A-07 あいつが残していったもの

 学校の屋上で大の字になったまま上を見上げればそこには青々と晴れ渡る空がある。
 明日も、明後日も、暢気な色で空を満たしてずっと変わらずそこにあり続けるのだろう。
 そんなことを思いながらぼんやりとしていると、突然上から声がかかった。
「何黄昏れてんだよ」
「おや」
 声のかかった方に顔を向けてみれば上から私の顔をのぞきこんでくる背の高い幼馴染みがいた。
「折角人が教室まで行ってやったのに、ここに来てたのかよ。しかも授業さぼって」
「おやおや、どうしてそれを知ってるんだい?」
 悪びれる様子もなく答える私に彼は呆れたようにため息をこぼした。
「お前のクラスの奴が教えてくれたんだよ。ったく、どこ行ったか分かんないから校内中探したんだぞ」
 そう言って私の隣に座る彼の手には彼の母親が作ったのだろう弁当がある。
 黄昏れていたせいで気にしていなかったが、そういえば先程チャイムが鳴っていた。あれは四限目のチャイムだったのだろう。
 私の返答を待たずに弁当を食べ出す彼を見ながら問いに返答する。
「いやあ、ごめんごめん」
 笑いながら謝ると呆れたような眼差しが向けられ、ぶっきらぼうな答えが返ってきた。「まあ、いいけど。大体、何でさぼったんだよ」
 弁当を食べる手を止めずに問うてくる。
「色々あったり、考えたりしてしまうお年頃なんですよ」
 軽い調子で笑いながら言うと彼はいぶかしむ様子を見せたが、ふうん、とうなずいて箸を弁当のおかずに伸ばした。しかし、ふいに途中でその手を止めて私に向き直る。
「そう言えば昼飯は? 食わねえの?」
 未だに床に大の字になったまま昼食をとるそぶりを見せずに彼に話しかけていることを不思議に思ったのだろうか。顔を私の方に向けて問うてくる。
「教室に弁当置きっぱなしだし、取りに行くの面倒だし。何より食欲ないし。まあ、いいかなって」
 どれも事実だったので素直に告げただけなのだが、彼はまたいぶかしむような表情を浮かべた。
「何があっても絶対に飯だけは食うお前が食欲ないなんて珍しいこともあるもんだな。ってかさ、お前、何かあったのか?」
 予想もしていなかった問いに一瞬面食らうが、すぐに平静さを取り戻す。
「別に何もないよ。急にどうしたの?」
 彼の質問の意図するところを掴めずに内心で首を傾げる。
「食い意地はってるお前が飯食わないだけでもおかしいのに、その上空まで見てたら何かないと思う方がおかしい」
 前半があんまりな言い草だったので思わず苦笑してしまったが、なるほど、確かに疑問に思うわけだ。
 空を見るなんてことは普段の私ならしない。そんなことをしたら否応なくあの時のことを思い出してしまうからあの時以来空を見上げることはなくなった。
 食欲がないということだけを指摘されるならともかく、そこを指摘されてしまっては今日の私は普段とは異なるということを認めざるを得ない。
「そうだね。確かに君の言うように何かあったよ」
 彼とも長い付き合いだ。何かがどんなことかを言わなくとも理解するだろう。
 隣に座る幼馴染みから視線を外して再び空へと視線を戻し、もう一人いた幼馴染みのことを思い出す。
「……あいつのこと、考えてたのか?」
 たったそれだけの言葉なのに、抑揚のない小さな声に無性に泣きたい気持ちになった。
「うん、そうだよ」
 けれど、そんな気持ちになっていることには気付かれないようにできるだけ明るい声を出す。
「あれから、まだ半年も経ってないんだなあと思って」
 さも昔のことのように語るにはまだ早過ぎる。けれど、朝教室に入った時からずっと続いている胸の痛みに耐える為には口にせずにはいられなかった。
「今もあいつの席はちゃんと教室の中にあるんだ。いなくなってしまっても、クラスメイトの一員だったことに変わりはないからって。でも、空の席を見る度に思うんだよ。あいつはいなくなってしまったのではなくて、今日は欠席してるだけなんじゃないかって。明日にはふらっと学校に来るんじゃないかって。そんなわけないのにね」
