D-01 星下双酌

「いつもここで、練習しているんですか」
 夜中の公園。ベンチに座り楽器を奏でるその女性に声をかけたのは、なぜなんだろう。
 トレーナーにジーンズ、長い髪は無造作に一つに束ね、化粧気が無いのを隠すようにメガネをかけている。全体的に気の抜けたその格好に、決して色気は感じない。
 彼女に用事とか、ましてや下心があった訳ではなかった。それにもかかわらず、気が付いたら話しかけている。
 だが、戸惑う自分とは反対に、話しかけられた本人はいたって普通に、その問いに答えてくれた。
「ここへは初めてだ。夜の散策を楽しんでいたら、お前に呼ばれた」
「俺?」
 訳が分からず、自分を指差し聞き返す。彼女はにっこりと微笑むと、こちらが手に持っているコンビニ袋に視線を移した。
「酒があるなら、相伴させてくれ。下界で飲むこともそうそう無いからな」
 逆ナンパ?
 一瞬そんな言葉が浮かんだが、声をかけたのは自分からだったことを思い出し、慌てて否定する。内面の焦りに気を取られ、彼女の返答の不思議さにも気付けないでいた。

 今日は、金曜日だった。
 連日の残業に、休日出勤。日々の忙しさは感覚を麻痺させ、独り暮らしのマンションは、ただ眠るためだけに存在している。そんな状態の中、なぜかぽっかりと仕事が区切れ、比較的早く帰宅することができたのだ。
 電車に乗り、コンパ帰りの学生の会話を聞くともなく聞く。駅で降り、コンビニで弁当を買うついでにビールを二本買ったのは、週末に浮かれた気分が伝染したからなのだろう。
 さらに、いつもなら真っ直ぐ帰る一本道を敢えて避け、わざと公園の中を突っ切った。
 人を誘って飲みに行くほどの元気は、無い。だが、真っ直ぐ独り暮らしの家に帰るのも味気無い。そんな中途半端な気持ちを抱えての、まわり道だった。
 そしてそこで、見慣れぬ楽器を弾く彼女を見つけた訳だ。

