B-03 例え夢を諦めても(beyond the empyrean)

 正宗が初めて彼女を知ったのは、入学式での事だった。
 彼女は新入生代表の挨拶の為に壇上に上がっていた。処がそこで語り出したのは“絶望”についてという、あまりにもその場に相応しくないものだった。
「私は薬で症状を抑えるしかないと言う、今の所治療法の無い病気に罹っている。その為に、私は幼い頃からの夢を諦める事になった」
 彼女の夢——それは宇宙飛行士になる事だったと言う。しかしその募集が掛かる時の条件に“健康である事”とある以上、彼女にはその資格が無いのであった。
「それを知った時、私は絶望した。ずっとその為に勉強をしてきたのに、この病気に襲われた。治らないと言う事は、夢を諦めろと言う事でもあった。これで絶望しない訳が無いだろう? しかしそれでも私は諦め切れずに勉強を続けた。そしてこの学校へやって来た。だが限りなくゼロに近い可能性を信じ続けられる程、私は子供ではなくなっていた。そう、私は抜け殻なのだ。
 そして私は未だ絶望から抜け出せてはいない。空っぽのまま、新しい目的を見付けられないままここへ入った。恐らく諸先生方は私の頭の良さに目を付けてレベルの高い大学へ進学する事を期待するだろうが、私にとってそんな事は空しい以外の何物でも無い」
 それを聞いた教師達がざわめく。それを見て正宗は少しいい気味だと思った。生徒は進学率アップの道具じゃない。
 彼女の話は更に続く。
「だがこれだけは言っておく。どれだけ絶望が深くても、それだけで人間は死んだりしないんだ。そこから死を選ぶかどうかは本人次第であり、生憎私は諦めが良くなかったから、まだ生きてあがいている。だからと言って死にたいと言う人間を私は止めたりはしない。勝手にしろ、とだけ言ってやる。
 ここにいる殆どの人間は絶望した事なんて無いだろうし、これからもする事は無いだろう。だがもし絶望する様な事があったら、今の私の言葉を思い出してくれれば幸いだ」
 そう言って彼女は遠目にも解る程の笑みを浮かべながら一礼すると、壇を降りて行った。
 そんなある種型破りな彼女の姿は、正宗の心に強い印象を残した。

 彼女はさとると言う男の様な名前の持ち主だった。だからと言う訳ではないのだろうが、いつも男っぽい口調で喋っていた。
 高校での三年間、同じクラスになる事は無かったが、何故か話す機会が多かった事から付き合っているんじゃないかと噂される事が多かった。そして正宗は元々ケンカが強い上に誰ともつるまなかった為、自然と彼女が狙われる事になった。
 しかし彼女は肝も据わっていた。ある時いつもケンカが繰り広げられる——この学校では何故か本館と別館を結ぶ一階の、両脇に笹の生えた渡り廊下でのみケンカなどの荒事を大目に見られていた——その場所を通り掛かったさとるに正宗を快く思っていない連中が絡んだ事があった。
 丁度それを目にした正宗は急いでその場に向かった。そしてさとるに向けて拳が突き出されようとしたその瞬間、その顔の真正面に向けられた拳を正宗は片手で受け止めた。
「……別に女を殴るなとは言わねえがな」拳を受け止めたまま、相手を見据えながら正宗は言った。「俺に用があるんだったら直接来いよ。いつでも相手になってやるぜ」
 そして受け止めた拳を突き返してやると、相手はたたらを踏んだ。後は捨てゼリフを残して走り去って行き、その場には正宗とさとるの二人が残った。正宗は文句のひとつも言ってやろうとさとるの方を振り返ると、こんな事の直後にも関わらず何かを企んでいる様な笑みを浮かべていた——それも、実に楽しそうな様子で。
 なので、正宗はただ呆れるしかなかった。
「お前なあ、少しは避けたらどうだ? 何も真正面から来るのを馬鹿正直に喰らう必要はねえだろ」
 するとさとるは笑みを浮かべたまま、しれっとした口調で答えた。
「君が走ってくるのが見えた。だから避けなかった」
「俺が来なかったらどうするつもりだったんだよ」
「君の事だからそれは無いね。君は自分で思っているより正義感が強いから」
 正宗は脱力してしゃがみ込む。そこまで信頼されているのは確かに有難い事なのだろうが、だからと言ってこの先もこんな事を繰り返されてはたまったもんじゃない。
「どうした、腰でも抜けたのか?」