 私の独白を彼はただ黙って聞いていた。その表情はきっといつも通りの仏頂面なのだろう。
「それで、居たたまれなくなってここに逃げてきたのか?」
 直球で投げかけてきた問いに苦笑しながらも無言でうなずく。
 せめて別のクラスだったならまだよかったのかもしれない。ありもしない空想を抱かずに済んで。入学した時は同じクラスであることを喜んで、毎日教室に向かうのが楽しみだったのに今では苦痛でしかない。主のいない机を見る度に胸が痛みにきしむだけだ。
「ここはあいつに一番近いところだからね。ここで一緒に弁当も食べたし、思い出もたくさん残ってる」
 だからその思い出にすがりたくて来てしまった。あいつは確かにここに存在していたんだと確認したくて。
「それだけなら分かるけど、どうして空なんか見てたんだ? お前、あいつがいなくなってから空は嫌いになっただろ」
 心底不思議だとでも言わんばかりに問いかけてくる。
 その問いに頭上にある空を睨みつけながら答える。
「嫌いだよ。あいつの心を奪ってしまった空なんて。でも、思い出すのが辛いからっていつまでも逃げて嫌ってたらあいつはどうしてあんなにも空に憧憬を抱いたのか分からないままだと思ったんだよ」
 思い出にすがればすがる程分からなくなる。あいつは決して空に憧れてなんかいなかったのに口から紡がれる言葉は空への憧憬の言葉ばかりだった。うわ言のようにそんな言葉ばかり繰り返して、いつしか自分の言葉に洗脳されてしまったかのように心までが空に傾いていった。
「憧憬、っていうか」
 戸惑うような声に彼の顔を仰ぎ見る。
「妄想じゃないのか? 突然、空は飛べるんだなんて言い出してその内四六時中空ばっか見るようになって。そしていきなり飛び降りた」
 あの時の光景を思い出したのだろう。声がわずかに低くなる。
「それでも、憧憬を抱かなければ妄想を抱くこともなかったはずだよ。あるいは、妄想を抱いたから憧憬を抱いたのかもしれないけど」
 あいつがなぜそんなものを抱いてしまったのかは分からない。あまりにも突然過ぎて心の変化を理解することができなかった。
「でも、確かにいきなりすぎたよ。まるでちょっとコンビニ行ってくるぜみたいなノリでいなくなってしまった」
 そんなにも軽いノリで命を投げ出せてしまう程、あいつは空を飛べるんだと盲目的に信じていた。いや、信じていたからこそ命を失うという発想が浮かんでこなかったのかもしれないし、簡単に空に身を投げ出してしまえたのかもしれない。
「馬鹿な奴だよ。俺たちの中で一番賢かったくせに一番馬鹿だった。空なんて飛べるわけないってことくらい、俺たちでも分かるのに」
「そうだね。でも、あの時あいつの心を理解してあげていればあいつは空を飛ばずにすんだかもしれない」
 あの時のことを思い出せば今でもあいつを止められなかった自分を責めずにはいられない。突然過ぎる心の変化に戸惑っていないでもっと深く、表面上の意味に囚われないで言葉の意味を考えていれば現在は変わっていたのではないだろうか。
「私、思ったんだけどさ、あいつにとって空を飛ぶっていうのは、檻を出るってことと同じだったんじゃないかなって」
 予期せぬ言葉だったのだろうか。彼が驚いた顔をする。
「どういう意味だ?」
 困惑している彼に説明する為に上半身を起こして視線を合わせる。
「あいつの家って厳しかったでしょう?」
「ああ、そうだな」
 彼がうなずいたのを見て言葉を続ける。
「あくまでも私の推測なんだけど、もしかしたらあいつは家を籠のように感じていて、自分のことを籠の中の鳥のように感じていたんじゃないかなって。普通の鳥と違ってあいつは籠の中に囚われて飛べない鳥だったから自分もいつか籠、つまり家を出て普通の鳥のように空を飛ぶ、要するに自由になりたかったんじゃないかな。詰まるところ空を飛ぶっていうのは家から解放されるってことで、空はあいつにとって解放の象徴だったんじゃないかと思って」
 でも、と彼は納得のいかない表情を浮かべる。
「空を飛ぶっていうのがそういう比喩的な表現だったんだとしても結局あいつは本当に空を飛んでしまったじゃないか」
