※注意※ この作品には過激な暴力描写や殺人・自殺行為、性器・性行為の描写があります。

D-05 巡礼とロバ

 晴れ渡った空を天使が行過ぎた。
「おやおや、天使が居るぞ」
 巡礼に手綱を引かれたロバが空を見上げて呟いた。巡礼はロバの言葉に空を見上げる。
「あの先にあるのはコーロだな。変な聖人の骨があるんだったか?」
 ロバが行く先に目を向けてぽつりと呟いた。
 それは自分たちの目的地である巡礼路上の都市の名だ。あまり有名な場所ではないのだが、無駄に知識のあるロバである。
「コーロにあるのは聖フラジェットの遺骨だよ」
「フラジェットね。いったいどこから持ってきた骨だ? ここのじゃないんだろ」
「さあ、確か南のほうから奪って来たんだったか、買って来たんだったか……」
 どちらだったろうと巡礼は首を傾げた。もとの仕事の関係でこういう情報には詳しいのだが、どちらにしろ元の持ち主を騙すようにして持ち出してきた品だったと思う。
「それで、コーロの聖人様はいったいどんな奇跡を見せてくれるんだ?」
「確か病を治す奇跡だったはずだけど。特に目だったような」
「それはまた、平凡な聖人様だな」
 ロバが嘲るようにくすくす笑うのを巡礼は黙って聞いていた。
 じきに遠目に街の姿が見え始める。あまり高くない壁とその中に納まった家々の様子に巡礼は少し感心した表情をした。
「なかなか活気がありそうだね」
「あるのが活気だけならいいけどな」
 皮肉屋のロバは悲観的なことを言った。


 街に入った巡礼は平らにならされた土の道を進んで教会を探す。教会は広場の側にあるのが一般的なので広場を目指す途中、路地に人だかりが出来ているのを見て足を止めた。
「なんだなんだ。厄介事か?」
 ロバが嫌に嬉しそうに言って巡礼を引っ張るように人だかりに近づいた。
「なんて酷い。まだ若いのに」
「かわいそうに。本当にいい子だったのに」
「いったい誰がこんなことを」
 人々はなにかを取り囲みながら顔をしかめ恐ろしげに口元を押さえて噂をしていた。巡礼がロバに代わって近くに居たひとりに詳しい事情を尋ねると、どうやらどこかの若い娘が殺されたらしい。腕は折られて逆向きに曲がり、目玉はくりぬかれて陰部に押し込まれ、胸や腹の一部は抉り取られてぽっかりと穴の開いた、それはすさまじい屍だったらしい。
「おやおや、悪魔のような所業だな」
 その話を聞いたロバはくすくす笑いながら言った。
 巡礼は面白がっているロバを呆れ見下ろす。
「この街に悪魔が居るのか」
「悪魔はどこにだって居るさ。ほら、あそこに一匹居るぞ」
 そこに居る人々は平凡そのものの姿をしていた。あまり質の良くない地味な服に身を包み、陰惨な事件に好奇心を刺激されながらもある程度の同情を娘に寄せている。
 ロバはそんな人々の片隅に居るひとりの男を顎で示した。
 見れば確かに男の肩に小さな悪魔が乗っていて、なにやらしきりに耳元に囁いている。それを見た巡礼はゆっくりとそちらに近づいた。
 男は焦点のぼやけた虚ろな目で屍のあったあたりを眺めていた。周囲の人々と違って彼には見ているものへの好奇心も嫌悪も同情も無い。
 近づいて行くと悪魔が囁いている言葉が聞こえてきた。
「彼らはあの娘が罪深かったことを知らない。知られないまま死んだ女は幸いだ。あの女の腹に父親のわからぬ子が居たことが知れれば周囲はなんと言ったか」
 男は眉を寄せて深く俯き、ひとつ首を振るととぼとぼとその場を去った。
 小さな子供の姿をした悪魔だけがその場に残って巡礼とロバを振り返る。
「やあ、こんにちは。巡礼さんにロバさん」
 手のひらに乗る大きさの悪魔は大仰な礼をした。
「なにをしていたんだい?」
 巡礼が尋ねると悪魔は笑った。