「そうじゃなくて——お前も知らねえ訳じゃねえだろう、俺達が付き合ってるって噂」
「ああ、全くもってばかげてるな。どれだけ偏差値が高くても、暇な奴等はそう言う事にしか考えが行かないと言う事がよく分かるよ」
 ……この独特の思考からくる毒舌。
 だが正宗もそれには同感だったので、ただ頷くだけだった。

 三年になると殆どの者は受験の準備に、僅かな一部の者は就職活動に忙しくなった。そして正宗は就職組だった。進学してまでやりたい事が無かったからだ。
 さとるとは相変わらず顔を合わせる度に、言葉を交わしていた。とは言えさとるは進学組だったので、話す機会は以前より明らかに少なくなっていた。
 そんなある日、さとるから意外な頼みを持ち掛けられた。
「なあ、明日か明後日のどちらでも良いから科学館に行かないか?」
「科学館だあ?」
「そう。何たって時間はあるんだろう?」
 反論出来ず、正宗は言葉に詰まる。就職組とは言え、既に家の近所の顔馴染みの工場へ行く事が早々に決まっていたからだ。
 そんな訳で結局、二人で連れ立って科学館へ行く事になった。そして待ち合わせ場所に現れたさとるは、何故か制服姿だった。
「何で休みの日にまで制服なんだよ?!」
「バカ者、制服の方が堂々と学割が使えるからに決まっているだろう」
 正宗は呆れて口が塞がらなかった。だがそもそも口で敵う訳が無かった。それどころか入場券までさとるが勝手に二人分買ってしまい、後から代金を請求された。
「高校生は四百円だそうだ。そんな訳で、払え」
「お前が勝手に買っといてそりゃねーだろ!」
 幸い小銭の持ち合わせはあったものの、あったのが五百円玉だったので百円分の釣りを貰う。そうして入口で入場券の半券を渡し、中に入る。
 まさるが真っ先に向かったのは、宇宙とその科学のコーナーだった。
 そこでまずまさるが立ち寄ったのは、冬の星座の代表格、オリオン座の模型の入った箱の前だった。スイッチを入れると星々に当たる豆電球が点灯する様になっている。
「横から見てみろ。面白い事が分かるぞ」
 言われた通り、横に回る。そこはガラス張りになっており、電球がばらばらに配置されているのが見えた。
「何だこりゃ?!」
「地上から見ればこう言った星座の並びを形造っている様に見えても、実際には地球から全く違う距離にあると言う事だ」
「へぇ——……」
 正宗は感心してただ頷いた。授業で聞いても聞き流すだけだったものだが、こうして目で確認させられると簡単に理解できるのが不思議だった。
 次にさとるが案内したのは、ブラックホールの重力モデルのコーナーだった。円形で中央に穴があり、そこに向かって上は緩く、穴に近付くほどきつくなる傾斜が掛かっている。
「ストッパーの前に玉があるだろう? そのストッパーを上げて見ろ」
 すると玉がゆっくりと傾斜を転がり出したが、中央の穴の近くで勢いよく角度を変え、再び穴の外へ転がり向かう。そんな事を何度も繰り返して行く内にやがて中央の穴の周りだけを巡る様になり、最後にはごろごろと音を立てて穴の中へと落ちて行った。
「これがブラックホールだ」さとるは言った。
「ブラックホールは強い重力場を持っていて、そこからは光さえも抜け出せないらしい」
 さとるが説明している間にもごろごろと言う音は続き、最後にごとん、と言う音を立ててストッパーの下にある穴から玉が出て来た。
「これはあくまでも模型だからな、こうして玉は出て来るようになっているが、実際には吸い込まれたものがどうなるのかもまだよく分かってない」
 そんな説明をしながら、さとるは玉をストッパーの前に戻す。興味が湧いた正宗は、もう一回やっていいかと訊ねた。するとさとるはくつくつと笑いながら言った。
「何度でも構わないぞ。但し、他の人間が列を作る前にやめるようにしろよ」
 そう言われるのを聞き流しながらストッパーを外し、玉が転がって行く様を眺める。それを見ながら正宗はまるで自分の様だと思った——いつの間にかさとるに惹かれる様になった、自分の心の様だと。
 ゆっくりとその周囲を巡り、自分ではどうしようも無い程にその存在に引き付けられ、引き込まれ、やがてその中へと落ちて行き、深みへはまっていく。そうして離れられなくなり、ずっと側にいたいと思う様になる。そんな風に完全にさとると言う存在に呑み込まれてしまった自分が不思議でならなかった。
