A-13 我が家の吾が輩

 我が家には風変わりな居候がいる。そいつの態度はでかい。
 夏は俺が仕事に出ている日中、勝手にクーラーをつけやがり。
 冬は寒空の下で俺が震えている最中ずっとコタツに入ってるくせして、帰ってきた家主に向かいコタツから頭だけ出して開口一番メシをよこせとくる。
 さらに態度だけでなく、そいつは体もでかい。
 デブだ。
 それも見た目通りの大食漢。我が家の食費をキレイに半分持っていく。
 小汚い茶色の毛皮にくるまれているのは贅肉ばかり。その無様な姿を虎が見たら腹を抱えて嘲笑することだろう。そして言ってくれるはずだ、
「親戚よ、お前はネコ族の誇りを忘れたかってな」
「虎がしゃべれるわけないだろう。だからそんなことは言われない」
 嘲笑混じりに俺に言い返し、テーブルの上に座るそいつは好物の“猫またぎ”に鋭い爪でちょいとわさびをのっけて、器用にピンクの切り身を爪に引っかけ醤油にまたちょいつけてから口に放り込む。目つきも顔つきも悪い顔をえびす顔とはこういうものだと言わんばかりにトロけさせ、それからそいつは脇に置かれたお椀を満たす液体を一舐めすする。
 そいつのざらついた舌がすくい取ったのは、720mlで五千円もする高級日本酒。
 遠慮の欠片もなく居候はぴちゃぴちゃと高い酒を舐め取っていく。
 テーブルに置かれたビンの中身はあと一杯分を残すだけ。しかも失われた全てが潤したのは、そいつの喉と腹の中だけ。
 一応俺の前にもおちょこがあるが、そこに注がれた液体は三十分経っても一向に減っていない。
 それもそのはず、俺は酒が苦手なのだ。
 それなのに、なぜか俺は720mlで五千円! もする日本酒を汗水たらして稼いできた金で買わされて、あげく楽しんでいるのは俺を“脅して”酒を買わせた居候ばかり。
 ……面白くない。
 そりゃあ面白いはずもない。奴の分け前を少しでも減らしてやろうと、意を決して俺はおちょこの酒を無理矢理ぐいっと飲み干した。
 評判の酒だ。これは旨いんだろう。しかし、吐き出したアルコール混じりの息だけで悪酔いしそうな気がして思わず顔がしかむ。
「やぁっぱり、釈然としないよなぁ」
「何が?」
 お椀から顔を上げて、さして興味もなさそうにそいつは後ろ脚で耳をかく。その様はあまりにふてぶてしく、完全に俺のことを舐め切っている。
 自然、アルコールの刺激を受けた俺の口は刺々しく、
「なんで働いてもいないお前のために俺がバカ高いマグロを買ってきて、あまつさえお前用に一口大に切ってやって、しかも」
「酒なくなった。注げ、ヨシユキ」
「し か もっ、こうやって、酌まで、してやらなきゃ、ならないんだ?」
「何だ、どうしたヨシユキ。さっきから今日はからむではないか。折角の二人出会ってから一周年記念だというのに」
 そいつは目を丸くして正面に座る俺を見る。
「からみたくもなるさ。おいサキチ、おい化け猫。どこに妖怪に取り憑かれて一周年を喜ぶバカがいると思う」
「そこにいる。それもただのバカではない。吾が輩のことを不労者だと言い、大恩も忘れた類稀なる愚か者だ」
「おっと、そこまで言うか」
「言う」
「それは本気で言っているのか?」
「そうだ」
「おうし、お前即刻ここから出て行け」
 サキチは尻尾を一振りする。まるで俺をコケにするように。
「良いのか。吾が輩が出て行っても」
「ああ、いいとも。そうしてくれりゃあうちの食費は下がる。光熱費も下がる。お前の世話をする必要も無くなって俺は大助かりだ」
「ほう。それなら良いのだな? 吾が輩が出て行って、駅徒歩八分・1デーケー・風呂トイレ別・築五年最上階角部屋・インタぁネット光ファイバー対応その他諸々設備充実で家賃三万円五千円、超掘り出し物のこの部屋で“また”怪奇現象が起こっても。夜な夜なすすり泣く女の声に苛まされ、ぼんやり透明な首吊り死体が視界の隅に浮かび上がり、気がつけば置物の位置が変わっていても、ぽたりぽたりと落ちる水滴の音がしだいにひたりひたりと裸足で歩く音に変わっても!」
