A-06 鳥籠の唄

 狭い鳥籠で歌う唄
 消えゆく声、動かない翼
 決して届かない空へ向けて
 かつての自由を歌う唄



 彼女は空が好きだった。
 青くどこまでも広がる空。時折頬を撫でる風は優しく通り過ぎ、小さな翼で懸命に飛ぶ小鳥たちと戯れる。そんな優しい時間が、彼女はとても好きだった。
 だが今の彼女にとっての空とは、銀色の籠の隙間から眺めるものでしかない。
 空を自由に漂うことも、小鳥と戯れることも今となっては遠い昔の夢。
「リーファ、元気?」
 透き通る青い空に、不意に黒い影が浮かんだ。空と同じ青い瞳に、漆黒よりもさらに黒い闇色の翼。
 リーファを鳥籠に閉じ込めて、彼女から空を奪った張本人。
「アズエル……。私は元気よ」
「そう。ならよかった」
 穏やかに笑うアズエルのことを彼女はよく知らない。
 ある日突然リーファの前に現れた彼は、何の説明もなしに彼女の翼を封じ、鳥籠へと閉じ込めた。閉じ込めたあとは何をするわけでもなく、毎日彼女の様子を見るためにどこからか現れて、またどこへともなく消えていく。
 リーファたち天使に恨みを持っているであろう、漆黒の堕天使。
「アズエル、私を空に還してはくれないの?」
「いつも言ってるだろう? それはできないよ」
 首を振るアズエルの表情はいつもどこか哀しげで、囚われの身であるにもかかわらずリーファの胸が痛くなる。
 リーファは天使だから、哀しい顔は見たくない。
 たとえそれが、自分たち天使と相反する堕天使のものであったとしても。
「アズエルは……」
「ごめんね、時間切れだ」
 ふわりとした笑みとともにアズエルは消えた。さっきまで彼がいたはずの場所には闇色の羽が一枚残されている。
 天使の純白と比較される深い闇の色。
 神に弓を引いた証とされる、忌まわしい羽。
「綺麗」
 どこまでも無垢な瞳で、リーファはそう呟いた。



 漆黒の闇に向けて歌う唄
 冷たい手、哀しい瞳
 決して明かされない心の奥へ向けて
 かつての天使を癒す唄



「アズエル、どこに行ったのかな?」
 堕天使はどこで何をしているのか、リーファは教えられていない。アズエルに聞いても答えてもらえないし、天界にいた頃は堕天使のことなど知らなかった。
 通常、堕天使の存在は禁忌とされていて、今ではその存在を知るものすらもまれだ。
(そういえば……)
 ふと思い出したのは、天界にいた頃の光景。
 常に書物を抱えて、知恵を司る者の一人であった天使との会話。


『見て! 仲良くなった鳥から羽を一枚もらったの』
『鴉の羽か。確かに綺麗だけど……』
『だけど?』
『かつて神に最も愛されし者……か』
『え?』
『堕天使の色に似てるな』
『だてんし?』
『あっ、今のは忘れて。リーファには縁のない存在だから』


 いつも正しいことを示していた彼の言葉だったが、あのときの言葉だけは外れていた。
 リーファには縁がないと彼が言っていた堕天使は、唐突にリーファの前に現れたのだから。
「ラミエル……」
 遠く隔たってしまった彼は、今どこにいるのだろうか。
「ラミエルって誰だい?」
「アズエル!?」
 いったいいつ現れたのかわからないが、底冷えするような声は間違いなくアズエルのものだった。
 普段なら物柔らかな雰囲気を纏う彼は、恐ろしいほどに冷えた表情をしていた。青い瞳には霜が降り、リーファを見つめるそれには感情が浮かんでいない。
 神に叛いた恐ろしい存在である堕天使と、目の前のアズエルが初めて一本の線で結びついた。
「リーファ、君は約束を破った」
 淡々と語るアズエルの声は無機質で、それがこの上ない怒りをリーファに教えた。
「約束を破った者は罰せられなければならない」
 リーファを鳥籠に閉じ込めたアズエルは、二つの約束をリーファに課したのだ。