「なにって、ひとりの娘を不名誉な境遇から救ってやったんですよ。私生児を産むくらいなら死んじまったほうがまだ本人も身内も幸せってもんでしょう」
「さっきのは誰だい?」
「あれは死んだ娘の兄です。昨日の夜にその娘を殺した兄ですよ」
 悪魔がくすくす笑うのを見て巡礼は穏やかな笑みを浮かべると空を見上げた。
「そうか。ところで、今日はいい天気だね」
「へぇ、いい天気ですね」
 悪魔も同じように空を見上げる。
 巡礼は手を伸ばし悪魔の体を掴むとにっこりと微笑んだ。
「神の祝福はこの光のように降り注いでいる。君にも祝福があるだろう」
「じょ、冗談はおやめくださいよ、巡礼さん。わたしは悪魔ですよ」
 悪魔は突然の行動と言葉にぎょっとして暴れだしたが、手を引っかかれて血が流れても巡礼は一切動じず手を緩めもしなかった。
「神が己の創ったものを祝福しないということがあるだろうか。神は君も祝福しているよ、例え君がそれを望まなくても。わたしも君もそこで死んでいた娘も彼女を殺した者もすべてを遍く愛していらっしゃる」
 ゆっくりと巡礼が語るたびに悪魔は苦しげに身悶えた。
 神の愛は悪魔にとっては灼熱の火。肌に触れれば嫌な匂いを発する強い酸でしかない。
「いいえ、いいえ。神はわたしを愛してはおりません」
「いいや、愛している。この光のすべてが神の愛だ。その身に降り注ぐ光がわかるだろう? 光の一粒が触れるたび、君は神の愛を実感する」
 悪魔は降り注ぐ日差しから顔を隠し、呼吸を荒くして身悶え始める。捕まえている巡礼の手を引っ掻こうとするのだが、それすら苦しみに上手く行かない。 
 悪魔とは神の愛に怯えるものだ。彼らは神の愛に耐えられない。
「この日差しを見なさい、そして気づきなさい。ここは神の愛が溢れる場所だ。君は君の深淵に帰りなさい」
 穏やかな巡礼の言葉に悪魔は屈服するしかなかった。
 日は降り注いでいる。先程までなんということのなかった日差しは巡礼の言葉ひとつで悪魔にとって苦しみでしかない神の愛になってしまった。神の愛の前に悪魔は退くことしか出来ない。
 巡礼の握っていた悪魔の体が唐突にボロリと崩れ砂になった。
 どうやら悪魔は観念して深淵へと戻って行ったようだ。
「あっけないなぁ」
 巡礼と悪魔のやりとりを眺めていたロバがつまらなそうに呟いた。
 巡礼は慣れた様子で手についた砂を払い落とすとその場を離れ、街の片隅にある質素な教会に宿を求めた。
 
 
 早朝、目を覚ました巡礼が空を見上げていると教会の屋根の上にひとりの天使が居た。優雅に羽を広げた天使はふわりとそこから飛び上がると西の方向へ飛んで行く。
「ついて行ってみないか?」
 側まで来ていたロバが巡礼を促す。
 ふたりは連れ立って天使の後を追いかけ始めた。朝焼けの黄金の空を白い翼が力強く羽ばたいて進んで行く。地上では巡礼とロバが建物に邪魔されながら着いてゆく。
 天使がゆっくりと下降した先には寂れた礼拝堂があった。壁の漆喰は剥がれてところどころ隙間が空いている。煤けたその建物の中に入ると、室内は血の臭いが満ちていた。
「臭いな」
 ロバが顔をしかめて文句を言う。巡礼は無言で奥に進んだ。
 バチャッビチャッとあまり縁起のよくない音がする。
 進んでいくと薄暗い景色の中にぼんやりと輪郭が浮かび上がった。よく見るとそれは床に倒れた男とその上にうずくまるひとりの女の影だった。男はあきらかに死んだ人間の顔色で女の手には物騒な刃物が握られていた。
 崩れた壁の隙間から差す光に血塗れの刃物がきらりと光る。その切っ先は男のはだけられた股間に近づき、すでに血を流している部分に当てられた。そのとある重要な部分を女は力任せに切ろうとしているようだが、血で滑って上手く行かないらしい。
 女の肩には小さな馬面の悪魔が乗っていてげらげらと腹を抱えて笑っていた。