「ごめんなさいやっぱり居てください魔除けの化け猫様」
「化け猫?」
「そこは譲れない」
「まあ、良いだろう。事実だ」
 サキチは、じっと俺の刺身を見た。柵で買ってきた近海本マグロの大トロ。残る三切れ。
「……お前、さらに太るぞ。病気になるぞ」
「構わん。病気になぞならぬし、なったところでどうせ死なぬ」
「死なないなら食うな」
「腹は減る。腹が減っては力が出ぬ。力が、な」
 しぶしぶ、俺は刺身を二切れサキチの皿に移した。サキチは大喜びで元からある細切れの身を放って大物に取り掛かる。
 その姿だけを見れば、キャットフードのCMに出てくるようなモデル猫のようとは言わないが、小汚い茶色のコートをまとったデブ猫ながら少しはかわいげもあるのに……
「ヨシユキ、何だか失礼なことを思っていないか?」
「いや? よく食いやがると思っただけだ」
 鋭い。さすがは妖怪。
 しかし……実際、サキチの主張は正しい。『働いていない』は語弊があった。現状いくらか釈然としないものは残るが、それは、分かっている。
 新社会人となった去年のことだ。
 大学も自宅から通っていた俺は、破格の物件を見つけた上に憧れの一人暮らしができる二重の喜び抱えてここにやってきた。
 そりゃあ破格すぎる家賃の理由を訊かれた不動産屋が目を泳がせたり、下見の時にクローゼットの天井に札が貼ってあるのを見つけたりしたときは完璧ここが“曰く付き”であることは理解していた。
 けれど俺には霊感なんてものはなく、たまにテレビに流れる心霊番組は笑い飛ばしの対象で、霊だの呪いだの祟りだのというものとは完璧無縁の人生。だからどんな曰くがあろうが関係ないと高を括っていたんだ。
 入居日初夜……枕元ですすり泣きながら俺の顔を覗き込む女が“出た”時までは。
 もちろん即日引っ越そうと思った。少なくとも解約手続きが終わるまではホテルで暮らそうと。
 だけど、できなかった。
 仕事を終えて帰ろうとすると、会社を出たときから俺の記憶はふっと消え、はっと気がつきゃもう家に帰ってきている。この部屋に。不動産屋との手続きをしようと思ってもその時に限って電話はノイズに満ちて使い物にならず、メールも手紙もなぜか宛先不明でお帰りなさい。
 神社仏閣に行こうとすると凄まじい吐き気とめまいに襲われる。
 誰かに相談しようとするとすんごい寒気に襲われる。
 されども寝不足と恐怖からくるストレス以外に日常に支障はなく、会社ではまるで健康そのものに働けるから性質が悪い。
 真綿で首を絞められるように毎日毎夜“悪霊”に苦しめられ続けて一月が経ち、取り殺されることをぼんやり意識し始めた頃だった。
 サキチが、現れたのは。
 その日も会社を出たところで意識を喪い、我を取り戻すとお約束通り眼前には我がスイートホーム。黒色の冷たい扉が悪寒をそそるが手は意志から離れて勝手にノブを掴む。本日出迎えてくれるのはラップ音か笑い声かと身をすくめていると、代わりに聞こえたのはに゛ゃーと鳴き声。足下を見れば、そこにはどこから入ったというのか小汚いデブ猫。
 そしてそいつは、後ろ脚で耳をかきながらしゃがれた声で言ったのだ。
『お前を守ってやる。その代わり吾が輩に温かい飯と酒、それにふろ〜らるな香りのシャンプーを用意しろ』
 その時はもう猫がしゃべろうが何を要求されようが驚かなかった。鏡から突然血が流れることがあるんなら、猫がしゃべることもあるだろう。
 藁にもすがる思いで俺は頷いた。
 ――以来、この部屋で、たった一つ“化け猫がいる”ということ以外、怪奇現象はまるで起こっていない。
「でもなあ。今思うとお前の霊感商法に引っかかってるような気もするんだよなぁ」
 霊障に苦しんでいた男と化け猫の出会い一周年記念の晩酌。
 旨そうに酒を舐めるデブ猫は、お椀に顔を突っ込んだまま、
「人聞きの悪いことを。恩猫にそのようなことを言えば罰が当たるぞ。具体的には吾が輩に祟られる」