 だがこの模型を見ている内に、それは自然現象の一部なのだと思えた。ブラックホールが光さえも捕らえて呑み込み、逃さない様に。
 だからまた玉が転がり出て来ても全く動かない正宗にさとるが声を掛けてきた時、自然とその言葉が正宗の口から出てきた。
「俺、お前の事が好きだ」
 周囲の目は全く気にならなかった。そして正宗はさとるの方に向き直る。さとるは驚いた様な顔をしてはいたが、その表情は何処か虚ろさを感じさせた。
 この模型をやりたそうに見ている子供が居たので、正宗はさとるの肩を掴んで少し場所を移動し、その目を見詰めた。その間、さとるは全く表情を変えなかった。
「意外な事を言うんだな」しばらくしてさとるの口から出てきた言葉はそれだった。
「確かに私達は付き合っているんじゃないかと散々噂されてきたが——まさか、それに感化されたのか?」
「そう言う訳じゃない」正宗は強く否定した。
「自分でもいつからなのかは分からない、だけどいつの間にか学校にいる間、お前の事を目で探している俺がいる事に気が付いたんだ。
 最初はいつかの時の様に俺のせいで巻き込まれるのを恐れてだと思ってた。でもそうじゃなかった。お前そのものが、俺を引き付けていたんだ」
 思わず抱き締めたくなったが、場所が場所なのでそれだけは思い止まった。時折このコーナーを通り過ぎて行く人々が、二人に訝しげな目を送ってくる。
 しばらくして、さとるが口を開いた。
「……何故私が君をここへ連れてきたか、分かるか?」
 しばし考えてから、正宗は答えた。
「俺が一番ヒマそうだったから、って訳じゃ無さそうだな」
 さとるはひとつ頷くと、言った。
「もう少し見せたいものがある。そっちへ行こう」
「見せたいもの?」
「見れば分かる。なかなか面白いぞ」
 そう言ってさとるは勝手に歩き出すので、正宗は慌ててそれに付いて行った。

 そうして幾つかの場所を連れ回された。例えばそれはスペースシャトルの発射の瞬間をシミュレート出来るものであったり、宇宙から見た地球の映像であったりした。
 最後に連れてこられたのは、ペットボトルロケットを発射させる事の出来る装置だった。とは言え屋内と言う事もあり、ペットボトルは床から吹き抜けの天井に向かって伸びるパイプの中でワイヤーロープに通されていた。
 それは自転車の空気入れの様なポンプで空気を送り込んで水を圧縮し、限界に達した所でスイッチを押すとロケットが飛び出す仕組みになっていた。どうやら人気のあるコーナーらしく、沢山の子供や付添の大人が並んでいた。当然、二人は列の最後に並んだ。
 そうして、二人の番が来た。正宗はしゃこしゃこと凄まじい勢いでポンプを動かし、限界を超える勢いで水を圧縮させる。やがて圧縮限界を示すランプが付き、後はスイッチを押すだけとなったその時、さとるの手が伸びてきてそのスイッチを押してしまった。
 ロケットが、勢いよく放たれた。
 それは天井すれすれまで飛んで行き、そして戻ってくる。隣ではさとるが、腹を抱えてけたけた笑っていた。
「おおおおおおおお前なあっ、これっ、この俺の労力を何だと?!」
 それでもさとるは笑い続けていた。しかし後がつかえているので、仕方無しに笑いの止まらないさとるの手を引いて場所を移す。
 適当なベンチに座った所でようやく笑いの収まったさとるは、喉が渇いたので何か買ってくると言い出した。正宗はどうするかと訊ねられたが、まだ拗ねた気分が残っていたのでここで待つと言った。さとるは肩を竦めると、売店へと向かった。
 だがしばらくして戻って来たさとるの手には、ソフトクリームとアイスキャンディーがひとつずつ、握られていた。
「君にはこっちをあげよう」
 そう言ってさとるはアイスキャンディーを正宗に差し出す。ここで断るのも大人げない気がしたので、正宗は素直にそれを受け取る。袋を破ってかじりつくと、キーンとする様な冷たさが頭を襲ってきた。隣には、へろりとソフトクリームを舐めるさとるの姿があった。
 その姿は、何処か空虚なものを感じさせずにはいられなかった。そして唐突に入学式の時の新入生挨拶を思い出した——夢を諦めた今の自分は抜け殻なのだと。空っぽなのだと。
 そしてこの日連れ回されたものの内容を正宗は思い返して、ある事に気が付いた。それは全て“宇宙”に関係するものだった。