「どうぞ」
 同じベンチの端に座り、缶ビールを開けると、そのまま手渡す。
「すまないな」
「あ、いえいえ」
 その口調のせいなのか、それとも妙な迫力を感じるせいなのか、ビールをおごっている割りにはどうも下手に出てしまう。
「えーっと、その楽器は?」
 何とか会話の糸口を掴もうと、抱きかかえている楽器を指差した。三味線の首を短くして、胴を丸い木製のものに変えたような、見た事の無い楽器。
「月の琴。月琴という」
 ほらと掲げて、全体を見せてくれた。確かに胴の丸い部分が月の様だ。彼女はそのまま爪弾いて、その硬質で澄んだ高い音を聴かせてくれる。
「綺麗な音ですね。名前の通り、月夜に良く似合う」
 素直にそう感想を漏らすと、彼女はくすりと笑って夜空を仰ぎ見た。
「申し訳ないな。生憎と、今夜は暗月だ」
「あんげつ?」
「月の出ていない日、つまりは月の始まる日のことだよ。だが私にとっては、月に一度の定休日。お陰でこうして、下界に遊びに来ることも出来る」
 明瞭に言われたはずなのに、その内容を理解しようとすると、どうにも自分の中の何かが邪魔をした。なぜか今、自分は試されているような、そんな気になってくる。
「あの、すみません。名前と、できたら職業を教えてもらえませんか」
「月の精」
「はい?」
「名前と職業、共に月の精だ」
 自信に満ちたその口調。横に座る人物を眺めながら、自分の中で邪魔をする何かというのが、世間一般で「常識」と呼ばれるものである事を理解した。
「ちなみに今日だけなら、暗月と呼んでも構わない」
 いや、違う。常識とは邪魔をするものではなくて、すがるべきものだ。
 小さく息を吐き出すと、今までの遠慮した話し方を止め、彼女と同じ目線に立つことにする。
「大きく出すぎだ、それ。例えはったりとはいえ、もうちょっと足元は見ておけって」
「はったりとは」
「自称、月の精。言うならもうちょっと、それっぽい格好をするとかさ」
 言いながら、目線でその服装を指し示す。色気の感じられない地味な姿。メガネ越しの素顔は決して悪くは無い、どころか意外なことに美人だったが、本人にやる気が感じられない以上、月の精としては不合格だ。
 だが彼女はこちらの指摘に動じることなく、反論をする。
「言っただろう? 今日は定休日だと。お前はせっかくの休日にまで、気合の入った格好をしていたいのか」
「そんな、疲れたサラリーマンみたいな理由言われても、はいそうですかって納得できる訳無いだろう」
「そうか。それならば仕方ない」
 あっさりと引き下がると、自称月の精、または暗月は夜空を指差した。
「私の力は、月の大きさに比例する。ゆえに今宵、何が出来るという訳でも無いのだが、元々人間ではないからな。ということで、これならどうだ?」
 その言葉と共に、街灯の明かりがふつりと消える。急に真っ暗になったことに慌てていると、落ち着いた声が聞えてきた。
「月の光りがあると、星達もうまくは輝けない。だから、暗月は星達が最大限に輝ける、星が主役の日になるんだ」
 言われて空を見上げる。
 都会の夜空は月が無くとも街灯が反射をし、星などせいぜいが数個、見えれば良い方だ。そのためか、気が付けば夜空を見上げるなどという習慣は無くなっていた。だが、こうして街灯まで消えた公園から仰ぎ見れば、それなりに空を彩る輝きは存在していた。
「星、あったんだな」
「星は空へ。そして、月はここに」
 からかうような、面白がるようなその口調につられて横へと視線を移すと、彼女の顔がやけにはっきりと見えた。いや、顔だけでない。姿全体が薄ぼんやりと光って見える。
「発光ダイオード?」
「違う。星の光りだよ。彼らの光りが自然と集まり、私を微弱ながらも照らしてくれる」
「人間技じゃ、無い……」
「だから人間じゃないと言っているだろう。私は月の精だ。お前は、夢が無いな」
 何気ない最後の一言に、ぐらりと揺れる心地がした。なんだってこんな初対面の怪しい人物に、なじられなくてはいけないのか。だが、街灯が消えたことや発光現象など、非現実的なことばかりなのも事実だった。
 仕方ない。ここは常識を捨て、ひとまず彼女の言い分を受け入れることにしよう。
「でも、なんでここにいるんだ」
 その点は理解できないため、聞いてみる。彼女、暗月はまたもや空を見上げると、ゆっくりとした口調で語りだした。
「昔、詩人と知り合いになったんだ。彼は大層な酒好きで、よく私と自分の影を相手に、酒を呑んでは歌い踊っていた。あれがどうにも楽しそうで、影響を受けた。以来、暗月になるとたまに、下界に降りてきている」
「詩人に、会うために?」
「いや、下界に降りれば良いと思いついたのは、詩人が亡くなってからのことだ。奴は今は天の川のほとりに住んでいるよ。交流は続いている」
「じゃあ、今ここにいるのは」
「下界に降りるのは、単なる趣味。それと、言っただろう? ここにいるのは、お前に呼ばれたからだと」
 真っ直ぐにこちらを見て、そう言い切る。だが、呼んだ覚えなどないため、無意味に自分を指差して首をかしげて見せるばかりだ。暗月はくすりと笑うと、また月琴を爪弾きだした。
「お前、ついたち生まれだろう」
 断定口調に、思い切り首を振る。
「いや、十八日だよ。一日じゃない」
「それは太陽暦での話だよ。私が言っているのは、太陰暦。月の暦の話だ。ついたちは、月の始まる日。すなわち暗月であり、朔(さく)ともいう」
「朔?」
 ここでようやく思い当たるふしが出来、ぎくりとした。暗月はそれを分かっているのか、ごく自然に聞いてくる。
「ところで、お前の名は?」
「……はじめだよ。朔と書いて、はじめと読む」
「やはりお前は、私に属するものだ」
 ほらなと満足げに呟くと、そのまま無心に月琴を奏でてゆく。澄んだ音色は天上へと高く上り、星々に吸い込まれていくようだった。
 しばらく続く、無言の時間。
 呼ばれたのだという割には、こちらを急かして何かをしようという気が感じられない。
「俺が、呼んだと言ったよな」
「そうだな」
「何で俺が誰かを呼ばなければならないんだ。そんな覚えは無いぞ」
 有り得ないということを説明しようとしているだけのはずなのに、自分の声の強さ、硬さに内心はっとした。なぜこんなに、むきになった喋りをしているのだろう。
 だが暗月は気にした風も無い。音楽も途切れることなく続いてゆく。
「確かにお前は、月の力を頼ろうとして私を呼んだ訳ではない。だが、独りに耐えかねて叫んでいた。私にはその声が聞こえ、そしてそれに応えてここに来た。先ほども言ったように、今の私には力が無いからな。何か願いを叶える様なことは出来ないが、それでもお前の話を聞くことは出来る。せっかくだ。話してみろ」
 素っ気ない言い方だったが、決して突き放されてはいなかった。その優しさに、無駄な力が抜けてゆく。
 自分が、独りに耐えかねて叫んでいるのだとしたら、考えられるのはただ一つ。
「俺より辛い状況にいる人間は、幾らでもいる」
 それでも最後の抵抗として、反論してみる。
「だがここにいるのは、お前と私だけだ」
 暗月が、軽くいなして小さく笑う。つられて一緒に笑って、それから笑みが途切れてしまった。この横にいる月の精になら、話しても良いような気になっていた。
「……よくある、話なんだ。彼女に、振られた」
 声に出して事実を語り、けれどその短い報告だけで胸が詰まって、黙り込む。
 すでに治まりをつけていたはずの感情だ。それが、今更ながらじくじくと疼いている。
 胸の詰まりを溶かすように、息を吐き出し、平静でいようと心がける。そうしながら言葉を繋ぎ、事のあらましを短く語った。
「栄転のはずだった。地元から本社に呼ばれて。これを機に結婚しようと、一緒についてきて欲しいと彼女に告白したんだ。けれど、同じ夢を見ることは出来ないと言われた」
 ごめんなさい。
 そう泣きながら、謝る彼女の姿を思い出す。その言葉に分かったとだけ呟いて、ああそうだ、以来彼女に会っていない。
「あれから、半年経っているのにな」
 新天地での生活と忙殺される仕事に、自分はもう立ち直ったのだと思っていた。彼女と一緒に暮らすという夢も忘れ、独りでいることにも慣れたはずなのに、こうして立ち止まると、途端にあの時の感情がよみがえる。胸の詰まりが重みを増してゆく。
「誰にも話していないのだろう?」
 暗月の言葉に、追憶から現実に戻った。
「ああ」
 話せば幾らでも聞いてくれる友はいた。けれど、何も言えなかった。それは多分、話すことで認めてしまうのが怖かったからだ。彼女と別れたことが本当のことなんだと、自分がこんなに落ち込んでいるということを。
「感情を、溜め込みすぎたな。独りで昇華しようとするから、無理が来る」
 さらりと暗月に諭されて、なぜか苦笑しつつも納得してしまった。当たっているからこそ、他人に言われれば腹が立つ、そんな助言。多分、あれから半年経ったからこそ、受け止めて納得できるようになったのだろう。
「そうだな。確かに、その通りだ」
 声に出して肯定した途端、思いもかけず涙がこぼれた。そしてそのまま、今まで耐えていた痛みを訴えるかのように、とめどなく溢れてくる。知らずに嗚咽も漏れていた。
 いい年をした大人が、公園のベンチでビールを飲みながら泣いている。みっともないなと思ったが、止む気配の無い涙に、それでも良いとじきに開き直った。
 暗月は無言のまま、ただ月琴を奏でている。高く澄んだ音が、柔らかな旋律へと変化をし、そして夜空にとけていった。

