A-02 タイトル未定

 私は今は亡き奥様の肖像画の前に跪いて、呪詛の如き愚痴を撒き散らしていました。違います、最近の主様についてご報告申し上げていました。
 奥様、主様のあの最底辺振りは何とかならないのでしょうか? どうしたらあんな風に次から次へとうざったい口説き文句が口をついて出ると言うのでしょうか? 主様には次期当主としての自覚がなさすぎるのです。今日も、お屋敷から抜け出した主様を捕まえたところ「俺が領主になったら町中の女の子を屋敷に呼ぶ」などとふざけた事をほざきやがりましたので、三秒間に六十発の拳をその身に叩き込んで差し上げました。かの人をも超える私の神拳の前には主様など睨みあう事なく蛇に呑まれてしまった蛙以下の存在です。お陰でお屋敷に連れ戻す事に成功し、今は大人しく自室のベッドでお休み頂いております。ですが、またいつ抜け出すか気が気ではありません。
 数多居た使用人達も、今では私を含め片手の指で足りる程になってしまいました。正直私も、この傾きかけていつお給料が出なくなるかも分からない辺境の勤め先を捨てて故郷に帰りたいのですが、私が居なくなれば主様の凶行を止める者がおりません。若く瑞々しい将来ある娘達が主様の口車に乗っかり夜までその毒牙の餌食になって上手い具合に愛が育ってしまっては困ります。失礼。純白の汚れも世間も知らない乙女達が毒牙にかかって深く傷つく事は明白です。
 それについては、主様には前科があります。誰にも知られていない、恐らく主様ご本人ですらご存知ない前科が。
 旦那様も今ではすっかり諦めて、家の再建に心血を注ぐ日々。ああ、神様奥様お母様。誰がこのような状況で暇など求められましょう!
 物言わぬ肖像画はただ柔らかな微笑みを下さるばかりで、その主様と同じ優しい笑顔が、かえって私を消沈させるのでした。

 自室に戻った私は、奥様に愚痴っただけでは飽き足らず日記帳にも本日の出来事をしたためました。筆は生き物のように、するすると淀みなく主様への罵詈雑言を綴っていきます。至福の時です。
「ルイザ、居るか?」
 ノックと共に低い声がしました。旦那様です。私はすぐさま返事をし、日記帳を引き出しに投げ入れてから扉を開けました。
「旦那様、お呼び頂ければこちらから参上致しましたのに」
 深く腰を折る私を優しく起こすと、旦那様は「入っても良いかな?」と穏やかに仰います。一介の使用人に過ぎない私に拒否権などないのですが、旦那様はいつも尋ねて下さるのです。どこかの主様とは大違いです。こんなに素晴らしいお方なのに、何故息子はあんな軽薄を絵に描いて更にその上を軟派で塗り潰したような万年春頭男なのでしょうか。きっと主様の頭の中では一年中、雲一つない青空が展開されているに違いありません。
「また主様が脱走致しましたか? 先程私の神拳をお喰らいになった際に瀕死の重傷を負われたと確信した上でお部屋までお連れしたのですが、まだ甘かったのでしょうか」
「いや、あいつはまだ寝てるよ」
 旦那様は苦笑すると、ふうと息をお吐きになりました。随分とお疲れのご様子なのが、とても気がかりです。その疲労を全て主様に押し付けてしまいたいです。旦那様は私が綺麗に整えたソファに寄りかかって、天井を見つめていらっしゃいます。余りに長く見つめておりましたので、最初は後ろに控えたまま微動だにしなかった私も、つい身じろぎしてしまいました。ほんの少しの動作であったのに、旦那様は敏感に察して、あろう事かソファに座るよう勧めて下さったのです。使用人の分際で旦那様と同じ席に座るなど言語道断失礼極まりない行為ではありますが、「人には好意を貰い受ける義務がある」というどこかの偉い学者様の言葉もありますので、私はそれらのお言葉に甘えて向かいに座りました。主様と一緒の時とは異なる緊張がじわりと広がってきます。
「ルイザ。お前にも随分と苦労をかけているね」
 何でしょう、この涙ながらに「それは言わない約束でしょう」と返したくなる科白は。
「決してそのような事はありません。旦那様には大変良くして頂いて、いくら感謝しても足りない程です」
 主様には大変悪くして頂いて、相殺気味ですが。
「そういう風に言って貰えると、わたしも心が軽くなるよ」
 旦那様は私の回答に目を細め、
「しばらくすれば、お前も今より楽になれるぞ。ついこの前決まった話なんだがな」
 そう前置きして旦那様が仰られた話は、耳を疑うような、それこそ雲の上の出来事のようでした。
 私はただもうひたすら、放心するしかありませんでした。旦那様の衝撃的な告白の後は上の空で、旦那様がお帰りになった今もまともに思考が回りません。
 旦那様が嬉しそうに笑って仰った事を要約しますと、主様に縁談が持ち上がっているという事になります。あの桃色の脳味噌しか持ち合わせていない、口を開けば百年の恋も冷めるような、野獣にして千年先まで女の敵である主様に、ですよ。告げられた私の心の荒れようは、計りしれません。
 何でも、先日行われた舞踏会に出席した際にどこぞのお嬢様が一目惚れなさったそうです。大貴族とまでは言いませんが、王都に構えた豪邸はとても立派なものだった、と旦那様は語っていらっしゃいました。つまりこのような没落貴族にとっては高嶺の花、こちらから言い寄るなど笑止千万の門前払い。言い換えれば、これは千載一遇のチャンスなのです。旦那様はかなり乗り気なご様子で、あちらのお父様も「そんな事は罷り通らん!」と怒って下されば良いのに、娘といっても三女の婚礼には寛大だそうです。
 ああ、可哀相な私。間違えました。ああ、可哀相なお嬢様。あんな口から生まれてきて他が未発達のルックス頼みの主様に騙されてしまうなんて、人生最大の不幸です。あの舌の回りようのお陰で甘いひと時は約束されるでしょうが、その後は苦い一日が待ち受けていると断言致します。
 このお話、主様はまだご存知ないようです。今日中に知らせるとは仰っていましたが、主様はどうお答えになるのでしょうか。気になって仕方がありません。今日は眠れぬ夜を過ごしそうです。

