会議の文字を見つける。仕事関係の予定。しかし、これも『心残り』となるようなものはない。月曜日の会議だって、資料をコピーするよう言われたから忘れないよう予定に書き込んだだけだ。就職して二年目だから、会社の運営に支障をきたすような仕事はまだ任されていない。今やっている仕事は、私がいなければ別の誰かがやれるような仕事なのだ。
「ハズレか?」
 考え込む私に不良クンはそう言った。頷くと渋い顔をされた。
「じゃ、考え方変えるぞ」
「うん」
「予定じゃないってことは、『今わの際』に何かを強く思ったって可能性が高い。例えば……」
 不良クンはちらりと右側を見た。
「家族のこととか」
 私も彼の視線を追って最前列に座る両親を見る。
「……親不孝をしたとは、思うけど」
 両親はまだ元気だ。そして、兄夫婦と同居もしてるから、老後の心配はない。そういう意味では、気がかりはない。
「じゃあ、『天ぷら』のパターンか」
「『天ぷら』?」
「昔、こんなのがいた。そいつの『心残り』は『天ぷらを食べておけばよかった』」
 肩をすくめて不良クンは続ける。
「そいつもあんたみたいに若い女だ。カロリーを気にして好物の天ぷらを食べないようにしてたんだと。で、『こんなところで死ぬんだったら天ぷらを食べておけばよかった』」
「それが『心残り』で、さ迷ったの?」
「そう。今わの際に考えることなんて、案外しょうもないことなんだぜ」
 言われて私は考える。別にダイエットもしていないし、これといった好物もないから『何かを食べたい』と願ったわけではないだろう。
 今わの際に考えたこと……駄目だ、思い出せない。
「事故ってさ、どういう状況だったの?」
 助け舟を出すように、不良クンが言った。聞かれてもよく覚えていないのだから詳しいことはわからない。ただ、私は親戚たちが喋っていた話と自分の生活習慣を総合して伝えた。事故が会社への通勤途中に起こったこと。いつもと同じく始業に間に合う時間だったから急いでいたわけでもないこと。車の運転手が居眠り運転していたらしいことなどだ。
「その時の様子をもっと詳しく思い出してみるか。例えば、天気は?」
 私は頭に浮かんだ言葉をそのまま伝えた。
「ピッタリだった」
「は?」
「あれ? 何がピッタリだったんだろ」
「いや、こっちに聞かれても」
 頬をボリボリかいて不良クンは視線を落とす。目に入ったのか、置いてあった家の鍵を箱の中へ戻した。
「確か、雨が降ってた……? ううん、まだ降ってなかったかな。バックの中に入ってた折り畳みを確認したような気がする」
「ふうん。ってことは、傘がないって焦ってたわけでもなさそうだな」
 不良クンは携帯電話とiPodを両手に持ち首を傾げる。
「っていうか、こんなの棺おけの中に入れていいわけ?」
「さあ……そこにあるのは事故に遭ったとき私が持ってたものだと思うけど……」
 彼は何かに気づいたようにiPodを持ち上げ、まじまじと眺めた。
「あんたさ、音楽聴きながら歩く人?」
「え?」
「事故の時、これ聞いてた? イヤホンが片方欠けてる」
 iPodを目で示され、頷く。私はいつも通勤途中に片耳だけイヤホンをつけ音楽を聴いている。
「何聞いてたの?」
「ええっと……流行ってる曲とか、流行った曲とか、いろいろ入ってるのをシャッフルして聞いてるから」
「覚えてない、か」
 頷く。不良クンはiPodを箱に戻し、ため息をついた。
「話戻すか。あんたは会社に向かって歩いてた。音楽を聴きながら。周りに誰か人がいた?」
「危ないって声が聞こえたような気がしたから、誰かいたんだと思う」
「じゃあ、周りには人がいた。歩いてたあんたに車がぶつかった。危ないって叫んだ奴がいた。で、それから?」
「それから……」
 私は懸命に思い出す。体に衝撃が走った。それから……。それから……。
 会場がざわつき、私は顔を上げた。葬儀が終わったようだ。真ん中に移動した棺の中に次々と花が入れられていく。