「さて、そろそろ帰る時間だ」
 さすがに泣くことにも疲れ、どう顔を上げようかとぼんやりと思っていると、暗月が立ち上がる気配がした。慌てて一緒に立ち上がり、手の甲で涙を拭う。
「今夜は、ありがとう」
「私も久しぶりに人と酌を交わして、楽しかった」
「楽しかったか?」
 失恋した男の泣き言に付き合って、楽しかったというのは理解できない。思わず聞き返すと、暗月はにこりと微笑んだ。
「人の感情は、面白い」
 やはりよく分からない。けれど、それで満足をしているというのなら、付き合ってもらったこちらとしては何も言うことは無い。
「また会えないか。今度はもっと明るい気分で、暗月と飲んでみたい」
 感謝の気持ちと、名残を惜しむ気持ち。両方を込めて、聞いてみる。
「それならば」
 ふいに手を取られ、指先をくっと握られた。直ぐに手は離され、暗月が一歩後ろに下がる。
「何を」
「声が届きやすいよう、お前に印を付けておいた。それを見つけることが出来たなら、私の名を呼べ。また星の下、酌を交わそう」
 言うだけ言うと、軽く地面を蹴って宙を舞う。
「ではまた、暗月に」
 その言葉と共に、姿が消える。呆然と見送りながら、ここでようやく、暗月が月の精なのだと実感した。