「君が新しい子?」
 お屋敷にメイドとして雇われたばかりで、右も左も分からなかった私に主様は優しく声をかけてくださいました。庭の花々の手入れをしている時のことです。舞い散る花弁が、まるで主様を幻想の住人のように仕立て上げていました。
「ルイザと申します、主様」
「ああ、そんなに畏まらないで。君みたいな可愛い子には笑顔が似合うよ」
 頭を下げた私の肩に触れ、そっと起こす主様のお顔は、それはそれは美しいものでした。青い眸に映った私は、頬を朱に染めていました。臭い科白もこの顔なら様になります。
 奥様、この方を産んでくださって有難う御座います。本気でそう思いました。
「主様、あの……」
 いつまでも離れない手に戸惑った私が声をあげると、にっこりと笑って、
「ほら、君も笑っておくれよ、カトリーヌ!」
 芝居がかった科白と、それ以上の言い間違いに私は耳を疑いました。念のために申し上げておきますと、私は断じてルイザ・カトリーヌではありません。
「おや、クレア? ミリー? ライラ? イザベルだったかな?」
 主様が女性の名前を並べ立てるにしたがって、私の身は硬直していきます。違います主様。私はルイザです。言おうとして、私ははっと気づきました。
 主様の眸から、私の姿が消えていることに。

