D-03 鏡からの訪問者

 鏡は古来から別の世界と繋がっていると言われている。
 それはただの作り話ではなさそうだ。


 部屋の洋服ダンスの観音開きの戸、その幅の狭い小さな片方を開けると細長い鏡がある。

 全身の映るその鏡を茗《めい》は覗き込んでいた。
 見慣れた自分の顔が明かりのつけない部屋の中にぼんやりと映し出されている。
──再発。
 その言葉を意識しただけで胸に痛みが走る錯覚を起こす。偽物の痛みだが明は胸に手を当てぎゅっと目を瞑る。
 目を開くと、自分の鏡に映る顔に違和感を覚えた。

 ん?とびったり鏡に手を置いて覗き込んでしまったが、見る見るうちにそこにあった自分の顔まったく別の顔になっていく。
 え、嘘……何これ。
 と同時に鏡に付いた手の平に、なぜかぬくもりを感じ始めた。
 それどころかその自分より少し年上の男の顔は、こちら側に出てきそうな勢いで近付いてくる。
 いや、それどころか宙になびく前髪の最初の一端からごく自然のようにその男は鏡から出て来た。
「ぇ……な……」
 すっと伸ばされてきた男の手が、恐怖と困惑で後退る彼女の手首に触れ、そのまま顔の方に伸ばされた。
 何かに額を貫かれた感覚の後、茗の意識はそこで途切れた。


 目が覚めると、自分の布団の中で朝になっていた。
「学校でも気をつけてなさいよ」
 なんて送り出される。
 学校にはまだ行けるけど、健康体じゃないことを朝から思い知らされた感じがして少し落ち込んだ。
 それでも昨夜のことを思い出すと意識がそれて気は楽になっていた。夢だったのか本当にあったことなのか今思い返してもあやふやで、けれど顔だけははっきりと脳裏に焼き付いている。
 これが本当ならそれこそ、
「運命の人……みたいだなあ」
「またリョーコはぁ──」
 弾み出てた呟きを、友達は勘違いしたように言う。
「私じゃないってば、今のは茗」
「茗?! うっそぉ!」「え、え、えぇ?」
 自覚のない発言を指摘されて思わず聞き返す。
「いま確かに聞いたわよ。教えなさい」
「なぁにがあったのよ!」
「きゃっ、ちょっと!」
 のし掛かるように両側から肩を組まれた拍子にバランスを崩しそうになり、茗は声を上げた。
 どうなのと問い詰められながら苦笑気味にそれでも歩いていると、視界の先に見覚えのある人物が道の端に寄り掛かっている。
 そんなはずないかと思ったが目が離せず、確かめるように目を凝らした。
 見間違うはずもなく、今尚脳裏に焼き付くその顔は、二つの眼を伏せていた。
 まだあーだこうだ言っている両脇の二人の声は遠のき、前を通り過ぎる瞬間ぱちりと開いた目と視線が絡んだ。
 やっぱり……絶対あの人だ。でもなんでこんなところに……。
 一瞬の間の思考が頭から過ぎ去ると同時に、男の目が無機質に違う方向に向けられた。
「──ぇねぇ。の人、ちょっとカッコよくなかった?」
「うん、イケてた。ビジュアル系? に近いけど、爽やかクールって感じもしたし」
 二人のひそひそと囁き合う声に我に返った。
「ね、茗。イケメンだったよね」
「……あの人だ」
「知り合い?!」
 ユニゾンのように重なる二つの声で詰め寄られる。
「……夢? の中に出て来たの。鏡を覗いてたら、鏡の向こうから人が出て来たとこまでで目が覚め……たんだと思う」
「え、そんな曖昧な」
「だってなんか鮮明でさ」
「あー、そういうこと」
「え、何がよ」
 妙に引っ掛かる言葉にムッとしながら尋ねた。
「なぁんか今日の茗、おとなしいなぁと思ってさ」
「てか、ブルー入ってる感じ? みたいな」
 なんとなく痛い所を突かれたが、続く話を聞くとそれは杞憂に終わった。そればかりか話はとんでめない方向に向けられ茗は慌てふためいた。
「恋わずらっちゃってたわけかぁ」
「そっかぁ、茗運命感じちゃったんだあ」
 溜め息まじりにニマニマと向けられる笑顔が怖く見えた。
「ちょちょ、ちょっと待ってよ。私は、ほら、夢に出て来た人が目の前に現れたら運命の恋にぃなんてヤツぅ? 漫画とかなんかでよくあるじゃない。だから──」
「だからぁ、つまり王道的パターンで、恋に落ちちゃったんじゃないの? 茗そういう漫画好きだもん」
「一緒に回し読みするくせに」
「でもカッコよかったし、いいんじゃない?」
「ああ、青春」
「もう、なんでもいいけど、遅刻しちゃうから早く行こ」
 手を組んで目を輝かせている二人の背中を強引に押したが、顔は真っ赤に染まっていたと思う。
 授業中も胸の痛みを思い出すと今にも締め付けられる苦しさが迫っているような気がしてしまっていたが、それでも焼き付いた顔は離れない。
 どんどん意識していく中で、昨夜の夢と思われる記憶と朝の光景が繰り返し何度も再現され続けた。


