D-02 十六年目の「ただいま」

 窓から差し込む光は柔らかく、狭い室内に仄かな暖かさを届けている。
 ラズは少しでも陽光の恩恵を受けようと、窓際に椅子を置いて繕い物をしていた。来訪者が玄関の扉を叩く音を聞いたのは、日射しの向きがだいぶ変わった頃だった。
 繕い物を自分の座っていた椅子に置き、ラズは部屋を出て玄関へ向かう。
「こんにちは」
 扉の開いた先にいたのは、見覚えのない若い男だった。長い間愛用しているらしい外套を羽織り、隙間からは革製の胸当てが覗いていた。視線をちらりと下に落として男の腰を見ると、剣を携えているのが分かる。
「どなたです?」
 男が剣を持っている事を知り、ラズは警戒した。見たところ騎士はもちろん、兵士とも思えない。魔物退治などを引き受ける剣士か傭兵か――最悪の場合、強盗か。
「君が、『ラズ』だね?」
 男はラズの問いには答えず、逆に確かめる様な口調でラズの顔を真正面から見る。
「……どうして、わたしの名を知っているんですか」
 まっすぐにラズを見る男の表情は姿の割りに誠実そうで、ラズの警戒心が緩みかけた。しかし、見知らぬ男が自分の名を知っていた事で、それもすぐに引き締まる。
「君の父、ゾイから伺っている」
「え?」
 全く予想していなかった答えに、ラズは目をしばたたいた。
 物心つかないうちにラズは母と死に別れ、母の妹夫婦に育てられた。二年前、流行病で叔母夫婦が亡くなってからは一人暮らしだ。ラズが覚えている限り、母もそうだが、それ以上に父が存在した事はない。母が亡くなって間もなく、ラズを置いて何処かへ行ったと叔母夫婦から聞かされた。
 自分を捨てたはずのその父が、何故他人に娘の名を教えるというのか。
「これを君に渡してほしいと頼まれて、君を捜していた」
 ラズがどれ程驚いているのか男は気付いた様子もなく、懐から掌に載る位に小さな瓶を取り出す。緑がかった硝子製と思われる瓶の中は空だが、コルクの栓がしっかりとしてある。指よりも細い瓶の首には、首から提げるためだろう、年季の入った長い紐が括り付けられているが、それは途中で切れていた。
「どうか受け取ってほしい」
 さあと目の前に差し出された瓶を、しかしラズは受け取ろうとはしなかった。
「受け取る事は、できません」
 父子二人きりとなったのに、父は傍にいてくれなかった。それを知った時ラズは父を恨み、母の死の原因が父にあると知った時、父を憎んだ。今もそれは変わっていない。
 ラズを捨てて以来、一度も便りを寄せた事すらないくせに、ちっぽけな瓶を渡そうとはどういうつもりなのか。それも、直接ではなく人を介して。今更ラズの前に現れる事ができないというのであれば、小瓶を渡すのも諦めたらいいのに。何もかもが、今更だった。
 ラズが受け取る様子を見せないどころか、徐々に表情を険しくしていくのを見て、男が困った様に頭を掻いた。
「折角お越し頂いたのに申し訳ありませんが、お引き取りください。父とは、もう何の関わりもないんです」
 そう言って頭を下げ、それで話は終わりとばかりに扉を閉めようとした。ところが男が瓶を持っていない方の手で扉を掴み、それを止める。
「君がそう言うかもしれない事は、分かっていた」
 扉を押さえる男の力に全く敵わない事を知り、ラズは扉を閉めるのを諦めた。そして、男を怪訝そうな表情で見上げる。男の言う事が本当であれば、彼はいったい何のために訪れたのだろう。
「受け取るか否かは、俺の話を聞いてからにしてくれないか」
 男はゆっくりと、閉じかけていた扉を開けた。


 彼――タルクがゾイに出会ったのは約四年前、〈天空の涙〉と呼ばれる貴石の採掘現場でだった。
 〈天空の涙〉は晴天の空から滴り落ちてきた様な澄んだ青色の宝石で、それ故に昼を象徴するとされている。そして、〈天空の涙〉の採掘には魔物の襲撃が付き物であるため、数ある宝石の中でも希少性が高い部類に入る。魔物は闇の眷属であるが故に〈天空の涙〉に執着すると言われているが、はっきりした事は誰にも分からない。
 ただ、魔物が〈天空の涙〉に執着する事は事実であり、そのため〈天空の涙〉を採掘する時は護衛する人間も必要だった。タルクもゾイも、護衛として雇われていた。だが、タルクがゾイの存在を知ったのは、タルクがその現場で働くようになって暫くしてからだった。
