A-09 ネイヴァー・ドール

 くもったガラス窓を指でなぞる。指先にちりっと痛みが走り、肌が、溶けた水の凍り付く瞬間に立ち会ったと分かる。
 ついでに唇をつけていたら、睫毛も張り付いて、はがれなくなった。
 ばかなことをしている。
 廊下を、相変わらず看護士達が、白いスリッパで叩いて走っていく。
 僕の妹が肺から緑色の水を出して、これで一週間が過ぎた。水からはひっきりなしに蓮が咲き乱れる。まるでヴィアンか誰かだなと笑った父の、横顔がひどくひきつっていた。
 読書家だった母が、部屋に本をたくさん敷き詰めて、その中でぼくらは育った。ぼくは本に座るのが大好きだったけれど、妹は本を開いてみるのを好んだ。
 ぼくは雪の日に雪だるまをつくって、坂道の上から転がり落とすのが好きだったけれど、妹は本を積み上げてタワーを造り、それを夏休みの宿題として提出してしまうような子供だった。
 かわいげのない子ねぇ、というのがぼくら兄妹についてまわる付加価値で、けれど小学校で普通の成績をおさめていたぼくらは、時々奇矯なくらいで、他の子と差別される理由が分からなかった。
 チョコレートケーキが好きだからという理由で、職員室で小学生と体にチョコレートを塗りあう遊びをしていたクラス担任よりは随分と、精神的にはましだと思う。
 だめじゃないか。父親だった男が、いかにもしょうがなさそうに言う。言いながら明るすぎる黄色いスリッパを鳴らして、ストーブの側の椅子に座る。だめじゃないか。小さなずんぐりむっくりしたストーブに薪を放り込むその姿は、どこかとても嬉しそうに見えた。そこは寒いだろうからこっちへおいで。灰色の上着を脱ぎながら、父親だった男は二度繰り返した。
 義務的に、義理的に、だけれどきっと彼は愛している。愛? つまらないことを言うのを承知で言えば、暖かすぎる室内へ戻ることよりも、つめたい廊下の窓ガラスから、引きはがされるほうがつらかった。
 しゅんしゅんと、不規則的にケトルが鳴っている。薄っぺらなパイプを伝って、水蒸気が外へ逃げていく。
 何のためにあるのかというと、ケトルはただ、沸かされるためにあるのだ。一枚の葉っぱが壁からはがれた瞬間に妹が死んでしまうとでもいうかのように。
 蓮は、外国の宗教ではとても尊いものだという。妹が尊いかどうかは別として、このままそのまわりに強制的にはべらされているぼくたちの身にもなってほしい。
 むりに呼びつけられて、生ぬるくなった病室へ入る。
 ストーブはかんかんと乾いた音を立てて、生木の部分があったのだろう薪が潰れた鳴き声をあげる。
 耳元でささやくのは、うたた寝の瞬間に聞こえるような、どこかで読んだ本の一節。
 父親だった男が母とどういう関係だったのかは知らないけれど、ぼくたちの名前を縛る父親の名前というのとは別だったことは昨日知った。
 でもだからといって何も変わらない。
 ぼくはけれど、彼の手を取らない。
 ときどきだけれど思うんだ、もしも神様がすべてを見ているというのなら、ぼくたちが人形を使って一人二役をしているように本当は後ろで一人遊びを続けているとしたら、じゃあぼくが何を考えても神様の考えていることで、けれど神様が考えているすべてではないんだ。
 また変な本を読んだねと父が笑う。喋っているつもりはなくても、ぼくの言葉は筒抜けになる。
 それはどうしてなのか知らない。夜眠るときに必ず、猫が入るくらいの丸い筒にうずくまって、夢を見ずに眠ることは、その筒が大きな金属の箱と繋がっていることと関係があるのかどうか、ぼくは知らない。
 ぼくたちはあんなに沢山の本を読んで、本当のところ何一つ知りやしない。
 借りてきた猫だって知っているはずのことを、ぼくたちはすべて、人の体験だけで出来た本でしか知らない。
 何もないからっぽの気持ちで、開け放たれていた廊下へのドアを見つめる。
 黄色みを帯びた廊下、曇ったガラスに残された、手形の脂。
 ぼくはふいに息を吸い、走り出す。
 ガラス窓を突き破るまであと、


 どうしてそんなことをしたの。廊下で激突した看護士が、いたずらをしかけたのだと勘違いしてぼくを叱る。確かめようと思っただけだ。ふてくされて答えておいた。それで終わりにしたかった。けれど、人差し指の切り傷からこぼれた血を口に含み、きたないからと乱暴に手を奪われた。
 この全身から血を抜いたところで、ぼくたちは死にうるのだろうか。
 死なないのなら、それは生きているのだろうか。
 うしろで笑う、父親だった男が、ふいにとても憎く思えた。
 何も感じないように、つめたい空気の中で足下だけを見て歩いていたぼくたちが、ようやく、本からひきはがされ、先生たちが別の考えを持つ別の文化だと知り、それを面白がる男は、けれどまた昔同じような目に遭わされてきたことだろう。
 たぶん永劫繰り返される。
 まるで小さな、人形劇のように。

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