 予想に反して良く眠れたのですが、変な夢のせいで翌日の目覚めは最悪でした。お母様譲りの図太さを持っていたはずの私の神経も、メイドとして働くようになって幾分かダイエットに成功したのでしょう。形容でも何でもなく、神経のすり減る毎日でしたから。これから生きる日々を今この瞬間に浪費していて、もしかしたら私は長くはないのではないかと、本気で悩んだ日々もありました。今でこそ何か吹っ切れていますが、お仕えし始めた頃はそれはもう苦労の連続でした。
「主様、朝食をお持ち致しました」
 定刻通りに朝食をお持ちしたのですが、ノックをしても返事がありません。いつもなら思わず耳を覆いたくなるような言葉が返ってくるのに、どうしたというのでしょう。
「主様、生きていますか。朝食です」
 数秒後「ぐはぁ」とか「うげぇ」とか妙な呻き声が聞こえてきました。私は主様からの入室許可だと都合良く解釈して中に入ります。全身を包帯でくるまれた主様は、奇妙なオブジェとなってベッドに横たわっておりましたが、懸命に私へ顔を向けようとしていらっしゃいました。そのぎこちない動きは、初めてガーゴイルが動いたらきっとこんな感じだろうと私の想像力に働きかけるものでした。
「まだ完治には程遠いのです。余りご無理をなさらないで下さい」
「ルイザは相変わらず優しいね。その言葉が最高の治療だよ。どんな薬も医者も君の一言には遠く及ばない」
 感極まったご様子ですが、主様を瀕死に追い遣ったのは私です。都合の悪い事をすぐお忘れになるのは主様の欠点なのか美点なのか、私には判断しかねます。
「喋るとお体に障りますよ」
 朝食を持ってきたは良いのですが、果たしてこのような状態の主様は自力で召し上がる事が出来るのでしょうか。答えは否です。絶対に無理です。この甲斐性なしの根性なしが放つ言葉は一つしかありません。
「ルイザ、ご覧の通り僕はこんな状態さ。君の可愛い手で食べさせておくれよ」
 嫌です。喉元まで出かかった言葉を超人的な力で飲み込みました。確かに、指の先まで包帯の主様にお一人で召し上がって頂くというのは酷な話ではあります。
「では、口を開けて下さい」
「そんな真面目くさったつれない言い方ではダメだよルイザ。あーん、は? それだけで世の男は君に夢中になるよ?」
「あぁん?」
 無意識のうちにドスの利いた声が出てしまいましたが、あまりに低くて主様の耳には届かなかったようです。
「……あーん」
 主様の命令には逆らえません。私は渋々そう言ってスプーンを差し出しましたが、そのようなものでも主様にはご満足頂けたようで、喜色満面の笑みを浮かべて朝食をとっていらっしゃいました。飼い犬に餌をやっている気分です。
「そういえば、主様。旦那様から……何かお話がありましたか?」
 なるべくさり気ない風を装って昨日の事を尋ねてみました。主様はすぐに頷き、
「縁談の話だろ? 父様の仕事の早さには呆れてしまうよ」
 私は貴方の頭の軽さに呆れてしまいます。
「承諾なさるんですか」
 何と愚かな質問をしてしまったのでしょうか。心の奥底では答えなど分かりきっていたのに、私は何かを期待していたのかもしれません。おとぎ話のような展開を、思い描いていたのかもしれません。
 そうでなければ、説明がつかないのです。
「当然だよ。あそこのお嬢さんはそれはそれは美人だったからね。それが向こうからだよ? こんなラッキーな話はないだろう。なぁ、ルイザ?」
 この空虚感が、何処から来ているのか。
 ――私の手の中で、スプーンが音を立ててひん曲がりました。