 そこでの採掘が始まってから半年ほど経った頃、比較的多勢の魔物が襲来し、数名の護衛が命を失った。それから間もなく、新たな護衛が雇われてやって来たのだが、その中の一人に、ゾイがいた。
 岩盤を掘る鉱夫達も魔物を退ける護衛達も、〈天空の涙〉の採掘現場にいる者は大体が屈強な体付きをしている。しかしゾイはそこにいた誰よりも細身で、とても魔物を倒せる程の力がある様には見えなかった。新たな仲間である痩身の男を見て心配したのは、タルク一人ではなかったはずだ。
 だが意外な事に、ゾイは強かった。体が軽い故に身のこなしが素早く、迫りくる魔物の爪をかわして懐に飛び込み、一撃で急所を突く。夜の訪れと共に現れる魔物の存在を誰よりも早く察知し、そして誰よりも多く退治した。
 それだけの活躍を見せれば弱そうな見た目に関係なく、仲間から信頼を得そうなものだが、ゾイは違っていた。彼の腕を疑う者は何度かの魔物襲撃を経ていなくなっていたが、彼に積極的に話しかけようという者も、日を追うごとにいなくなっていたのだ。
 ゾイの首に提げられた、硝子製の小さな瓶。事あるごとに彼はその小瓶を撫で、語りかけていた。愛しげとさえ言える表情で、柔らかく優しい声音で。
 その姿は度々目撃され、護衛達の間に話が広まるのにそう長くはかからなかった。ゾイ自身が積極的に人の輪に入り込もうとしなかった事と相まって、「強いが変人」という評価がすっかり定着した。タルクも、ゾイをそういう男だと認識し、積極的に関わる事をしなかった。しかし。
「――星がこぼれ落ちないのが不思議な位、とても美しいんだよ」
 ある夜、魔物の襲撃を警戒して見回りをしていたタルクは、積み上げられた資材の上に座り、星空を見上げているゾイを見つけた。胸元の小瓶を手に満天の星空を見上げるゾイの口振りは、まるで傍らに誰かがいる様だったが、そこにはゾイとタルク以外の誰の姿もない。あれがゾイの変人たる所以かと、タルクは関わり合いを避けようと、その場を立ち去ろうとした。
「いつか、おまえにも見せてあげたいよ……ラズ」
 大切なものの名をそっと呟くゾイの声が、その前に耳に飛び込んできた。そして、変人と噂される男の、まさにその根拠となる現場に居合わせたタルクは、しかしゾイの横顔に隠しきれない寂しさが宿っているのを見てしまった。愛おしそうに小瓶を撫で語りかけながら、ゾイの目は、泣くのではないかという位に悲しげだったのだ。ゾイはそれきり何も言わず、寂しげな表情をそのままに小瓶を握りしめ、星空を見上げていた。
 どの位そのままだったのか、タルクにも分からない。ゾイが星空を黙って見上げているのと同じ様に、タルクもまた、じっとゾイを見ていた。さっさと見回りに戻れば良かっただろうに、足は動かなかった。〈天空の涙〉の採掘現場に、ゾイほど不似合いな容貌を持つ男はいないだろう。その男が見せる奇妙な言動と表情の理由を、知りたかったのかもしれない。
「一人でそんな外れにいると、危ない」
 タルクは資材の上のゾイを見上げ、静かに言った。
 魔物は夜陰に紛れて姿を現す。夜、人々が集まる場所には灯りがあるが、こんな外れの場所ではそれもない。魔物はそんな暗がりから現れる。タルクがゾイにかける言葉として警告を選んだのは、彼の行動を盗み見た後ろめたさからだった。
 ゾイはタルクの心情を知ってか知らずか、星空からタルクへ、ゆっくりと視線を下ろす。
「俺と一緒にいる方が、危ない」
 タルクが予想もしていなかった応えが返ってきた。ゾイの表情は穏やかだったが、先程タルクが見た寂しさは変わらない。
「君は皆がいる所へ戻った方がいい。俺なら大丈夫だから」
 思えば、タルクがゾイと話をするのは今夜が殆ど初めてだった。護衛達は数人の班を組んで魔物を退治するが、タルクとゾイは班が違うから接触する機会が少なかったのだ。落ち着きのある僅かに掠れた声は、彼に良く合っていると思った。
「俺は魔物の気配に聡い。だから、大丈夫だ」
 まるで一人にして欲しいと言わんばかりの口振りに、逆にタルクは離れる気がなくなっていた。先程湧き上がったゾイへの興味のせいもあっただろう。