「あははは、切ってやれよ。どっちにしろ使い物にならないからな。妻が居るのにお前に手を出して、その上それだけじゃ飽き足らず自分の娘や妹まで犯した男だ。切ってやってちょうどいいさ」
 女は黙って男の局部を切り取ろうと刃物を動かす。
 その度に床に血が飛び散る。女の膝や腕は血塗れで髪や顔にも血が飛び散っていた。
「切ったらどうする? 型でも取って玩具でも作るか。ひもつけて穴に埋めとけよ。そうしたらそいつがお前に言った寝言のとおり朝も夜もずっと一緒さ!」
 馬の悪魔はそう言ってまたげらげら笑う。
「まだいるのか。昨日一匹深淵に帰したのに」
 巡礼は目の前の光景とそこに居る悪魔を見て呟いた。
「だから言っただろ。悪魔なんてどこにでも居るんだよ。お前よく知ってるだろうが」
 呆れたような嘲るようなロバの大きな声に女が気づいて顔を上げる。
 ぎらぎらと光る見開かれた目が巡礼の姿を見つけて動揺に揺らいだ。
「おやぁ、見つかっちまったなぁ」
 馬の悪魔が女の動揺を煽るようにけたたましく哄笑した。
 女はゆらりと立ち上がり、手にした血塗れの刃物を掴みなおす。
「あらら、この女お前を殺す気だぞ」
「やっぱりそういうことになるのか」
 楽しそうなロバの声に巡礼は疲れた様子で呟いた。
 女は彼らの会話を待つ様子も無く両手で刃物を握って駆け込んでくる。当たり前だが、その動作は必死なだけで訓練された様子は欠片も無い。
 巡礼は慌てず騒がず体をひねって刃物を避けると、目の前に伸びた腕を掴んで器用に捻り上げた。すこし力を入れすぎたせいでポキリと枯れ枝が折れたような軽い音がする。
「っあぁぁ、うぅぅ」
 突然襲った痛みに女は悲鳴を上げて身をよじった。
「ごめんなさい」
 腕を折る気はなかった巡礼はその場にしゃがみこむ女を申し訳なさそうに見下ろした。
 女の肩に乗った悪魔が意外そうな顔で彼を見上げた。
「殺さないのか?」
「もうなにも出来ないのに、殺す必要があるかい?」
「殺してやれよ。この女は生き延びたって殺人の罪で石を投げられて、そのあとは魔女だって告発されて吊るされるか火炙りになるだけさ。苦しくてかわいそうだろ? 殺せよ」
「今度はわたしを唆すのかい」
 巡礼が呆れ顔で言うと、馬の悪魔は女の肩から飛び退いて段差の上で肩をすくめた。
「俺たちが唆すんじゃないぜ、こいつらが俺たちに唆せと唆してるのさ。俺たちは誘惑に弱い生き物だからな、つつけば面白そうなものを見せびらかされたらつつきたくなるさ」
「悪魔の論理だね」
「俺は悪魔だからな。あんたは良く知ってるんじゃないか? あんた、血と甘い匂いがするぜ。そういう匂いの奴は悪魔に好かれるんだ。なのにまだ生きてる。俺たちはもともと持っているものに気づかせてやることしか出来ないからな。あんたみたいに神を疑う余地のない人間は誘惑出来ない」
「わたしは別に清廉な人間じゃないよ。だから悪魔に好かれるんだろう」
 巡礼はそう言って自分の側に居る喋るロバを振り返った。そこに居るのは彼が昔から共に居る馴染みの悪魔だ。だからロバなのに無駄に博識でお喋りなのだ。
 ロバの悪魔は歯をむき出して面白そうに笑う。
「無駄話はそれくらいにしろよ。無視したらそっちの女がかわいそうだろ。そこの馬を深淵に帰すなら帰すでさっさとやってくれ。それとも俺が食っちまうか?」
「そうしたいなら構わないよ」
 巡礼が穏やかにそう言った瞬間。
 ロバの悪魔は素早く首を伸ばして、驚き慌てている段上の悪魔をバクリと食った。もごもごと口を動かし草食動物特有の平らな歯をごりごりすり合わせる度にそこから骨の砕ける音や濁った悲鳴が聞こえてくる。しばらく馬の悪魔を咀嚼していたロバがごくりと喉を動かした。
 それを眺めた巡礼は今更なことを言った。