 絶対おかしいと思ったのは五回め。二度目は放課後の家の近くで、三度目は買い物の帰りにすれ違い、四度目は道行く人の中に見つけた。
 そして今日、校門を出たところで近くの角をさっと曲がる後ろ姿が目に入った。
 後をつけたというよりは後を追いかけた形で私は駆け出した。といっても体のこともあるからそっと。
 近くの土手の上にあがって見回していると、唐突に背後から声が掛かったので茗の体は跳ね上がった。
「何か用か?」
 紅く染まる西の空に映える漆黒で艶やかな髪と、一際魅くワインレッドの瞳に、時間を忘れるほど釘付けになった。
 薄暗い中では分からなかった特徴が、夕やけの光りに際立つ。
 片眉をつり上げ顔は怪訝そうにややしかめられた。
「え、あの、えっと……そのっ」
「あっれぇ灰無《かいな》、奇っ遇じゃ〜ん!」
 さらに後ろから声を掛けてきた少年に驚いて眼が丸くなった。
「都破《とば》くん!?」
 半月前に転校して来たクラスメイトの屈託のない顔がそこにはあった。
「原瀬さんまで。こいつね俺のイトコでさ、親父さんの転勤でこの近くに来るんで、色々下見に来てるんだ」
「それで。あ、初めまして! 原瀬茗です。ごめんなさい、最近よく見掛けるものだから、なんか気になっちゃって」
 自分のしたことがなんだか恥ずかしくなって、勢いよく捲し立てた。
「……」
「ほら、名前っ」
「……灰無《かいな》」
 小声で小突かれていたが、自己紹介はそっけなく終わった。
 気にすることもなくなって、目の前の人物にばかり意識がいくことを覚えた。
「じゃあ。都破くん、また明日ね」
 慌てて話を切り上げ、なるべく平成を装いつつそそくさと茗はその場を立ち去った。
 一人であっても、気がつけばあの顔が離れない。なんだろう、顔が熱いような気がした。
 駆け去るそんな茗の姿を見えなくなるまで、二人は黙って見ていた。


