※注意※ この作品には過激な暴力描写や殺人・自殺行為シーンがあります。

B-04 冷たい頬

 あっさりとした響きで発された音の切れ端だけが、頭の隅に引っかかっている。
「可哀そ……」
 柔らかくて熱いものがどこかに触れる感覚。さほど力をかけずに、頬をふわりと撫でられた。
「……また……」
 それを言葉として捉えるには、やけにくぐもり途切れ途切れで、意味をなさない。
 ただ、幾度もそれを繰り返している事だけは、彼の中に蓄積されていった。
 

 都市部から車で二時間くらいかかる、やけに無機質な三階建ての建築物。そこは、元々かなり高名な研究所として世間の注目を浴びていた。
 ただし一年前に、研究所に所属していた若い研究者が、生命倫理に反すると研究を非難され、挙句暴漢に殺されてしまうまでのことだったが。
 現在そこで生活をしているのは、その研究者の助手を勤めていた一人の女性だけ。
 定期的に食料を届けて、作る事までやらないと、彼女は食事をしない。これだけで十分、とゼリー状の栄養剤と水を口にする。
 幾度も注意をしようかと考えたが、彼女の境遇を思えば、そんな事は出来なかった。
 師事していた博士を亡くしてから、両親を交通事故で失い、独り山奥の研究所へ引き篭もる彼女に、ただの友人という立場に過ぎない彼が出来る事など、限られていた。
 仕事が休みの度に訪れる彼と、彼の行う親切を受け入れるまで、半年以上掛かった事を思えば、この関係の脆さは考えるまでもない。
 自然と漏れるため息に首を振り、青年は無心になってアクセルを踏み込んだ。


 彼女との一週間振りの再会は、玄関先での酷く単調な会話から始まった。
「悪いな、来るの遅くなって」
「別に、気にしてない」
「作り置きしておいた食事、ちゃんと取ってたか?」
「時々」
「ルリ、お前また痩せたんじゃないか?」
「さぁ」
 冷たい響きの簡潔な返答に、素直に苦くなる表情を懸命に整えると、青年は笑顔を作る。
 肩に食い込む重さの食材を、彼女に示すため持ち上げて、彼は家に足を踏み入れた。
「キッチン借りるぞ」
 こくりと頷く彼女のうなじは白く、色素の薄い髪は首元で荒く切られている。妙齢の女性にしては色気のない印象を与えるのは、常日頃から白衣を着込んでいる為か、あるいは薄化粧すらしていないからか。
 いつ訪ねても変わらぬ白いブラウスと黒いパンツにパンプスといういでたちに多少ではなく疑問も覚えていたが、今日も口には出せず、ため息を一つこっそりと押し出した。

 料理を口に運ぶ彼女は、博士の告別式で見た横顔と、大差ない表情しか映さない。
 ルリの向かいに座って、青年もスープを口に運びながら、この家の中で唯一家庭的な雰囲気の漂うダイニングを見渡した。
 額に飾られた賞状は、かつての主の栄光と退廃を静かに物語る。
 彼の功績で助けられる筈だった人々すらも、彼の死に唾棄したのはまだ記憶に浅い。
 文字通り見捨てられた彼と研究を、彼女だけが独り守ろうとしている事の重さを、ふと彼は思った。

 一週間分の食事を冷蔵庫と冷凍庫に入れ、青年は知らず知らずの内にため息を落とす。
 何も変わらなかった、変えられなかった事の無力さを嘆くには、半年は早過ぎる、と首を振り気持ちを切り替える。精一杯の笑顔で口を開いた。
「じゃあ、また来るから。元気でな」
「さようなら、コウヤ」
 手を振って去っていく彼を最後まで見送らずに、彼女はドアを閉めた。

 友人の表情を思い返しながら、駐車場に着いたコウヤはコートのポケットに手をやり、あ、と呟く。
「おかしいな、あれ?」
 鞄をひっくり返し、ポケットに手を入れながら、ふと視線を動かした先に、探し物を発見して彼はその場で頭を抱える。
 閉ざされた車内の助手席に転がるキー。
「最悪」
 先刻別れを告げた友人の家へ、彼はとぼとぼと歩き出した。


 ルリは、軽い足取りで階段の後ろのスペースに向かい、その場に屈みこんだ。
 簡単な力で持ち上がる隠し扉から、地下へと繋がる階段を素早く駆け下り、ドアノブが回る音も気にせず、彼女は部屋に踏み込む。
 手探りで灯りを点けると、ベッドに横たわった青年を見つめた。
 眩しい光に晒されて、彼はうめいて身じろぎをする。
「博士」
「ル、リ? ここは……」
「研究室ですよ」
「あれ、確か俺は……あれ?」
 静かに彼の言葉を見守っていた彼女は、ぴくりと頬を動かし、静かにベッドに近寄る。
 枕元の水差しからコップに水を入れ、彼に優しく手渡すルリ。
「まだお疲れのようですね、どうぞ」
「ありがとう」
 何の疑いもなく水を口にした彼は、数分後、寝息を立てていた。
 ベッドの傍らに鎮座するパソコンの電源を入れ、考え込む仕草とは裏腹に、瞳は酷く感情に満ちた光を放つ。
「可哀想に……また、失敗してしまったわ」
 身体を寄せ、温かい頬に細い手を滑らせる。
「大丈夫、またやり直しますから」
 何度だって、と呟いて、彼女はそっとキーボードに指を滑らせると、彼の電源を落としていく。
 左足、右足、体幹部、右手、左手。その都度機能を停止した部分が硬い機械に戻っていく事を触れて確認しながら。
 その動作にためらいはなく、繰り返し行っているかのように、わずかな無駄もない。
 頭部の機能を止め、脳を維持させるだけにするのに、後一つの動作だけで良い。
「またね、博士」
 微笑んで動かそうとした右手を、強く捕まれた。
「待つんだ、ルリ」
「え」
 後ろから掛けられた声に瞬いて、彼女はゆっくりと顔を上げる。
「ルリ……お前、何て事を……」
 そこには、強張った表情のコウヤが、立ち竦んでいた。

