A-10 空を見あげて



 人はね、死んだらみな空に還るんですよ――


 そんなつぶやきは、けたたましいサイレンの音にかきけされた。
「どうです? 落ちつきましたか?」
 少々ひげを蓄えた、初老の男が俺に尋ねる。俺は何故か、その男の隣に腰かけていた。
 ぼう然としたまま、眼前の風景を見つめる。目の前には、人だかりに囲まれて地面にへたりこんでいる女の姿があった。
 そして、その女の胸の中で、赤黒い物体が、強く、彼女の白いワンピースをまっ赤に染めあげるほど強く、抱き締められていた。
 喧騒の中、彼女は美しかった。背中に達するほど長く、そして流れるような髪は太陽の光を受けて輝き、絹のようにきめ細かい肌が見る者の目を細めさせる。
 彼女の表情は悲しみに沈んでいる。目をつぶり、頬をつっと流れる一筋の線は、抱き抱えられた『俺』の身体に染み込む。
 彼女が抱き抱えていたのは『俺』であったものだった。もはや身体は原形を留めておらず、手足はあらぬ方向を向いている。おびただしい量の血液が流れ、彼女の白い肌を赤に汚す。
「何で、俺がいるんだ?」
 つぶやきのように、発せられた言葉。目の前で血塗れになっているのは俺だ。そして、それを抱き抱えているのは、妻の美和子だった。
「まぁ、仕方ないです。あなたの死は予定通りだったのですから。例えそれをあなたが望んでいなくとも、決定事項は覆すことができません」
「よ、予定通りって何だよ!」
「その通りの意味ですよ。ああ、自己紹介が遅れましたね。私は名を持ちませんが、空への水先案内人の役を務めています。案内人とでも呼んでください」
 丁寧にお辞儀する案内人とやら。俺はますます混乱する。
「一体、何がどうなってるんだ。俺は美和子と買い物していただけじゃないのか。何で、何でこうなってるんだ」
「現実を見なさい。あなたは見ての通り、妻をかばい、暴走トラックにはねられて死にました。トラックの運転手は酒を飲んでいましてね。時速は法定速度の二倍だったそうです。あなたは即死。社会的には、悲劇の若者といわれるのでしょうかね」
 案内人の言葉で、直前までの記憶がよみがえってくる。
 久々に休みが取れて、彼女と一緒に買いものに出かけた。これからのことを考えて、必要だと思うものを一生懸命二人で考えて、ああだこうだ言いながら、幸せを噛み締めながら、二人寄りそって歩いていた。
 それで、急に真後ろから甲高いブレーキ音が聞こえて、訳の分からないまま俺は美和子を突きとばしたんだ。何故だか、そうしなくてはならない気がしたから。
 痛みなんてなかった。気がついたら自分の亡骸と美和子を見下ろしていた。そして、隣にはこの男がいた。
「もうすぐ、結婚式だったんだ」
 やめろ、と心の中の俺が叫ぶ。駄目だ、言っちゃ駄目だと警鐘を鳴らす。
 けれど、俺の口は止まらない。誰にとも言うわけではなく、ただ言葉が口から溢れでる。
「うちの両親と、美和子の両親と、仲のいい友人呼んで、ささやかだけど、それでも幸せいっぱいな結婚式を挙げるつもりだったんだ。純白なドレス姿の美和子に、俺がさ、がっちがちに緊張しながら愛を誓って、指輪を交換して、誓いの口づけをするはずだったんだ」
 案内人は黙って俺の話を聞いていた。彼は何も言わず、隣で俺を見下ろす。
 美和子は俺の亡骸にしがみついたまま、救急車に乗った。美和子が、離れてゆく。それに従って、心の抵抗も弱まる。
 言ってはいけない。これ以上、言ってはいけない。
「子供もさ、できてたんだ。できたって美和子が言ったとき、ホント俺、嬉しくて。思わず泣いちゃうくらい嬉しくて。立派な親父になってやろうって、育児の本、仕事の合間に読み漁ってさ。美和子と二人、絶対に幸せにしてやろうって思ってさ」
 決定的だった。
 この言葉は、自分自身の死を受けいれる言葉。これでもう、俺は生きてゆくことはできない。美和子と、そして生まれてくる俺の子供と、共に歩んでゆくことはできない。
 沈黙が降りる。野次馬達の喧騒も、耳には届かない。
「……少し、寄り道でもしましょうか」
 俺の意識は、そこでかき消された。

