C-09 私と私の黒のこと

 空とかいうものがあるという。なんでもそれは青いらしい。その上、白いふよふよした雲というやつがぷかぷか浮いていて、そいつがあの冷たい雨粒を落としてくるのだとAは言っていた。しかし、私はそんな話をさっぱり信じていない。当然だ。突然、頭の上を青いもので覆われているといわれて信じるものか。そもそも、青とか白とか、色ってやつもよくわからない。青と白の違いを教えてくれと何度か聞いたこともあったが、答えてもらえたためしもない。唯一教えてもらえたことと言えば、私の目の前に広がるこれが黒だということだけだ。もっとも、黒が見えているというよりは、何も見えないから黒がある、といった方が正しいのかもしれない。今考えてみればそれも信用しがたい話だが、他に呼びようもないので私はこれを黒と呼んでいる。
 とにもかくにも、幼いころなら別として、今さら空なんていう得体のしれないものを信じる気にはまるでなれないのである。私は、私の小さな世界で満足している。それはたとえば、肌をくすぐる何かか細い風、馴染んだ部屋のにおい、部屋の静けさ、背と腰にあるソファのやわらかい感触。たったこれだけの世界である。私の世界は伸縮自在で、ただ手を伸ばすだけでその分広がるし、手を引っ込めればその分縮む。その外側にはたくさんの不安や疑問があるだけで、知れたものではない。私の心は猜疑に満ちている。
 外でカラスががあがあやっている。カラスは黒いと前聞いた。黒なら私も一応知っているので親密な気持ちにならないではない。カラスとはどういうものかと、尋るとAは笑って、ゴミは荒らすし、昼夜お構いなしに鳴いてるし、ともかく嫌な鳥さと、言っていた。しかし私はカラスが鳥だというところに感心しないではいられない。二つの足で立ったとき、頼りがただ地面ばかりになる私には、それからあっさり離れる彼らをすごいと思う。
 そこで扉の開く音がして、続いてAの声。「何してるの?」
 私は見えやしないのだが振り向いて、何もしてないと答えてやる。
「そっか」とAは言って、その手を私の肩に置く。「何か音楽でもかけようか?」
 私はうなずく。
「何がいい」
 バッハ、と短く答えると、Aは私の肩から手を外す。私は音楽が好きである。バッハはことに大好きだ。Aはチェロの無伴奏組曲をかける。Aは私の好みを熟知している。
曲が始まる。私の世界にチェロの低い響きが忍び込み、私にひとつの景色を見せる。私の黒が静かに波打つ。世界が振動している。
 チェロの音の向こう側でカラスががあがあやっている。車の走る音が聞こえてくる。車は好きだ。しばしばAが私を乗せてドライブに連れて行ってくれる。あの、走り出す瞬間の感触や、シートから伝わる心地よい圧迫感、それが好きだ。しばらく走ってその感触に馴染むころ、Aは窓を開け放つ。突然押し寄せる空気の塊が私の顔の形に添って分裂し、通り過ぎていく。彼らは私の髪の毛をさらっていく。
 チェロの音に包まれて、私は静かな空想にふける。この瞬間が大好きだ。音楽の中にいるときだけは、私は小さな世界の窓を開け放つ。私の体はぐんぐん上昇し、大きくなって、あらゆるものを包みこんでいく。私は鳥になり、床から離れていく。
「楽しい?」そこで、Aが私の肥大化に水を差す。私の体が地面に降りる。
 楽しい、しかし私は素直に答えてやる。Aはきっと笑っているだろう。どんな顔かは見たことがないが。
 小説の方はどうか、と私は尋ねた。Aは作家を目指しているのだ。書きあげた小説を私に朗読して聴かせることもしばしばあるが、これがさっぱり面白くない。しかし、正直に言うのは不憫に思えて、いつも面白いと言ってやる。Aは私が嘘をついていることを知っているかもしれない。しかし、それはどうでもいいことだ。
「ぼちぼち」とAは答える。どんな内容か私が尋ねる。
 Aは少しためらってから「生まれたときから目の見えない人がいた」と話しだした。「その人はある日、友達から空というものについて聞かされる。青くてぼくらの頭上を覆うもの。空には白くてふよふよした湿気の塊が浮かんでる。そこから雨が降ってくるわけだ。でも、そんなものをその人は信じられない。見たことがないし、青とか白とかいうものもよくわからない。それに、その人は自分の身の回りにあるとても小さな世界だけで十分だと思っている。その人が好きなものは音楽で、バッハが特に好きだ。友人はその人のために音楽をかけて、その人は音楽を聞きながらたくさんの空想をする。そして、その友人はそのことを小説にしていく。彼は作家を目指しているから。そういう話」
 私は笑って続きを促す。
「今はここまでしか考えてないけど、これからきっと、空について書くつもりだよ」
 それじゃあ、空の話の続きをしてよ、と私は言う。Aも笑っているに違いない。どんな顔だか見てみたいものだ。
「空は青い」
 それは聞いた。
「それに、白いふよふよした湿気の塊がぷかぷか浮いてる。そいつが雨を降らすわけだ」
 それも聞いた。
「だけど、実はただ青いばっかりじゃない」
 どういうこと?
「太陽の位置で色が変る、いろんな色に」
 黒にもなる?
「なるよ。黒にもなる」
 空には何があるの?
「雲や月、星や鳥。それに太陽」
 カラスもいる?
「もちろん」
 それから?
「とても広い」
 どのくらい?
「わからない。とても広い。ずっと向こうまで続いてて、俺たちを包みこんでる」
 包んでるの?
「そう。包んでる。優しく、親密に」Aは言ってから「それじゃあ、続きを書くから」と部屋を出て行った。
 残された私はそっとソファに横になる。部屋はチェロの音で満ちていて、カラスはもう鳴いていない。
 私は自分が空によく似たものを知っていることに気がついた。私の目の前に広がる、この黒だ。
 だから、私はこの黒を、空と呼んでやることにした。

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