A-03 公主と鸚鵡

 長安の都は晩夏であった。繁栄をきわめた大唐帝国は、いまだまばゆく輝いていた。落日の燃える空のごとく、傾国の美女の微笑のごとく。
 祝福の歓声。馥郁《ふくいく》と香る花吹雪。バクトリア産の駱駝《ラクダ》に揺られて、遠い異国ウイグルにとつぐ花嫁は地上に舞いおりた天女のごとく麗しかった。白い半透明の羊脂玉《ジェイド》の髪飾り、黄褐色に血のような斑点がうかぶ鼈甲《ベッコウ》のかんざし、星が瞬く夜空を思わせる瑠璃《ラピス・ラズリ》の耳飾り、蜜色の涙がこぼれた琥珀の数珠。沈香と麝香の混じりし吐息は夜明けの夢のごとし。絲綢之路《シルクロード》の交易で帝国が手に入れた栄華を身にまとうは、皇帝の妹である太和公主であった。
 ウイグルの騎馬隊が勇ましく先頭をきり、つづいて高貴な花たる公主と騎乗した侍女たち、その後をウイグルの可汗への贈り物を積んだラクダ隊がゆるゆると春明門にむかっていた。それは帝国の威信をかけた長大かつ豪勢な花嫁行列だった。
 門を通り抜けるとき、こらえきれず公主はふりかえった。ふりかえるのはこれが初めてであり、最後になるだろう。目に焼き付けておきたかった。だが、絢爛と咲き誇る大輪の牡丹のごとき都が、雨にけむるようににじんでしまう。頬をつたう涙の熱さ。
 ――さらば、我が故郷よ。



 太和公主が異国に嫁ぐ運命を告げられたのは、旅立ちのわずか一ヶ月前のことであった。

 けたたましい鳴き声が沈黙を破った。宝石より貴重な南国の貢ぎ物、人の声をまねるという鸚鵡《オウム》が竹細工の鳥籠の中でわめいている。それは彼女の代わりに、ままならぬ運命に抗議しているようだった。
 夏のきらめく陽射しが床に踊る。部屋には兄妹ふたりだけの影。 
 彼女は清らかな睡蓮のごとき顔をあげた。
 皇帝の顔は前に会った時よりもやつれていた。目には苦渋がにじんでいる。妹の幸せを願う兄であることより、この大帝国の皇帝としての責任を果たさねばならないからだ。
 古来より、公主は国境をおびやかす異民族の王への最も高貴な贈りものであった。ウイグルは、その異民族国家のひとつであり、今までにも三人の公主が送り出されていた。そして四人目となる公主は、彼女の姉――永安公主のはずであった。
 嘆く姉を不憫に思っていたが、運命とはわからぬもの。長安を発つ前に婚約をしていたウイグルの可汗(王)が死去したのである。これで白紙に戻ったかに思えたのだが。
 その一年後にウイグルの使節団が長安にやってきたのだ。新しい可汗の花嫁として永安公主を迎えるために。だが、ふたたび遊牧民の野蛮な国に嫁がされることを怖れた永安公主は、すでに道教の道師となって世俗を捨てた後であった。
 皇帝の十七人の姉妹のうち、結婚できる年頃の公主は彼女しかいなかった。
 駱駝の毛で織ったやわらかな布地、金襴織り、黒貂の毛皮、翡翠の帯、駱駝五十頭、ポニー一千頭。それが唐の公主を購うためにウイグルの可汗が差しだしたものであり、皇帝は同盟を結ぶためにすでに受け取ってしまっていた。
 どうして断れようか。重圧に耐えている兄をこれ以上、苦しませたくはない。
 だからこそ、彼女は朗らかな声をだす。
「兄上、ウイグルには私が参ります。御存じの通り、私は宮城に閉じこもっていることを好みません。ウイグルは名馬の産地。私を乗せて天に駆け上る天馬もおりましょう。草原を風となって駆ける楽しみに勝るものがあるでしょうか。ですから、兄上。ご安心ください」
 皇帝は彼女の手を握りしめ、涙ぐんだ。
「ウイグルは昔日のように強国ではない。時機がくれば、お前を連れ戻そう。いつか、いつか、必ず」
 鸚鵡の甲高い声が、昼下がりのけだるく微睡む空気を切り裂いた。彼女の代わりに嘆くように。沙漠の蜃気楼のごとき約束よ、と。
 唯《ただ》、ほの白い容《かんばせ》に浮かぶのは、運命を諦観した微笑であった。



