D-12 空の君

 空が憎いと思い始めたのはいつからだろうか。
 人を惹きつけておきながら、いざとなれば手助けをせずに無慈悲に放りだしてしまうのだから。


 執拗に足にまとわりついてくるその子をなだめながら、余り物の炒めた肉を小皿に乗せてテーブルの下に置く。雨と泥にまみれてしまった体など気にしてないように、その三毛猫は体を震わせながら肉にがっついた。
「また一段と汚れたねアヤ。まさかキミは洗ってもらうのが好きなわけ、ないよね?」
 声を聞いて私が顔を上げると、テーブルを挟んで向かいの席にいる少年が苦笑していた。シルバーブルーの短髪と濃い藍色の瞳が優しげに光っており、こちらも泥で汚れてなければ誰もが目を見張る美少年。彼と濃茶色の髪と瞳である自分とが姉弟だと思う人は一体どれだけいるだろう。そう自分で考えて少し落ち込み、一瞬唇を噛んだ。
「イル、あなたもよ。せめて泥を落としてきてから夕食にしましょう」
 鉱山での採掘中に雨が降ってきたらしく、彼の手や頬は黒く汚れていた。昔から夢中になると自分のことは最後に回す子だったが、せめて家に帰ってきたときぐらい綺麗にしてほしい。
 彼は自分の手をまじまじと見つめて、明るく笑った。これも汚れちゃったねと上の白いシャツをその場で脱ぐ。私は気づかれないように視線を逸らした。
「ごめん姉さん。雨も嫌いじゃないんだけど、仕事が休みになっちゃうしね」
 イルは三毛猫のアヤを連れ、風呂場へと駆け込んでいった。




(はあ……)
 私は陰鬱な気分でため息をついた。本棚に入れようとした大型の本が、ばたんと音をたてて足元に落ちる。
「シィーナどうした、顔色悪いぞ」
 カウンターを挟んでひげ面の店長が覗いてくる。私は慌てて本を拾って棚に戻した。町の古い本屋、閑古鳥で儲けは少ないとはいえ私の大事な職場である。クビにされてはたまらない。
「まあアレだな、お前の悩みといえばイルしかおらんわな。あいついくつになったんだっけ?」
 気持ちを見透かされたようで反射的に眉をひそめる。昨日の雨は既にやんで外の天気は快晴に近かったが、私の気分は最悪だった。
「この前もお聞きになったでしょう。もう十五になりました」
「ほー、あれから十二年経つわけねえ。トシは嫌でも取るもんだな」
 やめてください、と止めようとしたが、余計に傷口を開いてくれそうなので口をつぐむ。
「人間ってわりといい加減に生きてんのな。物心ついたときから一緒に住んでりゃ、嫌でも家族になるわけだ」
「当たり前です。そうさせてきたんですから」
 良いか悪いかは別として、と胸中でつぶやく。
 雨の日、町の修道院に捨てられていたイルを引き取ったのが十二年前、私が十七のときだった。身寄りのいなかった私は家族が増えたことに喜び、仕事も子育ても苦に思わなかった。幼い彼には私と姉弟だと教えておいた。イルの親のことを聞かれたとき、自信を持って返せる言葉がなかったからだと思う。
「ガキだと思ってたやつが姉貴を助けるため鉱山、果ては飛行船とな。健気だね」
 いつもの店長の嫌味には慣れているが、今日ばかりは苦しかった。事実が事実だけに、余計に。
 イルは一年ほど前から、鉱山の採掘現場に働きに行っている。親方という人が指導をしてくれ、毎日汗と泥で体を汚して家に帰ってくるのだ。元々鉱山で採れる鉱石によって栄えた町だから鉱夫になるのはある程度仕方がない、と思う。
(それはまだいい、けど)
 近頃彼は、都市の学校へ行って飛行船を操縦したいと言い出した。鉱山の親方につてがあり、入学金等々を免除して紹介してくれるという。私はそれに反対していた。採掘に行くのだけでも結構もめたのに、飛行船だなんて。いくら空に憧れているとはいえ、死の確率が上がるだけとしか思えなかった。
 というわけで、近頃イルとは同じ家にいながらぎくしゃくしている。
 店長は私の表情を読み取ってか、にやっと笑っておどけてみせた。
「さあどうする、社会に出れば、お前らの関係に首を傾げるやつが増えてくる。姉貴の口から言ってやった方がいいだろ?」
 ……ゆっくりと目を閉じる。悔しい。悔しいが本当にそうだ。私たちが姉弟じゃないとイルが知ったとき、彼は一体どうなってしまうのだろう。
 ……いや、彼だけじゃない。
 私こそがどうなってしまうのか。なぜなら。
 私は弟に恋しているのだ。