「隣、いいか」
 ゾイのいる資材の上にあがると、ゾイの返答も待たずに隣へ腰を下ろした。タルクが横へ来るのを見て、ゾイは小瓶に栓をする。小瓶を扱う手付きは丁寧だった。
「大切な物なのか?」
 ゾイはタルクを一度見て、それから小瓶に視線を落とした。そして、それを手に取る。掌にすっぽりと収まる位の大きさしかなく、中は空だった。
「君も、変わっているね」
 目を細め、声なく笑う。君も、と言う事はゾイは自分が変わっていると自覚しているのだろう。
「ならば信じるかな?」
 タルクの返答を待たず、ゾイは先を続ける。
「俺は昔……そう、今の君よりも若かった時、〈黒月石〉を体内に取り込んだんだ」
「〈黒月石〉を?」
 それは、魔物の体から稀に取れる真っ黒な石だ。出所は魔物だが、漆黒の輝きが重宝される、〈天空の涙〉に並ぶ貴石である。ある特殊な液体にのみ溶け、それを飲めば、その〈黒月石〉を持っていた魔物と同じ強さを手に入れる事ができると言われている。ただし――
「そう。知っているかな、魔物の体から取れた〈黒月石〉をある液体に溶かして飲めば、その魔物と同じ強さを得られるんだ」
 タルクは頷いた。誰もが知っている話ではなく、むしろ眉唾物の奇妙な伝説であるが、タルクは知っていた。
「俺は、倒すのにかなり苦労した魔物から〈黒月石〉を手に入れた。そして、本当に魔物の強さを得る事ができるのか、試してみたんだ」
 その結果は聞かずとも分かった。この方法で強さを得るには、愚かな勇気が要る。〈黒月石〉を飲んでもそれが体に合わなければ、死んでしまうのだ。ゾイが、それを飲んでも生きているという事は。
「だから、あんたは強いんだな」
 一見弱そうな容姿に反する強さは、そのためだったのかと納得する。それと同時に、タルクはゾイが人を遠ざける理由を知った。
 〈黒月石〉が体に合えば、魔物の強さが得られる。ただし、〈黒月石〉を体内に取り込むという事は、ある意味では闇の眷属になる事でもある。だが、魔物を倒して闇の眷属になった人間を、魔物は同族とは認めない。むしろ同族殺しの憎き仇として、魔物に付け狙われる事になる。得た力が大きければ大きいほど、魔物に狙われやすくなるという。
 そういえば魔物が現れた時、魔物達はゾイの周りに多くいなかっただろうか。ゾイが次から次に鮮やかな剣さばきで倒していくから気付かなかったが、ゾイが魔物の群に向かうのではなく、魔物がゾイに向かっていたのではなかっただろうか。
「偽りの強さだよ」
 ゾイは自らの浅はかさを悔やむ様に笑った。
「〈黒月石〉を飲んで、俺は確かに強くなった。最初のうちは、その強さがあれば魔物に狙われても恐ろしくないと思っていたよ。だけどある女性と出会って、彼女と共に生きたいと願った時、俺は自分のした事の愚かさを知ったんだ」
 言葉を切ったというよりは自分の言葉を噛みしめる様な間を置いて、ゾイは再び口を開いた。
「魔物は俺の存在を許さず相変わらず付け狙う。戦う術を持たない者と共にいる事は難しい……それでも俺と彼女との間に娘ができた。俺は、二人を守りきるつもりだった」
 そう語るゾイは、今ここに一人でいる。
 沈黙が辺りを支配する。ゾイは、小瓶を持っていない方の手を固く握りしめていた。
 タルクはゾイの話を嘘とは思わなかった。だがかける言葉は何も出てこない。何を言っても気休めにしかならないだろう。〈黒月石〉で力を得るには、愚かな勇気の他に孤独に生きる覚悟が必要なのだ。その覚悟がなければ、ゾイの様に誰かを失い悲しむ事となる。
「俺は元の体に戻りたい……娘と、ラズともう一度共に暮らしたいんだ」
 長い沈黙の間にいつのまにか俯いていたゾイが、絞り出す様に呟いた。
 タルクはゾイが失ったのは彼の妻だけだった事と、娘と離れてでも元の体に戻る事を切実に欲している事を悟った。二人の存在が、それだけ彼に大きな変化をもたらしたのだろう。
「これが大切な物かと、さっき尋ねたね」
 顔を上げ、ゾイは握りしめている小瓶を示した。タルクが小さく頷くと、ゾイはそっと小瓶を撫でて言った。
