C-03 ジンニーと魔法の絨毯

 宮殿のまあるい屋根の上、一人の少女が佇んでいる。小柄だけれど活きがよく、浅黒い肌は滑らかだ。青い目は好奇心に溢れていたが、用心深くきらめいている。
 時は夜。
 月の光が静かに降る中、少女は手にした絨毯を空中へと大きく広げ、躊躇いもせず飛び乗った。
 本来であれば絨毯とともに真っ逆さまの運命だろうが、そこは魔法の絨毯だ。少女の体を軽々受け止め、難なく宙へと浮いている。
 少女は大きく小さな胸を撫で下ろすと、絨毯に向かって口を開いた。
「お願いよ、魔法の絨毯。あたしをこの国から連れ出してちょうだい」
 よしきたと答える声はなかったが、絨毯は素直に旋回を始め砂の海へと飛び出した。
 ぐんぐんと遠ざかるスルタンの宮殿の灯を尻目に、少女は小さな歓声を上げる。

 少女の名前はルゥルゥで、生まれはしがない平民だ。半年前の不幸な事故で人買に捕まって、スルタンの後宮に叩き売られて以降というもの、何度も脱出を試みている。
 前回はスルタンの宝物蔵からまんまと魔法のランプを盗み出したものの、ジンニーの性悪さに振り回されて、最後はスルタンのもとに戻された。
 前々回は泉の精霊に頼み込み、金の彫像に変化して荷物として抜け出す作戦を謀ったが、スルタンに見つかって魔法はあっさり解けてしまった。
 その前は異国の魔法を使用して地下に逃れてみたのだが、肩に蛇を生やした怪物に追いかけられて、最後はスルタンに助けられた。
 その前は――と、とにかく失敗続きなのだが、ルゥルゥは全く諦めていない。

「魔法の絨毯が手に入ったのは運がよかったわ」
 何度も脱走を重ねたおかげで地上の警備は厳しくなった。地下はできればご遠慮したい。ならば空からと、髭が自慢の出入りの商人を、あの手この手で口説き落としてようやく手にいれることができたのだ。
(今度こそ逃げて、自由の身になるんだから)
 ふふん、ざまあみろ! とルゥルゥは絨毯の上にあお向けに寝転がる。星は夜空にきらきらと輝いて、宝石を砕いて撒いたように美しい。月のきれいな横顔に見とれたところで、ルゥルゥは体を震わせた。
「……ちょっと寒いかも」
 陽が落ちれば砂漠は冷える。しかも空飛ぶ絨毯の上は常に風が吹きぬける。
 薄物の脹らんだパンツに、胸当てだけの格好ではいささかばかり心許ない。
「この寒さ、早く何とかしたいものだわ」
 歯をカチカチ言わせながら呟いたルゥルゥの言葉に、絨毯は素直に従った。そう、早く何とかするために一気に速度を上げたのだ。

 急にかかった風圧にルゥルゥは咄嗟に絨毯の縁へ手をかけた。顔につけていた薄布はあっという間に飛ばされて、砂の上へと落ちていく。
 ぐるりと絨毯が宙返りをしてくれて、地面の遠さが際立った。
「ふーきーとーばーさーれーるー」
 そんな悲鳴すら置いて、絨毯は全速力で飛んでいく。さっきまで寒さで震えていたのに、振り落とされないよう必死な今は全身が汗だくだ。
 根性でルゥルゥは絨毯にしがみついていたが、絨毯の速度はどんどんどんどん増していく。
 風のおかげで悲鳴すら上げられない。しかも、体を支えるために腕が千切れそうなほどに痛い。
(こ、このままじゃ死んじゃうかも……)
 なんてロクでもない人生なの! 奴隷になってスルタンの後宮に入れられて、脱走中に墜落死。どうせ死ぬならもっとマシな死に方をしたい――。
 そんな願いが叶ったわけではないだろうが、急に絨毯は垂直に曲がり、ふにゃりと力が抜けかと思うと下からの風に舞い上げられて夜空の彼方へと消えさった。
 ついでに巻き上げられた砂はルゥルゥの全身に降り注ぎ、まばたきするだけで砂がポロポロ落ちていく。
 それはそれでひどく気持ち悪かったが、それよりも足の下に目が釘付けだ。
 だって、下に何もない。
 地面もなければ絨毯も。
「あ、あたし空に立ってるわ。やだ、何? まさか、もう天国!?」
 あたふたと慌てるルゥルゥに大きな笑い声が落ちてきた。
 こ、この声は……。
 はっとにらみ上げると、いつしかジンニーが山の端に腰をかけ腹を抱えて笑っている。