 縁談は両者乗り気な事もあってトントン拍子に進み、後は主様の回復を待つばかりとなってしまいました。あちらのお嬢様は既に、嫁ぐ用意は万全だそうです。このような田舎までお疲れ様です。
 今は休憩中なので、私は中庭まで出て空を見上げていました。私の陰鬱で冴えない日々とは裏腹に、とても良く晴れています。頬を撫でる風もとても優しいです。何故私がこのような暗い気分にならなければいけないのでしょうか。何もかも、主様の責任です。あの人が全て悪いのです。
(君が新しい子?)
 少し前に夢で見た光景が、自然と浮かび上がってきました。ですが、これは夢ではなく現実の記憶です。
(こんなに可愛い子だとは思わなかったな。良く来てくれたね、歓迎するよ! ああ、そんな畏まらなくて良いよ。君みたいな可愛いレディには笑顔が良く似合うからね)
 その時、綺麗なスカイブルーの眸に私が映ったのです。澄んだ青空の眸が私を映して笑ったのです。当時は主様がまさか、バーゲンセール品並の男だなんて夢にも思いませんでした。
 何て良い人なんだろう、何て素敵な人なんだろう、と私は簡単に騙されてしまいました。それ程歳の離れていなかった主様は決して私の敬愛の対象にはなりませんでしたが、恋愛の対象にはなってしまったのです。主と従者、茨の道、禁断の果実。私はそんな言葉に酔っていたのかもしれません。
 ええ、純真無垢で世間知らずの私は、あの過剰なまでの優しさが空っぽだなんて、考え付かなかったのです。あの中に私への特別な想いなど一欠けらだって入ってはいなかったなんて、気づかなかったのです。主様が片っ端から女性に声をかけているのを見て、その事実を知りました。その途端……温かな優しさは空虚な飾り物としか感じられなくなりました。
 その空っぽさに耐えられなくて、私は主様への思いつく限りの様々な罵倒と侮辱を放り込んで満たそうとしたのです。幸い非難する部分に困る事はありませんでしたが、いくら埋めようとしても満たされる事はありませんでした。とても空しい行為だったのです。
 いっそのこと夢と同じように、初めてお会いした日に女性の名前を羅列してくださっていたら、どれだけ楽だったでしょうか。
「ルイザ! こんな所に居たのか」
 はっきりと私の名前を呼ぶ声が届きました。主様が私の名前を間違えた事など一度だってありません。
 松葉杖をつきながら歩けるまでに回復した愚鈍と鈍感の頂点にして代表例がこちらによたよたと歩いてきています。私はメイドとして最低限の義務感を奮い立たせて自分から近づいていき、用件をお伺いしました。
「実はね、回復のめどが立ったから式の日取りが決まったんだよ。今から楽しみだ、ははっ」
 人生で一度も空気を読んだ事がないだろうこの人は、私の傷口を抉りに来たようです。結婚でも何でも、さっさとすれば良いのです。
「あちらからも何人か使用人が来るそうだから、少しは楽になるんじゃないのか? 今まで通りの働きを期待してるよ、可愛いルイザ」
「嫌です」
 私はにっこり微笑んで、主様は私の返答に目を丸くして、お互いの顔を見つめ合っていました。皮肉な事に、主様がこうも私の顔をじっと見つめて下さったのは今この瞬間が初めてです。主様の眸に映った私は、どこか吹っ切れたような笑みを浮かべていました。
 主様のこの驚きも当然です。私が主様や旦那様に逆らった事など、過去一度もなかったのですから。
「ど、どうしたんだ?」
「主様。私は好きだった男性の結婚生活を見ながら暮らせる程、出来た人間ではありません。あちらから使用人がやって来るというのなら、そろそろ……暇を頂きたいと思います」
 ……もう、休憩も終わりです。私は一礼し、主様に背中を向けて仕事へと向かいました。
「る、ルイザ! ちょっと待ってくれよ!」
 慌てたご様子の主様の声が背中にかかります。私はゆっくりと振り返りました。太陽を背にした私が、主様の眸にどのように映っているのかは分かりません。私の姿など映っていないかもしれません。しかし、それでも私は精一杯の笑みを浮かべて、
「ご結婚おめでとう御座います、主様」
 深々と頭を下げました。この瞬間に涙が零れたという事実は、私が墓まで持っていきます。
 主様が何か言う前に、今度こそ、私は振り返らずに自分の持ち場へと戻りました。

「初恋は実らないと、相場が決まっていますからね」
 先日、主様の結婚式が、このような田舎にしては盛大に執り行われました。真っ白なドレスに身を包んだお嬢様は女の私ですらはっとするくらい美しく、主様には勿体無い程お優しい方でした。主様の好みをそのまま形にしたかのような方です。ああ、きっと、この方なら上手く主様の手綱を握れる事でしょう。もう私の役目も恋も終わったのだと、悟りました。
 私は式の翌日、お屋敷を発ちました。お屋敷に残るみんなが思いのほか別れを惜しんでくれて、涙まで流してくれた人が居たので私もつられて涙腺が壊れましたが、こうして青空の下を歩いていると気分も穏やかになってきます。
 家に帰ったらまず、日記帳をもとに私の今日までのお屋敷での生活を綴ろうと思います。きっと一冊の本が出来るでしょう。忘れた事さえ忘れてしまった思い出もありますが、かえって好都合です。なぜなら、それは記憶を頼りに書く自伝物語ではないからです。物語での私は感情豊かで素直な可愛らしい女の子で、主様も乙女心を解さない最底辺の口だけ男ではありません。二人は誰から見ても疑う余地のない程の相思相愛振りを発揮して、そして私達は使用人と主という身分を越えた熱烈な恋愛の集大成として挙式をするのです。
 不毛だと思いますか? 無意味だと笑いますか?
 でも、せめて、空想の中だけでも主様と一緒に居させて欲しいのです。絵空事の恋愛成就と共に、この想いは思い出として永遠に葬りましょう。そして埋葬された想いはいつの日かきっと、素敵な愛の枝葉を広げてくれると信じています。次こそは、その木に実った果実をこの手に留めておけますように。
 この、素晴らしい物語の題名は――まだ決めていません。

inserted by FC2 system