 あれから、数ヶ月が経過した。
 忙しい日々は、相変わらず自分を疲弊させる。別れた彼女との思い出は時々脈絡も無く浮かび上がり、懐かしさと共に疼く痛みを与えてくれる。
 けれど、それでも心から笑えるようになったのは、あの夜に感情を吐き出すことが出来たからなんだろう。
 だが、暗月が残したという印は見つからず、再会は果たしていない。

「立花主任、それ、癖ですよね」
 正面からの問い掛けにはっとして、注意を戻した。今は仕事中だった。ぼんやりとしていた事を取り繕うように、聞き返す。
「癖?」
「手をかざして指先を見る癖。考え事している時に、やってますよ」
 指摘されて、動揺してしまう。まさか無意識のうちに印探しをしているとは、思わなかった。
「そんなにしょっちゅうやっているかな」
「時々ですけど。最初見たとき、マニキュアでも塗って乾かしてるのかなって、思っちゃいました」
「マニキュア?」
 ありえない言葉に反応すると、笑われてしまった。どうやら、からかわれているらしい。
「嘘です。でも、綺麗な指先してますよね、主任」
 そう言って、手を覗き込まれる。
「爪の形が、綺麗。そうはんげつもはっきり出ていて」
「そうはんげつって?」
 何か引っかかりを感じ、また聞き返す。心臓の鼓動が、知らずに早くなっていた。
「爪の根元に、白い月みたいなのが有りますよね。あれです。爪の半月と書くんですけど。別に無くても健康には関係ないんですが、やっぱりあれが綺麗に見えていたほうが、見た目のバランスがいいんですよね」
 やけに熱く語りだす部下の爪に、そっと視線を移す。綺麗に彩色を施し、なおかつワンポイントのアクセントが付いていた。どう考えても、手作業がしにくそうな指だ。あれでキーボードを叩き、書類の作成は人一倍早いのだから恐れ入る。
 だが、気を取られるべき点は別にあった。
「佐藤さん」
「はい?」
「ありがとう」
 意味が分からないといった表情の部下を残し、仕事に没頭する振りをする。彼女が立ち去った後、早速月齢を確認した。

 そして今宵、暗月の夜。
 コンビニでいくつかの酒を買うと、公園へと向かう。遊歩道の中ほど、小さな池に面したベンチに腰を下ろすと、夜空に向かって右手をかざす。
 街灯に照らされる、指先。爪の根元に白く浮かぶのは、爪半月。親指、人差指、中指、薬指、小指。一本ずつ確かめるように眺めると、もう一度、人差指を見つめた。
 この指にだけ、見つからない爪半月。
「暗月、酒を持ってきた。一緒に飲もう」
 夜更けの公園で、自分の手に向かって語りかける男一人。これであの月の精が現れなければ、かなり情けない状況だ。
 不安と期待の混ざった気持で指を見つめていたら、ふわりと人影が現れた。
「印に気付くのに、ずいぶんとかかったな」
 あいかわらず、気の抜けた格好とその口調。自然に笑みが浮かんでゆく。
「今宵はどんな愚痴を聞かせてくれる」
「愚痴は言わないよ。ただ、暗月と酒を酌み交わしたいだけだ」
「そうか」
 同じベンチに腰掛ける彼女に、缶ビールを開けるとそのまま手渡す。
「すまないな」
「どういたしまして」
 乾杯をすると、ささやかな酒宴が始まった。

 これ以降、星空の下での酒飲みは、年に数回の頻度で続いている。

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