 ***

 気がつけば、俺は広い野原に立っていた。隣には案内人が立っている。
「ここは?」
「見れば分かりますよ」
 俺は辺りを見渡した。最近では珍しいだだっ広い草原。おもむろに歩きだす。心地良い風も、草木の淡い香りも、眩いほどの太陽の光も、感じることができるのに、それは空気を掴むかのような感覚で、ああ、俺は死んだんだな、と強く意識させられる。
 全身で目一杯自然を感じようとしても、それらは身体をすり抜ける。追い掛けても、どれだけ追い掛けても、するりと俺の手から逃げてゆく。
 この野原は高台にあった。草原の端からは、眼下に広がる街を一望できた。
「俺の、街だ」
 ここ久しく、帰ることもなかった故郷が、俺の目の前に広がっていた。相変わらずの寒村で、人口はどんどん減っていく過疎地で、けれど、例えどんな大都市であっても代わりにはならない大切な俺の街。
 しばし、言葉を失う。俺の故郷は、記憶よりもさらに寂れていた。
「懐かしそうですね。八年ぶりですか」
 高校を卒業して、この街を飛びだした。大学進学をたてに、地元で就職させようとする親の反対を押しきり、大阪に出た。東京ではなく、まだ故郷に近い大阪にしたのは、心のどこか後ろめたい気持ちがあったのからかもしれない。
 それでも、俺は当分この街に戻ってくる気などさらさらなかった。美和子と結婚話も、挙式までの日取りは勝手に決めて、式の当日には会場まで親に出て来てもらうつもりでいた。
「死んでから戻ってくるなんてな」
「死んだからこそ戻るんですよ」
 その言葉に、案内人の方に振り返る。微笑を浮かべ、何を考えているのか分からない老人の顔。きっといつもの俺なら、この老人に対し苛立ちを覚えるだろう。しかし、何故かこの時、俺はこの老人から温かみを感じた。死んだことで、心が弱くなってしまったのかもしれない。
「少し、歩きましょうか」
 刹那、俺と案内人は街のど真ん中にいた。相変わらず寂れた駅前。辺りに目をやると、昔からあったたばこ屋はまだ潰れていないようだ。
「何でもアリなんだな、死ぬと」
「空へ帰る前の、ちょっとした寄り道ですよ」
 そう言って、案内人は歩きだした。黙ってあとをついていく。
 商店街は、シャッターを下ろした店が目立った。小さい頃、よく友人と通っていた駄菓子屋も、店を閉じていた。
「あそこは、店主が二年前に亡くなったのですよ」
「え?」
「彼女の魂を、空まで案内したのは私なんです」
「……そうか」
 黙って、再び歩みを進める。記憶のままの場所。記憶と変わっている場所。例えそのままでも、変わっていても、俺の故郷であることには変わりない。
 死ぬ前に、一度訪れれば良かった。下手な意地なんて張らなきゃよかった。そんな、後悔の念がじんわりと広がる。
 案内人が足を止めた。その先には、俺の実家があった。
「あ……」
 気付いた。そう言えば、親にも八年間、一度も会っていないことに。電話はしていたが、帰る帰ると言いながら、結局は一度も帰ってこなかったこの家。
「親より早く死ぬなんてな。最期まで、親不孝者だったなぁ」
 自嘲気味に、俺は笑った。八年だ。会おうとすれば、いくらでも会えた。
「人生、何が起こるか分かんねぇよなぁ」
 じっと、案内人が俺を見つめていた。憐れみか、蔑みか。いずれにせよ、彼が何を考えているかなんて、俺には分からない。
「次、行きましょうか」
 俺は黙って頷いた。