「この小瓶に語りかければ、その言葉はそのまま中に収められる。そして、ある言葉をかければ収められた言葉を聞く事ができる――娘と離れて間もなく、古物商で手に入れた代物だよ」
 まるでそれが、離れ離れになっている娘であるかの様にゾイは小瓶を見つめていた。
「俺は酷い父親だ。妻が死んだのは俺のせいも同然なのに、娘を人に預けて今こうしているんだからね。その罪滅ぼしという訳ではないけれど、娘と離れてから俺が見たもの聞いた事を、これに語り続けているんだ。いつか娘と再会した時、離れていた間の俺を知って貰おうと思って」
 だから、ゾイは変わり者と思われようとも小瓶に語り続けていたのかと納得する。同時にそれは、彼の娘への想いの深さを表していた。
「娘と離れて十三年になる。でもここでの採掘が一区切りつけば、俺は元の体に戻れる」
 その時になって漸く、ゾイの顔に笑みが浮かんだ。〈黒月石〉で得た強さは、〈天空の涙〉で消す事ができるのだ。〈黒月石〉の話以上に眉唾物で、魔物の強さを得た者しか知らないであろう言い伝え。ゾイはきっと十三年もの間、元に戻る術を探し求めてとうとう〈天空の涙〉に辿り着いたのだろう。この現場の護衛達は、採掘に区切りがついたら僅かではあるが、〈天空の涙〉を貰える事になっているのだ。
「娘さんに、会えるといいな」
 タルクは漸くそれだけを言った。それ以外に言える事は何もなく、ゾイにとってそれが最も励ましになる言葉だろうと思って。


「それに、父の声が……?」
 玄関先に立ったままタルクの話を黙って聞いていたラズは、タルクの手中にある小瓶を見た。とても信じられない。だが、語るタルクの表情は真剣そのものだった。
「彼の想いと共に、中に詰まっている」
 タルクは再度ラズに小瓶を差し出す。ラズは、まだ受け取るのは躊躇われ、その代わりに小瓶を見つめた。
「どうして父は、それをあなたに託したんですか。あなたの話が本当なら――」
 自身の手でラズに渡す事こそ、父の望みだったのではないか。
「彼は、採掘に区切りがつく直前に亡くなった。魔物と戦っている最中に紐が切れて、落ちた小瓶を拾おうとして……三年前になる」
 表情を曇らせているタルクの話を聞いてすぐに、父への恨みが消える事はない。だけど父への思いが僅かながらも変わりつつあるのは事実だった。そして、それを抜きにしても父が最早この世に存在しないという事実は、ラズに少なからずの衝撃を与えた。
「三年も、わたしを捜していたんですか……」
 しかし口から出て来たのは、父の死とは全く関係のない事だった。
「彼の最期の頼みだったからね。俺はそれを、叶えてあげたかった」
「どうしてですか。あなたは父と、それほど親しかった訳ではないんでしょう」
 タルクが三年もの月日を費やしたという事実は、別の意味で驚きだった。話を聞く限りでは、タルクがゾイのためにそんな時間をかける義理はないはずだ。
「俺も、〈黒月石〉で魔物の強さを得たんだ。だからゾイの気持ちがよく分かる」
 束の間の付き合いしかなくとも三年の月日をかける事ができる、かけるだけの理由となる。それが、〈黒月石〉で強さを得るという事なのだろうと、ラズは驚きと共に感じた。
「受け取ってくれ、ゾイの想いを。君の言葉に応えてくれるから」
 タルクは扉の取っ手からラズの手をそっと引き剥がし、小瓶を握らせた。ラズは引き寄せられる様にコルクの栓を摘み、そっと開けた。ここに、ラズの知らない父の声が詰まっている。
「……父さん」
 躊躇いと戸惑いが入り交じった声で囁く。それに応える様に瓶の中から男の声が聞こえてきた。
「――やあ、ラズ。きっと大きくなっているだろうね。元気に暮らしているだろうか」
 そしてラズに対する謝罪が続き、やがて美しい風景、珍しい出来事を語っていく。少し掠れた、しかし温かい声が、ラズと父の間の空白を埋めていく。ラズは父の声に耳を傾け、涙を流していた。
 ゾイの長い長い話をすべて聞くには、長い時間がかかるだろう。けれど、どれだけ時間をかけてもいいと、今なら思える。
「おかえりなさい、父さん……」
 両手で小瓶を握りしめ、ラズは涙と共に呟いた。

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