「ほら来た、それだ。お前、何かにつけて二言目にはここを出て行くぞ、それとも吾が輩が祟ってやろうかって俺を脅すじゃないか」
「脅すとはまた人聞きの悪い」
「事実脅しだ」
 立地も条件も家賃にも恵まれた物件を安心して使えるのは安月給の俺にとって大きな利益なのは確かだが。しかし、今ならいけるとこの部屋から引っ越そうとしても『祟るぞ』と言うのはどういうことか。
 それに、
「だいたいだな、サキチは時々“ボランティア”に行くだろ。長い時で二週間ってのもあったな」
「そうだな」
「その間、何もこの部屋で起こらなかった。ずっと不思議に思ってたんだ。いい機会だから訊くが、実はこの部屋の怪奇現象、お前が起こしてたことなんじゃないか?」
 サキチは顔を上げた。口の周りに付いた酒を舐め取り、ニーッと目を細める。
 それは……俺の疑問を肯定したのだろうか。それとも……
 サキチはまた酒を舐めはじめた。となると、俺の問いに答える気はないようだ。そう思ってため息を、
「吾が輩がいない時は、絶対に掃除をするなと言っていたろ?」
 ため息を、つこうとした時、サキチは意地の悪いタイミングで言った。
「“毛”でな、脅しを利かせているのさ。吾が輩は帰ってくる。吾が輩の居ぬ間にヨシユキに悪さをすれば、お前を食ろうてやると」
「食う? 霊を?」
「“魂”を化け猫に食われると、地獄に行くより苦しむことになるのだよ」
「……本当に?」
 問うと、サキチは顔を上げ、再びニーッと笑った。
 背筋が凍る笑みだった。
 普段、日干しされて平べったくなったタコみたいな姿で床にへばりついている怠惰なデブとはまるで思えない。
「まあ、恐れるなヨシユキ。吾が輩はお前の魂は食わぬさ」
 サキチはのそりと腰を上げ、テーブルの上を音もなく歩くと俺の肩に飛び乗った。
「うわ、重っ」
「失敬な」
「事実だ」
「ふむ、ならば良い」
 サキチの前脚が俺の頭に置かれる。
「明日からまた長く留守にする。言いつけ通り、だから掃除はするなよ」
 頭上から響くしゃがれ声。
 俺の口元は、知らずの内に引き締められていた。
「……そっか。また、か」
 サキチは俺の頭を蹴ってテーブルを飛び越え着地した。そこからすぐにテーブルの上に跳び戻って、酒を舐める。
「帰りはいつかな」
「一週間後くらいだろう」
「今度は、身内の人が来てくれるといいな」
「そうだな」
 頷いて、それからサキチはすっとお椀を押して差し出してきた。お椀はキレイに空だった。酒ビンももう空だというのに……
「注げ」
「もうない。見て分かるだろ」
「買ってこい。折角の一周年の祝い酒。もっと飲ませろ」
「今月マジで苦しいんだ主にお前のせいで。具体的に言うと今日の――」
「祟るぞ」
「かしこまりました買ってまいります!」


 俺の携帯に見知らぬ番号から連絡が入ったのは、六日後の土曜日の朝だった。
 俺は前日の残業に疲れた体に鞭打って自転車に乗り、二時間かけてサキチの待つ場所へ向かった。
 そこは、隣の市の市営火葬場だった。
 町の中心から離れ、住宅の密度も少なくなった場所に広い敷地を取り、数年程度前に改装されたのか一見して火葬場とは思えぬ近代的な建物がある。
 去年まで火葬場といえば煙突がつきものだと思っていたが、技術の進んだ現在では必要がないらしい。聖苑の空に突き出る異物は無く、煙も臭いも取り除かれ、今まさに死者が荼毘に付されているのかどうか俺に判断することはできない。
 だが、今まさに、死者は火の力を借り空へと昇っているのだろう。
「ご苦労」
 振り向くと路上にサキチがいた。俺は自転車のスタンドを立て、周囲に人がいないのを確認し、ポケットから包み紙を取り出しサキチに塩をかけてやった。化け猫にお清めの塩を振るなんて滑稽だと思うが、サキチがそうしろというのだから仕方ない。
 お清めが終わるとサキチは俺の体を駆け上がり、太った体からは信じられないほどの敏捷さで自転車のカゴへ飛び移った。
