A-08 二番目の男
私がその男と出会ったのは、出張先のホテルのバーのカウンターである。
長期に渡る出張で何となく人恋しくなっていたのだろう。私はカウンターの端の席に座っていた男に、何か自分に似たものを感じ取り、自然に隣の席を選んでいた。
「ここ、よろしいですか」
声をかけると、それまで隅に追いやられた猫のように丸く縮こまっていた背中がすっと伸び、怪訝そうな顔をした男が私を見上げた。
酔いが回っているのか、ほんのりと顔が赤い。
彼はじいっと私の顔を見つめると
「失礼ですが、どこかでお会いしたことがありましたか」
と尋ねた。
「いえ、初対面だと思いますが」
「それは失礼しました。どこかで見たことがあるような気がして」
男はもごもごと喋ると、私に座るように促した。私は小さなスツールに自分のでかい尻を乗せると、バーテンダーにウイスキーの水割りを注文した。
「こちらへは、ご旅行で?」
「いいえ、出張です。明日帰ります」
「私は友人の結婚式で。何分家が遠くて、日帰りでは無理でして」
「それは大変ですね。結婚式はこのホテルであったんですか?」
「いやそれは別の場所で。そこは高くて、さすがに泊まれませんよ」
そう言って、男はいかにも高級そうなホテルの名前を告げた。私も旅行サイトでその名を見たことがあるが、宿泊費は結構な値段だったことを覚えている。
「そんなところで式を挙げられるなんて、すごいですね」
「ええ、すごいんです」
にわかに男の表情が曇った。
「あいつは私と同じ大学の同じゼミ生だったんですよ。でも何をやらせてもあいつが一番で私が二番。入った会社もそう、結婚式を挙げたホテルもそう。やることなすこと全てがあいつの二番目なんだ」
「そ、そうなんですか」
「ええ、そうです。私はあいつの上に立ったことがないんだ」
「お二人はライバルだったんですか」
「まさか。私が勝手に意識しているだけです。あいつはただ私の前を走っているだけなんです。いや、私はいつだって誰かの背中を見ているばかりだった」
男の目が据わっている。これはまずい相手の隣を選んでしまったかと私は冷や汗をかいた。
ここは一つ、「明日は朝が早いので、今夜はこれで失礼します」と腰を浮かせるのが得策だろう。だが。
「聞いていただけますか」
男が私の手をつかむ。
「はい、ウイスキーの水割り」
その声に反応して思わずカウンターの中を見ると、バーテンターが気の毒そうな顔をして、肩をすくめた。
目の前に置かれたグラスを傾けて中身を一口流し込むと、私は観念して男の愚痴に付き合うことにした。
私の人生のケチのつき始めは中学の頃だったでしょうか。親父の転勤で引っ越すことになりまして。
手続きを終えて教室に入ると、担任の先生が私の名前を黒板に書きました。そうすると、クラスメイトたちが驚いたような顔をしてひそひそ話を始めるんです。こっちはただでさえ慣れない環境で緊張しているのにたまったものじゃありません。まぁ理由はすぐにわかりましたけど。
何と、私とまったく同じ名前の生徒が隣のクラスにいたんだそうです。
名前はオサナイ・ノブヒロ。
私と入れ違いに転校していったそうです。
おや、貴方もノブヒロとおっしゃるんですか。まぁオサナイもノブヒロも決して珍しい名前ではないですよね。私の場合は漢字の書き方こそ違えど、読み方は同じ「オサナイノブヒロ」だったんですよ。
そのせいか、ついたあだ名が「二号」。失礼しちゃいますよ。私はこの世にたった一人しかいないのに。
しかも、「一号」は私と比べるとずいぶんできのいい奴だったそうです。成績良し、運動神経良し、人望もあって後輩の面倒もよく見るとてもいい奴だったそうです。
ルックスですか? 残っていた写真を見せてもらった限りでは、まぁまぁでしたね。美形ってほどじゃない。
普通、転校していった奴なんて、あっという間に忘れ去られていくものじゃないですか。でも、皆は前の奴を決して忘れなかった。