 次の日のお昼休み、都破は突然人気のない屋上へ続く階段に茗を呼び出した。
「お願い?」
「昨日のイトコの話、覚えてるでしょ? 原瀬さん家も近いし生まれた時から住んでるから、この辺りの事詳しそうだからさ、色々案内して貰えると助かるんだよ。なんせ俺だって越して来たばっかだろ? 誰かに頼もうと思ってたんだ。放課後とか、土日とか付き合ってくれないかな」
 あまりに突飛な話に内心慌てふためいていたけど、茗はなぜか断る気にはならなかった。
「……放課後はちょっと。土日なら3時間くらいならいいよ?」
「うっし決まり! サンキュー」
 手を上げて大喜びしながら、彼は階段を駆け降りて行ってしまった。
 そんなやりとりがあって、土日どうするかと考えて校門を出ると、はっきりと残る記憶に違わない人物を見つけた。
 それだけで心拍数は一気に計測外まで跳ね上がる。
「よぉ」
「こ、こんにちは! 都破くんならもう少しで出て来ると思うんだけど──」
「ちょっと、付き合ってくれないか?」
「は……」
「──恵太に聞いてないのか?」
「あーぁ、聞いてます。……いっか。えっとどんなところが見たいですか?」
「とりあえず歩きながら案内してもらえると助かる」
 変な感じ。率直な感想はそんなとこ。
「普通に喋ってくれ。敬語はいらない」
 自分の、夢に出て来た人間が現実にいて、ひょんなことから今隣りを歩いているというのは、なかなか奇妙な気持ちがした。
 外見と最初の挨拶の印象からすると、驚くほど話し上手のようだった。なんの目的もなく歩きながら町を案内して、あれはなんだこれはなんだと気がつけば熱心に尋ねて来る傍ら、茗への話題の引き出しも忘れない。結構な私情話が口から滑り出てしまったと、今更ながら失礼かとも思いつつも尚も話していた。
 小さい頃の思い出、失敗した談や今でも残る嬉しかったこと、入院の記憶……。
 どうしてだろう。あとからあとから話しをしていたい衝動が湧いて来て、止まらない。
 彼はうまいタイミングでさりげない相槌を売っては話を聞き入っていた。
「例えば、いま自分が死んだら、どうする?」
 突然の、自分にとってあまりに現実味を帯びている質問に茗の全身が総毛立った。
 ざわざわとする心を落ち着かせようと、彼女の頭はいっぱいになった。
「何か問題アリ……だな」
 胸のところまで上がっていた手に、温い感覚が落ちる。
「……」
「あたし、あたし……」
 急激に均衡の崩れた心を、包むような暖かさがふわりと覆う。
 男の腕の中に、抱き締められたのだと分かるまでには時間が掛かった。
「……ぜだ?」
「──ぇ?」
「いや、何でもない。落ち着いてきたようだな」
 上から覗き込むその顔は、今でもはっきり目を閉じても焼き付いているほどなのに、歪めてもいないのにどこか切なく、儚げなものだった。
 眼が絡み合ってしまうと思うほどに、お互いの視線が一つになる。
 腕に強く力が込められて、茗はまた、彼の胸に顔がうずまる。
 何か耳元で言われた気もするが、聞き取れない。
 しかし次の言葉ははっきりと届いた。
「俺は、死神だ」
 ありとあらゆる感情が心の中で渦を巻く。
 無意識に茗の手は目の前の胸を突き放していた。
「な……何? 死神って」
「命数尽きる魂を狩る者。それが死神だ」
「あなたが……死神?」
「そうだ」
 俯いて頭に静かな声で答えられる。
 茗はその場から走り出していた。
 ベッドに投げ出した体が、すごく重く感じる。
 好きになってた。いつのまにか、好きになっていたのが、今ではよく分かる。
 本当によくある話しだ。よくある御伽話。
 頭を占領した痛みで、その晩ちゃんと眠れたかどうかは分からなかった。


 反応は確実に予想出来た。
「バっ、バレたぁ!? なっんで俺がせっかくここまで働いた成果がおじゃんかよぉ。なんでバレたんだ?」
「自分から言った」
「はぁあ!?」
 責める視線の痛さは感じなかった。
「ちょっと!」
 怒り露な口調で、二人の女子高生が詰め寄ってきた。
「茗に何したのよ。私ら昨日見てたんだからね」
「私らの友達泣かさないでよね」
「土井に英田……」
 声にやっと気付いたのだろう。男の背後にいたクラスメイトにようやく目が向く。
「都破くん」
「そーいえば今日休んでたんじゃなかったの? この人と知り合い?」
 女子高生、いわば俗に言うコギャルに近い二人はその場にいた一応のクラスメイトにさえ殺気だった睨みを見せる。
 さすがの彼も蛇に睨まれた蛙の様になっている。
「そ……それより、原瀬さんがどうしたって?」
「今日熱出して休んだのよ。聞けばなんか昔の病気の再発したらしくって、熱はヤバいって。まだ軽い程度だったらしいけど」
「あんたが原因でますます酷くなったらどーすんのよ!」
 ただ考えていただけだった。自分の胸の中で泣いた子のことを。
「ちょっ──」
「おい!」
 都破の声が遠くに聞こえたが、そんなことはどうでも良かった。
 静かな部屋に明かりを射す窓が突然叩かれて、茗は跳ね起きた。
 雪が降るかと思うほど寒い空気と灰色に曇った空と、そこには苦しさと同居する会いたい感情が形になったのかと錯覚する人の顔があった。
「大丈夫か?」
「え、あ、少し熱があって」
 肩が下るのを見て、茗はおそるおそる抱いた疑問を口に出した。
「心配してくれて……?」
 ゆっくりと伸びて来た手が、茗を抱き寄せる。
「俺は死神だが、お前を連れて行きたくない」
 絞り出す様な声を聞いたあと、目の前にはただ灰色の空だけがあった。