 ひとつ、鳥籠から逃げ出そうとしないこと。
 ふたつ、アズエル以外の名前は決して口にしないこと。


 囚われの身になってからずいぶんとたつが、リーファは今までその約束を破ったことがない。帰りたいとは思ったが鳥籠の中から逃げ出そうとはしなかったし、アズエル以外の名前は心の奥に秘め隠した。
 それを、無意識のうちとはいえ初めて破ってしまった。
「アズエル、ごめんなさい! もう決して破らないから……」
「裏切り者には罰を」
 アズエルの冷たい手がリーファを捕らえた。
 青い空に似た色の瞳に浮かんでいたのは――――紛れもない狂気。
「いやぁー!!」
 ぐしゃりという鈍い音とともに全身を貫いた、絶望という名の痛み。
たまらずに悲鳴を上げたリーファの前で、アズエルは笑っていた。彼の片手にはさっきまでリーファの背にあったはずの純白の翼が、無造作につかまれている。
「どう? 裏切りの結果は」
「……うっ……く……」
 耐え難い喪失感がリーファの胸を焼く。アズエルの言葉に答えることもできずに体を折り曲げ、金色の瞳からとめどない涙を流した。
 翼を失った自分が悲しくて、こんなことをするアズエルが哀しい。
 それだけを思って、リーファはただ啼いた。
「どうして別のやつの名前を呼ぶんだろうね、君も……あの方も」
 暗鬱な様子で言葉を続けるアズエルの姿に、今までの彼の面影はない。
 それとも、今までリーファに見せていた彼こそが偽りの姿だったのだろうか。
 暗い狂気に支配された彼が、本来のアズエルなのだろうか。
「あの……方……?」
 苦しい息の下から何とかそれだけを尋ねる。アズエルの狂気に捕らえられてしまった今となっては、せめてその狂気の理由だけでも知りたかった。
「そう、あの方」
 リーファの言葉に答えたアズエルは笑っていた。片手にはリーファの翼を持ち、明らかな狂気を瞳に宿らせながらも、なお柔らかに。喪失を訴える背中が痛んだが、リーファの前で微笑むアズエルはいつもと同じで綺麗だった。
「あの方の瞳は常にすべてを見渡していた。僕を見てはくれたけど、それは僕がすべてのものの一部だからに過ぎない。だから、僕はあの方に僕だけを見ていただきたかった」
 アズエルの青い瞳にリーファはもう映っていない。彼が見つめているのは遥かな昔の光景。
 おそらくは、彼が天界にいた頃の――――
(かつて神に最も愛されし者……)
 友人は確かにそう言っていた。神に最も愛されながらも、神に対して弓を引いた者。それゆえに堕天され、悪魔と同格の扱いを受けるようになった者。
 最初リーファは、神に愛されていながらも神に対して反旗を翻した堕天使の気持ちなどわからなかった。愛する者を裏切ることは、愛する者からの信頼を失うことと同義だ。そんなことをする者の気持ちは、いくら考えてもわからない。
 そう思っていたはずなのに――――
「アズエルはアズエル自身を愛されたかったんだね」
 涙の残る顔でアズエルを見上げると、空虚な青い瞳と視線が絡んだ。
 初めは恐るべき堕天使だった彼。
 言葉を交わすうちに彼がどこか哀しげなことに気がついた。


