C-07 鏡よ鏡

 ――鏡よ鏡、この世で一番、笑顔がぎこちないのはだあれ?
 ――それは、まゆみさん、貴女です。

「まゆみさん」
 肩を掴まれる。
「まゆみさん」
 先輩の顔が近付いて来る。
「先輩」
 その瞬間がやってくること感じた私は目を閉じる。
「まゆみさん」
 肩を揺すぶられる。
「先輩?」
 夢に見た瞬間は、一向にやってこない。
「まゆみさん」
 不思議に思って目を開けると――
 ――神谷先生が、私の顔を覗き込んでいた。
「きゃあ!」
 椅子を蹴立てて立ち上がる。途端に広がる大爆笑。恥ずかしくて、座ることすらできない。
「ところで、まゆみさん」
 私のクラスには『田中』が三人もいたりする。男の子が一人に、女の子が二人。なので、男の子の方は、田中君と呼ばれる。一方、女の子の方は、苗字プラス名前、もしくは名前だけで呼ばれる。前者は男の子や男性教師、後者は女の子や女性教師が多い。神谷先生は、後者に当たる。
「今は何の時間かしら?」
「……英語の時間です」
「よろしい」
「…………顔、洗ってきます」
「許可します」
 神谷先生は生徒によく『自分で考えなさい』と言う。この場はこれで正解のようだ。
「まゆみさん」
 教室の扉を開けたところで、神谷先生に私に声を掛けてきた。振り向くとにんまりした顔をしている。
「見事な寝言だったわよ」
 私は慌てて駆け出した。二度目の爆笑を背に。

 四限目の授業が終わるや否や、私は弁当持参で教室から飛び出した。根掘り葉掘り訊かれるのが、目に見えていたから。
 中庭に下りた時、どこかの教室から、どっと歓声が聞こえてきた。私と同じく居眠りをした人がいるのだろうか?
 季節は十月の終わり、流石にこの時期、中庭でお弁当を食べる人間はいない。
 芝生に座り、お弁当の蓋を開ける。
 ミニハンバーグ、卵焼き、プチトマトとブロッコリーのごまあえ。そして、桜でんぷで描いたハートマーク。そう、これは私のラブレター。
 ――教室を飛び出した、もう一つの理由。

 私の好きな人――先輩は、月見里桂介という。苗字は、月を見るには山のない里が良いの意で『やまなし』と読む。『田中』という平凡な苗字の私にとって、一種の憧れだったりする。
 先輩とは、体育祭の実行委員で一緒になった。中肉中背の、どこにでもいるような人だった。
 ただ、笑った顔が良かった。愛想笑いしかできない私にとって、その笑顔が眩しかった。
 だから、目で追いかけた。ずっと、追いかけた。体育祭が終わるまでの一月の間、ずっと目で追い続けた。
『銀婚旅行だとさ』
 体育祭の後片付けの時、その台詞を耳にしたとき、思わず口が動いた。
『弁当、作ってきましょうか?』
 ――料理なんてしたことなかったのに。

 お母さんに頼みこんで、代休は朝から特訓。焦げのついた失敗作は、お父さんと弟の雄太に片付けて貰った。お父さんは苦い顔、雄太は文句たらたら。
 今朝も早起きして、お母さんの指導の下、頑張った。野菜炒めがポテトサラダ、そしてプチトマトとブロッコリーのごまあえになったのは、私の料理が下手なせい。ハートマークは勢いだ。寝不足でハイになっていたのかも知れない。お母さんもノリノリだった。居眠りをしてしまったのは、多分、寝不足のせい。
 空を見上げて見る。
 今頃、どんな風に私の作った、自分でも冷静になると恥ずかしいお弁当を食べているのだろう?
 美味しそうに食べているだろうか?
 ――そこそこ上手く作れたと思うけど、そこまでいかないかも。
 赤い顔して食べているだろうか?
 ――恥ずかしいだけかも知れないけど、脈有りだといいな。
 喜んで食べているだろうか?
 ――だったら、嬉しい。
 うん、先輩のことを考えるのは、とても楽しい。
 日が翳った。
 首を真後ろに傾げると、先輩がいた。
「なんて弁当作るんだ」
 こつん。
 先輩は、私の頭に軽く拳骨を落とすと、隣に腰を下ろす。
「たく、こんなでっかいマークを描きやっがて」
 先輩がぼやく。
「女の子からの弁当だと、自慢気に箱を見せびらかしたんだ」
 え? えー!
「蓋を開けた途端、これだ」
 先輩が口を尖らせる。
「クラス全員に回覧されたんだぞ」
 さっきの歓声は、おそらく先輩のクラス。
「零さないように取り返すの、大変だったんだぞ」
 クラスメートが次々に私の作った弁当を回覧する中、必死になって、かつ、勢いを殺して走り回る先輩を想像してみる。やっぱり楽しい。そして嬉しい。口元が緩むのが、自分でも分かる。
 先輩のクラスで起こった騒動を、あれやこれやと想像していた私に、先輩の声が落ちてきた。
「やっと笑った」