 鍋の中の野菜スープをかきまぜながら、育ち盛りの彼には不十分すぎるだろうなと毎朝のように思う。両方とも働いてはいるが、贅沢ができるほど収入が潤沢というわけでない。
「イル、起きて。遅れるわよ」
 キッチンの隣、居間の硬い長椅子の上で眠っている彼に声をかける。返事がなく彼の元へと歩いてみると、採掘で疲れたのだろう、毛布をかけて深い眠りについている。悪戯心が働いてつんつんと彼の頬を突っついてやると、ゆっくりとだが彼はまぶたを開け私を見上げた。
「あ……ごめん、おはよ」
 へへと笑った彼は私の指をぎゅっとつかむ。土まみれだがしっかりした男の手が私の指に絡みつく。私はどきりとして、思わず口づけしたい衝動に駆られたが、こらえてすっと彼の手を離した。
「はい、早く顔洗って。遅れたら拳骨がとんでくるんでしょ」
「うん、今日帰ってきたらほっぺたが二倍に膨らんでるかも」
 軽口を叩きつつ彼は置きあがり、手早く仕度を済ましてテーブルを囲んで朝食をとった。作った方が元気になるぐらい、イルはがつがつと威勢よく食べる。私はつい微笑み、スープをすすっている彼にいぶかしげに見つめられた。
「……? 食べないの?」
「あ、ううん」
 慌ててスプーンを皿の上で踊らせる。見とれていたなんて口が裂けても言えない。
 イルは休まず顎を動かし、井戸から汲んできた水をごくごくと飲み干すと、ふう、と一息ついた。
「あ、ほんとにやばい。こりゃ拳骨覚悟しとかないとなあ……」
「ふふ、気をつけて。急いで転ばないようにね」
 玄関に向かってだだっと駆けていく背中に、私は注意を促す。彼がドアノブに手をかけたところで、

「あ、イル」
「へ?」
 振り向いた彼はきょとんとした表情。私は逡巡した。
「……ごめんなさい、なんでもないわ」
 私が首を振ると、イルは気にした風もなく、満面の笑みを見せて駆けていった。