 ***

 都会の喧騒の中に、俺と案内人は立っていた。
「次は、ここか」
 見渡す限りの人、人。天下の台所、大阪は故郷と違って人が多い。
「ええ、あなたが最期の八年を過ごした場所ですからね」
 こうも、毎度癪に障る言い方をするもんだ。けれど、不快感は全くない。死んでしまうと、感情すら欠如してしまうのだろうか。
「それは、あなたの意識次第ですよ。肉体から離れた魂は、無限の可能性を秘める。無に帰してしまうこともあれば、再び個として存在することもある。それはすべて、あなた次第のことなのですよ」
 人ごみに流されるように、進んでゆく。正しく言えば、人の中に漂っているのだが。
「肉体と肉体。魂と魂は交わることができます。しかし、肉体と魂。魂と肉体は決して交わることはありません。二つは同時にあってこそ『人』であり、また同時にないが故に『人』は死するのです」
 俺は、通っていた大学の前で足を止めた。地元を飛びだしたい一心で勉強し、合格したこの大学。単位が危なくて、留年の危機にも陥ったりしたけど、何とか卒業することができた。
 そう言えば、ここで美和子と出会ったんだなぁ、と俺は敷地内に足を踏みいれた。
 学生食堂で、たまたま隣に座ったのが美和子だった。無口で、色白で、学内でも噂のお嬢さまだった。
 地元の高校では、こんな静かな女なんていなかった。その分、隣に座るお姫さまにどうしたらいいか分からず動揺し、コップを倒してしまったんだっけ。
 彼女の白いスカートにお茶がこぼれて、ああ、確か衆人観衆の前で思いっきり土下座したんだっけな。彼女、突然のことに顔をまっ赤にして「立って下さい、お願いですから」って、俺ホントバカみたい。
 そこから何だかんだで仲良くなって、実は取ってる講義も一緒なのが多くて、気がつけば付きあいはじめてたんだっけ。
 初めて親御さんに挨拶したときは緊張したなぁ。まさか見た目通り、お嬢さまだったとは。バカでかい門に、開いた口が塞がらなかったね。
 親父さんの方がめちゃくちゃいかつくて、思わず土下座して「頼みます、娘さんを、美和子さんをください」なんて言ったっけ。なんか、土下座多いなぁ。確かその時、親父さんはいつかの美和子と同じように顔をまっ赤にして、「頼む、お願いだから立ってくれ」って。美和子は隣でニコニコ笑ってた。たぶん、全部予想してたんだろうな。
 大学を出てから、ふらふらとさまよう。案内人は黙ってついてくる。
 きっと彼は、この世の未練を無くすよう、俺の想い出の地巡りをしているのだと思う。最期の別れを告げるために、想い出の地を回るんだ。
 環状線がすぐ近くを通る、2DKの小さなアパート。大学を卒業して、何とか職を見つけて、俺と美和子が住んだ部屋。
 最低限の物しかなくて、中は結構ガランとしてる。けど、ここには美和子との大切な想い出が沢山詰まっている。
 勤めだして間もなく、美和子が真っ青な顔して帰ってきたことがあった。何ごとかと尋ねると、美和子は自分のお腹に触れて「子供ができたの」とか細い声で言った。
 忘れもしない。あのときの俺は、とんではねての大喜びだった。階下の住民が文句を言いに来るほど、俺は歓び狂ったっけ。
 すぐさま籍を入れた。出産までに式を挙げれるように、金が必要だったから死に物狂いで働いた。
 そんな俺を、美和子は心配そうに見ていたけど、きっと幸せに感じていたと思う。世界から見たら、ちっぽけかもしれない俺達は、それでも確かに、世界で一番幸せだったはずだ。
 俺は想い出に蓋をするように、部屋を後にした。


 気がつけば日が傾いていた。俺と案内人は、最初の場所に戻っていた。野次馬達はいつしかいなくなり、現場には俺の血の跡しか残っていなかった。
 空は見あげた。光化学スモッグで、日の光はどんよりとしていた。美しかった。
 頬を涙がつたう。俺は何を哀しんでいるのだろうか。美和子との別れ? 生まれくる我が子を抱けないこと? それとも、未来の喪失?
 考えても、答えは見えない。ただただ分かるのは、俺は帰らなくてはならないと言うことだけだ。
「そろそろ、行きましょうか」
 案内人は、すっと空を指差した。
「空は美しく、そして残酷です。しかし、死の先にあるのは再生。なにも絶望する必要はありません。空には、希望があります」
「そう、だな」
 
 たまにでいいから、空を見あげて欲しい。空に還る想いを感じて欲しい。
 俺は、空へ踏みだした――

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