 小三の時、愛犬のジョンが死んだ。
 テレビを見て笑ってころげた時、私の体を支えてくれた。
 お母さんが居なくて寂しかった時、私の側にずっといてくれた。
 苛められて泣いて帰った時、私の鼻を舐めてくれた。
 とても辛かった。
 とても悲しかった。
 ――それから私は、笑えなくなった。

『あいつ、笑わないモン』
 小六の時の初恋は、この一言で枯葉のように散った。
 だから、練習した。
 鏡の前で、練習した。
 ――何回も何回も、練習した。

 いつの間にか、心の中に鏡を用意するようになった。
 笑うべきと判断した瞬間に、想像の鏡の中で、ポーズを取るようになった。
 笑うことができなくなった、私の自衛作。
 他人と違うことで、爪弾きにされることを怖れた、私の自衛作。
 ――いつの間にか、心の底から笑うことができなくなっていた。

「やっと笑った」
 考えこんでしまった私に、先輩は繰り返す。
「だって、愛想笑いしかしてなかったでしょ?」
 ――吃驚。
「可愛い顔をしているのに、なんで、そんなにぎこちないんだろうって」
 先輩が私の顔を覗き込んでくる。
 目の前にあるのは、先輩の笑顔。私が憧れた、素直な笑顔。
「やっと笑った」
 私、笑ってた?
 心の底から、笑ってた?
 心の中の声が聞こえているのか、先輩はゆっくりと頷く。
「せっかくだから、一緒に食べよう」

 キーン、コーン、カーン、コーン。
 予鈴のチャイムが鳴る。先輩と初めて過ごす昼休みが、終わる合図。
「時にまゆみサン」
「はい?」
 心臓がビクンと跳ね上がる。
 ――実行委員会では、ずっと『田中さん』と呼ばれていたのだ。
「ほぼ公認状態になったこと、理解してます?」
 実は、教室からは中庭が結構見える。この寒空、中庭にいる生徒は、先輩と私だけ。しかも、並んで弁当を食べていた。
「その気のない女の子から、手作り弁当を受け取る訳、ないでしょ?」
 心臓が再びビクンと跳ね上がる。
「どうしたら、心の底から笑った顔を見れるか、気になったのが切欠だけどね」
 こ、これって、もしかして……。
 嬉しさで心臓が三度ピクンと跳ね上がる。跳ね上がったまま、静まらない。私の顔は多分、真っ赤。恥ずかしくて、先輩の顔が見れない。
 代わりに空を見上げて見る。
 心の中に鏡が浮かんでくる。
 ――もう私は、必要じゃないね。
 パリン。パリン。パリン。
 崩れていく鏡の向こうから、空が優しく微笑みかけてくる。目から零れてくるものを感じる。
 その瞬間、先輩が、私の肩を抱き寄せた。
「どうした?」
「嬉しくて」
 心が落ちついたら、先輩に話そう。私の小さな物語を。

 ――鏡よ鏡、この世で一番、笑顔が可愛いのはだあれ?
 ――俺の大好きな、まゆみに決まっているだろ!

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