 固まったその表情が滑稽で、教えてあげる、とルリは笑った。
「私には、博士が全てだった。それを、あの愚者が全てを壊してくれたの。何も理解しない、理解しようとしない人間が、一方的に決め付けて、非難ばかりして……その上、彼を奪っていった」
 止め処なく吐き出されていく言葉は、誰にも向ける事の出来なかった感情そのもの。
 今まで踏み入れたことのない領域に、意図せず踏み込んでしまい、コウヤは無意識のうちに手に力を込めていた。
 震える手を見下ろし、ルリはまっすぐに顔を上げる。
「ねぇ、貴方も、邪魔をするの?」
 首を傾げる仕草は柔らかく、幼い子どもすら思わせる。しかし、その瞳だけが冷たく光を放っていた。
「どうして? 私は何も悪い事をしていないのに、何でみんな邪魔するの?」
 言葉を何一つ発せないでいる彼への告白は、反応が安易に予想出来た。
「父さまも、母さまも……皆、私の邪魔をする」
「まさか、お前……」
「だって、邪魔なんですもの」
 浮かべる笑みは、歪んだそれ。反射的に身体が固まるほどの恐怖に、コウヤは襲われた。
 予測した通りにがたがたと震える彼に、彼女は立ち上がって向かい合う。
 左手には、喋りながら引き出しから取り出した硬質な感触。
「私は、博士だけいれば良いの。他に、何も要らないの」
 上げられた瞳はどこか虚ろで、一瞬彼の手は緊張に軋んだ。
「だから、ごめんね?」
 紡がれた謝罪を理解するよりも早く、重い音と同時に青年の腹部に、一瞬の熱さが走る。次いで襲われるのは、猛烈な痛み。
 口元へ込み上げてきたものを吐瀉すれば、紅が床を、服を、手を、染める。
「あ……ぐぁ……」
 膝を折り、その場に崩れ落ちる青年を無表情のまま見下ろして、彼女は銃口を彼の頭に向ける。
 苦悶の表情を浮かべて血溜まりに横たわる彼が、友人であった事を思い返しはすれど、心は揺るがない。
 すべては今までと同じことの繰り返し。何よりも大切な博士が戻らないのであれば、何もかもに意味はない。
「さようなら、コウヤ」
 先刻告げたのと同じ響きで、うっすらと笑みすら浮かべて見せて、そうして彼女は引き金を引いた。
 白衣の裾に飛び散った、博士と同じ名前の色に視線を落とし、ふわふわと笑うルリ。
 くるりと振り向いて、横たわったままの彼に、弾むような足取りで近づいていく。
「大丈夫です。何度でも、やり直しましょう? ねぇ、博士」
 ぺたりと膝をついて微笑む顔は、楽しさと喜びに満ちている。
 友人の前では決して見せなかったその色を、受け取ることの出来ない彼に、与え続けた。



ソラ<一日目>
ソラを起動。
挨拶とわたしの名前を教える。言われた言葉は返せるが、どのくらいきちんと理解しているのだろう。
反射で覚えるのでは意味がない。きちんと判断できるだけの基盤は、作った筈なのだが……
焦らずやっていくしかないだろう。

スオウ・カガミ





ソラ<五日目>
ソラが挨拶を自分から行った。
拙くはあるが、挨拶を行うという意味について理解し始めたのかもしれない。
一人での研究はそろそろ限界かもしれない。他の研究員を加え、ソラに観察させてみるのはどうだろう?
誰か、快く協力してくれれば良いのだが。

スオウ・カガミ





ソラ<八日目>
ルリ・アマミヤが協力してくれる事になった。積極的にソラに話しかけ、笑顔を見せてくれる。
ソラも彼女に対して興味を持ったようだ。良い傾向だ。
これならわたしも研究に専念できるだろう。

スオウ・カガミ





ソラ<二十六日目>
残念だが、研究を一旦中止せざるをえない。
中央政府の査問委員会に、この研究について出頭を求められた。向こうに行く間、ソラの世話をルリ君に頼む。
空は、わたしに始まり、彼女に終わる。
彼女と共に、再び、この記録が続けられる事を願う。

スオウ・カガミ

inserted by FC2 system