理由は、私がいたからです。
字こそ違えど、同じオサナイノブヒロがそこにいたから。
先生も生徒も何かにつけて私と「一号」を比較しました。
ああ、考えすぎだって言いたいんでしょう。私だってそう思いますよ。
あいつらは軽い気持ちで言っていたんでしょうね。「前の奴はああだった、でもお前はこうだ」って。
私は聞き流そうとした。笑って軽く受け流そうとした。
でもその土地にいる間、一号の影は常に私に付きまとったんだ。勉強も運動も必死にがんばったのに、私は一号を超えることが出来なかったんだ。
いや、超えることだってたまにはあったんです。でも私は一号になれなかった。皆は一号のことを忘れてくれなかった。
高校はホント、地元じゃない遠いところに入りたかったですよ。私のことを誰も知らない場所に行きたかった。でも親が許してくれなくて、結局入ったのは地元の公立です。
中学の時に一緒だった奴と顔を合わせるのが嫌で、声をかけられてもつっけんどんな態度しかとらなかったから、周囲の評判は悪かったですよ。
二号と呼ばれないようにする、そのことだけが命題だったようなものです。暗い学校生活でした。
大学に入ってその土地を離れた時はほっとしましたよ。
誰も、私を知らない。
私という人間はここにしかいない。
うれしかったなぁ。
三年生になって、あいつ――今日結婚式を挙げた奴です――と一緒になるまでは、とても楽な気持ちでいられました。
そこから先はお察しのとおりです。
就職先まで一緒だったのは悲惨でしたね。
私は常にあいつの二番目。営業成績といい、昇進といい、何をやらせても私はあいつを超えることがない。
だからもう、いい加減悟ってしまいましたよ。私の人生は、誰かの背中を見続けるためにあるんだってね。
幸せかって?
ええ、幸せですよ。結婚もしたし、可愛い子供にも恵まれましたし、家も建てた。
でも私は常に誰かと比較されてばかりです。
給料の額とか、子供の通う学校のレベルとか、服装とか。くそっ、女房の奴め。俺だって十分稼いでいるのに、それじゃ満足できないのかっ?!
……失礼しました。つい大きな声を出してしまって。
私は悔しいんです。悔しくて仕方ないんです。私の存在は誰かの引き立て役でしかないのかと思うと、自分自身が空っぽになった気がしてならないんです。
私だって、たまには一番になってみたい。
誰かの背中を見つめ続けるんじゃなくて、肩で風を切って誰もいないところを突っ走ってみたいんだ。
誰にも文句を言わせない。
誰かに「お前は二番目だ」なんて後ろ指さされない。
そんな人生を送ってみたい、そう願うのはわがままですかね?
「わがままなんかじゃあ、ありませんよ」
私は目を真っ赤に泣き腫らした男にハンカチを差し出して、そう言った。
男は、興奮のあまり涙が止まらなくなった目にハンカチを軽く押し当てると、「すみません」と鼻声で言った。
「男なら誰だって一番になりたい。いや、誰だって唯一無二の存在になりたいと願うことがあるんじゃないですか? 私だって、現にずーっと誰かと比較され続ける人生ですよ」
「あなたもそうだったんですか?」
「はい。私には兄がいましてね。小さい頃からずっと兄を見習え、兄と同じことがどうしてお前にはできないんだと言われっぱなしでしたよ」
「それはお辛かったでしょう」
「はい。しかもそういう人間には悪気と言うものはまったくないんですから、たちが悪いですよ。逆に、発破をかけてやってるんだと思う有様で」
「それは、また……」
男は拍子抜けしたように私を見ている。
出会ったときに彼に感じたもの、それは私も彼も「二番目の男」であるという共通点だったのかもしれない。
「私もずいぶん悩んだものです。私は兄を超えることができないのか。いや、生まれたときからそうなんだ。私が二番目に生まれたのは一生動かせない事実だから、そのことにこだわり続けてもしょうがないんですよ。後はもう開き直るだけでした。逆に、その競争意識がなければ今の自分はなかったんだと、そう思うことにしましたよ」