 部屋の洋服ダンスの観音開きの戸、その小さな片方が僅かに開いていた。
 熱く重たい意識の中、朦朧としながらも茗はそれを見つめていた。
 あの戸は開いていただろうか……ダメだ、熱い。熱さに飲み込まれる。
 一指と動かぬ体と、それを支配する熱さと苦しさに投げ出した意識の中で、何かを聞いたような気がした。
 もう意識さえすることさえ鬱陶しかったけれど、気にならずにはいられないで茗は重い瞼を意識とともに持ち上げた。
 ぼやけた視界の真ん中に、見たこともない男の顔がある。笑ってはいなかったが、無性にいつまでも見ていたいと思った。でもそれも構わず暗闇に誘う幕が何もかもを遮断した。
 目が覚めると、明るい木漏れ日が目に痛かった。
 見える場所のどこを見ても、焼き付いているあの顔はない。
 熱のせいで夢でも見たのだろうと苦笑するが、ふと見た洋服ダンスの戸は確かに僅かに開いていた。


 いつもの日常、いつも学校。それらは祝福とともに彼女を迎えた。
「全快おっめでとー!」
「もう心配ないんだって?」
「うん、心配かけてごめんね」
「なぁに言ってんの! 友達じゃん」
 たあいない日常を取り戻したようだったが、クラスを見渡していたその中に空いた小さな穴を見つけた。
「あれ? 都破くんは?」
「誰それ。ミカぁ、そんなヤツうちのクラスにいたっけ?」
「知らなーい」
「……」
 おかしい……と思うのは自分がおかしくなったのか。
 だがあの顔も、声も、気づいた気持ちもちゃんと残っている。
 そんなはずない。確かにいた……。
 あてもなくゆっくりとではあるけれど、町中探しても二人は見つけられなかった。
 それが三日、四日と過ぎて、一週間、そして二か月が経った。
 いま思えば、あの日の熱が見せた夢だったのかもしれないと、季節が移った空を舞う桜の花びらを追いながら考えていた。
 けれどそれでも解決しないものが、まだ自分の心の多くを占めている。
 初めて感じた淡くて、切なくて、消えない感情が未だに彼女に期待を持たせていた。
 似たような背格好を見つけるなりじっと追って見てしまう。
 違うと確信すると見たくないとばかり目を逸らす。そんな毎日だった。
 今日も前から歩いてきた人が、似てるような気がした。まだ遠い。
 逸らそうと思ったが、違っていた。
 間違いなく、会いたいと願っては毎夜眠りについていた探し人その人が、まさに自分に向かって歩いて来る。
 目の前まで来たと言うのに、茗の視界は揺らいだ。
「久しぶり」
 わっと泣き出し、胸にしがみついた。
 愛しい腕がそれをふわりと抱き留める。
「“人間”になるのに、これほど時間が掛かるとは思わなかった」
 聞いたばかりの言葉に、反射的に顔を上げていた。
 愛しい顔が、切なくも笑っている。
「裁きの門を潜って、人間になりに俺は戻って来た。お前と生きたくて」
「わたし、わたし、あなたの事が好きで……好きでずっと、探してた」
 彼は答える代わりに、強く彼女を抱き締めた。



『彼らに、神の祝福を──』

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