「いつも思っていたんだけど、悪魔が悪魔を食べるなんて背徳的だね」
「いつも思ってるんだが、お前って絶対に頭の螺子がばらばらに飛び散ってるな」
 ロバが呆れ顔で見上げるのを巡礼は不本意そうに見返す。
 ふたりは折れた腕を抱えて震えている女を礼拝堂に残して外へ出た。
 朝焼けが終わって青くなった空にひとりの天使が居る。天使は彼らを見下ろしていた。
「お仕事ご苦労なことだよな」
 ロバが嘲るように笑った。
 天使は彼らを見下ろしたまま黙ってそこに居る。
「そういえば、天使ってなんで居るんだろうね? あんまり意味なさそうだけど」
「ありゃ目玉だ目玉。見るためだけに居るんだよ」
「それは綺麗な目玉だね」
「そうだな。神様って面食いなんじゃねぇ?」
「だからさっきの娘はあんなことになったのかな」
「あ?」
「面食いだから、さっきの娘は救われる者のリストに載せてもらえなかったのかなと思って」
「……そうかもな」
 果たして信仰なんてものがそこにあるのかを疑わせるセリフにロバは今度こそ呆れ返って適当な答えを返した。
 ふたりはそのまま来た道を戻り、昨日泊まった教会に着くとすぐに荷物をまとめてそこを出た。街を出ようと路地を歩いていると急に周囲が騒がしくなり、すぐ側を数人の男たちが走りぬける。巡礼は危うく彼らとぶつかりそうになって慌てて足を止めた。
 走り去る男たちを眺めながら路地の脇で女たちが噂をしている。
「昨日死んでた娘の兄が死体で見つかったって……」
「妹の次は兄かい? 働き者で礼儀正しい善人だったのに」
「でも殺した犯人は捕まったそうじゃないか。なんでも逆恨みした女だとか。妹と殺したのもその女らしいしわよ」
「本当にかわいそうな兄弟だねぇ」
 巡礼はそれを聞いて驚いた顔でロバを振り返った。
「あの殺されていた人は、昨日悪魔に唆されていた男の人だったのか」
「なんだ、気づいてなかったのか?」
「まったく気づかなかった」
「間抜けだなぁ。本当に抜けてるぞお前」
 ロバがげらげら笑いながら先に歩いていく。
 巡礼は困った顔でその後を追った。
 
 
 街を出てしばらく経った頃、空を天使が通り過ぎるのが見えた。
 巡礼は足を止めて飛んで行く天使を眺める。
「尺には尺をだな」
 ロバも立ち止まって空を見上げながらそんなことを呟いた。 
「なにがだい?」
「さっき殺されてた男だよ。奴は自分の行いによって殺されたんだろ。他人を量った物差しで自分自身を量られた。人を殺した奴は必ず人に殺されるのさ」
「それは知っているよ」
 かつて幾人もの人間を殺した経験のある巡礼は静かに答えた。
「わたしもいつか人に殺される。そのために巡礼をしてるんだから」
「何度も思うんだが、お前その動機はありえないだろ」
 ロバが心底呆れた顔で巡礼を見上げた。
 彼はいつか自分を殺す人間のために、他人が羨むほど充実した人生を送るのだと決意しているのだ。ロバに言わせれば「ありえないほどアホ」な決意だが、巡礼は本気だった。
「だいたいなんで充実した人生が必要で、しかもそれが巡礼なんだ」
 かつて自分を使って悪魔や人間を殺すことを生業にしていた相手の言葉に、ロバの悪魔は呆れ顔で尋ねる。
「いつかわたしを殺す人は、そのために誰かに殺される運命を背負うんだよ。だからせめて奪うに足るだけの価値がないとかわいそうじゃないか。それに人生を変えるには巡礼が一番だ」
 胸を張る巡礼は心の底から朗らかに微笑んで言った。
「きっとわたしを殺す人は奪いがいのある充実した人生に満足するだろうね」
「絶対お前の頭の中はどっかが腐ってるぞ」
 ロバはどうにもならないと言いたげに首を振り、途方に暮れた表情で天を仰いだ。

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