 自覚したきっかけのひとつとしては、三ヶ月前ほどに彼が突然女の子を連れて家に帰ってきたときのこと。親方の娘だというその子を見て、いつもと違いどこかはしゃいでいるイルを見て、私の心は正直すぎるほどに反応した。あのとき彼女に向かって普通に立ち振る舞えた自分が信じられない。
 その夜、動揺する気持ちを無理やり押し込めて浅い眠りにつき、私は夢を見た。私はそれに落胆を覚えつつ、どこか安堵も感じていた。
 私とイルが額を付け合せ、激しい口付けを交わしている。私は調子に乗って目や鼻にまで唇を伸ばす。イルの呼吸が荒くなっているのを感じ、私は彼の服を脱がせる。昔見たイルの華奢な体、首筋、胸、背中に自分の舌を這わせる。イルの頭をそっと抱き、鉱夫らしい汗と土の匂いが鼻腔に満ちる。薄目でイルの顔を見ると、苦悶と悦楽に満ちた表情で唸っている――。
 目覚めたとき、この情動に埋もれてしまいたい気持ちが膨れ上がり、私はそこに身を投じた。背徳も何もあったものではない。結果、真実を話した瞬間に自分が抑えきれなくなる予想がついた。
(あーあ……)
 久しぶりにそのことを思い出して憂鬱になる。近頃イルの顔がまともに見られない。あんなにも素直な笑顔を見せてくれるのは、私を血がつながっている肉親だと思っているからだ。まったくの赤の他人と知られたら彼はどんな表情で私を見るか。でも、私たちが姉弟でいる限り、私の欲が満たされることはない。
 私は仕事を終え、夕方の町を歩いていた。もともと住人も少ない田舎町で、今はほとんどが鉱山に出払っているため寂れたものだった。私は夕飯の買い物を済ませつつ、ぼんやりとある方向へと向かっていた。
「姉さん、姉さん!」
 心臓が喉からとび出かけた。私をそう呼ぶのはひとりしかいない。胸を落ち着かせて振り返ると、私はさらに鼓動が高鳴った。
「イル、どうしたの? 仕事は?」
「へへ、今日親方が風邪ひいちゃってさ、抜けてきちゃった」
 あのねえ、と私が呆れて苦言を呈そうとしたが、彼の後ろから現れた人影を見て口を閉じた。はっとするオレンジ交じりの赤毛に緑目。イルより背は低いが、肌が白いのでかなり大人びて見える。
「こんにちはシィーナさん、イルがお世話になってます」
「……こんにちは」
 誰が世話になってるって? 私は胸中でつぶやいたが、極力顔には出さなかった。彼女、レナがかの元凶の女の子だった。
「聞いて姉さん、レナってさ、飛行船学校のホープと友達なんだって。そいつさ、国で一番でっかい飛行船も操縦させてもらったんだって!」
「そう、それはすごいわね」
 そうなのだ。彼女がイルにあの飛行船学校行きも薦めたという。そしてイルも彼女といてまんざらではない様子で、何から何まで私の脅威なのだ。
「あらまあ、心が晴れるような三人ね」
 そのとき玉子屋のおばあさんが通りかかり、私たちを見て微笑んだ。イルは大好きな玉子があると跳ねるようにそっちへ向かった。道の真ん中、私とレナだけが残る。
「……反対なさってるんですね、飛行船学校のこと」
 レナがぽつりとそう言った。目線は私をしっかり捉えているが、私はと言えば少しずれたところを見ている。
「悪いわね、たったひとりの弟だから。あの子突っ走るところもあるし、ブレーキにならないといけないから」
「イルは大丈夫ですよ。鉱山で見てて、そんな弱い子じゃないです」
 私は震える唇をどうにか噛み締めた。相手は全然その気じゃないのに、どうして私だけこんなに緊張しているのか。思い切って彼女の瞳を見つめる。
「そうかもしれない。でもここまで私が育ててきて、二つ返事で家を離れさせるわけにはいかない。何かあったら、それこそ私の生きる価値までなくなってしまうわ」
 大袈裟とは言わず、本心だった。私はイルのために生きてきた。イルに生かされてきたのだ。
 レナはそれをどう受け取ったのか、そうですか、と無表情に空を仰いだ。
 くす、と彼女が笑った気がした。
「あの子からわたしたちのこと、聞いてませんか?」
 え? と私が目を見張ると、返事も聞かずに彼女は踵を返した。イルの元へと駆け寄り、赤い長髪が夕焼けの光と反射して踊る。
 私はなんとかして彼女の言葉の意味を咀嚼しようとした。しかしその真意に近づけば近づくほど、私は強烈な眩暈に襲われた。
 気がつけば猛烈な勢いで家に駆け込んでいた。私は硬い洗面台を殴りつけ、震えながら胃液を吐いた。




 その夜。いつものように夕食を取った後、私は自室に戻ってベッドに座った。この部屋は以前イルが使っていたが、鉱山に行くようになってから私にくれると言い出し、自分は居間で眠るようになった。
 ベッドに顔を押し付けて横たわる。イルの匂いが残っていないかと鼻を押し付けたのは何度目かわからない。彼の、懐かしさを呼び起こすあの不思議な匂いを。
 そのとき扉がノックがされて、私は飛び起きた。短い返事の後、扉が開いて少年がゆっくりと部屋に入ってくる。イルは首をかしげた。
「なにかな、話って」
「……座って」
 私は隣を指し示した。イルはおとなしく私の隣に座る。いつの間にか抜かれていた、身長と座高。鉱夫の作業着姿を一度見たときは確か失神しそうになったと思う。
 私は小さく深呼吸をして、イルの胸元を見た。とてもじゃないが顔を合わせられない。私はそんなに勇気をもってない。
「大事な話だから今まで言わなかったけど、イルはもう大人になったから。大丈夫かなと思って」
 ちらっと見ると、イルは唇をきゅっと結んでいた。重大な何かを教えられる覚悟はできているらしい。大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。
 私は静かにつぶやいた。
「私たち、本当は他人なの」