「ぅおっ!」
 急な荷重を受けてバランスを崩した自転車を慌てて支える。カゴの中のデブ猫に気をつけろと言おうとすると、サキチは、どこか神妙な頭で火葬場の空を仰ぎ見ていた。
 化け猫には、そこに誰かの姿でも見えているのだろうか。
「気のいい婆さんだった」
 サキチが、ぽつりとこぼした。
「女手一つで育てた息子が自慢でな。吾が輩が顔を出すと、決まって息子の話を聞かせてきた。何度も何度も同じ話でも」
「息子は?」
「間に合わなかった。吾が輩の電話を悪戯だと思って切ってしまったよ。仕方ないことだがな」
 サキチは晴天の空、広がる青の輝きに目を細めている。
「やはり煙がないと、どうにも空に昇っていくという気がしなくていかん」
 化け猫が妙に感傷的なことを言う。
「それも仕方ない。火葬の煙を好む人はいないだろ」
 サキチは俺を見た。何を思っているのか解らないが、何か言いたそうで、しかし、サキチは何も言わない。
 だから、俺が先に口を開いた。
「苦しんでなかったか?」
「眠ったまま逝った。大往生だ」
「……お前にそれを看取ってもらえて婆さんも嬉しいさ。きっと」
 サキチは俺が会社に行っている間、周期的に一人暮らしの老人の家を回っている。それを聞いた当初は俺の他にもカモにしている人間がいるのかと思ったが、違った。
 餌をくれるなりして縁のあった一人暮らしの老人相手に、普通の猫の振りして話を聞いてやり、その死期を嗅ぎ取ったら傍にいてやり、一日後か二日後か、死が間近になれば老人の家から親族に急を報せてやる――
 サキチは化け猫のくせに、そんな“ボランティア”をしていた。
 サキチのしゃがれ声をうまく死を迎える老人の声と聞き違えてくれればいいが、ほとんどは悪戯電話と思われるだけらしい。それでも虫の報せと思ってくれれば幸いだが、親族が老人の死を看取りに着てくれるのは十に一度あればいいという。
 何でそんなことを? と聞くと、サキチは言った。
『命生まれ出でる時は、必ず誰かが傍にいる。それなのに死ぬ時は独りというのは寂しいだろう?』
 こいつと付き合って一年。今になって思うが、それはもしかしたら、最初の飼い主を富士山の宝永大噴火の年に亡くしたと言うサキチが、本当は自分自身が一番そう感じていることなのかもしれない。
 独りで死ぬのは、寂しいと。
『良かったな、ヨシユキ。お前は運が良い。吾が輩はお前が死ぬまでお前に飯と酒を用意させ、ふろ〜らるな香りのシャンプーをさせてやる。だからお前がこの先どんな人生を送ろうと、お前が誰にも看取られず寂しく死ぬことはないよ』
 そしてその時、サキチはそうも言った。体よく死ぬまで俺からたかり続けることを正当化された気もするが、それでも悪い気はしないことを、サキチは言った。
 ……そうだな。
 将来、誰か一人でもこうやって空に昇る俺のことを見送ってくれる奴が確実にいるというのは、それが例え化け猫だったとしても、うん、幸せなことなんだろう。
「ヨシユキ帰るぞ。もう六日もシャンプーをしてない。今日は念入りに洗ってくれ」
「はいはい。かしこまりました」
 俺は自転車のスタンドを蹴り、サドルにまたがり、ペダルを踏み込んだ。カゴの中の重い荷物にハンドルが取られそうになるのを慌てて修正し、走り出す。
 去り際に火葬場の窓に反射する太陽が目に入った。
 今日はいい天気だ。空に昇るのも気持ちいいだろう。
 見知らぬ気のいい婆さん。どうか安らかに。
「それにしてもお前、本当にシャンプー好きだよな。おかげで毎日毎日面倒臭いったらありゃしない」
「面倒だと? 何を言う。清潔第一、これは基本ではないか」
「そうは言ってもなあ。あんまりシャンプーしすぎると逆に悪いらしいぞ、猫にとっては」
「フン、そこらのやわな猫どもと同じにするな。吾が輩は悪霊も黙る化け猫様ぞ」

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