D-10 ハンガー・ストライキ

 ここ何日か、ろくな食事をとっていない。
 不思議と空腹を感じることはなかった。べつに金がないわけではない。具合が悪いわけでもない。食べたくないという、ただそれだけのことだ。
 海に行きたいと彼女が言い出したのは、ちょうど昼休みが終わるころだった。今すぐ連れて行けと言うので、仕方なく授業には出ず自転車の後ろに彼女をのせて海へ向かった。海水浴のシーズンはとっくに過ぎているのでそれほど人はいないだろうと思っていたのだが、意外にも海岸にはぽつぽつと人の姿が見られる。犬を連れていたり、海を眺めていたり、家族で遊んでいたり、写真を撮っていたり、様々だ。
 到着するなり彼女は自転車から降り、スタスタと階段を下って砂浜を歩き始めた。波打ち際のぎりぎりまで行って遊び始めるのかと思いきや、そうではなく、制服に砂がつくのもおかまいなしにストンと座り込んだ。わたしはやや遅れて彼女の隣に座った。
 来たときはまだ青空が広がっていて、海も同じような色をしていた。しかし今はだいぶ日が傾いてしまって、青色もかすんできている。その間にたくさんの人や犬がわたしたちの前を通り過ぎていった。彼らはわたしたちに興味を示すこともなく、右から来た人は左へ去り、左から来た人は右へ去っていった。わたしたちのことが見えていないのかもしれない。
 たまに盗み見る隣の彼女の顔は、いつにも増してぼんやりとしていた。だからといって今何を考えているのか、どういうつもりでここへ連れて来させたのか、尋ねようとは思わない。もし彼女に訊いたとしたら、きっとこう返ってくるだろう。「なんとなく」と。
 今日も朝から何も食べていない。それでもやはり空腹の気配はなかった。そもそも食べるという行為に魅力を感じたことがない。最近は特にそう思う。誰かに食べろと言われれば食べるだろう。でもそのようなことを言う人間はわたしの周りには誰もいなかった。学校では給食がないから問題ないし、家に帰っても一人だ。リビングの机の上に冷めた料理がぽつんと置いてあることもあるが、いつも手をつけずに処分した。
 流し台にスープを捨てるとき、いつもわたしはずいぶん前に読んだ小説を思い出す。断食芸を生業としている男の話だ。檻の中に入り、見張り番に監視されながら決められた期間を飲まず食わずで過ごして、見事生き残ってみせるという芸だ。最初のうちは人気を博していた。金も儲かった。しかし時代と共に芸が受けなくなり、人々から忘れ去れたことに絶望した彼は、誰にも看取られずに檻の中で死ぬ。そういう物語だ。
 ふいに、ずっと微動だしなかった彼女が、抱えていた膝をくずしてあぐらをかいた。そして言った。
「昨日、田口に怒られたんだけど」
 田口というのは彼女のクラスの担任である。生徒によって好き嫌いの差があるタイプの、社会科の教師だ。ちなみにわたしは彼のことはよくわからない。興味がわかない、と言ったほうが正しいかもしれない。
 彼女は続けた。
「勉強したくないしお金もないから大学行きませんって言ったら、なんかいろいろ言われた。まじうぜぇ」
「田口的には“生徒のため”なんだろうけどね」
「自分が行きたいと思った道を行きなさいとか言っててさ、実際はこれだもん。なんかよくわかんない。よくわかんないなぁ」
 ホントうざい、と言って彼女は手を後ろについた。最後の「うざい」は何に対しての「うざい」なのだろう、とわたしは思った。
 すると突然彼女が立ち上がった。そして海のほうへスタスタと歩いて行った。砂浜をすべる波が彼女の足を濡らす。しかし彼女はかまわずにそのまま進み続けた。バシャバシャと音を立てて海に入っていく。わたしはそれをぼんやりと見ていた。
 海面が腰のあたりまで来たところで彼女は立ち止まった。たまに来る波にゆすられながら、ピタリと止まって水平線を見つめているようだった。空の淡い紫色と水色のコントラスト模様が、海にも写っている。その真ん中に彼女がたたずむ。それは今までに見たことのない奇妙な光景だった。
 やがて彼女が戻ってきた。靴と靴下を脱ぎ捨てながらこちらに歩いてくる。裸足の彼女と目が合う。濡れたセーラー服はすっかり身体にはりついて、下着がすけて見えている。
「なんか、すっごい寒いんだけど」
 彼女が言った。そうだろうな、とわたしは思った。そのわりには彼女は震えていなかった。
「自殺するかと思った?」
「ううん」
「じゃあ、何だと思った?」
「帰っちゃうんだと思った、家に」
「正解」
 すると彼女はニヤッと笑った。わたしもつられて笑った。
「ブラ見えてるよ」
「馬鹿。見せてんだよ」
「怖っ」
 二人で声をあげて笑った。わたしは立ち上がり、スカートについた砂をはたいて改めて海を見た。日は沈んで、あたりは薄暗い。人も少なくなってきた。わたしは彼女の足跡をたどって、靴下と靴を拾いあげた。振り返ると、彼女はこちらを見ている。わたしが笑ってみせると、彼女もまたニカッと笑った。
「あんたも海に帰れば? ご飯食べないより、よっぽど楽だよ」
「……そうかな」
「うん」
 彼女の顔をまともに見ることができなくて、誤魔化すように再び視線を海のほうへ移した。水平線に沿って黒い鳥が飛んでいる。遠くのほうで光っているあれは、一番星というやつだろうか。
 ふいに手をひかれ、持っていた靴下と靴が手から放れた。彼女だった。
「帰ろっか」
 先ほどとは違う、変な笑みを浮かべながら彼女が言った。わたしはうなずいた。
「おんぶしてよ、階段のところまで」
「なんで」
「だって靴がなんかキモいんだもん。ぐちゃぐちゃしてるし」
「裸足で行けばいいじゃん」
「砂浜は危険がいっぱいなのよ。何が落ちてるかわからないのよ。あたしが足を怪我してもいいって言うの?」
 声色を変えたふざけた調子で彼女は言った。わたしもわざとらしくぶつぶつ文句を言いながら、仕方なくその場にしゃがんだ。
 彼女をおぶったとたんにひんやりとした感触が背中を伝う。しかしふらつきながら砂浜を歩くうち、徐々に彼女の体温がおりてきて、生温かくなっていった。
 突然、大声で泣きたいような衝動が身体の奥から突き上げた。まさかここで泣き出すわけにはいかず、必死でこらえていたけれど、それでも右目から何かがボロリとこぼれた。彼女をおぶっているせいで体勢がやや前のめりになっていたので、こぼれたそれは砂浜にしみこんでいった。
 彼女が言ったように、わたしもあのまま海にジャバジャバ進んで行けばよかっただろうか。腰なんかではなくて、つま先から頭まで全て海水に浸るくらいに、波にさらわれて二度と戻って来れなくなるくらいに、行ってしまえばよかったのだろうか。いや、きっとできなかったに違いない。そんなことが今のわたしにできるわけがない。
 彼女をおぶり直すときに、わたしは制服の袖でサッと顔をぬぐった。背中の彼女は気付いているのかいないのか、気を利かせているのかいないのか、さっきからずっと適当なメロディで鼻歌を唄っている。
「それ、何の歌?」
「あたしの歌」
 彼女はそう言うと、また歌を唄いはじめた。わたしはつい笑ってしまった。そのとき流れた涙が口に入って、甘いような苦いような、変な味がした。

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