「あなたが子どもの頃、あなたは修道院に預けられたの。名前と歳はあなたが握ってた紙に書いてあった。そのとき家族がいなかった私は、その知らせを聞いてあなたを引き取ることにした」
 一拍置いて、沈黙が怖かったのでさらに続ける。
「あなたの両親のことはわからないし、今まではあなたに姉弟として教えてきた。あなたが大人になるまで……その方が、気兼ねなく暮らせると思って」
 そこまで言って、もう話すことがなくなった。私はまだ彼の顔が見られずにいた。それなりの想定をして告げたのだが、もしかしたらそれを超える反応をされるかもしれない。とにかく私はひたすらに待った。彼が口を開くまで。
「……そう、か」
 気の遠くなるような長い時間の後、ぽとりと彼の言葉が木の床に落ちた。
 そして間をおき、かすかな嘆息をつく。
「……そうじゃないかって、ちょっと前から思ってた。『本当の姉弟みたい』って言う人もいたし。隠そうとしても、やっぱり隠せないものかな」
「え……」
 ようやく彼に顔を向けて、苦しそうに笑っているのが見えた。
「でも、姉さんは姉さんだし、変わんないよ。たぶん」
 イルは明るくそう言い、ふふっと笑った。……私もつられて口だけで微笑む。
 まさか、イルが既にそのことに気づいていたとは。今は何でもない振りをしているが、そのときは夜も眠れないほどショックだったに違いない。それこそ、私の目を見ることが辛かっただろう。
 ふとイルはこめかみをかき、照れくさそうに笑った。
「実はさ、僕も言わなきゃいけないことがあるんだ」
「……なに?」
 どぎまぎしながら私は尋ねた。何だろうと思ったが、嬉しさと緊張であまり思考がまわらない。
「飛行船学校の話、だめになりそうなんだ。レナが推してくれてたんだけど、レナが親方にウソついてたらしくて、さっきばれちゃった。ほんとは僕じゃなくて他の子のことを言ってたらしい。いくら娘に弱い親方でも、もうカンカンでさ」
 私はさらにどきっとした。
「だから、これからもこの家でお世話になるかも。ごめんね、姉さん」
「……うん」
 私は思わず泣きそうになり、彼の肩口に顔を寄せた。ぎゅ、とイルが私の体を抱いてくれる。信じられない。私の一番の望みを神様は盗み見ていたのか。
 ふと、私はあのレナが可哀相に思えた。イルの気を惹こうと嘘をついたのか。私の心を乱そうとあんなことを言ったのか。イルはあなたのことなど好いていないのだ。
 イルはもう、私を女として見ていいのかもしれない。……私のことを。

「……イル」
 私は彼の青い瞳を見つめ、する、と彼の首筋に両手を置いた。イルは不思議そうに私を見ている。私はぐっと顔を寄せて、彼の唇に自分のを触れさせた。
「……っ」
 一秒、二秒、三秒……。イルも驚き体を強張らせたが抵抗はしない。触れ合うだけのキスを、私たちはしばらく感じていた。やがて私は自分の服に手をかけ、ゆっくりとそれを剥いでいく――。


 そのとき、後ろで奇なる音がした。唇を離してそっと振り向くと、扉の前で赤毛の女の子が立っている。彼女は不気味に笑っていた。逆に私の表情はどんな間抜けなものだったろう。
「わたしの言ったとおりでしょ」
 レナはそうつぶやいた。はっとしてイルの方を見ると、彼は目をつぶって唇を噛んでいた。
「どうすんの? このまま残る?」
 冷たいレナの言葉に、イルは答えなかった。顔をうつむかせ、拳を膝の上で震わせている。イルは明らかに迷っていた。
 痺れを切らしたようにレナは私たちのところに歩み寄り、イルの手を引いて強引につれていこうとした。反射的に私はイルの手をつかんだが、
「痛っ!」
 引っ張られる格好となってイルは叫び、私は手を離してしまった。その隙にレナはイルをひっぱり、部屋の外へと出て行く。イルは抵抗しなかった。それどころか私と十分の一秒だけ目があったが、彼は目線を逸らした。私は開きっぱなしとなった部屋の扉を呆然と見つめた。
 バタン、と向こうで玄関の扉が閉まる音がした。それに驚いたのか、部屋の入り口から汚れた三毛猫がすらりと入ってきた。

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