「あなたは強い人ですね。私もそう思おうとしたんですが……無理でした」
「いえ、大丈夫ですよ。何かの拍子に吹っ切れるものです。信じてください。大丈夫なんですから」
「いやしかし」
「比べてるのは世間じゃない。自分なんです。世間の人たちは、私が思うほど自分を過小評価していないんです。気にし続けることなんてないんです」
私はいつの間にか身を乗り出して男に顔を近づけていた。
「割り切ってしまいましょうよ。自分は自分、他人は他人です。二番目だなんて、そんな呪縛は断ち切りましょう」
「しかし」
「あなたは立派な方だ。きちんとした身なりをしておられるし、家庭もしっかり守っておられる。誰かに恥じる必要なんてないはずだ。このまま自分は二番目だと思い込んだままの人生だなんて、わびしくありませんか」
「……そうですね」
男は空になりかけたグラスを軽く揺らした。中で、溶けかかった氷がグラスと触れ合ってカチンと音を立てる。
「自分は自分、なんですよね」
すでにだいぶ薄くなった中身を飲み干すと、男は半ばすっきりしたような顔でこう言った。
「私は誰かにそう言って欲しかったんだ」
その後、我々は和やかに話を続けた。男は終始穏やかで、激昂して声を荒げることもなかった。
二人で、景気はどうだとか最近の若い者はどうだといった他愛もない四方山話に花を咲かせた。
夜も更けたので我々は勘定を済ませてお開きにすることにした。
男は照れくさそうに頬をかくと、自分が二人分払うと言って聞かなかった。
「見ず知らずの方にみっともないところをお見せしてしまって、本当に恥ずかしい。いや、大変失礼いたしました」
「そんな、どうぞお気になさらずに」
「だからここは私に払わせてください」
「そんなつもりで声をかけたんじゃないですよ」
「いや、私もあんな愚痴をお聞かせするつもりはなかったんです。さぞや驚かれたでしょう。ですからここは迷惑料ということで」
私は本当に自分の分は自分で払うつもりでいたのだが、男の一生懸命さについに折れた。 男は支払いを終えた頃にはだいぶ酔いが覚めてきたのか、初めて顔をあわせた時のようにまじまじと私の顔を見つめた。
「失礼ですが、私たち、本当に初対面ですよね」
「そうですよ。私はあなたにお会いするのは初めてです」
「そうか。……だったら気のせいということか。不思議だなぁ、あなたには初めて会った気がしないんだ。なんだかとても懐かしい気持ちがするんです」
「そうですか」
私は相槌だけを打った。私は昔に比べるとだいぶ太った。写真を横に並べれば、それは明らかだ。だから、もし私の子供の頃を知る人間が今の私を見たら、すぐには気づかないだろうという自信がある。
ちょっとしたハプニングもあったが、今夜は楽しいひと時を過ごせた。だから余計なトラブルが起きないうちに早く退散したかったのだ。
「今日はとても楽しかったです。ではまたいつか、お会いする機会があれば」
「そうですね。またいつか」
我々はどちらからともなく手を握り合った。
それ以上のことはしない。お互いの連絡先を尋ねることも。それがお互いのためだ。
「では、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
そうして我々は別れた。
私は彼に黙っていたことがある。
それは私の旧姓がオサナイであることだ。結婚して婿養子になったので、姓が変わったのだ。
そして、彼と同じ中学校にいたことも。
私がもう一人のオサナイノブヒロであると知ったら、彼はどういう反応をするのだろう。それを楽しむ余裕があるほど、私も意地の悪い人間ではない。
何かと比較されたオサナイ氏には悪いが、彼は私の存在を過剰に意識しなければ、もっと違う人生を送ることができたのではないかと思う。
人間は心の持ちようで一番でも二番にでもなれるものだ。
少なくとも私はそう信じている。