「この度は、どうも……」
 ざわつく会場の中から私の耳は一人の人間の声を拾い上げた。聞いたことがある。この声は。
「あの人」
 スーツ姿の人の良さそうな中年男性。姿に見覚えはない。けれど、あの声を覚えている。
 大丈夫ですか! あの人はそう叫んだ。救急車を呼びます、とも。
「誰だ?」
 不良クンは私の視線を追って言う。
 答えは両親が代わりに言ってくれた。もちろん不良クンに対して言ったんじゃない。親戚の叔母さんに説明をしたのだ。
「この方は、美園の最期をみとってくれたんです」
 おい、と小さく不良クンが言った。私は頷いて息を呑む。
 叔母さんはハンカチで目元を押さえながら、私の最後の様子を聞きたがった。スーツの男性は神妙な面持ちで答える。
「わたしが呼びかけた時、美園さんの意識はまだあったようです。それで、口を開いて最後の言葉を……」
 私と不良クンは一瞬だけ顔を見合わせ、同時に視線を戻した。ゴクリ、と唾を飲み込む音が聞こえる。
「美園ちゃんは、何て?」
 スーツの男性は叔母さんの問いに答えた。
「『泣き出しそうな空ね』。美園さんはそう言って目を閉じました」



 火葬した煙が昇っていく、なんてそんな風流な景色は今の日本では見られない。現代的に骨だけになった私の体は、骨壷へと回収された。
 そんな光景を眼下に、私と不良クンは浮かんでいた。
「で、思い出したのか?」
「……ええ」
 最後に何を言ったのかを聞いたら、自然にその時のことを思い出した。何を考えていたのか、全て。
 私は空を見上げる。あの日と同じく、泣き出しそうな空。
「考えてもわからないはずよ。私には『心残り』なんて一つもなかった」
 目を開けた時、ああもう駄目だ、と思った。声がしたので、近くに人がいるとわかった。だから、最後に何かを言い残したかった。
「だけど駄目だった。その人に告げるべき言葉なんて何もなかったの」
 それに気づいて愕然とした。絶望もした。私には何もなかった。『天ぷら』の彼女のような、しょうもない『心残り』でさえも一つもなかったのだ。
 だから、目に映ったものを口にした。一面の曇り空。泣き出しそうな空。私のこれまでの人生は何だったの? これからの人生を私はどう生きるつもりだったの? そう自問しながら。
「未練のない人生への後悔。『心残りがないこと』があんたの『心残り』か」
 ポツリと呟いた案内人に私は頷いた。
 悪い人生ではなかったが、充実していたかと問われれば疑問が残る。道を踏み外しはしなかったが、ただそれだけだった。
「未練がないってのが悪いわけじゃねえよ」
 見てみろよ、と不良クンは眼下を顎で示した。家族、親戚、友達、同僚……。火葬が終わりゾロゾロと進んでいく彼らは目を腫らし、すすり泣く声も聞こえる。
「少なくともあの連中の人生にあんたは関わった。あんたがいたから変わったことだって、たくさんあったはずだ」
 私は不良クンの顔を見た。
「あんたの人生に意味はあったんだよ」
 ゆっくりと視線を落とし、私は彼らが乗り込んだバスが見えなくなるまで見送った。
 そして、振り返る。そうするのが正しいような気がして、案内人の彼に握手をするように手を差し出した。
「あんたが最後に聞いてた曲、当ててやろうか?」
「……音楽、わかるの?」
「いろいろ知ってなきゃ、この仕事は務まらないんだよ」
 にやりと笑って彼は言った。
「サザンのTSUNAMIだろ」
 ご名答。
 クスクスと自然に笑いがこぼれた。
「単純でしょ」
「いんや、粋な最後の言葉だと思うぜ」
 ありがとう、と私は言った。一つ頷いて、案内人は私の手を握った。
 ふわりとした浮遊感。暖かさに包まれ目を閉じる。
 そして、私の意識は霧散した。

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