 乾いた風が砂礫《されき》を巻き上げ、吹きあれる。
 木は一本も生えてはいない。川や泉を探しても無駄だ。ここには水が出る場所はない。ただ、びょうびょうとうねる枯れ草の海と墓標のごとき赤茶けた岩石があるばかり。
 故国の面影はどこにもない。

 太和公主は避暑で宮城を離れる以外は、都を出たことがなかった。旅は書物と絵画のなかにあった。たとえば、しらじらと明けゆく稜線の優美さ、夕暮れ時の竹藪のざわめき、切り立った崖にカモメが舞い、潮騒がとどろく。それらはすべて季節によって移り変わる花鳥風月の美にあふれていた。
 彼女の旅は、絵でみた通りであった。長安の都を離れ、草原の国ウイグルを目指して北へ北へ。その道のりは変化に富んで、彼女の目を飽きさせなかった。しかし、隠山山脈を越えると、そこはもう帝国の領土ではない。短い夏がおわったゴビ沙漠が果てしなく広がっていた。初めて目にした沙漠の壮絶な落日には、息が止まりそうになったものだ。
 だが今は冬。彼女の目は何も映さない。荒涼とした沙漠の風景さえも。視界を白く覆いつくす吼え猛る吹雪のせいで。
 長い一日が暮れても、次の日もまた同じことのくりかえし。いつしか旅の情景を詩に詠むことも、長安の都を想いながら月を見上げ、チターを弾くこともなくなった。
 いつ終わるとも知れぬ旅は、霜焼けの手とおなじく、彼女の感覚を奪っていく。
 それでも消せないものがあった。胸を刺す一つの詩があった。肌を刺す凍てついた風よりも痛切に。

 願わくば 黄鵠となりて 故郷に帰らん。
 
 遙か昔にこの詩を詠んだ、草原の王に嫁がされた漢の公主のように渡り鳥に想いを託したくとも、彼女が見上げる空には鳥も飛ばぬ。
 沙漠を渡る風が慟哭するばかり。



 長安を出発したのは夏の終わりであったが、ウイグルの首都カラバルガスンに到着したときは、すでに真冬となっていた。
 婚礼の日。長安の流行であった胡服の衣装ではなく、ウイグルの衣装をまとって民衆の前にあらわれた唐王朝の皇帝の妹は、歓呼とともに迎えられた。
 太和公主は、可汗(王)とならぶ権力をもつ女王《ハートゥン》となった。
 食べるものも着る服も習慣もなにもかもが違う地平線の彼方の国に嫁いだ公主は、幸せだったのだろうか。草原の王のことを愛したのだろうか。宮廷の柔和な男とは違う、悍馬のごとく荒々しい草原の男を。
 王朝の年代記には公主の結婚生活がたったの二年で終わったと記すのみである。
 