「よう、ルゥルゥ。随分と絨毯で飛ばしているじゃねえか」
「あ、あんた! よくもあたしの前に顔を出せたものね! この前、あんたの言葉に甘えて後宮に送ってもらったらスルタンの頭上だったのよ!」
「へえ、それであんたのでかい尻でスルタンを押しつぶしたってわけか」
「あんたが諸悪の原因でしょ!」
 真っ赤になって怒鳴ってみるが、ジンニーはひょいとあぶに姿を変えてルゥルゥの周囲を飛び回る。ぶーんぶん、ぶ、ぶん、ぶーんとからかうようなあぶの羽音に、ルゥルゥは大きく手を開いた。
「もう、ぶんぶんうるさーい!」
 潰してやろうと狙い違わず打ちつけたが、ペロリと薄くなったジンニーは、一つ二つ息を吸うとボンボンボンとと思うと元の大きさに戻ってしまう。
 にやにや顔で宙返りをしたジンニーは全くもってピンピンしていて、ルゥルゥとしては腹立たしい。
「何て不条理な存在なのよ!」
「精霊っちゅうのはそういうもんだと知ってるくせに」
 ジンニーは別にどうでもいい感じで流しながら、鼻毛をぶちっと千切って飛ばす。パチンと軽く指を鳴らすと、鼻毛がジンニーへと姿を変えて一気にルゥルゥに押し寄せた。
「何するのよ!」
「そりゃあ、乱暴な子は捕まえておしおきしなきゃ」
 お尻ペンペンよ、とボムと大きく脹らんだ手にルゥルゥはげっそりした顔をしたが、文句をつけている暇はない。押し寄せる鼻毛ジンニーに近づけば、間違いなくあの手でお尻ペンペンをやられるだろう。
(ていうか、鼻毛に触れられるのってぞっとしないし)
 空気を掻くように走りだしたルゥルゥだが、ジンニーの魔法で浮いている身では、いくら足を動かそうともちっとも前に進まない。
「やだー! 捕まるにしたって、あんたの鼻毛なんかに触れたくない!」
 それでも必死に足を動かしながらルゥルゥが訴えると、ジンニーが呆れたように自慢の髭を引っ張った。
「おいおい、精霊っちゅうのは生物とは違う次元の存在じゃねえか。人に形を似せていても、お前らみたいに髪の毛だって伸びないし、ついでに鼻水だって出ねえよ。それくらい知っているくせに」
「知っているけど生理的に嫌!」
 いやー、やだー、きたないー、へんたいーと喉の限りに叫ぶルゥルゥにジンニーは耳を塞いで溜息をつく。
「あーもう。うるさい女だな。スルタンでなきゃ手がおえねえ。こんな役目を押しつけたスルタンに嫌味がわりに返してやろう」
「えっ、ちょっと待ちなさいよ! それも嫌!」
 ルゥルゥの抗議に応えることなく、ジンニーは腕を一振り。ボンと煙に包まれたが最後、宮殿へと逆戻り。