 そして今になって、リーファはようやくアズエルのすべてを理解した。


「アズエルは神様に愛されたかったんでしょう? 天使のアズエルとしてじゃなくて、ただのアズエルとして。でもそれがかなわなかったから神様に叛いて、でも神様を忘れられなくて……。だから代わりに私を捕まえた。天使の私を閉じ込めることで、神様を閉じ込めたつもりになってたんでしょう? そんなことしても意味ないってアズエルが一番よく知ってるのに」
「やめろ!!!」
 絶叫とともにアズエルが鳥籠を殴りつける。がしゃんと言う派手な音がして、鳥籠全体が大きく揺れた。
 それでも、リーファは言葉をとめなかった。
 アズエルの全身から立ち上る怒りに隠された絶望がリーファには痛いほどに伝わってきたから。
「愛されないことが哀しかったんだよね」
「うるさい!!!!」
 ぐしゃりという鈍い音。全身を貫く痛み。そのどちらもさっき体験したばかりのものだったが、さっきとは決定的に違うことがある。
 羽をもがれた痛みは、絶望を意味しなかった。
「なぜ……」
 いまや完全に飛ぶための術を失ったリーファと、闇色の両翼を持つアズエル。前者が後者に対しての恐怖を持つべき場面で、弱者であるはずのリーファは微笑んでいた。代わりに怯えたような声を上げたのは、自由を手にしているはずのアズエル。
「翼をもがれて、なぜ笑うことができる!?」
 無垢な、という言葉がぴったりと当てはまるリーファの笑み。美しいはずの笑みだが、天使の象徴たる翼をもがれた直後なのだ。泣きこそすれ、笑うことなどできるはずがない。
 にもかかわらず、リーファは笑っている。
 無垢な瞳を幸福の色で染めて。
 この場にひどくそぐわない笑みだったが、それゆえに恐ろしいほど綺麗だった。
「だって、これで私はアズエルのモノでしょう?」
 籠に込められ両翼をもがれて、リーファは天使ではなくなった。生まれてからの長い時間を過ごした天界にはもう帰れない。輝かしい光に満ちた空にも還れない。
 そのことを、嬉しいと思う自分がいた。
 鳥籠から見る空の美しさを知り、闇の美しさに気づいたから。
「私はアズエルのモノだよ。これからずーっと」
 どこまでも無垢な声で囁いた。硬直したままのアズエルの青色の瞳に自分が映っていて、それがとても幸せでどうにかなってしまいそうだ。
 本当はアズエルが姿を消すたびに胸が締め付けられているように苦しかったし、リーファが見ていないところでアズエルが何をしているのかを知りたくて仕方がなかった。
 そしてさっきも、翼をもがれた痛みよりもアズエルが 『あの方』 という言葉を発するたびに胸に刺さる棘のほうが痛かったのだ。
 アズエルには自分だけを呼んでほしい。低く心地よく響くアズエルの声が、リーファ以外の名前を紡ぎだすことに耐えられない。
 その感情の名前をリーファは知らなかった。
「リーファ、君は……」
 めきっ、という音がした。
 翼を失ったリーファの白い背中から、何かが生えてくる。ゆっくりと、着実に、リーファを今までのリーファとは違うものへと変えていく。
 緩慢に時が流れたが、二人の視線は絡んだまま離れない。
「翼が……」
 アズエルの視線がリーファの瞳から微妙にずれる。リーファを見ていることには変わりがないが、彼が見つめる先にあったのは一対の翼。アズエルによって失われたはずのリーファの翼だった。
「闇色の翼、アズエルと同じ、ね」
 純白であったはずのリーファの翼はアズエルによってもがれ、代わりに生えてきた翼は漆黒よりも深い闇色をしていた。アズエルと同じ色の翼。
 すなわちそれは、堕天の証。
 気がつけばリーファの衣服や髪の色もアズエルのものを写し取ったような闇色に変化している。
 光に満ちた天使は姿を消し、無垢な狂気を浮かべる堕天使がそこにいた。
「これでずーっとアズエルと一緒。私はアズエルのモノよ」
 恐ろしいまでに純粋な狂気をリーファは繰り返し呟いていた。まっすぐにアズエルを見つめ、この上ない幸せの表情を浮かべて。
 リーファの妖しい美しさに圧倒されていたアズエルの瞳が、不意に細められた。そのまま彼の口から響き渡ったのは、狂ったような哄笑。
「あははっ!! 君は、まるで僕だ! 手に入らないものを求めて天を追放され、それでも求めることをやめられないなんてね!!!」
 たとえリーファが自分のために堕天したとしても、アズエルが 『あの方』 へかける思いは変わらない。アズエルの思いはとどまることを知らない地獄の火焔そのもの。彼に対して向けられるリーファの想い程度に消しつくされるものではない。
 しかし、リーファにとってそんなことは問題ではないのだ。彼女にとって重要なのは、自分がアズエルのモノであるという認識なのだから。
 自分はアズエルのためだけに存在するモノ。本来であれば神に向けられるべきその想いがアズエルの元を向いたとき、リーファは天上に還る資格を永遠に失った。
 天使であることを捨て、代わりに彼女が手に入れたのはアズエルと同じ闇色の翼。彼と同じ堕天した者である証の翼だった。
 今のリーファの存在理由は彼女を捕らえたアズエルだ。そしてこれからも永遠に、リーファはアズエルのためだけに存在していく。
 アズエルが神へと向ける想いの強さを知り、自分の想いが決して報われないことを理解していたとしても。それでも、アズエルのためだけに存在することを選んだ。選ばずにはいられなかった。
「私はアズエルよ? だって私はアズエルのモノだもん」
「くくっ……あははっ!」
 無垢な声と高らかな哄笑。
 明らかに相反するはずの二つは、鳥籠の中で奇妙なまでに同調していた。
 そこに、以前の天使の面影はない。


 代わりに満ちていたのは――――純粋でひたむきな狂気。


 飽くことなく狂ったような笑いを続けるアズエルの横で、リーファはにっこりと微笑んで歌い始めた。
 自由を歌い、癒しを歌った口で、無垢な狂気を歌う。
 それは鳥籠からゆったりと流れて、青い空に溶けるようにして消えた。



 幸福を歌う唄
 手が届く器、届かない想い
 決して手に入らない心の焔へ向けて
 かつての天使が歌う唄

inserted by FC2 system