 春が再びめぐってきた。南から渡り鳥が帰ってくるように、新しく即位した可汗を祝うために唐の使節団がウイグルの都を訪れた。公主が心待ちにしていた故郷の便りをたずさえて。
 だが、ひさしぶりに太陽のように明るく輝いた顔は、故郷の知らせを聞いた途端に曇った。
 彼女の夫が亡くなった年に兄である皇帝も崩御したというのである。
 ――あのときの約束は、やはり沙漠の蜃気楼だった。
 守られぬ約束だと知っていたというのに。兄がきっと連れ戻してくれると約束してくれたから、異郷での孤独に耐えられたのだ。心にぽっかりと空いた虚ろの大きさに彼女は呆然とした。
 使節団は長安の都へと戻っていった。
 その隊列のなかに太和公主の姿はなかった。
 新しく皇帝になった彼女の甥は、ウイグルとの同盟を維持することを望んでいたのだ。
 短い夏が終わり、雁の群れは南へと向かう。
 彼女は草原に独り取り残されて、詩を口吟《くちずさ》む。

  願わくば 黄鵠となりて 故郷に帰らん。



 公主の容《かんばせ》は、睡蓮のように清らかな白であった。
 故郷を離れて、二年の歳月が流れ、夫は戦で命を落とした。公主は自らの手に小刀を握り、顔に傷をつけた。それがウイグルの服喪の儀式であったから。
 ――睡蓮はもう白くはない。一筋の血が流れ、顔に一つの傷。
 最初の夫の弟に嫁がされ、故郷を離れて八年の歳月が流れた。
 二番目の夫は、暗殺で命を落とした。
 ――睡蓮はもう白くはない。一筋の血が流れ、顔に二つの傷。
二番目の夫の甥に嫁がされ、故郷を離れて十七年の歳月が流れた。
 三番目の夫は、臣下に裏切られ自ら命を絶った。
 ――睡蓮はもう白くはない。一筋の血が流れ、顔に三つの傷。
 四番目の夫は、どうなった。
 嫁ぐ前に侵略者の手にかかって血祭りに。
 ――睡蓮は白いまま。血の海のなかで、清らかに咲いていた。



 カラバルガスンの都が燃えている。
 衰退したウイグルにかわって、草原の覇者となったキルギス軍の放った火によって。
 生きのびたウイグルの民は同盟国である大唐帝国を頼って南に向かった。
 そのなかには太和公主の姿もあった。ようやく夢見てきた故郷に帰ることができるのだ。命がけの逃避行ではあったとしても。



 太和公主が二十年ぶりに帰国を果たしたとき、長安は春であった。
 春明門を通って都に入った。旅立ちのときに目に焼きつけた情景が彼女を迎えた。
 帰還を歓ぶ声の波。馥郁《ふくいく》と香る花吹雪。まるで、時をさかのぼるようだった。
 だが、出迎えてくれた皇帝は、兄ではない。彼女もあの頃と同じではない。二十年の歳月が流れたのだから。
 このときをどれほど夢見たことだろう。
 なのに、彼女の心は晴れなかった。悲しみに引き裂かれていた。
 なぜなら、彼女は地獄を見たから。

 帝国の国境までたどりついたウイグルの難民は十万人ほどであった。
 彼女は唐王朝の公主であるよりも長くウイグルの女王として生きてきた。
 民は彼女を母と慕い、彼女は民を子どものように慈しんできた。
 ああ、それなのに、祖国はどんな仕打ちをしたか。
 帝国の軍隊によって、彼女の民は虐殺された。
 血の海の中、呆然と立ちつくしていた彼女は、帝国の将軍によって助け出された。
 彼女が公主だったから。
 ――最後の最後で見捨てたのだ。


 けたたましい鳴き声が、熱に浮かされた浅い睡りを破った。
 ――ああ、夢だったのか。
 けだるく肩だけを起こした公主は、窓辺に置かれた皇帝からの贈り物である竹細工の鳥籠を見た。鮮やかな羽根は雨に濡れた森の色。南国の密林から連れてこられた鸚鵡《オウム》が甲高く叫んでいる。
 公主は鳥籠を開け、鸚鵡を空へと放った。
 故郷に帰してあげたかったのだ。
 だが、南国の密林よりも宮廷で暮らした方がすでに長い鸚鵡は、ちかく庭園の木にとまって羽繕いをしていた。
 彼女はほろ苦く笑った。 

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