 正宗はアイスキャンディーをかじると、さとるに向かって言った。
「お前、本当はまだ宇宙飛行士になる夢を捨ててないだろ?」
 さとるはただソフトクリームを舐め続けていたが、しばらくして答えた。
「私にとって諦め切れる様なものじゃないさ——宇宙飛行士になる、と言うのはな。だが、どうしようもない事も分かっている」
 正宗はアイスキャンディーをかじる手を止め、ただまさるを見た。
「宇宙開発と言うのは皮肉なものでな、元は軍事的な競争から始まった。今では有用な資源を求めて開発を進め、一部の者だけが潤って行く。地上と何も変わらない」
 そこでさとるは一旦言葉を切った。そして正宗に向き直り、強い調子で言う。
「だがな、君も男だったら一度は憧れた事が無いか? 宇宙飛行士と言う“生き物”に」
 瞬間、空気が凍りついた。
 宇宙飛行士は生き物かよと突っ込みたかったが、それを許さない勢いでさとるは喋る。
「宇宙を駆け巡って時に仲間と友情を育み、時にライバルと熾烈な争いを繰り広げ、貴重な荷を運んだり、時には重要人物を護衛も兼ねて運んだりする。そんな奴等に、君も憧れた事が無いとは言わせないぞ」
 正宗は、思いっ切り何かのアニメの見過ぎじゃないのかと突っ込みを入れたかった。だが確かにそう言ったものへ憧れた記憶は存在するので、否定する事は出来なかった。
 仕方が無いので、ゆっくりと頷いた。
「だろう、そうだろう?」すると勢い込んでさとるは言った。「だからこそ、何だよ」
「だから何がだよ」
 さとるが言いたい事が理解出来ず、正宗は溶けかけたアイスキャンディーをかじりながら聞き返す。さとるもソフトクリームのコーン部分をかじると、話を続けた。
「私はお前を唆しているんだよ。諦めざるを得なかった私の代わりに、宇宙飛行士を目指してみないか、ってな」
 それは今から進学を目指せ、と言う様なものだった。流石の正宗も、それには慌てた。
「お前、分かってんのか? 俺はもうとっくに就職が決まってるんだぞ!?」
「工科大学で技術を学んでから改めて就職させて下さいとでも言えばいいだろう」さとるは正宗の言い分を全く取り合わなかった。
「腕のいい技術者と言うのは今ではそう数がいない。貴重がられると思うんだがな」
「だからってなあ……」
 相変わらずの理論展開に、正宗はただ呆れるしかなかった。さとるはコーンまで綺麗に食べ終えると、正宗を真っ直ぐに見た。
「何より、お前は健康だ。私の様に病気を抱えている訳では無いし、あれだけケンカを繰り広げた割には怪我ひとつしない程頑丈だ。その頑丈さは、宇宙飛行士を目指す者にとって、大きな武器になる」
 正宗もアイスキャンディーを食べ終え、その棒を何とは無しにもてあそんでいた。さとるの唆しと言う名の説得を、聞き入れそうになっている自分に気が付いたからだ。
 だから再び、あの言葉を口にした。
「……俺、やっぱりお前が好きだ」
「そりゃどうも」今度はいつもと変わらない調子でさとるは応える。「しかしこの私にほれるとは、随分と物好きなんだな」
「俺もそう思う」それには素直に正宗も頷いた。
「だけど好きなものは好きなんだ。だから、お前の代わりに宇宙飛行士になってやる。そうしてお前を迎えに行く」
「迎えに行くって……」
 流石のさとるも二の句が継げなかった様だ。だがすぐいつもの笑みに戻ると、言った。
「随分と気の長いプロポーズだな? もしそれまでに、私が他の男を選んでいたらどうする? もし死んでいたら?」
「そうしたら……」
 正宗はしばし考え込むと、答えた。
「そしたら自慢に行ってやるよ。宇宙飛行士になったぜってな。死んでたとしても墓の前で報告してやるさ」
「それは楽しみだな」
 そう言ってさとるは笑みを見せた。そこには素直さも交じっていて、正宗は思わず見とれてしまった。

 受験シーズンが到来し、やがて卒業式を迎えた。
 さとるは、やっぱり卒業生の答辞をさせられていた。その内容はそれなりに無難ではあったが、やはり毒の入ったものでもあった。
 式が終わった後、正宗とさとるは握手を交わした。
「……元気でな」
「君も、しっかり宇宙飛行士を目指すんだぞ」
「最後までそれかよ!」
 そうして、二人は笑って別れた。

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