 脱力して座り込むルゥルゥの目の前には、諸悪の根源であるスルタンが寝椅子に横たわって面白そうに見つめていた。
 白く晒した麻の衣に緑の絹の帯を締め、正直なところ男前。大してこっちは服はボロボロ、砂まみれの有様だ。あまりにも滑稽だと思ったら、スルタンが意地悪く笑って聞いてきた。
「で、今回はどこまで? 魔法の絨毯を手に入れたと思ったが」
「あ、あんた……」
 仕組んだわね! という絶叫にスルタンはわざとらしい溜息をつく。
「仕組むわけないだろう? 君にここにいて欲しいと願っているのは私なのだから。まあ、魔法の絨毯が商品の中に紛れていたことを知っていて止めはしなかったけど」
「それが仕組んでいるって言うんじゃない。あたしとのことなんて、ちょっとした遊戯みたいなもんなんでしょう?」
 いっつもそうだ。自分のことを縛りつけておくくせに、気紛れに逃げる機会を与えたりする。そりゃあ、まあ、自分は奴隷だし主人の気紛れにはつき合わなければいけないけれど――悔しくなって涙がゆっくりとこみ上げてくる。
「また、君は……」
 呆れたようなスルタンの声に顔を上げると、手荒く袖で顔を拭かれて驚いた。だってスルタンの服は白色で、自分の顔は砂まみれ。ギャーと悲鳴を上げて離れたが、袖はしっかり汚れている。
 そんな気持ちも知らないようにスルタンは不機嫌な様子を見せて、ルゥルゥに大きな溜息をつく。
「全く。止めなかったのはジンニーと契約を結んだからだ。我が国の領土から君を出さないように」
「何ですって!」
「ジンニーは性悪だけど有能だ。君のちょっとした気晴らしくらいは認めるためには、このくらいの手を打っておかないと」
「ちょっと待ってよ! そんな契約結ばれたら、逃げ切れっこないじゃない」
 怒りで肩を震わせる少女にスルタンは意外だと呟いた。
「君、結構頭いいかと思ったんだが……ああ、足りないのは認識能力の方か。そろそろ私から逃げ切れるなんて思わないほうが身のためだと思わないかい?」
「こ、この極悪人! あんたなんか、あんたなんか――」
 大嫌いと叫ぶ前にスルタンはさっさと唇でルゥルゥの言葉を封じてしまう。
「これでも聞きたくない言葉はあるんだと、君には気づいて欲しいところだよ。まあ、それよりも風呂に入ったらどうなんだい? おかげで口の中がじゃりじゃりだ。君だって服の汚れを気にしなくてもよくなるだろう?」

 真っ赤になってルゥルゥが走り去ったその後に、ボンとジンニーが現れる。
「おーおー、真っ赤になって。あまりからかいすぎると逃げてくぜ」
「そうさせないための契約だろう。しっかり防いでくれたまえ。あと、ついでにルゥルゥから取り上げた魔法の絨毯を返してもらおうか。風呂から出てきたら空の散歩に誘いたいんだ。あまり怒らせたままだと機嫌が悪くて困るからな」
「そこまで手間暇かけるもんかね? もう手に入れた小鳥じゃねえか」
 そんなジンニーの憎まれ口にスルタンは小さな笑いを見せる。
「まだ懐いていない野生の小鳥だ。馴らすのも楽しいものだろう? それに、君は知らないかもしれないが、彼女だって機嫌のいいときには膝枕くらいはしてくれるのさ」
 スルタンの惚気にふーんとジンニーは腕を組み、ちょっとばっかり考える。
 野生の小鳥といったって、ルゥルゥはスルタンの掌の中にいる。ついでに言えば、小鳥もスルタンのことが好きなのだ。
 何で逃げるかというと奴隷という身分だからに違いない。飽きられたら捨てられる、そんな恐怖があるから常に逃げて興味をひこうとするのだろう。
 とはいえ、スルタンの後宮にはルゥルゥしか女はいない。それがどういう意味か考えなくても分かるのに――人間て変な生物だとジンニーは思う。
 自分たちよりずっと生命は短いのに、妙なところで遠回りする。
 まあ、それも楽しいか、とジンニーは商人へと姿を変えて自慢の髭を整えた。腕を一振りすれば、現れるは魔法の絨毯。
「スルタン、お望みの品でございます」
 ルゥルゥが見たら顔を真っ赤にして怒っただろう。ジンニーが化けた商人は、ルゥルゥが魔法の絨毯を買った商人その人だ。
 魔法の絨毯が商品に紛れていたのは把握していたスルタンも、ジンニーが化けた商人が紛れ込んでいたことに気づいていなかったに違いない。
 お前と目を剥いたスルタンに、ジンニーはぐふふと笑い声を一つ残すと、魔法の絨毯をその場に残してドロンと消えた。

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