 その言葉に苦笑して更に言葉を続ける。
「ここから先も私の推測でしかないんだけどさ。最初はそうやって比喩的な意味で空を飛ぶって言ってたのに、何度も言ってる内に本当に飛べるような気がしてしまったんじゃないかな」
「まさか」
 そんなわけない、とでも言うように冷笑とも嘲笑ともつかない笑みを浮かべる。
 その反応に苦笑を濃くしながらも、尚話を続ける。
「私もまさかとは思うんだけどね。でも、そうでなければどうしてあんなにも簡単に飛べてしまったのか分からないし、それに」
 彼から視線を外してわずかに瞳を伏せる。
「どうして死に顔があんなに安らかだったのか分からない。現実に絶望を抱いて死を望んで死んでいったのならあんなに安らかな顔はしなかったんじゃないかな」
 あるいは、そう思いたいだけなのかもしれない。せめて死に際に抱いた思いくらいは家から逃れたいという痛切な思いや痛切な思いのあまり空に傾倒するしかなかったような思いではなく、心の底から空を飛べると信じていた朗らかな思いであって欲しいと。
「確かに腹が立つくらい安らかな顔はしてたな。でも、本当に飛べるような気がしたからってのは俺は信じない。じゃあ、他にどんな理由が考えられるんだって聞かれても困るんだけどな。俺にはあいつが最後に何を思ってたのかは分からないし、想像もつかない。でも、少なくとも絶望を抱いてなかったんじゃないかってのには同意だ。あいつがそう思ったんじゃないか、っていうよりは俺がそう思いたいんだけどな」
 そう言って彼も空を見上げる。
 その様子を見てようやく気づいたが、彼はここに来てから今まで一度も空を見ていなかった。彼もまた、口には出さなかっただけであいつの心を奪っていった空を嫌っていたのだろうか。もしくは、空を見るとあいつを思い出すから見るのを避けていたのだろうか。――理由は分からない。けれど、彼は私と違ってそんなに心の弱い人間ではないからきっと彼には彼なりの理由があるのだろう。
「ねえ、これをあの時に気づいていたらあいつを止めることができたかな」
 後悔や悔恨や無念がないまぜになった気持ちで、同意して欲しいのか否定して欲しいのかも分からないままに問う。
「さあな」
 けれど、返ってきた答えはどちらでもなかった。
「あの時の俺たちにできることは全てやった。その全ての中にその考えはなかった。ただそれだけだ。だから、もしもあの時ああしていたら、なんて考えてもそんなのは意味のないことだよ。俺はあの時全力を尽くしてあいつを止めようとしたことを後悔してない。それとも、お前はあの時必死であいつを止めようと全力を尽くしたことを後悔するのか?」
 どこか悟ったような返答に感心しながらも、最後の問いには首を横に振った。
「しないよ。でもさ」
 そう言いながら再び大の字になって空を見上げる。
「こうしてどんな理由を並べて考えたところで結局今となってはあいつが何を考えていたのか分からないんだよね」
「そりゃそうだろ」
 私が沈鬱な気持ちで吐き出した言葉を彼はいとも簡単に肯定する。
「死んだ人間がどんな思いを抱いてたのかなんて分からない。それでもその思いを考えようとするのは自分がその人の死に納得する理由を見つけたいからだ」
 そう言って、弁当を食べる手を止めていた彼は再び手を動かして弁当を食べだす。
「考えが大人だね、君は」
 羨望の意を込めて言うと彼は肩をすくめる。
「大人なんじゃなくて、ひねくれてるんだ。そういう考え方しかできない」
 やはりどこか悟ったような答えが彼らしくて苦笑する。
 そうしてしばらくの間お互い何も言わず沈黙が流れていたが、私からその沈黙を破る。
 最初はぼんやりと見上げていた空を今度はしっかりと視界に据える。
「ああ、ちくしょう。空っていい色してやがるな」
 今だけは、今まで暢気な色だと思っていた空の色も、曇った心を晴らしてくれそうでいいかもしれないと思った。

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